すまきの話 学生時代の秋だった。 朝や夕方のひとときにかすかな肌寒さを覚え始めたころ。俺はある女性とともにオカルト道の師匠の家を襲撃した。 周囲の住宅も寝静まった夜半である。アパートの一室から光が消えているのを確認した上で、足音を殺しながらドアの前に立つ。ノブを捻るとあっさりと手前に開いていく。鍵が掛かっていないのは分かっていた。 そろそろと暗い部屋の中に入り込み、布団にくるまっている師匠を見下ろす。二人で目配せをした後、持参したロープを上手に布団の下に這わせ、慎重に準備を整える。 そして一気にロープを引っ張り、布団ごと括り上げる。 「な、なん」 急な衝撃にそんな短い発語をした師匠は、けれどたいした抵抗もなく俺たちの前に見事な簀巻きとなって一丁上げられた。 「なんですか」 眠気もふっとんだのか、師匠は冷静な口調でようやくそれだけを言った。簀巻きとして横たわったまま。 「なんですか」って、それは俺も知りたい。 ただ、この師匠の彼女であるところの歩くさんからイタズラをしようと持ちかけられ、うまうまとそれに乗っかってしまったというのが正直なところだ。 だから理由なんて多分ないし、面白ければそれでいいのだった。 電気を点け、俺たちは持ってきたお菓子類や飲み物を広げる。 簀巻きを肴にホームパーティといこう、という趣向だ。 「なんだなんだ」と喚きながら師匠がもがく。敷き布団と掛け布団の中から顔だけを出して、まるでイモムシのようだ。ロープで数カ所を括られて、円筒形になった布団はむしろラーメン屋の仕込みで見るチャーシューというべきか。 もがけばもがくほど、コーラが進む。 俺と歩くさんは簀巻きを前にして楽しく談笑した。 やがて疲れてきたのか大人しくなった師匠がポツリと言う。 「おかしくれよ」 俺たちは貴重なポテチを要求する簀巻きを無視することにした。 「……」 「無視すんなよ」 「……」 「おかしくれよ」 「……」 「面白い小話をするから助けてくれ」 俺と歩くさんは部屋の隅にあった将棋盤ではさみ将棋をはじめた。 「ローマ法王がアメリカを訪問した時にね、実はかなりのスピード狂だった法王が運転手にハンドルを握らせてくれって頼ん……」 「ローマ法王が運転者をするくらいの大物を捕まえちゃったって言うんでしょう」 「……うん」 「……」 「もう一つ聞いてくれよ」 「……」 「イエス・キリストが水面を歩いて渡る奇蹟を起こしたっていう湖に旅行者がやってきたんだ。向こう岸に渡る船があるっていうんで行ってみたら、大人一人50ドルと書いてある。 『なってこった! たったこれだけの距離で50ドルもとるのか。イエス様も歩いて渡るはずだ』」 「…………ふ」 「あ、笑った」 「……」 「ダメ? 今のダメ?」 「よし!」 これではさみ将棋、二連勝だ。歩くさん相手のゲームは何故か緊張する。 「もう一つ。もう一つ聞いてくれよ。千年前から建ってるドイツの古城の遺跡に盗賊団が侵入したんだ。手分けして探索してると、戻ってきた子分が言う。『あやしげな扉があったんですが、カギが掛かってやした』 『バカ野郎。昔っから、カギを掛ける場所には大事なものがあるって相場が決まってんだ。死ぬ気でこじ開けてこい!』 飛び上がってもう一度探索に向かった子分が、しばらくしてまた手ぶらで戻ってくる。『トイレでした』」 「…………うふ」 「あ、笑った。笑ったよ。ねえ。これほどいてよ」 「……」 「無視すんなよ」 よおし、これで三連勝だ。歩くさんも案外たいしたことないな。 「実はさっきの小話の中に、一つ奇妙な部分がある」 簀巻きの声色がわずかに変わった。そちらを見もしないが、歩を持つ手がぴくりと止まる。 「カギを開けたら扉の向こうはトイレだったってオチだが、良く考えると千年前の城の廃墟にあったトイレなのに、どうしてカギが掛かったままだったんだろうね」 ささやくような声に、ゾクっとした。 最後に入った人は千年経ってもまだ出てきていないのだろうか。内からカギを掛けたままで。 埃くさくジメジメした石造りの城が、今にも目の前に現れそうな悪寒が目眩を伴ってやってくる。狭いアパートの室内の景色がゆらゆらと攪拌されていくようだ。 しまった。術中にはまる。 そう思って緊張した。 しかし次の瞬間、パリパリという乾いた音が聞こえ、現実感が蘇ってくる。 歩くさんが師匠の口元にポテチを差し出して、まるでエサのように食べさせていた。 ご褒美か。でもほどかないんだ。 その後も「ほどけほどけ」「おかしくれ」とうるさい師匠をほぼ無視したままで俺たちは夜更かしをした。 あんまりうるさいので、そろそろ勘弁してあげましょうかと提案すると、歩くさんは「ほどくと死ぬ」とだけボソっと言った。 死ぬのか。だったらほどけないな。主語が分からないのが恐すぎるけど。 歩くさんは、そう言っていいのか分からないが、予知能力のようなものを持っている。最初はカンが鋭い人だと思っていただけだったが、やがてそれがありえない精度を持っていることが分かって恐くなった。 彼女は予知夢のようなものを見る。そして起きた時にはそれを忘れている。ある時、ふいにそれを思い出す。これから起こることを思い出すのだ。それが警句となって、周囲にいる俺たちも危機を脱するということが何度かあった。 その彼女の言葉は時に、非常に重くなる。「ほどくと死ぬ」と言われたら、なんとしてもほどくわけにはいかない。それが冗談なのか、警告なのか全く分からなかったとしてもだ。 モジモジと蠕動運動を繰り返す師匠を見ながら、普段小馬鹿にされている恨みをこめて存分にコーラをあおった。旨すぎる! 二本目のコーラに手を掛けた時、急に部屋の中に目覚まし時計の音が響き渡った。 ドキッとしたが、すぐに歩くさんがスイッチを切り、時計は沈黙する。 針を見ると丑三つ時。どうしてこんな時間に目覚ましを掛けてるんだこの人は。最近よく深夜徘徊をしているらしいというのは知っていたが、目覚ましで起きてまですることなのか。 「ようじがあるんです」 と師匠が哀れを誘う口調で訴えたが、歩くさんに「どんなご用事?」と問われて上手く答えられずに「とにかくほどいてください」と懇願したが、あえなく却下された。 そうこうしていると、歩くさんが部屋のどこからかアルバムを見つけてきた。大学の入学アルバムだ。パラパラと捲っていると、知ったような顔が所々にあった。師匠の入学ははるか昔のはずなので、なんだか変だと思っていたら、どうやら今の四回生の入学時のものらしい。 後輩の入学アルバムを持ってるって、なんだかいやらしい。 変態を見る目で簀巻きを睨んでから知人の写真を探す。とりあえず教育学部の頁に、みかっちさんというオカルト仲間の在りし日の姿を発見。意外にも、これはダメだろという地味な格好で写っている。ここだけ切り取って本人をいじめたい気持ちに駆られる。 続いて歩くさんも発見。今の姿とあまり変わらない。写真の下にある名前に頼らずとも余裕だった。ただ、その頁の端に折り目がついていることが気になった。 そう言えばこの二人は、師匠の方が一方的に熱を上げたとか上げてないとか聞いたことがある気がする。 これは楽しいものを掘り起こしたかも知れないと思い、隣りの歩くさんを覗き見ると、彼女は無表情のままじっとその折り目を見つめている。 その時、彼女を包む異様な緊張感に気づいた。なにか冷やかすようなことを言おうとして、思いとどまる。 押し黙っているとやがて彼女が口を開き、「初めて会った時、このアルバムを持ってた」と呟いた。 新入生のアルバムを見ていて一目惚れし、それを頼りに彼女を捜し当てたという訳か。 それだけを聞くと、他人の馴れ初めなど犬も食わぬわ、という不快な気分になってきそうだが、ちょっと様子が変だ。 このやりとりを聞いていたはずの師匠を振り返ると、寝たふりをしている。わざとらしく寝息を立てているが、まつげがピクピク痙攣中だ。 よく分からないが、なにかよほどの爆弾を掘り当てたらしい。後にこの出来事の真相を知った時には、簀巻きにしたのみならず、もっと酷い目に遭わせるべきだったと思ったものだったが、それはまた別の話だ。 その時の俺は不穏な空気を察知してなんとか話題を変え、簀巻きを囲む宴を続行した。 記憶が定かでないが、やがていつの間にか眠ってしまっていた俺は、畳の上で目を覚ました。身体の節々が痛い。隣では歩くさんがどこから引っ張り出してきたのか、毛布にくるまって寝ている。 ハッとして師匠を見ると、簀巻きから肩の先が少し出た状態で横たわって寝ている。俺たちが寝てしまってから、自力で抜け出そうとして力尽き、脱皮途中で眠ってしまったようだ。 俺は起こさないようにロープの結び目をほどき、師匠と歩くさんを放置したまま部屋を出る。 朝日が目を焼いて、俺はうつむき加減で住宅街を歩き出した。 次の日の夜だ。 パソコンの電源を切り、首をボキボキと鳴らし、歯磨きをしてから寝ようかと立ち上がった時だった。 机の上のPHSに着信があった。時計を見ると深夜0時を回っている。こんな時間に誰だろうと思いながら通話ボタンを押すと、掠れた声が耳元で囁くように聞こえてきた。 よく聞き取れなかったが、それはこう言っているようだった。 ……家から近い本屋、本屋の前の公園…… いったい誰なんだろう、という疑問は湧かなかったと思う。俺は師匠だと直感的に分かった。 「どうしたんですか」 と大きな声で呼びかけた瞬間、ガサガサという、紙袋かビニール袋が揺れるような音がした。 その後は電話口の向こうから声がしなくなった。時どき、ガサ、という小さな音がするだけだ。 何度か向こうに呼びかけてから、もう通じないのだと判断して電話を切った。 すぐに外出用の服に着替える。 師匠になにかあった。 それだけは分かる。 家から飛び出し、自転車にまたがって、師匠の家の方に向かう。空は曇っているのか月が見えず、街灯がないあたりは真っ暗だ。 師匠の家に入り浸っているうちにすっかりそのあたりの土地勘を身につけてしまった俺は、「家から近い本屋、本屋の前の公園」というヒントから、指示された場所に最短距離で到達した。 そこは緑の多い一角で、遊具の類はほとんどないけれど、住民たちの散歩コースになっている広場だった。入り口に自転車を止め、恐る恐る足を踏み入れる。 人の気配はない。少なくとも動くものの影は。 薮になっている所を回り込み、街灯の明かりが作る陰影をじっと観察しながらそろそろと進む。 妙に静かだ。 堅い土の地面に小さな石が転がっていて、俺の足がそれを蹴飛ばす乾いた音が響く。 藪の手前に木製のベンチが二つ並んでいる場所があり、そこに誰かいそうな気がして首を伸ばしたが、遠目にも人の姿は見あたらなかった。 公園が違ったのかと思って、頭の中で住宅地図を再生しようとしていると、その誰もいないベンチから人の気配が漂ってきた気がした。 緊張してもう一度視線を向ける。 二つのベンチには、やはり誰もいない。その向こうは見通しがいいので、誰も隠れてはいないはずだ。後ろの藪の中ならば分からないが、見るからに硬そうな枝木だ。あの中に潜むなら相当の引っ掻き傷を覚悟しないといけないだろう。 あとは、ベンチの横のゴミ入れか。 そう考えた瞬間、なにか嫌なものが身体を駆け抜けた。 そのゴミ入れは、よくある金属製の網状になった円筒で、上の方に向けて少し径が大きくなっているやつだ。その内側には黒いビニール袋がはめ込まれている。ただ、普通に公園などで見るタイプよりかなり小さい。大人の腰までも届かないくらいだ。 そのゴミ入れから、異様な気配がしている。 いや、意識を集中すると分かる。気配などというあいまいなものではなく、はっきりと血の匂いだと分かった。 息を止めながらゆっくりと足を進める。血の匂いが強くなってくる。明らかにゴミ入れの中からだ。 少し近づいてよく見ると、ゴミ入れの下の影になっている所になにかの染みが出来ている。 黒い。血だ。見えにくいが、ゴミ入れの下部のすべてに広がっているとしたら、かなりの量だ。 足の長い蚊が横を通り過ぎ、かすかな羽音を残してゴミ入れの中に消えた。 つばを飲む。 ガサリと、ゴミ入れからなにかが動く気配。 反射的に身構える。 声がした。 掠れた声。 ……きたか、 どこからともなく聞こえてきたのなら、まだ良かった。声は明らかにゴミ入れの中から聞こえてくる。 ……よく、聞け 時間が、ない、 その声は、容易に近寄らせない響きを持っていた。いや、それは俺の自己防衛本能が反映されていただけなのかも知れない。 そのゴミ入れは、とても小さいのだ。横から見ているだけでは口の部分より下は見えないが、大人が中に入り込むには小さすぎる。身体のパーツがすべて揃っている状態で入り込むには、あまりに。 ……綾を、さがせ、携帯が、つながらない、たぶん、家、にいる、会って、こう、言え、 ゴミ入れの中から聞こえる、この世のものとも知れない声に混乱しながらも、俺は耳だけに意識を集める。 ……これは、夢ですね それきり、声は途絶えた。足の長い蚊がゴミ入れの中から飛び立ち、どこかへ消えた。 あたりは静まり返っている。 俺は息をのむ。全身に得体の知れない寒気がぞわぞわと立ち上ってくる。なにが起こっているのか分からない。 分かろうとすれば分かるだろう。足を踏み出し、ゴミ入れを覗き込みさえすれば。けれどその足が踏み出せない。思考が、脳が、大脳だか間脳だかの蒼古的な部分が、行くことを拒んでいるみたいだ。 ただごとでないことだけは分かっていた。俺の個人的でささやかな世界が致命的な傷を負い、もう元の形に戻らないだろうことも。ただ、血を見ても反射的に救急車という発想は浮かばなかった。 今自分のするべき最善のことは、ただ指示されたことを全うすることだと直感したのかもしれない。 頭に電流が走ったような軽い痛みの後、俺は目覚めたように走り出した。ゴミ入れから立ち上る生臭い匂いを鼻腔から振り払うように。 公園を出て、入り口の外にとめてあった自転車に飛び乗る。 大変なことになった。 大変なことになった。 力一杯ペダルをこぎ出しても、頭は混乱したままだった。 これは夢ですね? 夢なわけはない。恐ろしいくらい、リアルだ。匂いも、音も、足に、太股に乳酸が溜まっていく感じも。なにもかも。 今日一日の記憶を呼び覚ましてみる。けれど一分の隙もなく繋がっているのが分かる。さっきまでネットで検索していたサイトのことも、その前に食べたカップ麺のことも、それを食べながら高校時代の友人と電話で話したことも、鮮やかに思い出せる。 ということは、じゃあ…… そこで思考が断ち切られる。いや、押しとどめているのか。 師匠に「綾」と本名で呼ばれた歩くさんのマンションへ真っ直ぐに向かう。 途中軽い下り坂があり、スピードを維持したまま強引にGに逆らってカーブを曲がろうとした時、前から来る通行人とぶつかりそうになった。 驚いた表情のその人をなんとかハンドル操作で避けたが、バランスを崩して自転車から投げ出される。 一回転して尻を打ち、思わず右手をアスファルトについてしまって皮が擦りむけた。鋭い痛みに襲われる。 痛い。すっごい痛い。くっそう、と誰にとも知れない悪態が口をつく。 「危ねえな、こら」 茶髪の若い兄ちゃんが髪の毛を乱れさせたまま近寄ってくる。俺は飛び跳ねるように立ち上がると、彼にすがりつく。 「今日のこと覚えてますか。昨日のこと覚えてますか。自分で自分のことがわかりますか」 彼はすがりついてきた俺に一瞬身構えたが、すぐに動揺してその手を振りほどこうとする。 「バカじゃねーの。なんなのお前」 ドシンと俺の肩を両手で突き、踵を返すと早足で去っていった。途中、何度か気持ち悪そうに振り返りながら。 残された俺は擦りむいた右手と擦りむいていない左手を並べて観察する。 掌の傷の中に、小さな石が埋まっているのをなんとかほじくり出す。 痛い。 なんでこんなに痛いんだ。 泣きたくなるような、寒気がするような、耐えられない感じ。とにかく動きだし、倒れている自転車を引き起こして跨る。 夜の道を走る。ひたすら走る。信号に引っ掛かり、トラックが通り過ぎて次のヘッドライトが近づくまでのわずかな隙間を突っ切る。 遅れて鳴らされた意味のないクラクションを背中に聞きながら前へ前へとこぐ。 息が上がり、スピードが落ち始めたころにようやく歩くさんのマンションが見えてきた。 明々とした街灯の下を通り、いつもとめている駐輪場に行く時間も惜しくて道端にそのままスタンドを立てる。立てる時、サドルを押さえる右手に痛みが走った。 顔をしかめながら玄関へ向かう。入り口のセキュリティーはない。中に入ってから、部屋の明かりがついているか外から確認した方が良かったことに気づいたが、戻る時間も勿体ないのでそのまま階段を駆け上がる。 部屋番号を頭の中で繰り返しながら誰もいない通路を走る。足音だけがやけに寒々しく響いている。 向かう先をじっと見つめると、目的の部屋から細い光の筋が伸びている。ちょうど天井の蛍光灯が消えていて薄暗い一角だったから、そのわずかに漏れ出る光を視認することが出来た。 いる。中にいる。 関門を一つ越えた感じ。 でもたどりつくべき場所も、道の全貌もまったく見えない。自分の世界が負った致命的な傷を、復元するための道が。暗夜の中の行路が。見えない。 叫びそうになる。 口を押さえる。 ドアを叩く。 ガンガンガン。 ドアを叩く。 ガンガンガン。 「いませんか」 焦っていると、チャイムなどというものはおもちゃにしか見えない。早く出てくれ。慌ただしく叩かれるドアの音というのは誰だって嫌なものだから。 ガチャリ……、というカギが回る音に続いて、キィ……と微かに軋む音と共にドアがゆっくりとこちらに開かれていく。中からは、怯えたような表情の女性。 「助けて下さい」 顔を見るなり、そう言おうとして、息が止まる。違うからだ。言うべき言葉は、確か、 「これは夢ですね」 うっすらと冷え、張りつめたような空気が室内から外へ流れ出てくる。 普段着のままの歩くさんは首をかしげながら一歩下がる。つられて俺も玄関口に入り込む。 歩くさんが手を離したドアが、支えを失って俺の背後でバタンと閉じた。 歩くさんはもう一歩下がる。靴を脱がなければ上がれないので、俺はその場で止まったままだ。二人の間にある程度の距離が生まれる。 どうやらこれが、歩くさんのパーソナルスペースらしい。 「ケガ」 と歩くさんがこちらを指さす。見ると右足のズボンの膝が破れていてる。掌の痛みばかりに気をとられて気が付いていなかった。 「待ってて」 薬箱でも持ってこようとしたのか、そう言ってくるりと踵を返そうとした彼女を、呼び止めるように口を開いた。 「これは夢ですね」 ぴたりと動きを止めて、彼女はもう一度こちらに向き直る。 「どういうこと」 いつも表情に乏しい彼女が、眉を寄せる。 あの、公園で見た光景を説明しようとして息を吸い込んだ。けれど俺はそれきり言葉につまる。それを言葉にしてしまうと、まるで取り返しの付かない恐ろしい幻を、現実にしてしまうような気がして。 俺はとっさに本を探した。雑誌、いや新聞でもいい。なにか、膨大な情報の詰まった紙が欲しい。昔自然に身につけた、夢の中でそれが夢であると気づくための技術だ。 ほっぺたをつねるとか、なにか特定のキーワードを叫ぶとか、みんなそれぞれ夢を認識するための、あるいは夢から目覚めるためのコツのようなものを持っている。 俺の場合はそれが本を読むことだった。そこに書いてあるべき情報量を、とっさに夢を再生している脳が提供できないから、まるでボロが出た狐狸の類のように夢の世界が壊れるのだ。 しかし、歩くさんの部屋は小綺麗に片づけられていて、玄関とそこに続く台所周辺には本や雑誌類はまったく転がっていない。ドアに付属している郵便受けからこぼれ出た新聞がそのまま玄関に放置されている俺の家とは大違いだ。 説明の代わりに、俺は師匠から託された言葉を繰り返した。 「これは夢ですね」 歩くさんは、どうやら大変なことが起こったらしいと判断したのか、口調を強めて「だから、なにがあったの」と言う。 けれど今の自分の中にはその言葉しか存在していない。だからもう一度繰り返す。 泣いているらしい。声が震えている。誰が? 自分が? どうして? 「落ち着いて。夢って、あなたの夢ということ? だったら違う。だって……」 歩くさんはそこで言葉を切って口の中で続きをゆっくりと吟味した。 「まず、私には自我がある。自分の意思で今喋っている。これがあなたの夢ならば、ずっと続いている私の意識が、あなたの頭が生み出したつくりものだということにならない? そんな怖いことは考えたくないけど。自分のほっぺ抓ってみた?」 俺はかぶりを振る。 「というか、抓るより痛い目にあったみたいね」 血が床に滴っているのを見つめる。 「これは夢ですね」 「だから、違う。夢じゃない」 「これは夢ですね」 「なんのことなの。なにがあったの」 「これは夢ですね」 「違うっていってるでしょ。夢かどうかくらいわかるでしょう。夢の中でこれが夢だと気づいたことはあっても、夢の中でこれは現実だと気づいたことはあった? ないでしょう。今、ここにいることが現実だと知っている私にとって、これが夢じゃないことくらいわかりきってる」 「これは夢ですね」 「いったいなにがあったの。そう言えって誰かに言われたの?」 「これは夢ですね」 「答えなさい」 「これは夢ですね」 「ちょっと待って。……ホラ、電卓。適当に数字を打つよ。24587×98564=2456395168。夢なら、こんな計算一瞬で出来る? でたらめな数字じゃないってことを検算して確かめましょうか?」 「これは夢ですね」 「夢じゃない」 「これは夢ですね」 「……どういえばわかるのかな。なにか急いでしなくちゃいけないことがあるんじゃないの」 「これは夢ですね」 「怒るよ」 「これは夢ですね」 「いいかげんにして」 「これは夢ですね」 歩くさんはなにか言おうとして、それを止め、深いため息をついた。 「どうしてわかってくれないの。これが夢だってことはどういうことかわかる? 現実だと思っている今の自分が、贋物だってことよ」 疲れたように、壁にもたれかかる。 「あなたにとって現実ってなに?」 黒い瞳が真っ直ぐ向けられる。 「よく考えて答えなさい。するべきことは、その怪我の手当をして、問題を一緒に解決することではないの?」 俺は一歩、土足で彼女の空間に近づいて、言った。 「これは夢ですね」 その瞬間、彼女は表情を歪め、蒼白になった顔を突き出した。 そしてたった一言、 「よくわかったわね」 と言った。 静かな声だった。 世界は暗くなった。 目は開いている。 薄闇の中、天井が見える。 瞬きをする。 背中に、畳の感触。 身体を起こす。 師匠の部屋だ。明かりの消えた室内に、毛布にくるまった歩くさんと簀巻きになった師匠がいる。 胸がドキドキしている。静かな夜の空気に漏れ出るくらい。 簀巻きの師匠から、乱れた呼吸の気配がした。 呼びかけてみる。 反応はないが、あきらかに寝たふりだ。 抜け出ようとしてもがいている時に、俺がいきなり起き上ったから驚いたというところか。 簀巻きをバシバシと叩く。 「わかった起きてる。起きてる」 師匠に、今あったことを伝えた。 最後まで身じろぎせずに聞いていた師匠は、ひとこと「巻き込まれたな」と言った。 脳裏に、以前あったことが蘇る。 冬に夢を見た。恐ろしい夢だった。現実の続きのような。 けれど目が覚めたとき、時間が巻き戻っていた。俺は恐ろしい夢が現実にならないように、別の選択をした。あのときも歩くさんと同じ部屋で寝ていた。 歩くさんの見る予知夢に巻き込まれたのだと師匠は言う。 あの、公園のベンチのそばのゴミ箱がフラッシュバックする。 あの匂いの生々しさも、夢だったのか。 怪我をした痛みも。今が現実だと思ったあの判断も。 では、今の自分はどうだ。 手のひらを広げてじっと見つめる。あれが夢ならなにも信じられないじゃないかと思う。 油汗が流れる。 俺は歩くさんの不思議な力について、ずっと重大な勘違いをしていたのではないかという予感がした。 「とにかく、これ、ほどいて」 師匠がモジモジする。 「だめです。ほどくと死ぬらしいですから」 そう言ってから気づく。 「心当たりは?」 「え?」 「命の危険があるような目に遭う、心当たりです」 師匠は考えるそぶりを見せていたが、やがて首を振った。 「今夜は夜遊びをするつもりだったけど、行く先は決めてない」 今夜こうして簀巻きにされて行けなかった場所に、明日行くのだろうか。そして恐ろしい目に遭う? 「僕が行くとしたら、あそこかな。いや、あの心霊スポットも行ってみたかった」 師匠はぶつぶつと呟いている。 「いずれにしても、洒落にならないなにかが夜の街にいるらしいな」 あっけらかんとそう言う。 そうして毛布に包まって寝ている歩くさんに視線を向けた。 ぼそりと言葉が漏れる。 「いいか。もう絶対にこいつにあの言葉は言うんじゃない」 「あの言葉?」 「しつこく繰り返したっていうあれだ」 「はあ」 「わかるだろ。こいつが今夜ここへ来た理由が」 なんとなく、わかる。 うまい言葉が出てこない。 結節点。いや、違う。楔か。 巻き戻りを止める、楔。 そのタイミングをなんらかの予感で彼女は知り、こうして俺たち三人をこの部屋に揃えたのだ。 「師匠は、その夢を本当に見てないんですか」 「……こんな状態で寝てられないだろう」 表情を窺ったが、嘘とも真ともつかなかった。 「しばらく、夜遊びは控えることにする」 師匠はそう呟いて目を閉じた。 歩くさんも眠ったままだ。 再び静かになった部屋の中で、俺はじっと考えていた。 あの師匠をあんな風にした、恐ろしいなにかのことについて。 そんな致命的な傷を負った世界が復元するという暗い奇蹟について。 まったく想像もしていなかった、もしかして、ひょっとすると、本人さえそう思っていないかもしれない、眩暈のするような、口に出すのも憚られる、現実から目覚めるという、おぞましい、不思議な力のことについて。 [*←][→#] |