ビデオ−後編− 師匠の部屋を出てから、自転車に乗って街なかをしばらくうろうろしていた。 考えがまとまらない。情報が多すぎる。官報の無機質な記事の中で、無数の人々の様々な死を追体験した俺は、人間の死とはなにか、人間の尊厳とはなにか、勝手に浮かんでくるそんな問いの答えをぐるぐると考えていた。 結局、黒谷という師匠の知り合いから買い取ったあのビデオは、駅員たちの怪談じみた噂話の中にだけ存在していたはずの、奇怪な死者の姿を画面の端にとらえていたものだった。 そしてそのビデオは供養のために寺に持ち込まれた。 なにか変だ。元駅員の二人から話を聞き、官報まで調べて俺たちはその死者の正体、いやそのしっぽにたどり着いた。だからあのビデオが恐ろしい代物だということを知っている。 けれど、ビデオを撮影した人間にとってはどうだ。ただ、素人の映像劇の撮影中に偶然撮れた鉄道事故の瞬間に過ぎない。確かに気持ちの良いものではないが、そこまで怯えるべきものだろうか。 俺たちは、このビデオがヤバイと聞かされて、積極的に情報を集めたからこそサトウイチロウにたどり着いたのだ。ただの鉄道事故の映像から、同じように情報を辿れるものだろうか。 なにか俺の知らない別のファクターがあるのかも知れない。 …… 気がつくと駅前まで来ていた。 時計を見る。午後四時半過ぎ。財布を見る。一万円札がチラッと覗く。 「行ってみるか」 あのビデオの舞台である前原駅は多少遠いが今日中に行って帰れる距離にはある。 さっき師匠の言葉にビビらされた後だというのに、我ながら現金なものだ。好奇心が恐怖心にもう勝ってしまっている。というよりも師匠の話し方の問題なのだ、という気がする。 あの人は必要以上に俺を怖がらせようとする傾向がある。それに嵌ってしまう俺も俺だが。 キオスクで弁当を買って、ちょうど出発するところだった快速に乗る。 帰宅ラッシュにはまだ少し早い時間だったので、四人掛けの席の奥に座れた。 黙々と弁当をかきこむ。考えたら朝からなにも食べていなかった。ろくに自炊もしてないから、食べることに関しては本当に適当だ。 それからスーツ姿の人たちや学生服の群れで車内は込み始め、俺はざわめきの中で考えごとをしながら心地よい振動に身を任せていた。 一度乗り継ぎをしてから、結局特急料金を払わずに目的地にたどり着いた。 前原駅だ。 本当に田舎じみた周辺の駅よりは多少ましだが、それでも小さな駅だという印象は否めない。 伸びをしてから、一緒に降りた数人の客と改札へ向かう陸橋の階段を上る。日が落ちかけて、駅の構内は薄暗くなってきている。 改札の前に立ち、両手の人差し指と親指とでフレームを作って移動することしばし。見覚えのあるアングルを発見する。 ここだ。あのビデオはここから撮影していたのだ。そう思うと、何故だか分からないけれど身震いするものがある。 ホーム側にちょっと奥まったところだ。この角度では線路は見えない。 画面の端に映っていた「高遠駅」の矢印も確認する。あの特急列車が向かった駅だ。そういえば、サトウイチロウにまつわるこの前原駅の事件の一つ前は高遠駅で発生している。特急列車の通過する駅の順番と、事件はなにか関係があるのだろうか。 頭の中でうろ覚えの地図を再生するが、事件の発生順と駅の並びには法則性はないようだ。バラバラに起きている。 バラバラ…… その単語を思い浮かべた瞬間、視界の隅、向かいのホームに灰色のコートが見えた気がして思わずハッとする。 気のせいだったようだ。そんなものはどこにもない。そもそも、今は夏なのだ。全身を覆うようなコートなど、まともな人間が着ているはずはない。 複雑な気持ちでベンチに腰掛ける。俺はなにか起こって欲しいのだろうか。だいたい、ここにはなにをしに来たのか。 うつむき加減の目の前を、様々な形の靴が通り過ぎる。家に帰るのだろうか。誰も彼も足早に見える。 ふと、以前師匠とやったゲームを思い出す。雑踏の中で、無数の通行人の足だけを見る役と、顔だけを見る役を決めて、それぞれ別々に通った人を数えるのだ。 通路のようなある程度狭い場所でやっても不思議なことに計数した数字が異なることがある。単なる数え間違いのはずなのに、なんだか薄気味の悪い思いをしたものだ。 それから俺はベンチから腰を上げて駅の中を歩き回り、勇気を出して駅員にサトウイチロウの噂のことを聞いたりした。 けれどその配属されて一年目だという若い駅員は、その噂を知らなかった。それどころか五年前の事故のことも知らなかった。今いる先輩もここ三、四年でやってきた人ばかりだという。 当時の駅員が今どこにいるか知りませんか、と聞いてみたが「さあ」とめんどくさそうな答えが返ってくるだけだった。 その事故の時、死体を片付けた人の話を聞けばなにか分かるかも知れないと思ったのだが、簡単にはいかないようだ。 (サトウイチロウを片付けたら呪われる) 吉田さんはその死体処理をした数日後に、自家用車の事故で指を三本失う大怪我を負った。だが、「自分はまだいい」と語る。なぜなら、一緒に肉片を集めた先輩の駅員は、その一ヵ月後に自宅の鴨居で首を吊って自殺したのだという。 全然そんなそぶりも見せなかったのにと、関係者はみんな首を捻ったけれど、吉田さんだけは思わず念仏を唱えた。 無関係なはずはない。 そう思ったのだという。 「片付けたら、呪われる」 ホームの隅のベンチに腰掛け、サイダーの蓋を開けながら口にしてみる。頭の隅にある引っ掛かりの一つが、そこだった。 片付けたら呪われる。あのビデオが寺に持ち込まれた理由がそこにあるのか。 いや、違う。 何故なら、ビデオを撮影していた二人は死体に触れられなかったはずなのだ。カメラを持って線路に近づこうとした時点で駅員に制止されている。そこから制止を振り切って線路に降り、死体を片付けるなんてことが出来たとは思えないし、そんなことをする理由もない。 では、なぜビデオは寺に持ち込まれることになったのか。 考える。 死体を片付けていないのに呪いを受けたというのか。なぜ。 ビデオに撮影したからか。それだけのことで? いや、待て。何か忘れている。 ビデオでは、コートの人物が線路に落ちるまで誰もそちらを見ていない。まるでそこにいても目に入らないかのように。そして、特急列車が通り過ぎて轢死体が現れて初めて、騒ぎになったのだ。 そうだ。吉田さんも言った。誰も死ぬ瞬間を見ていないと。あれは、最初から最後まで死者だと。 だから俺も思ったのだ。誰も見ていないはずの死者が、立って動いている姿を自分たちは見た。それは、とても恐ろしいことではないかと。 同じなのかも知れない。 ビデオを撮影した二人も、その瞬間には気づいていない。けれど後で気づいただろう。家に帰り、テープを再生した時に。灰色のコートの人物が、ホームの端からふらりと線路に落ちる瞬間を。 ただそれだけのことで。見たという、ただそれだけのことで、彼らの身に何かあったのだとすると。 本人ではなく、身内だとすると年齢からして母親と思われる女性が、寺に供養を頼みに来たのだとすると。まるで忌まわしい遺品を処理するようではないか。 見たという、ただ、それだけのことで。 そんなことを考えていると、ベンチに触れている腰のあたりにじっとりと汗をかいてきた。 俺も見た。 風が止んでいる。 どこからかひぐらしの鳴く声が聞こえる。すっかり暗くなり、人影もまばらな駅の構内に、その声だけが通り抜けていった。 それから俺は、やけに疲れた足を引きずるように帰りの電車に乗った。現地に来たものの、ほとんど収穫と言えるものはなかった。 動き出した電車の、ガタガタと揺れる窓を見ながら頬杖をついて物思いに沈む。何時に着くだろう。遅くなりそうだ。明日が土曜日でよかった。もっとも、平日でも関係なしにバイトや遊びにうつつを抜かす学生なのであったが。 よほど疲れていたのか気がつくとウトウトしていた。車内は閑散として客の姿もほとんど見えない。頭を振る。胸騒ぎのようなものを感じた。 そして、今どの辺だろうかと窓の外に目をやった瞬間だ。 頭の中をゆるやかな衝撃が走り抜けた。その影響はじわじわと心臓付近へ降りてくる。ドクドクと脈打ち始める。 夜景だ。どこかで見たことのある、暗闇の中、視界の左右に伸びる光の粒。 窓の外に流れるその光景に目を奪われていた。あれは北村さんと話した日。寝る前に電気を消した時に見た幻。瞼の裏に映った、そこに見えるはずのない夜景。 全く同じ構図だ。いや、あやふやな記憶が今この瞬間に修正されていくのか? 分からない。立ち上がりそうになる。 デジャヴなのだろうか。違う。北村さんと話した日、バイトがあったからあれは水曜日。その時、夜景を見たのは確かだ。記憶の混濁ではない。なんなんだ。 俺は混乱していた。 水曜日ということは、一昨日だ。今見ている光景を、二日前にまるで予知したかのように見ていたというのか。 あの夜、俺の瞼の裏には、まるで混線したように二日後の俺の視界が映し出されていた? 混乱する頭を抱えたまま電車は進む。やがて夜景も見えなくなった。名前も知らない街の光が。 漠然とした不安を抱えたまま、ホームタウンの駅に着いた時には十時近くになっていた。 駅ビルから出ると、駐輪場から自転車を出して来て、のろのろとまたがる。 足に力を入れると夜の街の景色がゆっくりと流れていく。まだ電車に揺られているような、ふわふわした感じ。 自転車に乗ったまま半分夢うつつだった気分が吹き飛んだのは、深夜まで営業しているスーパーの前を通り過ぎてしばらくしてからだ。 まばたきに合わせるように、目の前に光の軌跡が現れた。暗い歩道を自転車で進んでいる時だ。なにもないはずの目の前の空間に、さっき通ったばかりのスーパーのケバケバしい明かりが、その光の跡が浮かんでいるのだ。 まただ。瞼の裏に浮かぶ光の幻。今度はたった数分前に通ったスーパーが。なんだこれは。そんなに疲れているのか。 困惑しながら自転車をこいでいると、また別の光が見えた。闇の中にぼんやりと浮かぶ四角い光。 薬局だ。スーパーから少し先に行った所にある薬局の看板。もちろん、とっくに通り過ぎている。 頭がくらくらする。 なんだこれは。次から次へ。まるで追いかけられているような気持ちなってくる。 追いかけられて? その言葉がザクリと身体のどこかに刺さった。 誰から? 俺を、追いかける理由のあるものから。 脳みそが、勝手にその姿を想像しようとしている。灰色のコート。帽子。マスク。手袋。 俺はさっき電車の中で夜景を見た時、「混線」という言葉を思い浮かべた。現在の視界が、過去の視界と混線したのだと。だが、その「混線」は、過去の自分のものとは限らないのではないか。 いつか聞いた師匠の言葉が脳裏をよぎる。 (闇を覗く者は、等しく闇に覗かれることを畏れなくてはならない) 昭和期から繰り返される、幾度も蘇る轢死者の潰れた眼球が、虚ろな闇の中からこちらを見ているイメージ。 最初は夜のビルだった。ビデオを見た次の日、あれは火曜日のはず。そのビルに見覚えは無い。次に見たのは水曜日の夜、夜景だ。それは、前原駅からこちらへ向かう途中に存在していた。 その次は木曜日の昼間見た軽四自動車。自動車が走るのは道路だ。鉄道ではない。 移動している。 もしあの幻視が、別の誰かの視界との混線だとするなら、その誰かは明らかに移動している。水曜日、電車に乗って夜景を見ながら移動していたそれは、どこで電車を降りた? そしてどこの街を彷徨っている? ドキドキと心臓が鳴る。身体に悪そうな音だ。 思わず自転車に乗ったまま振り返る。追いかけて来るものの影はなにも見えない。 自然とペダルをこぐ足に力が入る。 ハッハッ、と自分の息遣いが他人のもののように聞こえる。 木曜の夜はなにも見なかった。金曜、つまり今日の昼間も。けれど、ついさっき俺は見てしまった。自分が通りすぎたばかりのスーパーの光を。薬局の看板を。 それが、誰かの視界だとするならば…… (ついて来ている) そう考えてしまった俺は、叫びそうになりながら全力疾走した。 こんな訳の分からないことが起こり始めたのは、明らかにあのビデオを見てからだ。見てはいけないものが映ってしまったあのビデオを。 アパートが見えてきてもスピードを緩めない。ガシャーン、と駐輪場に自転車を突っ込んで、階段を駆け上がる。自分の部屋の前に立ち、ポケットの鍵をもどかしく取り出すとすぐに中へ飛び込んだ。 内側からドアに鍵を掛け、ずるずるとその場に座り込む。 まばたきをするのが怖い。なにか、そこにあるはずのないものを、その光の跡を見てしまうのが、どうしようもなく怖い。 深呼吸を何度か繰り返す。 今日までにあったことがフラッシュバックする。 深呼吸する。 もたもたと這うように流しに向かい、蛇口から流れる水に口をつけて飲む。 腹の中から疲れが押し寄せてくる感じ。 部屋の中に入り、明かりをつける。 何も変わったことはない。 散らかった室内。読みかけの漫画と、小説の束。ゲーム機。脱ぎ散らかした靴下。食べたままのカップ麺。テーブルに重ねられたレンタルビデオ。微かに膨らんだ、レンタルビデオ店のビニール製の袋。 目が留まった。 テーブルの上に乗せられた、レンタルビデオ店の名前が印字されているその青い袋。その膨らみから、ビデオテープが一本だけ入っているのが分かる。 おかしい。火曜日に二本みた。くだらないSFとくだらないホラー。そして水曜日には三本みた。アクションものばかり。 五本千円で一週間借りているビデオ。 では、あの袋に残っているのはなんだ? 息が荒くなる。視界が歪む。 手が伸びる。自分の手ではないみたいだ。 知りたくない。知りたくない。 そんな言葉が頭の内側で鳴る。けれど手が止まらない。どぶん、と粘度の高い流体に手を突っ込むようだ。指先まで意思が伝わるまで時間がかかるような。 生理的な嫌悪感がぞわぞわと皮膚の表面を這い回る。 袋のざらついた感触。指先がその中へ入っていく。プラスティックの角に触れる。掴み、ズルズルと取り出す。 その表面に書かれた文字を見た瞬間、停滞していたような時間が弾けとんだ。 思わず吹き出してしまう。ここでは言えないようなタイトルだ。借りたことをすっかり忘れていた。いつもは旧作ばかり五本借りるのだが、衝動的にそういうビデオを新作料金で別に借りていたのだった。 今までの恐怖心もすべて消え去って、バカ笑いしてしまった。自分の間抜けさにだ。 だから、チャイムが鳴った時もまるでいつもの感じで気安く「はい」と返事をしながらドアに向かったのだ。笑いを引きずったままで。 けれど台所の前を通りドアの前に立とうとした瞬間に、その奇妙なものが目の前に見えて足が止まった。 まばたきの間に自分の姿が見えた。ドアの前にドッペルゲンガーが立っていた訳ではない。 そのもう一人の自分の姿の背景には、台所とその向こうの部屋とがある。 視点が反転している。大きな鏡の前に立ったような。けれどその鏡は丸く歪んでいる。自分の姿も、台所も、端の方は歪んで潰れたようになっている。 丸い視界。今度は光の跡ではなく、視界そのものだ。 目を開けると、その反転した視界は消える。そして目の前のドアに釘付けになる。正確には、そこに開いた小さな覗き穴、ドアスコープに。 何かが動いた気配。 一瞬、スコープの周囲の金具がキラリと光る。外の通路の蛍光灯に反射したのか。 そしてすぐに穴は暗くなる。 誰かいる。 あの丸い穴からこちらを見ている。 まばたきをする。 また、自分が見える。 混線した視界が、あちらの見ているものを俺に見せたように、俺の見ているものをあちらにも見せていたのだろうか。 そして辿られた? セミが鳴いている。甲高く。耳のすぐそばで。足に鉛が入ったように動かない。 ドアの向こうの気配が強くなる。 ドンドン、とノックが二度。 けれどそれは、、変に潰れたような音だった。ドンドン、というよりもベタ、ベタ、とでもいうように。 顔が引きつる。上唇が痙攣する。想像してしまう。 コートの下は、はじめから、バラバラなのかも知れない。 肉片から、肉片へ。死体から、死体へ。 最初から、最後まで、死者のままで。 動けない。金縛りにでもかかったかのように。逃げなくてはならないと、頭のどこかでは分かっているのに。 鈍い音がして、ドアの足元に目が行く。軽い振動。ドアの下のわずかな隙間から、ゴツゴツと、なにかを押し込もうとしているような音。 指を、想像する。 そしてやがてそれが肉がひしゃげるような音に変わる。 メチメチメチという生理的な嫌悪感を煽り立てる音に。 やがてドアの下の隙間から何か赤黒いものが見えてくる。爪も皮も剥げた、十本の薄く延ばされた棒のようなものが。 ドアスコープは暗いままだ。 誰かの目がそこにあるままで、ドアの下からは手の残骸のようなものが捻じ込まれようとしていた。 同時にカタリ、とドアの真ん中に取り付けられている郵便受けが動いた。 セミが鳴いている。 頭の中に、記憶が蘇る。いつかの降霊実験の記憶が。俺は見たぞ。これを。 この後、郵便受けが開いて、その隙間からなにかがでてこようと…… それからどうなった? 早く思い出さないといけない。隙間からでてくるまえに。脳がうまく働かない。 そうだ。誰かが助けてくれた。あれは誰だ? セミが鳴いている。 思い出した。 その人はもういない。 俺は助からない。 そう思うと力が抜けた。魂が抜け出るように膝から崩れ落ちた。 それでも身体を反転させて、這った。這おうとした。夢の中にいるように、全く進まない。後ろから肉の音がする。 少しでも遠ざかろうと、それでも這った。台所を抜けた。開いた室内ドアの段差を越えて、部屋の中まで逃げ込んだ。 後ろは振り返れない。 時間の流れが分からない。十分以上経った気もするし、一時間以上経ったような気もする。冷たい汗が顔を覆って、床にしたたり落ちる。 そしてある瞬間に、蝋燭の火が消えた。 現実に存在しているわけではない、どこかよく分からない場所にある蝋燭が消えた。 とたんに身体が動き、俺は窓ガラスにかきついた。もたつきながらカギを開け、ベランダに出る。 そして手すりを乗り越え、雨どいにしがみ付いて下に降りた。嫌な汗をかいた身体に風が冷たい。腕を擦りむいたが、気にしていられない。 一階の各部屋のカーテン越しに漏れる明かりをたよりにアパートの外側を駆け、駐輪場までたどり着く。 なにもいない。 倒れている自分の自転車を引き起こすと、すぐさま乗って後も見ずに走り出す。 無我夢中でペダルをこぎながらどこに向かうべきか考える。 一つしかなかった。 やがて師匠の家に着く。 ドアをノックする。開いているよ。知ってます。 散らかったアパートの部屋に転がり込む。 息を整えると、ようやく少し落ち着いてくる。 「おい、やっちまったよ」 師匠が落胆した表情で、狼狽する俺にもたれかかるような視線を向けてくる。その指の先にはビデオデッキがある。 「今日の金曜ロードショー、アレだったからさ。ビデオに採ろうと思って。それで、やっちまった」 俺はついさっきまでの恐怖心を消化するためのブツケ先も分からないままに、「なにをです」と聞いてしまった。 「だから、ビデオに採ろうと思って、ダビングを」 「はあ?」 声が上ずった。 「例の、五万円に」 唖然とした。 いや、今日あるって知らなくてさ、慌ててCM中にソッコーでその辺のビデオつっこんで録画したんだけど。……やっちまったよ。 そんなことを言いながら力なく笑う師匠を前に、俺は恐怖心も吹っ飛んでいた。 時計を見ると十一時を大きく過ぎている。 師匠がデッキに手を伸ばし、少し巻き戻したあと再生ボタンを押すと銭形警部が「ルパンめ、まんまと盗みおって」という、聞いているこっちが恥ずかしくなるような前フリをクラリス姫にパスするところだった。 そのままエンディングを迎え、ノスタルジーを感じさせる曲が流れて幕が下りる。そして砂嵐。 その砂嵐もすぐにガツンという音とともに終わった。 「三倍モードにするのも忘れてたんだ」 泣きそうな声色をしながら、師匠は「五万が……」と呟いた。 俺は蝋燭が消えたように感じたあの瞬間の正体が分かり、力が抜けた。今度は心地よい脱力だった。 こんなことで良かったんだ。 次から次へと笑いがこみ上げてきた。俺は手がかりを求めて現地の駅まで行ったというのに。 師匠が恨みがましい目でこっちを見ている。 間抜けにもほどがある。 「あまりにも散らかしてるからですよ」と偉そうに注意する。「しかも今さらカリ城ですか。散々見てるでしょう。セリフを覚えてるくらい」 言いながらハッとする。 そうだ。 師匠は何故か『カリオストロの城』が好きで、場面場面の細部まで覚えていた。自力で、冒頭の札びらシャワーの車の後部座席に五右衛門が乗っていることに気づいたというくらいなのだからかなり凄い。 その師匠が、今さらダビングを? 俺はもう一度師匠の顔を伺った。冷静に観察すると、落ち込んでいるというより憔悴し切っているように見える。 力なく笑うその顔が、やけに遠く感じたられた。 それから、俺の部屋で起こった出来事を説明すると師匠は興奮して車に飛び乗った。 俺も無理やり連れられてアパートに戻ると、ドアの外も部屋の中もまるで何ごともなかったような様子だった。 這いつくばってドアの下を見るが、何かが擦れたような跡すら残っていなかった。 「触媒だったというわけだ」 ビデオが。 そう言って師匠は腕組みをした。幻覚だ、とあっさり片付けられなかったことが妙に嬉しかった。 結局ビデオにまつわる事件はそれで終わりだった。なんだかあっけない気もしたが、駅に勤める多くの人の口をつぐませながら何十年も続いている奇怪な出来事がその全貌を現すなんてことは、そうそうあってはならないものなのだろう。 なにより、俺はもうこれ以上首を突っ込みたくなかった。何故なら、ビデオに残された情報が消えてしまうことで、沿線から遠く離れたこの街にあの恐ろしいものが影響力を及ぼす理由が無くなったというだけのことであり、現実にはなにも解決していないのだから。 それはこれからも起こるのだろう。 俺の知らない街の、知らない駅で、明日にも…… 次のバイトの日、北村さんに「サトウイチロウどうだった」と聞かれたが、生返事をしただけではぐらかした。 「吉田さんは元気でしたけど、暇そうにしてましたよ」と言うと、「そうかぁ。ボクも今度会いに行こうかな」なんて、懐かしそうに眼鏡をずり上げていた。 その数日後に会った時、師匠はこう言った。 「仮定の話だ。真相は分かりっこないからね。そう思って聞いてくれ。……サトウイチロウが出没したのは特急列車が通過した時ばかりだったな」 特急列車に飛び込み自殺があると、清掃や車体の破損チェックのあと運行再開までの時間が長くなった時には影響を受けた乗客に対し特急料金の払い戻しをするケースもあるそうだ。 その払い戻しの額次第では、残された遺族に対して損害賠償請求が行われても、とても払えないような莫大な数字が上がってくることがあるのだとか。確かにそんなことを聞いたことがある気がする。 実際に、そういう払える見込みのない訴えがあるのかどうかはともかくとして、そんな可能性があると、一般人に思われていることが重要なのだ。 その通念は、官報に載った行旅死亡人の引き受け人探しにも暗い影を落とす。 たとえ本人に身寄りがあり、遺族がその情報に気づいたとしても、そうした通念が、イメージがある限り、おいそれとは手を上げられなくなってしまう。 そして引き取り手も現れないまま、ひっそりと忘れ去られるように消えて行く死者たち。 そんな忘れ去られて行く者の残した思いが、まるで再現するように奇怪な事故を繰り返すのではないか。 「今度こそ、家族が名乗り出てくれる。そう思ってね」 師匠のその言葉に、俺はしかし釈然としなかった。 「だったらなんで、呪いなんて掛けるんです」 「知らない」 あっさりとさじを投げた師匠に拍子抜けして、溜息をつく。 「死んでみなければ分からないことがあるってことだ」 まあ、良かったじゃないか。同じように『見てしまった』ビデオの中の彼らは、想像するだに恐ろしい運命を辿ったかも知れないのに、僕らは無事だったんだから。 「これも日ごろの行いの賜物だ」師匠は冗談めかして言う。「もっとも、死体に触れていたらこんなものでは済まなかっただろうけど」 日ごろの行いがどう転んだのだか知らないが、そう言えば、呪いの矛先は俺にばかり向いていた。一緒にビデオを見たはずの師匠に何ごとも起こらなかったのは何故なのか。 それからビデオについて警告してきたということは同じく中身を見ていたはずの黒谷という師匠の知り合いも、まるで平然としていた。納得がいかない。 ぶつぶつと言うと師匠は鼻で笑い、「僕と、あのオッサンは手ごわいからな」と言い放った。 「どっちが、より手ごわいんですか」と聞いてやると、平然と自分を指差している。 しかし少なくとも、スタンスの違いはあるらしい。 後日師匠の部屋でごろごろしている時にそれに気づいた。 師匠が近くのコンビニへ買出しに行っている間、何気なく棚の上を眺めていると一枚の便箋を見つけたのだ。 それはボールペンで書かれていて、中には何度か訂正した跡があり、清書前の下書きのようだった。 あのビデオを、片方は供養もせずに売り飛ばした。そしてもう片方はいろいろやってみるだけの好奇心というのか、興味というのか、そういうものがあるようだった。 便箋はこういう書き出しで始まる。 前略(という文字を消した跡がある) 突然のお手紙、申し訳ありません。私は五年前にそちらで弔っていただいた行旅死亡人の家族です。こちらの名前と居所はどうかご容赦ください。 私はつい先日その事実を知り、電車を乗り継いですぐにもそちらへ伺おうと考えました。 ですが、五年も経っていること、そして荼毘に付していただき、今は安らかに眠っているだろうことを思うと、その故人を起こしてまでこちらで引き取るということが、良いことなのか分からなくなりました。 悩んだ末に、筆だけを取らせていただきます。 身勝手なお願いで心苦しいばかりですが、故人をどうかそのまま眠らせてあげてください。遺品も、出来れば遺骨と一緒に弔っていただければ幸いです。 私は会いには行くことは出来ませんが、遠くから心よりの冥福を祈っております。 本来ならば拝眉のうえご挨拶を申し上げるところ、略儀ながら書中をもってお礼とお詫びを申し上げます。 草々(消した跡) 某年某月某日 なにか消した跡 前原町長様 [*←][→#] |