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先生−後編−
先生は手にチョークを持ったまま口を開く。
「あなたは一昨日の夜、まずシゲちゃんと一緒に二人で洞窟に入った」
黒板には洞窟の絵と、丸と線だけの人間が二人描かれている。その上には@というマーク。
「一本道の洞窟の奥には顔入道の岩があって、お坊さんのミイラがあるというその先には行けなかった。二人は怒り出す寸前みたいな顔を見てから、入り口へ戻った」
行って戻った矢印が洞窟の中に描かれる。そして「怒る前」と走り書き。
「その後、タロちゃんが入れ替わりに一人で洞窟に入って行った」
Aとして、もう一人の丸と線だけの人間。
「洞窟の中から悲鳴が聞こえて、タロちゃんが走って出てきた。そして勢いあまって崖から落ちた」
矢印が洞窟の出口から先へ曲がって落ちた。
「タロちゃんが言うには、『顔入道が怒った』」
Aの矢印が洞窟の奥でUターンする場所に「怒った後」という文字。
「次の日、つまり昨日の昼間、あなたはもう一度洞窟に行った。今度は一人で」
Bだ。
「その時ちゃんと確認したけれど、洞窟は一本道で枝分かれや人が隠れるような場所はなかった。そうね?」
頷く。
「洞窟の奥には顔入道の岩があったけれど、今度は笑っていた」
先生はBの矢印の先に「笑う」と書いた。
そうだ。顔入道は笑っていた。
昼間なのに懐中電灯の光なしでは真っ暗闇になってしまう洞窟の最深部で白い顔と向かい合った、この世のものとは思えない光景を思い出し、背筋が寒くなる。
「やっぱりその時確認したけれど、岩に顔を描いた塗料は古くてとても昨日や今日に塗り替えたようには見えなかった。そうだったわね」
頷く。
先生はチョークを振り上げ、「笑う」の上に「古い」と書いた。そして「怒る前」と「怒った後」の上には「古い?」とクエスチョンマークつきで書いた。
先生はくるりと振り返り、ニッと右の眉毛と口の端を上げた。
「一昨日の夜の顔入道には、近寄って確認はしていないわね」


言われてみればそうだ。でもその後本当に岩が怒ったり笑ったりするなんてその時は思ってもみないのだから、仕方がないじゃないか。
「その顔入道のすぐ下に、白い塗料がついた岩が突き出ていたのよね。あなたが抜け落ちた牙みたいだと思ったその岩。その塗料も古かったかしら」
え? そう言えば確認していない。顔と同じ塗料だとばかり思っていたから。
「じゃあ、最近塗り替えた時についたものかも知れない」
塗り替えだって。やっぱり先生は顔が怒ったり笑ったりしたのは、誰かが岩を塗り替えていたと言うのだろうか。
「ううん。昨日あなたが確認した時には古い塗料が使われていた。だからその前に岩の塗り替えなんて行われていなかったってことは間違いない。
それに、あなたとシゲちゃんが出てきた後で、タロちゃんが一人で入って行くまでのあいだに誰かが塗り替えるなんて出来っこないでしょ。入り口は一つしかないし、隠れられる場所もない。その入り口もあなたたちが見張ってたんだから」
そうだよ。その通りだけど、だったらどうして顔は怒ったんだ?
「答えは一つよ。算数みたいに。一昨日、あなたがシゲちゃんと一緒に見た顔は、岩に描かれたものではなかった」
ガンッ。
と殴られたようなショックがあった。
確かに二度目の時みたいに顔を近づけて見ていない。洞窟に入るまでに、岩に描かれたものだと教えられていたから、素直にそう思っていた。それが白く塗られたハリボテだったというんだろうか。
でも待てよ。それがハリボテだったとしても、どうして顔が変わるんだ?
「ここで思い出して欲しいのは、一昨日の昼間にあなたたちが秘密基地に集まって顔入道の洞窟に行こうって話をした時のこと」
先生はいたずらっぽい顔をして、僕を試すように見つめてきた。
思い出せ。あの時、シゲちゃんが「こいつももう俺たちの仲間と認めていいんじゃないか」なんて言い出して僕をその晩に顔入道の洞窟に連れて行こうとした。
そしたらみんな怖がって、いろいろ言い訳して逃げた。そして怖がりだと思われたくないタロちゃんがモタモタしているうちにシゲちゃんに捕まってしまったのだ。
ピン、ときた。僕の頭がなにかを閃いた。それがどこかへ行ってしまわないように必死で考えをまとめる。
あの夜、山奥の洞窟には僕とシゲちゃんとタロちゃんの三人しかいなかったはずだ。あんな場所に夜中、ほかの誰もくるはずがない。でも、だ。僕ら三人がその夜あそこにくることを知っていたやつらがいる。怖がって、「行かない」と言ったほかの連中だ。
そして顔入道のハリボテ。
わかった!
ハリボテの後ろ側に初めから隠れていたんだ。僕らが洞窟に入る前から! あんな所に誰かが待ち構えているなんて思ってもみなかった。だけど、あいつらならそれが出来る。僕らがくることを知っていたんだから。
「怒る前」のハリボテの後ろに隠れて僕とシゲちゃんをやり過ごし、その後に入ったタロちゃんがやってくる前にもう一つ用意していたハリボテと入れ替えて、「怒った後」にしたのだ。
ひょっとしたら、丸いハリボテの両面に顔を描いていて、くるりと裏返しただけなのかも知れない。
そして岩に描かれているはずの顔が怒ったことに驚いたタロちゃんが悲鳴を上げる。僕らが怪我をしたタロちゃんを担いで山を下りた後でハリボテごと撤収する……
くそう。
誰がやったんだ、こんなイタズラを。タカちゃんか、トシボウか、ユースケか、それともカッチンか。ひょっとしたら二人、ううん、あの秘密基地にいた全員かも知れない。
卑怯なやつらだ。ブッコロしてやる。シゲちゃんにもチクッて、二人で仕返ししてやる。
そんなことを僕が感情に任せて喋るのを先生はじっと聞いていたけれど、ふいにその顔色が変わった。
「ちょっと待ちなさい。今なんて言ったの」
いつもは穏やかな顔をしている先生の頬が緊張しているのが分かる。目が見開かれて、白目が大きくなる。眉毛が吊りあがる。その言葉は質問しているのではない。こちらの答えなんてどうでもいい。そんな爆発前の確認の儀式だ。


「なんて言ったの」
その声はキリキリと軋むように尖っている。
「あ、いや、えと」
いきなりの思ってもいなかった展開に僕は足が震えてきた。これからどうなるか分かるのだ。うちの担任の先生と同じだ。
僕はこの時間が一番嫌だ。なにか悪いことをして怒鳴られるのはしょっちゅうだけど、怒鳴る前の「溜め」の時間。固まったように動けなくなる時間が僕には一番怖かった。
なんでだろう。「ブッコロしてやる」がまずかったのか。それとも自分でも気づかないようなヘマをしたのだろうか。
出会ってからあんまり経っていないのに、訳知り顔で「優しい先生」だなんて勝手に思って喜んでいたのが、バカみたいだ。一体なにが先生を怒らせたのだろう。
そんなことを、やがてくる溜め込んだ怒りの爆発をただ待つ身の僕は考え、その睨みつけてくる恐ろしい視線に耐え切れず、思わず目を瞑ってしまった。
「あなた自分がなにを言ったのか分かってるの」
押し殺したような声が、ぐっと近づいてくる。
あ、ひっぱたかれる。
そう思った瞬間だ。
僕の頬っぺたに柔らかいものが触れた。ぐにっと頬肉が左右に引っ張られる。
僕は驚いて目を開けた。その目の前に、ニコッと笑う先生の優しい顔があった。
「ごめんね。怒られると思った?」
こんなに近くで見るのは始めてだったけど、前髪を短く揃えたその顔はすんなりと伸びた長い首の上にかわいく乗っていて、僕よりずっと年上だと思っていたのに、その時はほんの少し年上の女の子のように見えた。
そのせいで胸がドキドキする。怒られると思った緊張も混ざっていたかも知れないけれど。
「あなたが勘違いをしていたから、分かりやすく教えてあげようと思っただけなの」
先生はよく分からないことを言いながら、スッと僕のそばを離れて教壇に戻って行った。


「あなたとシゲちゃんが最初に見た顔入道は岩に描かれたものではなかったけれど、あなたが思ったようなハリボテでもなかった。確かにハリボテが本物の顔入道の手前にあったなら、誰も隠れる場所なんてなかったはずの洞窟に、秘密の空間が出来ることになる。
そこに誰かが隠れていて、タロちゃんがやってくる前にハリボテを入れ替えれば、あっと言うまに顔入道が怒ったってことになるわよね。でも良く考えて。どうしてその誰かは後からタロちゃんがくるなんて知ってたの?」
ハッとした。
そうだ。タロちゃんは急に怖気づいて僕らが入った後に入るなんてことになったけど、それでも無理やりシゲちゃんが連れて行ってたら三人とも始めの「怒る前」の顔を見ていたことになる。
そうなれば、いくらなんでも僕らの目の前でハリボテの早がわりなんて芸当が出来るはずはないし、そのまま帰られたらせっかくのイタズラの仕掛けもパァだ。
口ぶりからすると、シゲちゃんもタロちゃんも、それからたぶんほかのみんなも一度は顔入道を見ているはずだから、なにも顔の早がわりなんてことをしなくても初めから怒った顔のハリボテを用意していれば、
最初に見た瞬間に「顔入道が怒った。うわあぁ」ってことになるはずなのだ。
「そうね。それにあなたが見た、白い牙のような塗料のついた岩が重要なヒントになってるのよ」
先生はもったいぶったようにゆっくりと人差し指を立てる。
「塗料のついた尖った岩は、顔入道の岩の真下にあったのよね」
あ、と思った。
「だから抜け落ちた牙のように見えた。それも、一昨日昨日と二回見たその両方とも同じことを思ったのよね。ということは、塗料のついた岩と、顔入道の位置は変わってないってこと。
ここまで言えばもう分かったかな。つまり顔入道の岩の手前にハリボテなんか作ってそのあいだに人間が隠れたりしたら、絶対にその真下の塗料のついた岩も隠れちゃうんだから……」
だから、ハリボテはなかった。


そんな結論が先生の口からスラスラと出てくる。そのこと自体に納得はいったけれど、全然事件の解決にはなっていない。それどころか余計に薄気味悪くなってくる。それじゃあ顔入道は、やっぱり勝手に怒ったり笑ったりしたってことじゃないか。
僕がぶつぶつとそう言うと、先生はうふっと笑った。
「その通りよ」
ええっ、と思わず力が抜けそうになった。そんなバカな。
「正しく言うと、顔入道は勝手に怒ったけれど、勝手には笑わなかった」
なんだか謎掛けのようなことを言いながら先生はチョークを手に持つ。そして黒板に描かれた@のマークのついた「怒る前」の文字のお尻に、「?」の文字を書き加えた。
それからこちらに振り向く。
「さっき、私に怒られそうになったでしょう?」
うんうんと頷く。なんだか楽しくなってきた。これからもっと不思議なことが起こりそうな予感がして。
「あれはお芝居だったけど、あなたはなんだか分からないうちに怒られそうになって、目なんか瞑っちゃって、観念してたわよね」
恥ずかしくて思わずカァーっと顔が赤くなりそうになった。
「これから怒るってことは、もう怒ってるってことよ」
そりゃあそうだ。大人が怒る時なんて大体パターンが決まってるんだから。目を吊り上げちゃって、僕らが答えられないようなことを問い詰めてきて、それから怒鳴りつけたり引っ叩いたりするんだ。
本気で怒り出す前に、これからどうなるかくらい分かる。
あれ? てことは、なにか変だぞ。
先生はクスクスと肩を揺すった後、イタズラっぽく僕の方に向き直った。
「あなたが最初に見た『怒る前』の顔。それは、本当は『怒ってる顔』じゃなかったの?」
ハッとした。
怒る前ってことは、怒ってるってこと。そうだ。怒りをこらえてるってことは、怒ってるってことだ。ただ爆発する前か後かってだけで。
「でも、おかしいよ。タロちゃんも前にいっぺん見てるはずなのに、『顔が怒った』なんて言って逃げてきたんだよ」

「そうね。だからその時タロちゃんが見た顔は、前に見た顔と違ってたのは確かだわ。タロちゃんが前に見た顔っていうのが、あなたが昨日一人で見た本当の顔入道の顔だったはずよ。笑っていた顔が今度は怒ってたんだもん。それはビックリするよね」
え? ってことはどういうことになるんだ。
首を傾げる僕に、先生は噛んで含めるように語り掛ける。
「言ったでしょ。あなたが最初に見た顔は、岩に描かれたものじゃなかったって。かと言って人が後ろに隠れられるハリボテでもない。白い塗料のついた尖った岩という同じ目印があるんだから、場所が違っていたわけでもない。……たぶん、厚手の紙を顔入道の岩に被せて、
その上から白い塗料で別の顔を描いたのよ。笑っている顔の上に、怒ってる顔を」
その真下の尖った岩の塗料は、その時についたのね。
先生は僕の目を見ながら確かめるようにゆっくりと言う。
確かにそれならほとんどかさばらないから、抜け落ちた牙のように見えた白い岩との位置も変わらない。でもそれでは人間も隠れられなくなってしまう。
「誰かが隠れる必要なんてないのよ。顔は勝手に変わったんだから。『怒る前』から『怒った後』に。さっき言ったみたいに、『怒る前』の顔と『怒った後』の顔は全く同じものなのよ。ただ、それを見ていた人間の心理が違っていただけ」
ドキドキしてきた。だんだんと先生の言いたいことが分かってきたからだ。でも、そんな。そんなことって。
「あなたが始めにその顔を見た時、眉間に皺を寄せて、口なんかへの字に曲がって、迫力満点で睨みつけてくるその表情に驚いたんでしょ。さっき私がそんな顔をした時、あなたは怒られると観念した。なのに顔入道の時は、その顔は怒っていないと思ってしまった。
さあ、それはどうして?」
その答えは分かる。今思い出した。あの時の言葉を。叫びそうになった僕を勇気づけてくれたその言葉。
『よかった。まだ怒ってない』
シゲちゃんだ。僕の隣で、あの時確かにそう言った。
シゲちゃんがこの顔入道の事件の犯人だったんだ。

僕の中ですべてが繋がって行く。先生は静かな口調でその手助けをしてくれた。
「最初からシゲちゃんのイタズラ計画だったのよ。それも本当は臆病なのに口ばっかり強がりなタロちゃんを標的にした。私が秘密基地の話を思い出してと言ったのは、顔入道をその晩に見に行こうなんて言い出したのがシゲちゃんだったってことを思い出して欲しかったの。
あなたは変な勘違いをしたみたいだけど」
僕は椅子に座り込んでじっと先生の説明を聞いていた。
春ごろに顔入道の噂を聞いて見に行った悪ガキ仲間は洞窟の奥で笑っている顔を見た。そしてイタズラ好きでしかも手先の器用なシゲちゃんがその顔を怒らせることを思いつく。
紙を貼り付けてその上からペンキかなにかで顔を描き、その準備が終わった後に、新入りの僕を連れて行くという名目でみんなを誘う。標的は生意気なタロちゃんなのだから、ほかの臆病者たちが逃げても構わない。
むしろ大勢で行ってしまう方がみんな変に気が強くなってしまって、マジマジと見られて細工がバレてしまう可能性があったのだから好都合だ。
首尾よく三人で洞窟に辿り着いた時、タロちゃんが入りたくないとゴネだす。
無理やり引っ張っていく手もあったが、そこでシゲちゃんは名案を思いつく。笑っている顔を見ていない僕を連れて先に入り、タロちゃんには後からこいというのだ。
承知したタロちゃんを残して洞窟に入ったシゲちゃんは、怒っているような顔を見て驚く僕に『よかった。まだ怒ってない』と言って安心させる。そう言われればそう見える顔だったから。
当然僕は前にシゲちゃんたちが見にいった時の顔のままだと思った。しかし約束通り後から入ったタロちゃんにとっては、まさしくそれは笑っていたはずの顔が怒った後の顔だったのだ。
そして悲鳴を上げて逃げ出す。ここまでは計画通りだったのに、まさか洞窟から飛び出して崖から転落してしまうほどタロちゃんが怯えてしまうとは思わなかった。
怖くなったシゲちゃんは自分のイタズラだったことを誰にも言わずに、次の日こっそり仕掛けを片付けに行った。僕が笑っている顔を見たのはその後だったのだ。
そう言えば昨日、シゲちゃんは僕より先に家を出ていた。懐中電灯も見あたらないはずだ。なんてこった。シゲちゃんが全部。全部やっていたのか。

僕は呆然として説明に聞き入っていた。
「笑っている顔の塗料が古かった時点で、怒っていた方が張り子なのは間違いないわ。そしてその張り子を見て、『どうってことない。こないだと一緒』なんて言ったシゲちゃんがその仕掛けを知っているのも間違いない。
もし春に見たという顔もその時点ですでに張り子だったとしたら、同じ顔を見たことになるタロちゃんの過剰な反応に説明がつかないしね。あとは推理を広げれば簡単だわ」
先生は黒板に点を三つ、カン、カン、カン、と書いた。
「ゆ・え・に、犯人はシゲちゃん。この点三つのマーク∴はもう少し後で習う記号なのよ」
チョークをそっと置いた先生が静かにそう言った。その記号も、チョークを置く指も、眉毛の上に揃えられた髪も、その時の僕にはなにもかもカッコよかった。
見とれる僕に、不思議そうな顔をして先生は首を傾げた。
太陽はゆっくりと高く昇って行き、教室に伸びる陽射しは机や木の床から少しずつ引いて行った。
その後、僕は算数の続きをやった。同じ問題なのに、教えてくれる人が違うだけでこんなにも楽しいなんてなんだかおかしい。
せっせと問題を解く僕のそばで、先生は鶴を折っていた。そしていくつか数がまとまると立ち上がり、窓際に掛けた千羽鶴にまた仲間を増やすのだ。それをずっと繰り返している。
僕はいつかは夏休み学校の子どもたちの風邪が治ってここが二人だけの空間でなくなることも、そして朝が昼になりそれから午後になるように、夏もいつかは終わり、僕がここを去る日がくることも信じたくなかった。
だから、今日が先生に出会って何日目なのか数えたことはなかったし、その毎日はふわふわとした夢の中にいるようだった。
一体いつからほかの子どもたちが風邪を引いているのか、考えたことはなかった。先生の時どき見せるぼんやりしたそしてどこか哀しい表情も、その奥に隠れたもののことも理解しようとはしなかった。
ただひたすら僕は問題を解いた。歴史を知った。夏の中にいた。

「よく出来ました。じゃあ今日はここまで」
先生が僕の答案を見てそう言った。もうお昼過ぎだ。夏休み学校の時間もおしまい。僕は帰り支度をしながら、なんとなく口にした。


「先生。怒ったふり、すっごく上手かった」
本当だった。近づいてきた時、絶対叩かれると思ったのだから。
それを聞いて先生は、あはっと笑った。とても嬉しそうに。
「ありがとう。驚かせてゴメンね。でも迫真の演技じゃないと意味なかったから。錆付いてると思ってたんだけどな。私これでも役者を目指し……」
きゅっ、と口が閉じられた。顔が一瞬強張り、そしてこくんと喉が動いた後、先生は目を伏せたまま声もなく笑った。
風が吹き渡るどこまでも高い空の下で、ほんのひと時僕の前に覗いた先生の夢はゆっくりと閉じられていった。それはどうしようもなく繊細で、綺麗だったけれど、きっといつまでも見続けてはいけないものだったのだろう。
コン、コン。
咳が聞こえた。
どこか遠くから聞こえた気がした。
でも目の前で先生が口を押さえている。とても落ち着いた顔をしていた。
「私も」
ただの咳払いではなかった。少しおいて、先生はまたコン、コン、と咳をした。そしてゆっくりと顔を上げる。
「ゴメン。私も風邪を引いたみたい。うつるといけないから、明日からお休みにしましょう」
そんな。そんなのはいやだ。風邪なんかへっちゃらだ。だから休みなんて言わないで。
そんなことを口走る僕を押しとどめ、先生は目を細めて言う。
「駄目。悪い風邪なのよ。治ったら、きっと世界史の続きを教えてあげるから」
だだをこねる僕に先生は諭すように肩に手を置く。
「今日はあなたも顔色が悪いわ。あなたも少し休んだ方がいいみたい」
そんなことない、そう言って飛び跳ねようとして、グラッと膝が落ちる。だめだ。やっぱり朝から調子悪い。風邪なんかじゃないのに。
悔しかった。もう二度と先生と会えないような気がした。
顔を背け、またコンコンと言ってから先生は僕の目を見る。


「あなたが始めに洞窟に入った時、不思議な幻を見たわね。赤い着物がヒラヒラしてるのを」
終わってしまったはずの事件のことを急に言われて戸惑ったけれど、なんとか頷く。
「怖い怖いと思う心が生んだはずの幻なのに、まったく関係がない赤い着物の幻なんてどうして見たんだろうと、あなたは思った」
そうだった。どうして赤い着物なんだろうと。でも、結局洞窟の奥には隠れられる場所もなく、誰もいなかったのだから、ただの幻には違いない。
そんな僕に、先生はゆっくりと首を振る。
「この村ではね、若くして死んだ女の子には白い経帷子ではなくて、赤い着物を着せて弔うのよ。その子の嫁入りのために貯めていたお金で、残された親が最後のお祝いをしてあげるの。晴れのない袈なんて、あんまり可哀相だもの。
もっとも今はもうしていない、大昔の風習だけれど。そしてあの洞窟のある山は死者の魂が惑う場所として恐れられていた所なの。即身仏になったお坊さんはそれを鎮めるために入山したと伝えられているそうよ」
なんだか変な気分だ。僕が見たものはただの幻ではなかったのだろうか。
「いいえ。幻よ。もうこの世にはいない。でも、あなたはそれを見る」
先生の目が、吸い込まれそうに深く沈んだような輝きで僕の目を捉える。
「あなたは、誰にも見えない不思議なものを見るのよ。これからもずっと。それはきっとあなたの人生を惑わせる」
唇がゆっくりと動く。滑らかに、妖しく。
「それでもどうか目を閉じないで。晴れの着物を見てもらえて嬉しかった。そんなささやかな思いが、救われないはずの魂を救うことがあるのかも知れない」
僕はゴクリと唾を飲んだ。それから二回頷いた。何故か涙があふれ出てきた。
先生は「さようなら」と言った。
僕も「さよなら」と言った。
ふらふらとしながら教室を出て、廊下を抜け、階段を下り、下駄箱で靴を履く。そして校庭に出て、少し歩いてから振り返る。
二階の教室の窓には先生がいる。出会ったころのままの笑顔で。その隣には千羽鶴が揺れている。千羽にはきっと足りないけれど、たくさん、たくさん揺れている。


先生が手を振る。僕も手を振る。そして、出会ってから一度も先生が学校の外に出ていないことを思い出す。
カンカンと太陽は照りつけているのに、校舎の古ぼけた瓦屋根がやけに色あせて見えた。坂を下りて行くと、だんだん学校が見えなくなる。僕は手を下ろし、畦道を通り、森へ向かう。
鎮守の森はいつになく暗く湿っている。真っ暗で夜そのもののような木のアーチを抜け、黒い土の道を踏みしめる。頭がぼうっとしてくる。気分が悪い。
神社の参道の前を通る。いつもは通り過ぎるだけなのに、何故かふらふらと入ってしまう。ギャギャギャギャギャと鳥の泣き声がどこからともなく響く。
お賽銭箱にポケットに入っていた十円玉を投げ入れる。チリンという音がする。僕は手を合わせる。先生の風邪がよくなりますように。みんなの風邪がよくなりますように。
そして参道を戻る。鳥居の下をくぐる。そう言えば、前に通った時にはくぐらなかったことを思い出す。なにかが頭の中を走りぬける。時間が止まったような気がする。いや、違う。止まっていた時間が今動き出したのだ。
ぐるぐる回る頭を抱えて森を抜け、どうやって帰ったのかよく覚えていないけれど、次に気がついた時はイブキの見える庭に面した部屋の中で、僕は布団に入りびっしょりと汗をかいてウンウン唸っていた。

熱が出て、僕は二日間横になったままだった。夢と現実の境目がよく分からなかった。色々なものが嵐のように駆け抜けて行った。
ぬるくなった額の濡れタオルを時々誰かが換えてくれた。それはおばさんだったような気もするし、ヨッちゃんだったような気もする。咳はあんまり出なかった。ただ鼻水がやたらに出た。鼻紙をそこら中に散らかして僕はふうふう言い続けた。
ようやく熱が引いた三日目の朝、目を覚ました僕の隣にシゲちゃんが座っていた。
「もうほとんど平熱じゃ」
と言って僕からタオルを取り上げる。横になったまま文句を言う僕と何度か軽口を応酬し、それからすっと黙った。
外は良い天気のようだ。考えると、この村にいる間、雨なんかほとんど降っていない。ふと畑の野菜は大丈夫だろうかと思った。


やがてシゲちゃんは決心したように閉じていた口を開く。そして、あの顔を変えたのは自分だと言った。僕は知ってたよと言う。驚いた顔。
すべては先生の推理の通りだった。失敗にもへこたれないシゲちゃんがあんなにも元気がなかったのは自分のせいで友だちに大怪我をさせてしまったからだ。
だけど僕も知らなかったことが一つ。シゲちゃんは事件の翌日、顔入道の上に貼ったもう一つの顔を剥がした後で、一人で隣町の病院まで歩いて行ったのだそうだ。タロちゃんへのお見舞いだ。
病室のベッドでぐったりしていたタロちゃんは、もちろんシゲちゃんの仕業だってことをもう分かっていて、それでも怒りもせず変に照れくさそうな顔をして苦笑いを浮かべた。
腰を抜かして逃げ出したなんてこと、恥ずかしいから誰にも言わないでくれと、そう言って頭を掻くのだった。
だからシゲちゃんは大人に何を聞かれても黙って怒られているんだ。僕はシゲちゃんがもっと怒られるのが怖くて自分の仕業だということを隠しているんだと思っていた。
潔く責任を取ることが親分のあるべき姿だと思って失望をしかけていたのに、シゲちゃんはタロちゃんの心情を考えて最初からすべてを飲み込んでいたのだ。
やっぱりシゲちゃんは立派な親分だった。イタズラ好きさえなければ、だけど。
「先生ってな誰のことじゃ」
突然シゲちゃんがそう言った。僕がうわごとで口にしたらしい。しまった、と思った。なにを口走ったんだろう。そう言えば、熱を出してる時に先生に会ったような気がする。
ここにいるはずがないのに。でもここにいるつもりになって先生に話し掛けてしまったのかも知れない。
ああ。すべてに知恵が回るシゲちゃんのことだ。へたな言い逃れは余計なやっかいを生むかもしれない。
僕は観念して、鎮守の森の向こうの集落のこと、そして夏休み学校のことを話した。自分でももう、コソコソするのは潮時のような気がしていた。
話している内に、気分が晴れやかになっていくことに気づいた。
こんなにも先生のことを誰かに話したかったんだ。自慢したかったんだ。
そう思いながらシゲちゃんの顔を見ると、怪訝そうな表情で首を傾げている。
「まだ熱があるようじゃ」
シゲちゃんは、鎮守の森の向こうにはなにもない、と言った。
そして「寝とれ」と僕に取り上げていたタオルを投げてよこし、部屋から出て行った。
僕は狐につままれたような気になり、どうしてシゲちゃんはまだ嘘をつくんだろうとイライラしながらまた眠りについた。
どれくらい眠っただろうか。誰かが部屋に入ってくる気配がして、僕は目を覚ます。襖を閉めて布団のそばにやってきたのはじいちゃんだった。
「鎮守の森の向こうに行ったのか」とじいちゃんは聞いてきた。シゲちゃんから聞いたようだ。そうだ、と僕が口を尖らすと、いつになく難しい顔をして腕組みのまま胡坐を掻いた。
そして僕の耳は信じられないことを聞いた。
あの集落は、じいちゃんが子どものころに恐ろしい病気が流行ってみんなバタバタと死んでしまい、残った人々も集落を捨てて散り散りになり、今では誰もいない集落の跡だけが打ち捨てられているのだという。
そんなわけはない。だって僕は現にその集落に行ったのだし。現に先生に会ったのだし。現に……
ハッとする。
僕はその時、あの森の向こうの空間にはのどかな山間の集落が確かに存在したけれど、先生以外の人間に出会っていないことに今更のように気づいた。
校舎の隣の家にいるという先生のお母さんも、僕のほかに四人いるという夏休み学校の生徒も、結局誰一人として見ていない。
でも本当にそんな捨てられた集落だというのなら、どうして先生はあんなところに一人でいたのだろう。そして、どうして嘘をついていたのだろう。
分からない。考えていると、また熱がぶりかえしてきそうだ。
「その病気って、なに」
ようやくそれだけを言った僕に、じいちゃんはムスッとしたまま答えた。
「結核じゃ」

結核。
テレビで見たことがある。昔のドラマで、療養所に入っている女性が咳をしていたのが思い浮かぶ。
「肺結核でな。診ることのできる医者がおらんかった」
風邪が流行っているのよ。
風邪が流行って。
咳だ。咳。先生も咳をしていた。どういうことなんだ。
わけが分からず、僕はその言葉を何度も頭の中で繰り返す。
じいちゃんはそんな僕から視線を逸らして立ち上がり、部屋から出て行こうと襖に手をかけてから、思い出したように言った。
「わしらが顔入道さんの怒った顔を見たのもそのころじゃ」
もう行くでない。
ピシリ。襖が閉まる。
わけが分からない。いや、僕の頭のどこか隅の方では分かっている。ただ、分かりたくないのだった。僕自身が。
頭を抱えていると、少ししてまた襖が開かれ、今度はおかゆをお盆に乗せてばあちゃんが入ってきた。
僕はばあちゃんにすがるように訴える。
「でも、先生は知ってた。大きなイブキの庭のある家って言っただけで、シゲちゃんって」
ばあちゃんは、はいはい、と子どもをあやすように僕の手を掻い潜ってお盆を枕元に置き、なんでも知っているという顔でむにゃむにゃと呟いた。
じいちゃんは子どもの時分、音に聞こえた大変なイタズラ小僧で、近隣の集落のものならば誰でも知っていたというほど悪名を轟かせていたのだという。名前は茂春。孫のシゲちゃんはその一文字をもらったのだそうだ。
じいちゃんが子どもころからこの家の庭のイブキの木は、大きな枝を家の屋根まで伸ばしていたのだと言う。
「やっぱり憑かれちょったな。あやうい。あやうい。取り殺されんで良かった。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」


ぶつぶつと言うと、「エッヘ」と腰を上げじいちゃんと同じように部屋から出て行った。
取り憑かれていた? 僕が?
色々なことが頭を駆け回りすぎて、ガタガタと身体が震えた。そして知らないあいだに涙が流れていた。

僕の風邪はただの風邪だった。感染性の恐ろしい病気などではなかった。
すっかり身体が良くなっても僕はあまり外には出なかった。家にこもって宿題をやり、全部片付けてしまうと今度は公民館にある図書室で本を借りて読んだ。
シゲちゃんや病院から戻ったタロちゃんなんかが遊びに誘ってきても、あんまり気が乗らなかった。
それでもダンボールで作ったスーパーカーに乗り込んで遊ぶ仲間たちを見ていると、みんなあんまり出来が悪いので居ても立ってもいられなくなり、カッコいいフェラーリを作成して参戦した。
ただぶつけて遊ぶだけなのだが、フェラーリの輝くボディに恐れをなしたやつらが逃げ回るのは気持ちが良かった。最後はシゲちゃんと一騎打ちになってとうとう負けてしまった。
シゲちゃんのボディには、ダンボルギーニ・カウンタックとマジックインキで書いてあった。やっぱりかなわない。
そんな風に僕は少しずつ元気になっていったけれど、鎮守の森には近づかなかった。「もう行くでない」とじいちゃんに言われたこと、そして先生自身にきてはいけないと言われたことを、自分への言い訳にしていたのかも知れない。
考えないようにしても夏は終わる。僕にも帰るべき本当の家があり、学校がある。このまま目を閉じ、耳を塞いだままには出来なかった。ケジメだと思ったのだ。案外律儀な子どもだったらしい。
明日にもお世話になったシゲちゃんの家からおいとまするという日。僕は鎮守の森へ一人で入っていった。
あいかわらず耳の痛くなるような蝉時雨の中、薄暗い葉陰の下を黙々と歩く。神社の参道を横目に、道の奥へと足を進める。
雨がほとんど降らないので、柔らかい土についた足跡が汚らしく残っているのが目に付く。


みんな僕の足跡のようだった。僕はそれを見ながら思い出す。あの日、初めてこの森を抜けた時、神社より向こうには誰の足跡もついていなかったことを。
よく考えるとおかしい。先生が言っていたように、僕らの村と森の向こうの集落との間にはこの鎮守の森を抜けるほかに道がないのであれば、人の足跡がたくさんついているはずなのだ。役場だって郵便局だって森のこっち側にしかないのだから。
そんな綻びを見つけられないまま、僕は知らず知らずのうちにこの世の裏側に足を踏み入れていたのだろうか。
俯き加減で黙々と歩き続け、暗い木のアーチを抜けると青空が頭上に広がった。
同じだ。緑の畦道。畑。蛙の鳴き声。空を横切るツバメの羽の軌跡。目の前の光景に一瞬目を細めて、そしてやがて気づく。
畦道に雑草が生い茂っていること。畑にも雑草が生い茂っていること。蛙の鳴き声はずっと小さいこと。山の中腹に見える民家は、屋根に穴が開きとても人が住んでいるようには見えないこと。
そして同じことが一つ。電信柱も電線も、どこにも見えない。
僕はふらふらと畦道を歩く。絡まる草を踏みつけながら、坂道の前に着いた。なだらかに続き、見上げるとその向こうには古ぼけた瓦屋根がある。汗を振り払いながら僕は坂を登る。
途中で振り返り、集落を見下ろす。誰もいない。動くものの影と言えばツバメばかりだ。所々に白い花が咲いている。
僕は広場に着く。校庭と呼ばれて初めてそうであると気づいたはずの場所は、今はそう言われても分からない。朽ちた木片が散乱する荒れ果てた広場だった。
そしてその向こう。僕が毎日見上げていた校舎は黒く変色して酷く歪んでいる。壁にはいたる所に穴が開き、ささくれ立った木片がギザギザに突き出ている。向かって左下、小さな母屋があった場所には焦げたような跡と、瓦礫の残骸があるだけだった。
僕は目の前の光景が意味するもののことを考える余裕もなく、ふらふらと夢遊病のように玄関口に吸い込まれていった。
中はさらに酷い有様で、煤と穴と木切れの山だった。下駄箱の残骸の横を通り抜け、靴のまま校舎の廊下に上がる。蜘蛛の巣を払い除けながら階段に足をかけると、バキッと音がして底が抜けそうになった。

すぐに足を引っ込め、大丈夫そうな場所を何度も体重をかけて確かめながら一段一段登っていった。
ボロボロの壁に手をついて、手のひらを真っ黒にしながらようやく二階に辿り着くと、僕は首をめぐらせる。六年生と書いてある白い板はどこにも見あたらない。ただ朽ち果てた木の床と壁が作り出す灰色の廊下が伸びていた。
僕はゆっくりと歩き、いつか先生が手を振って迎えてくれた教室へ足を踏み入れる。
その瞬間、クラクラと頭が揺れた。五つあり、先生がもう一つ運んできてくれたので全部で六つになったはずの机は、一つもなかった。ただ木の残骸が教室の隅に無造作に折り重ねられているだけだった。
教壇には大きな穴が開き、黒板があった場所には煤けた壁だけがある。
なんだろうこれは。なんだろう。いったいなんだろう。これは。
そうだ。ハリボテなのだ。本物の上に被せられたハリボテ。よく出来ている。これならみんな騙せる。じいちゃんだって、シゲちゃんだって。
僕だって。
そしてこれからそれは勝手にすり替わるのだ。本物の教室には先生がいて、僕の知らない遠い国の物語を話して聞かせてくれるのだ。
……なにも起きなかった。
僕はずっと待っていた。それでもなにも起きなかった。
ふと、窓の方を見た。折り紙の鶴でいっぱいだった窓にはもうなにもぶらさがってはいない。足を引きずるようにそちらに近づく。
先生がいつも頬杖をついていた窓際に僕も立った。窓枠は腐ったように抉れていて、とても肘をつけそうにない。
僕は先生がいつもふいに遠くなったように感じたことを思い出す。そんな時先生はいつもぼんやりと窓の外を見ていた。思えば初めて会った時だってそうだ。
何度も先生を呼び、ようやく気づいてくれた時、ぱちんという感じに世界が弾けた。その瞬間に、僕と先生の世界がつながったのだ。
先生はいつも白い花柄の服を着ていた。清潔なイメージにそぐわない、同じ服だったような気がする。捨てられた校舎の中で、学校の先生の時間は止まったままだったのだろうか。
いつか珍しく雨が降ったことがあったけれど、鎮守の森を抜けると晴れていたということがあった。
小雨だったから、ちょっと不思議に思ったくらいだったけど、たとえ嵐がやってきてもあの森の向こうは晴れたままだったのかも知れない。
ジワジワと蝉が鳴いている。どこか虚ろな声だった。別の世界の気配はどこにもない。もう僕には見えない。見えなくなってしまった。
僕は立ち尽くし、ぼうっと窓の外を見ていた。
先生が見ていたものを無意識に探していたのかも知れない。目の端に校庭の、広場の隅が入った。先生はいつもそこを見ていた。同じ場所を。あそこにはなにがある?
僕は振り向くと早足で教室を出た。ミシミシと廊下が軋んで嫌な音を立てたけれど、足は止まらなかった。階段を半分壊すように駆け下り、玄関を出て広場に向かった。廃材の山をスルスルと避けながら、その隅っこにひっそりと立つ木の根元に走り寄った。
かつて花壇があったのだろうか。黒い土が盛られている一角だった。その土の上に木の板が一本突き立っている。それがまるで墓標のように見えて胸がドキンとした。板にはなにか書いてあったが、雨で流れたのかもう読めなかった。
僕は木切れを拾ってきて、土を掘り始めた。
真上に昇った太陽が僕の影を地面に焼き付ける。ポタポタと汗が落ちて、それがシュンシュンと土に吸われる。掘り返された土が周囲に盛られて行く中、木切れの先になにかが当たる感触があった。
膝をつき、両手で土を掘る。指の先に触れたものは、頭をよぎったような白い骨ではなかった。
ボロボロになった布袋が土を被って現れてきたのだ。
口のあたりをつまみ上げ、土を払おうとした途端にボソボソと布袋の底が抜けて黒く汚れた中身が地面に落ちた。
それは折り紙だった。折り紙の鶴だ。ぐしゃぐしゃになり、ぺったんこになり、土にまみれて色あせた鶴だった。
その時こみ上げてきたものに耐えられなかった。
誰もいない廃墟のような校庭に立っていた。


幻も見えなかった。なに一つ見えなかった。どうしてもう見えないんだろう。
けれど僕は想像する。
そこにいるつもりで想像する。僕のそばに先生が立っている。透明になって立っている。僕の肩に手を置いている。困ったような、はにかんだような、優しい顔で。
風が顔に吹き付けて、それは消える。綺麗に、跡形もなく。
涙を流しきって、僕はぼやける視界で手元を見る。千羽はいないけれど、千切れかけた糸にぶら下がってたくさんの鶴が揺れていた。
その中に、僕は不思議なものを見つけた。
それは不格好に歪んでいる鶴で、胴体は傾き、顔なんか横を向いてしまっている。けれど一つだけ、たった一つだけ格好いい部分があるのだ。
僕は手を高く上げ、その鶴の、戦闘機のように端がくいっと立っている羽を空に翳して、切っ先が風を切る音を聞いた。
夏の終わる匂いをかいだ気がした。



そっと、辞典を閉じる。
小さなころの記憶が夢のようにあふれて、そして消えていった。
辞典を本棚に戻し、大学の図書館にいたことを、ようやく思い出す。柔らかい床が色んな音を吸い取って、あたりはやけに静かだ。
少しのあいだ目を閉じて、ゆっくりと大学生の自分を取り戻す。
ふと、シゲちゃんはどうしているだろうかと思った。随分会っていない。相変わらず親分をしているだろうか。
洞窟の顔入道も、笑ったままだろうか。その奥の誰も入れない密室の中にいるというお坊さんの即身仏は、今も山に彷徨う死者の霊を弔っているのだろうか。
あのころのことを思い返すと、不思議なことがまだいくつかある。
先生の年代であれば、高校から大学へという学歴がおかしいのだ。おそらく高等女学校から高等女子師範学校か、女子大とは名ばかりの私立学校へ上がったのではないかと思うのだが、そのころの僕の思っていた高校、大学という言葉で通じていたというのがよく分からない。

ほかにも時代的な素地が違うため、きっと噛み合わない部分があったはずなのだ。けれどそんな覚えはない。会話はスムーズだったと思う。
もしかすると、交わしたと思っていた会話さえ本当は存在しなかったものなのかも知れない。
ただつかのま、うつろな世界のはざかいで魂が触れあい、重なり合い、そして響きあっただけなのかも知れない。
その小学校最後の夏休みが終わり、新学期が始まった時、僕は算数の成績がぐっと上がっていて担任の先生を驚かせた。もっと後で世界史を習った時には、もう忘れてしまっていたけれど。
ふ、と笑いが漏れる。
本棚に戻した辞典の背表紙を見つめる。
全く関係のない調べ物をしていたのに、ふと目に止まった頁に長い時間を隔てた最後の謎の答えがあっけなく転がっていた。そしてそれは僕をひと時の追憶の彼方へと誘ったのだ。

【結核】 学名tuberculosis

結核菌によって引き起こされる感染症。呼吸器官やリンパ組織、関節や皮膚など発祥する器官は多岐にわたる。
なかでも代表的な肺結核は日本においては古来より労咳と呼ばれ、罹患者も多く死病として恐れられていた
…… 中略 ……医師の使用する略称であるTB(学名から)が民間においても広まり、隠語的にテーベーと呼称されることも……

あの日の教室で、アテネをアテナイとしないのにテーベだけをテーバイと書き直した先生の、重く沈んだ背中が昨日のことのように瞼の裏に蘇る。
あの時の先生は、自分が幻であることを知っていたのだろうか。そして幻を見ている僕のことを、どう思っていたのだろう。
あれから何度か別の年に鎮守の森を抜けてあの廃校に足を向けたことがある。けれどただの一度も、先生には会えなかった。

また会いたいか、と言われれば、今では躊躇してしまう。先生に言われたとおりに目を開けていられたかどうか、不安なのだ。あのころの僕が思っていたよりもずっと、あまりに底知れない悪意がこの世には満ちているのだから。
中学三年生のころ、あの廃校が取り壊されたという話を聞いた。大規模な工事で、大きな道が抜けたらしい。あの捨てられた集落を飲み込んで。僕がその場に埋め直した折り鶴たちも掘り返され、そしてもっと深く埋められてしまっただろうか。
僕は、あのボロボロの折り鶴の中に埋もれるようにして一枚の紙が混ざっていたことを思い出す。
それはどこかで見た筆跡で、詩のようであり、誰かへ宛てた手紙のようであった。僕はそれだけを持ち帰って、やがてその紙で折り鶴を作った。
実家に帰った後、しばらく僕の部屋の窓際に吊されて揺れていたけれど、いつの間にかどこかへ行ってしまった。幼き日の記憶のつどう、リンボ界のどこかへ。

目当ての本を探し当て、貸出しの手続きをしてからそれを小脇に抱えて図書館を出ると、顔が切られるような冷たい風が吹き付けてきた。
真冬だった。
すっかり夏のような気がしていたのに。
僕は苦笑して、コートの襟を寄せた。


終わり

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あきゅろす。
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