怪物‐起承転「結」上‐ その日の放課後、私は3年生の教室へ向かった。 ポルターガイスト現象の本を貸してくれた先輩に会うためだ。廊下で名前を出して聞いてみるとすぐに教室は分かった。 先輩は私の顔を見るなりオッ、という顔をして手招きをしたが、席まで行くとすぐに両手を顔の前で合わせて謝る。 「ゴメン。今日はこれから部活なんだ」剣道は止めたんじゃなかったんですか、と聞くと「文科け〜い」と言ってトランペットを吹く真似をする。吹奏楽部かなにからしい。 「一つだけ教えてください」 そう言う私に、「ま、座りなさい」と近くの席から椅子を引っ張ってくる。その周りでは帰り支度をする生徒たちが私を物珍しそうに横目で見ている。 多少は時間をとってくれるようなので、順序立てて聞くことにする。 「先輩の家で起こったポルターガイスト現象は、イタズラでしたか?」 先輩は目を丸くしてから笑う。 「いきなりだな。でも違うよ。私だって驚いてた。ホントに目の前で花が宙に浮かんだりしたんだ」 「じゃあ原因はなんですか?」 「……あの本もう読んだんだ? 私に聞くってことは」 頷く。 「まあ、知ってると思うけど、あたしの家って両親が仲良くないワケよ。今も別居してるし。そんで小学4年生のころって、一番バチバチやりあってた時期なのよ。 家の中でも顔あわせれば喧嘩ばっかり。子どもの目の前で酷い口論してたんだから。まるであたしがそこに居ないみたいに」 私のイメージの中で、シルエットの男と女がいがみ合っている。そしてその傍らには10歳くらいの少女が怯えた表情で身体を縮ませている。 「超能力だか心霊現象だか知らないけど、たぶん原因はあたしなんだろうと思う。今となっては、だけど」 「じゃあ。どうやってそれが収まったんですか」 「昨日言わなかったっけ? 祈祷師が来たの。家に。そんで、ウンジャラナンジャラ、エイヤーってやったわけよ。そしたら変なことはほとんどなくなったな」 「祈祷師がポルターガイストを鎮めたんですか」 「……なんかいじわるになったね、あなた。分かってるクセに。たぶん、満足したんだと思うよ。あたしが。『親がここまでやってくれた』って。今でも覚えてるもん。両親が二人とも、祈祷師の後ろで必死になって手を合わせて拝んでんの。 それで、お祈りが終わった後にあたしの頭を抱いて『これで大丈夫だ』って二人して言うの。それであたしもなんだかホッとして、ああこれで大丈夫なんだ、って思った。最初は二人ともラップ音とか、お皿が割れたりしたこととか、なんで もないことみたいに無視してたのよ。気味が悪いもんだから、気のせいだ、見てない、聞いてないってね。それをきっとそのころのあたしは、自分を無視されたみたいに感じてたのね。だから余計に酷くなっていったんだと思う」 結局、思春期の子どもが起こすイタズラと同じなのだ、と私は思った。 自分を見て欲しくて、構って欲しくて、とんでもないことをしでかすのだ。それで怒られることが分かっていながら、しないではいられない。それはアイデンティティの芽生えと深く関係している部分だからなのだろう。自分が自分であるために、身近な他者の視線が必要なのだ。 「どうしてこんなことが気になるの」 先輩の目が私の目に向いている。 先輩もこの街を騒がせている怪現象の噂くらい聞いているだろう。それが、たった一人の人間が焦点となっているポルターガイスト現象なのだと聞かされたら、笑うだろうか。 私はそれに答えないまま、別のことを言った。 「先輩が見たっていう怖い夢は、もしかしてお母さんを殺す夢ですか」 空気が変わった。おっとりとして優しげだった目元が険しくなる。 「どうして知ってるの」 その迫力に呑まれそうになりながら、私は言葉を繋ぐ。 「先輩が言っていた、『ありえない夢』って、別居していていないはずのお母さんを、家の玄関で刺し殺す夢だったんでしょう」 ガタン、と椅子が鳴って先輩が立ち上がる。 「あなた、占いが好きとか言ってたわね。そんなこと、勝手に占ったの?」 しまった。怒らせた。 ポルターガイスト現象の焦点となったことのある人間に、あの夢はどう映ったのか。 それを聞いてみたかっただけなのだ。そこになにかヒントが隠されていると思って。 けれど先輩は私の言葉を完全に誤解し、修正が効きそうにない雰囲気だ。 いや、誤解ではないのだろう。他人に触れられたくない部分を土足で踏みにじったのは事実なのだから。 「ごめんなさい」 私は深々と頭を下げる。 「もういいでしょう。部活、行くから」 先輩のその言葉に私は引き下がらざるを得なかった。 知らない人ばかりの3年生の教室の廊下を俯いて帰る。足が重い。(今度、ちゃんと謝らなきゃ)と思う。そういえば占いなんて暫くしていないことに気がつく。 間崎京子はどうやって真相に近づいたのだろう。またタロット占いでもしたのだろうか?それとも私のように目と耳を使って情報を集め、推理を重ねていったのか。 5時間目の休み時間に教室を覗いてみたが、あいつは席にいなかった。朝、廊下ですれ違ったので多分また早退だろう。 そういえばすれ違い様に「母親を殺す夢を見たか」と問い掛けたとき、あいつは「見てない」と言った。遅刻しそうだったので、去っていく後姿を引き止めはしなかったが、あれは本当だったのだろうか。確かにあいつの家は地図上のオレンジの円の端の方にあり、まだ見た夢を思い出せない人たちを表す緑色の点が存在するエリアの中なのではあったが、この不思議な現象が単に距離によるアンテナの精度だけに依存している訳ではないのは明らかだ。 1年生のフロアに戻った私は、まだ帰宅せず残っている他のクラスの生徒たちから出来るだけの情報を得る。そして地図を蛍光ペンで埋めていった。 やはりだ。赤、青、緑という夢に関する3つの色はバームクーヘンのようにはっきりエリアで別れているけれど、中にはオレンジの円の外周にあたる緑のエリアの中にぽつりと青い点があったり、青のエリアに赤い点があったりしている。そういう子に追加取材を試みるといずれも霊的な体験をよくするという言質が取れた。 この私自身、木曜日に初めて見た夢を覚えていたのに、住んでいる家は金曜日を表す青い点のある半径エリアにあるのだ。おそらく、直観だか、霊感だかのイレギュラー的な個人の能力もここには影響している。 それを踏まえて、考える。あの間崎京子がまだ夢を思い出せない緑の点のひとつなどで収まっているものだろうか。 分からない。あの女独特の、"得体の知れない感じ"のバックボーンがなんなのか、私にはまだ分からないのだから。 廊下や教室に人影もまばらになったころ、私はようやく蛍光ペンを置いた。 結局、高野志穂の他に、木曜日以前から夢を覚えていた人はいなかった。高野志穂の家の近所に住んでいる子は居たが、その子は怖い夢を見ていることさえ気づいていなかった。 まあ、いい。出来る限りの精度は上げた。 地図に落とされたボールペンの丸をもう一度見つめる。 急ごう。 地図を鞄に仕舞い、私は校舎を後にする。 早足で歩き、一度家に帰って自転車を手に入れる。サドルに跨りながら空を見上げるとまだ陽は落ちていなかった。さあ、行こう。そう呟いてペダルを漕ぎ出す。 途中、思いついて公衆電話に寄ろうとした。 しかしちょうど通り道にあった公衆電話は例の「お化けの電話」だ。なんとなく嫌だったので、少し遠回りして別の公衆電話へ向かう。 ほどなくして電話ボックスにたどり着き、自転車を脇に止めて、中に入って受話器を上げる。 テレホンカードを入れて、覚えている番号をプッシュする。 コール音が数回鳴ってから相手が出た。いないだろうと思って、留守番電話に入れるつもりだったのに。 仕方がないので、忙しいから今日は会えないということを伝える。 案の定、ケンカになった。毎週金曜日に会う約束をしていたのに、これで2週連続私からドタキャンしてしまった。だからと言って別に浮気をしているワケではない。 止むに止まれぬ事情があるのだから。逆に私へのあてつけのように、今夜は女を買うなどと口にしたことの方がよほど許せない。 「死ね」と言って電話を切った。 電話ボックスを出たときは頭に血が上り冷静さを欠いていたが、しばらく自転車を漕いでいると次第に我に返ってくる。 いけない。方向が違う。 自転車のカゴから地図を取り出して確認する。この辺りはまだ青のエリアだ。ハンドルを切って方向を修正した。 立ち漕ぎで先を急ぐ。 景色がヒュンヒュンと過ぎ去っていく。 その中へ溶けていくように、涙がひと筋だけ流れて消えていった。 ホントに、私はなにをやっているのだろう。 駄目だ。このところ、心と身体のバランスを崩している。ちょっとしたことで落ち込んだり、悩んだり。今もこんな訳の分からないことでいつの間にか必死になっている。いったい私はどうしてしまったのか。 『あなた、ちょっと変わったね』と昨日の夜先輩は言った。高校に入ってから私は変わり始めてしまったらしい。何故なのだろう。 剣道部を続けていた方が良かったかも知れない。 そう思いながら自転車を漕ぎ続ける。 気がつくと私は赤のエリアに入っていた。そしてその最深部までは目と鼻の先だった。 ただのありふれた住宅街だ。今はなんの不吉な印象も受けない。なのに緊張してしまうのは頭で考えてしまうからなのだろう。 三差路の角を曲がったとき、私は心臓が止まるほど驚いた。 コンクリート塀に電信柱が無造作に立てかけられている。元あったと思しき場所には穴が開いていて、そこからまるで力任せに引き抜かれたかのような痕跡が地面のひび割れとなって現れていた。電線の角度が変わって片方はピンと張り、もう片方はたわんでブラブラと揺れている。 まるで子どもがおもちゃの箱庭で遊んでいるような現実離れした光景だった。 目に見えない巨大な手が空から降ってくるような錯覚を覚えて私は思わず身体を仰け反らせる。 聞き集めた怪現象の中にこんなものがあったはずだ。でもこれは多分別件だろう。 全く誰もこの異変に気づいた様子はない。誰かにここでこうしているのを見られたらと思うと煩わしくなり、すぐに自転車を発進させた。 高野志穂の家はそこから5分と掛からなかった。 わりと新しい住宅が並んでいる一角の、青い屋根が印象的なこじんまりとした家だった。 家の前に自転車をとめて私は腕時計を見る。 彼女はバレー部の練習に行くと言っていたので、まだ部活から帰っていない時間のはずだ。 深呼吸をしてから呼び鈴を押す。 インターフォンから「はあい」という声がして、暫し待つと玄関のドアが開いた。 高野志穂に良く似た小柄な女性が顔を覗かせる。母親らしい。 「あら。どなた」 そう言いながらドアを開け放ち、こちらに歩み寄ってくる。 内側にチェーンは…………ない。 目線の動きを悟られないように素早く確認した後、私は出来る限りのよそいきの声を出した。 「志穂さんはいらっしゃいますか」 「あら、お友だち? 珍しいわねぇ。でもゴメンなさい。まだ帰ってないのよ。 ……どうしましょう。ウチに上がって待ってくださる? 散らかってるけど」 「いえ、いいんです。ちょっと近く来たので寄っただけですから。また来ます」 そう言って私は頭を下げ、申し訳なさそうな母親にヘタクソな笑顔を向けて自転車に跨った。 「さようなら」 家を辞する挨拶として、適当だったのか分からない。ああいうときはなんと言うのだろう。お休みなさい、かな。でも少し時間帯が早いか。 そんなことを考えながら角を曲がるまで背中に高野志穂の母親の視線を感じていた。 あの家は、違う。 チェーンのこともそうだが、エキドナの気配はない。根拠のない自信だが、エキドナの母親であればたぶん一度顔を見れば分かるはずだ。 さあこれからどうしよう。 地図をもう一度取り出して眺めると、ボールペンで丸をつけた部分は一見小さく見えるが、現実にその場に立ってみるとかなり広いことに気づく。 住宅街であり、そこに建っている家だけでも二桁ではきかない。もう少し範囲を絞れないだろうかと考えて頭をフル回転させるが、いかんせんあまり性能が良くない。 やむを得ず、カンでぶつかってみることにした。 それっぽい家(なにがそれっぽいのか基準が自分でも良く分からないが)の呼び鈴を鳴らして回った。 表札に出ている子どもの名前を使おうかと考えたが、本人が居た場合話がややこしくなると考え、「志穂さんはいますか?」と言って訪ねてみた。 するとたいていの家では母親が出て来て「志穂さんって、ひょっとして高野さんの所のお嬢さんじゃないかしら」と言いながら、高野家の場所を口頭で教えてくれる。 そして私は「家を間違えてしまって済みません」と言いながら立ち去る。 なんの問題もない。 スムーズ過ぎて、なんの引っ掛かりもないことが逆に問題だった。 ドアにチェーンのある家も中にはあったが、エキドナがいるような気配は全く感じなかった。応対してくれる主婦もごくありふれた普通のおばさんばかりだ。 もっと突っ込んで、家の中でポルターガイスト現象が起こっていないかとか、家庭内で子どもとなにか問題が起きていないかなどと聞いた方が良いのだろうか、と考えたがどうしてもそれは出来そうになかった。クラスメートならともかく、初対面の人間にそんな変なことを聞いて回るだけの図太い神経を私は持ち合わせていないのだった。 日が暮れたころ、私は疲れ果ててコンクリート塀に背中をもたれさせていた。 駄目だ。なんの手掛かりも得られなかった。範囲が広すぎてどこまで回っていいのかも分からない。慣れないことをしているせいか、身体が少し熱っぽくなってる気もする。 「もう帰ろ」 そう呟いてヨロヨロと立ち上がる。 自転車のハンドルを握りながら、なにか別のアプローチを考えないといけないと思う。どんな方法があるのか全く名案が浮かばないままで疲れた足を叱咤しながらペダルを漕ぐ。 帰り道、日の落ちた住宅街にパトカーの赤い光が見えた。引き抜かれた電信柱のある辺りだ。 ふと、この数日の間街で起こったおかしな出来事を警察は把握しているのだろうかと考えた。 電信柱や並木が引き抜かれた事件は明らかに器物損壊だろう。当然犯人を捜しているはずだ。 もし私が、自分の知っている情報をすべて警察に伝えたらどうなるだろう。聞き込みのプロである彼らが人海戦術であの円の中心の住宅街を回ったならば、恐らく半日とかからずにエキドナを見つけ出せるはずだ。母親に殺意を抱く少女を。 でも駄目だ。警察はこんなことを信じない。取り合わない。それだけははっきりと分かる。 私だって信じられないのだから。 街中のすべての怪現象が、たった一人の少女によって引き起こされているなんて。 パトカーの赤色灯と野次馬たちのざわめきを尻目に私はその道を避けて少し遠回りしながら帰路に着いた。 家に着くと、母親が「ご飯は?」と聞いてきた。 心身ともに疲れているせいか食欲が湧かず、制服を脱ぎながら「あとで」と返事をする。 なにか小言を言われたが、適当に聞き流した。まともに応対したくない気分だった。 些細な口喧嘩でもそれがエスカレートすることを恐れていたのかも知れない。 自分の部屋を見回しながらクッションに腰を下ろし溜息をつく。 小さなテーブルの上には水曜日に買った『世界の怪奇現象ファイル』が伏せられている。その周囲には昨日先輩に借りたポルターガイスト現象に関連するオカルト雑誌の類が乱雑に転がっている。そしてその横の本棚には中学時代に買い集めた占いに関する本が所狭しと並んでいた。勉強している形跡のない勉強机の上には怪しげな石ころ…… なんて部屋だ。 我ながら顔を手で覆いたくなる。 今時の女子高生の部屋としては「惨状」とも言うべき有様を複雑な気持ちで眺めていると、ふいにテーブルの下に落ちている物に気がついた。 紙袋だ。デパートの包装がしてある。 なんだっけ、と思いながらなんの気なしにそれを手に取り、封をしているシールを剥がす。 中からは鋏が出て来た。 緑色の、ありふれた鋏。 私はそれを見た瞬間、氷で身体を締め付けられるようなジワジワとした不安感に襲われた。 なんだこれは? 鋏だ。ただの鋏。いつ買った? そう、あれは石の雨が降った水曜日。デパートで『世界の怪奇現象ファイル』を手に入れたときに一緒に買った物だ。 待て、おかしいぞ。思い出せ。そもそも私はデパートにその本を買いに行ったのではない。鋏を買いに行ったのだ。石の雨の現場を見た後、その近くの商店街の雑貨店で売り切れていたので、わざわざ足を伸ばして…… ドキンドキンと心臓が脈打つ。 "鋏を買わないといけない気がしていた"そのときは。確かに。 何故? 思い出せない。 その鋏を買って帰った日、私はそんな物を買ったことも忘れてこうして放り出している。 要らない物をどうして買ったんだろう?急に頭の中に夢の記憶がフラッシュバックし始めた。 夢の中で私は足音を聞く。そして玄関に向かい、背伸びをしてドアのチェーンを外す。顔を出した母親の首筋に刃物を走らせる…… 吐き気がして、口元を押さえる。 刃物だ。あの夢の中で自分が持っている刃物はなんだ? もやもやして、握っている感覚が思い出せない。ただキラリと輝いた瞬間だけが脳裏に焼きついている。 あれが、鋏だったんじゃないのか。 最悪の想像が頭の中を駆け巡る。 夢の中で少女になった私は鋏で母親に切りつけた。その"思い出せなかった"記憶が潜在意識の奥底で私の行動を縛り付け、半ば無意識のうちに新しい鋏を購入させたのだろうか。 だとしたら…… 私は立ち上がり、鋏を手に部屋を飛び出して「ちょっと外、行く」と居間の方に一声叫んでから玄関を出た。 自転車に乗って駆け出す。 途中通り過ぎたゴミ捨て場に鋏を投げ捨てる。 「ちくしょう」 自分のバカさ加減に心底腹を立てていた。 外は暗い。何時だ? まだ店は開いている時間か? 気が逸ってペダルを踏み外しそうになる。 人気の少ない近くの商店街にはまだポツリポツリと明かりが灯っていた。 自転車をとめ、子どものころからよく来ていた雑貨屋に飛び込む。 息を切らしてやって来た私に驚いた顔で、店のおばちゃんが近寄って来る。 「なにが要るの?」 その言葉に、息を整えながらようやく私は「はさみ」と言う。 するとおばちゃんは申し訳なさそうな顔になって、「ごめんねぇ。ちょうど売り切れてるのよ」と言った。 想像していたこととは言え、ゾクリと鳥肌が立つ感覚に襲われる。 「誰か、大口で買ってったの?」 「ううん。今週はぽつぽつ売れてて昨日在庫がなくなっちゃったから、注文したと こ。明日には入ると思うけど……」 どんな人が買っていったのかと聞いてみたが、若者もいれば年配の人もいたそうだ。 「どうする? 明日来るなら取っとくけど」と聞くおばちゃんに、「いい。急ぎだから他を探してみる」と言って店を出る。 少し足を伸ばし、私は鋏を置いてそうな店を片っ端から見て回った。店仕舞いをした後の店もあったが、閉じかけたシャッターから強引に潜り込み、「鋏を探してるんですが」と言った。 そのすべての店で同じ答えが返って来た。 『売れ切れ』と。 最後に私は一昨日の水曜日に鋏と本を買ったデパートに向かった。 閉店時間まぎわでまばらになった客の中を走り、まだ開いている雑貨コーナーに飛び込む。 中ほどにあった日用品の棚には異様な光景が広がっていた。 ありとあらゆる日用雑貨が立ち並ぶなか、格子状のラックの一部だけがすっぽりと抜け落ちている。 カッターも、鉛筆も、定規も、消しゴムも、修正液も、ステープルも、コンパスでさえ複数品目が取り揃えられているのに。 鋏だけがなかった。ただのひとつも。 私はその棚の前に立ち尽し、生唾を飲み込んでいた。 鋏が街から消えている! いや、消えているのではない。その懐の奥深くに隠されて、使われるときをじっと待っているのだ。 それは今日かも知れないし、明日かも知れない。 夢を見ている少女が母親を殺すことを決めた日に、私たちはその殺意に囚われて己の母親にその刃を向けることになるのかも知れない。 どうしたらいい? どうすればいいんだ? 自らに繰り返し問い掛けながら私は家に帰った。するべきことが見つからない。けれど今動かなかったら取り返しのつかないことになるかも知れない。どうすればいいのか。するべきことが見つからない。巡る思考を持て余して、どういう道順で帰ったのかも定かではない。 兎にも角にも帰り着き、玄関からコソコソと入ると母親に見つかった。 「どこ行ってたの。もう知らないから、勝手に食べなさい」 台所にはラップで包まれた料理が置かれている。 食欲は無かったが、無理やりにでもお腹に詰め込んだ。体力こそが気力の源だ。あまり良くない頭にも栄養を少しだけでも回さないといけない。 食べ終わってお風呂に入る。 今日は学校が終わってから休む暇がないほど駆け回っていた。それも夏日のうだるような暑さの中を。 それでも湯船に浸かることはせず、ほとんど行水で汗だけを流して早々に上がる。 次に入る妹と脱衣場ですれ違ったとき、「お姉ちゃん、お風呂出るの早っ。乙女じゃな〜い」とからかわれた。一発頭をどついてから自分の部屋に戻る。 ドアを閉め、机の引き出しに入れてあった愛用のタロットカードを取り出す。 それを手にしたままじっと考える。 時計の音がチッチッチッ、と部屋に響く。濡れた髪がピタリと頬にくっつく。 駄目だな。 私ごときの占いが通用する状況ではない。もっと早い段階ならば、この事態に至るまでにするべきことの指針にはなったかも知れないけれど。 今必要なのは、エキドナを、母親に殺意を抱く少女を探し出すための具体的な方法だ。 あるいは、探し出さずともこの事態を解決するだけの"力"だ。 私は机の上に放り投げた鞄から同級生の住所録を取り出す。今日の昼間、カラフルな地図を完成させるのに活躍した資料だ。 パラパラと頁を捲り、間崎京子の連絡先を探し当てる。そこに書いてある電話番号をメモしてから部屋を出て、階段を降りてから1階の廊下に置いてある電話に向かう。 良かった。誰もいない。居間の方からはテレビの音が漏れてきている。 メモに書かれた番号を押して、コール音を数える。 ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ…… 「はい」 ななつめか、やっつめで相手が出た。聞き覚えのある声だ。ホッとする。良かった。 家族が出たらどうしようかと思っていた。それどころか、使用人のような人が電話口に出ることさえ想定して緊張していたのだ。彼女の妙に気どった喋り方などから、前近代的なお屋敷のような家を想像していた。そんな家にはきっと彼女のことを「お嬢様」などと呼ぶ使用人がいるに違いないのだ。 だがひとまずその想像は脇に置くことにする。 「あの、私、ヤマナカだけど。同じ学年の」 少しどもりながら、あまり親しくもないのにいきなり電話してしまったことを詫びる。 電話口の向こうの間崎京子は平然とした声で、気にしなくて良い、電話してくれて嬉しいという旨の言葉を綺麗な発音で告げる。 どう切り出そうか迷っていると、彼女はこう言った。 「エキドナを探したいのね」 ドキッとする。 私のイメージの中で間崎京子は何度もその単語を口にしていたが、現実に耳にするのは初めてだった。ギリシャ神話の怪物たちの名前を挙げて共通点を探せと言った彼女の謎掛けが、本当にこの街に起こりつつある怪現象を理解した上でそれを端的に表現したものだったのだと、私は改めて確信する。 いったいこの女は、なにをどこまで掴んでいるのか。 母親を殺す夢を見ていないというその彼女が何故あんなに早い時点で、街を騒がせている怪現象がたった一人の人間によって起こされているのだと推理出来たのか。 私のようにあちこちを駆けずり回っている様子もないのに、怪現象の正体を恐ろしく強大なポルターガイスト現象だと見抜いた上で、『ファフロツキーズ』という言葉に振り回されるな、などという忠告を私にしている。どうしてこんなにまで事態を把握できているのだろう。 「……そうだ。これからなにが起こるのか、おまえなら知っているだろう。それを止めたい。力を貸してくれ」 「なにが起こるの?」 間崎京子は澄ました声でそう問い掛けてくる。 私は儀式的なものと割り切って、今日一日で私がしたこと、そして知ったことを話して聞かせた。 「そんなことがあったの」 面白そうにそう言った後、彼女の呼吸音が急に乱れる。 受話器から口を離した気配がして、そのすぐ後にコン、コン、と咳き込む微かな音が聞こえた。 「どうした」 私の呼び掛けに、少しして「大丈夫。ちょっとね」という返事が返って来る。 今更ながら彼女が病欠や早退の多い生徒だったことを思い出す。彼女は私よりも背が高いけれど、線が細く、透き通るようなその白い肌も含め、一見して病弱そうなイメージを抱かせるような容姿をしている。 そう言えば今日も早引けをしていたな。 そう思ったとき、つい先ほどの「駆けずり回っている様子もないのに、どうしてこんなに事態の真相を掴んでいるのか」という疑問がもう一度浮き上がってくる。 もし。もし、だ。もし彼女の病欠や体調が悪いからという理由の早退がすべて嘘だとしたならば。 彼女には、十分な時間がある。 水曜日に昼前からエスケープした以外は、真面目に授業に出ていた私(授業を受ける態度はともかくとして)以上に、彼女にはこの街で起こりつつあることを調べる時間があったのかも知れないのだ。 もしそうだとしたならば、今の、まるで同情を誘うような咳は逆に私の中に猜疑心を芽生えさせただけだ。 だが分からない。すべては憶測だ。けれど少なくとも、この女に気を許してはいけない、ということだけはもう一度肝に銘じることが出来た。 「エキドナを探したい。知っていることをすべて話してくれ」 単刀直入に懇願した。だがこれも駆け引きの一部だ。彼女の一見意味不明な言動は聞く者を戸惑わせるが、その実、真理の、ある側面を語っているということがある。短い付き合いだが、それは良く分かっているつもりだ。彼女は無意味な嘘をつかない。嘘をつくとしても、それは真実の裏地に沿って出る言葉なのだ。意味は必ずある。それを逃さないように聞き取れば良いのだ。 「……探してどうするの」 止めたい。 電話の冒頭で口にしたその言葉をもう一度繰り返そうとして、本当にそうだろうかと自分に問い掛け、そして胸の内側から現れた別の言葉を紡ぐ。 「見つけたい」 「それは探すことと同義ではないの」 「言葉遊びのつもりはない。ただ、本当にそう思っただけだ」 「面白いわね、あなた」 それから僅かな沈黙。 電話のある静かな廊下とは対照的に、居間の方からは相変わらずテレビの音が流れて来ている。 「正直に言って、あなたの鋏の話は驚いたわ。人を殺す夢を見ても、それが現実の人間の行動に影響を与えるなんて思ってもみなかった」 考えろ。これは嘘か、真か。 押し黙る私を尻目に彼女は続ける。 「わたしも夢の中で握っているはずの刃物の感触が思い出せない。あれが鋏だとするなら、確かにすべての辻褄が合うわね」 嘘だ! これは嘘だ。 間崎京子は、そんな夢を見ていないと言ったはずだ。それとも今朝私にそう言ってから、この夜までの間に彼女は眠り、エキドナが見る夢とシンクロして母親殺しを追体験したというのか。 クス、クス、クス…… コン、コン、コン…… 忍び笑いと、咳の音が交互に聞こえる。 「わたしは、嘘なんてついてないわ。ただあなたが『母親を殺す夢を見たか』と聞 くから『見てない』と言っただけよ」 「それのどこが嘘じゃないって言うんだ。おまえも刃物で切りつける夢を見ているじゃないか」 声を荒げかける私に、淡々とした声が諌めるように降って来る。 「わたしが見ていた夢は、『知らない女を殺す夢』よ」 なに? 予想外の答えに私は一瞬思考停止状態に陥る。 「月曜日だったかしら、それとも火曜日だったかな? チェーンを外して、ドアから首を出す見覚えのない女の首筋に刃物で切りつける夢を見たのよ。一度見てからは毎日。他のみんなはそれが母親の顔だと思っているみたいね」 どういうことだ? 間崎京子だけは、夢の中で殺した相手が母親ではないと言うのか? 何故だ。 「おかしいと思わない? 夢に出てくるチェーンのついたドアだとか、それに手を伸ばして背伸びをする感覚は、みんな実際の自分のものではない、言うならば個を超越した共通言語として出て来るのに、殺した相手の顔だけは現実の自分の母親の顔だなんて」 待て。それについては考えたことがある。私はこう思ったのだ。 『……それは"母親"というイメージそのものを知覚し、朝起きてからそれを思い出そうとしたときに自分の中の母親の視覚情報を当てはめて、記憶の中で再構築が行われているということなのかも知れない』と。 「チェーンのついたドア」や「届かない手」という記号が、そのままの姿でもその本質を見失われないのに対し、「母親」という記号が、もし仮に別の知らない女の顔で現れたとしたならば、それは本質を喪失し私たちにその意味を理解させることさえ出来ないに違いない。 「母親」であるために、母親の仮面を被っていたのだ。 では、間崎京子の見た「知らない女」とは…… 「わたしに、母親を殺す夢なんて見られるわけがないわ。だって、わたしはママの顔、知らないんですもの」 静かに、彼女はそう言った。 「ママはわたしが生まれる時に死んだわ。家には写真も残っていない」 受話器から淡々と陶器が鳴るような声が聞こえて来る。 「見たことはなくても、あんな醜い顔の女が、わたしのママではないことくらい分かるわ」 自分の美貌のことを暗に言いながら、それを鼻にかけるような嫌味さを全く感じさせない自然な口調だった。 間崎京子のケースは、母親と別居しているというポルターガイスト現象の経験者でもあった先輩とは、明らかにその背景が異なっている。 先輩は家にいないはずの母親を殺す夢を、『ありえない夢』と称したけれど、殺す相手の顔は「母親」の顔として認識している。 今現実に母親がいなくとも、その顔を知ってさえいれば良いのだ。 間崎京子はその顔すら知らず、「知らない女」が「母親」という意味を持つための仮面を被せることが出来なかったのだ。 ならば、間崎京子の夢に現れた女こそ、エキドナに殺意を抱かせた母親そのものなのではないのか。「母親」という仮面の下の、素顔だ。 「そう。その女が、怪物たちの母親の母親。罪深いガイアね」 捕まえた。 ついに捕まえた。間崎京子にさえ協力してもらえれば、エキドナは見つけられる。 あるいは、今日訪ねて回った家々の主婦たちの中の誰かがその母親だったのかも知れない。 「その女の顔は、まだはっきり覚えているか」 拝むような私の問い掛けに、彼女は優しい口調で答えた。 「覚えているわ。似顔絵を描きましょうか。わたし、絵は得意なのよ」 良し。良し! 私は思わず受話器にキスしそうになる。案外いいヤツじゃないか。間崎京子は。 そんなことを頭の中で叫んでいた。後にして思うと、我ながら単純だったと思う。 「どっちにしても明日ね。こんな夜には探せないわ。明日、絵を描いていくから」 またコン、コン、という咳が漏れる。 「ああ、ありがとう。無理しなくてもいから。身体に気をつけて」 じゃあ、明日学校で。 そう言って私は受話器を置いた。 明日だ。 明日には見つけられる。目を閉じて、それをイメージする。 「ムリしなくてもいいから。カラダに気をつけてぇ」 声に振り向くと、妹が廊下でくねくねと身体を揺らしながら私の物真似をしていた。 オトコとの電話だと邪推しているようだ。エキドナだとか母親殺しだとかの怪しげな部分は聞かれていないらしい。 「もう寝ろ、ガキ」 「自分だってまだ子どもじゃん」 「キャミソール返せ」 「あ、やだ、もうちょい貸して」 そんなくだらないやりとりをしたあと、私は部屋に戻った。 疲れた。 ばたりとベッドに倒れ込む。 転がって仰向けに姿勢を変えてから、今日あったことを順番に思い出してみる。 2度目の『母親を殺す夢』。学校での情報収集。円形の地図の完成。先輩を怒らせたこと。中心地の聞き込み。無駄足。買ったままの鋏。鋏の消えた街。間崎京子との電話…… (そういえば、先輩の部屋にも鋏があったな) 先輩がサイ・ババの真似をしていたときに手に持っていた鋏。テーブルの上に無造作に置かれていたものだったけれど、手のひらから(私には服の裾からにしか見えなかったが)宝石や灰を出してみせるという奇蹟の再現をするのに、隠しにくい鋏は適切な物だっただろうか。消しゴムやなんかの方が、よほど上手く出来るだろう。 (新品に見えたけど、あの鋏もなんとなく買ったのかな) 何故それが要るのか、深く考えもしないで…… ふと、電話で注意した方がいいだろうか、と思った。 いや、駄目だな。夕方に怒らせたばかりだし、こんなに遅い時間に電話してまた変な話をしたのでは、きっとまともに聞いてくれないだろう。 あれ? そう言えば、私もまだ持ってたな、鋏。 机の引き出しのどこかに、昔から使ってるやつがあるはずだ。 あれも捨てて来た方が良かったかも。 あ……でも眠いや…… 明日にしよう…… 明日に…… 眠りに落ちた。 [*←][→#] |