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トイレ
大学1回生の春だった。
休日に僕は一人で街に出て、デパートで一人暮らしに必要なこまごまとしたものを買った。レジを済ませてから、本屋にでも寄って帰ろうかなと思いつつトイレを探す。
天井から吊り下がった男と女のマークを頼りにフロアをうろつき、ようやく隅の方に最後の矢印を見つけた。
角を曲がると、のっぺりした壁に囲まれた通路があり、さらに途中で何度か道が折れて、結局トイレルームに至るまでには人の気配はまったくなくなっていた。
ざわざわとした独特の喧騒がどこか遠くへ行ってしまい、自分の足音がやけに大きく響いた。
ふと、師匠から聞いた話を思い出す。
『あのデパートの4階のトイレ、出るぜ』
オカルト道の師匠の言うことだ。もちろんゴキブリやなにかのことではないだろう。
僕はここが4階のフロアだったことを記憶で確認し、「よし、ちょうどいい。確かめてやろう」と思う。
確か師匠はこう続けたはずだ。
『4階の身障者用のトイレでな、自分以外誰もいないはずなのに近くで声が聞こえるんだ。その声は小さくて何を言っているのかとても聞き取れない。キョロキョロしたって駄目だ。小さい音を聞くために、どうしたらいいか、考えるんだ』
ドキドキしてきた。
通路を進むと男性用と女性用のマークがはめ込まれている壁の手前に、車椅子のマークのドアがあった。身体障害者用の個室だ。
入るのは初めてだった。
クリーム色の取っ手を横に引くと、ドアは大した力もいらずにスムーズに滑った。
パッと明かりがつく。自動センサーのようだ。内側に入り、ドアから手を離すと自然に閉まっていった。
中は思ったより広い。普通のトイレの個室とはかなり違う。入り口から正面に洋式の便座があり、右手側には洗面台がある。その洗面台の上部に取り付けられている鏡を見て、少し違和感を覚える。
鏡の真正面に立っているのに、自分の顔が見えない。胸元が見えているだけだ。
よく見ると鏡は前のめりに傾けられていた。なるほど、車椅子の人が使うことを想定して、低い位置から正対できるようになっているらしい。
顔の見えない鏡の中の自分と向かい合っていると、まるで鏡に映っているのが見知らぬ誰かであるような気がして、気持ちが悪かった。
僕は鏡から目を逸らし、便座に近づく。手すりが壁に取り付けられ、壁から遠い側には床から丈夫そうなパイプが伸びている。
グッと体重をかけて手すりとパイプを両手で掴みながら体を反転させる。
ストン、と便座に腰を落とす。
静かだ。換気扇の回る振動だけが伝わってくる。
心霊スポットだからって、いつもいつも「出る」わけでもないだろう。ましてこんなに明々とした個室で、しかも昼間っからだ。
残念に思いながらも少しホッとした僕は、ついでだからとズボンを下ろし、用を足した。
水を流すボタンはどれだ?
壁側を探ると、赤いボタンが目に付いた。あやうく押すところで思いとどまる。
『緊急呼出』
そんな文字が書いてあった。
危ない。緊急時の呼び出しボタンらしい。紛らわしい所に置くなよ、と文句を言いそうになるが、少し考えて合点がいく。体調急変時のボタンなのだから、手が届くところで、かつ目立つ場所にないといけないのだろう。
『洗浄』のボタンをその近くに見つけて、押し込む。
ザーッという水が流れる音がして、そしてまた静かな時間が戻ってくる。
が……
立ち上がろうとした瞬間、僕の耳はなにかの異変を捉らえた。
……ボソ……ボソ……ボソ……
何か、小さな声が聞こえる。
瞬間に、空気が変わる。
重くねっとりした空気に。
僕は頭を動かさず、目だけで室内を見回す。
天井、照明、換気扇、ドア、洗面台、鏡、壁、手すり、床。
なにも変化はない。音は目には見えない。
ボソ、ボソ、という誰かが囁く様な音は続いている。
ここから逃げたい。
けれど、足が竦んでいる。
そして、足が竦んでいること以上に、僕はその声の正体を知りたかった。
『キョロキョロしたって駄目だ』
師匠の言葉が脳裏を掠める。
僕は考える。誰かの口が、動いているイメージ。イヤホンから何かが聞こえるイメージ。ラジオのスピーカーの無数の穴からそれが聞こえるイメージ。
そうだ。音はいつも「穴」から聞こえてくる。
僕は視線を床に落とした。
タイルの真ん中に、排水溝の銀色の蓋が嵌っている。
便座から立ち上がり、屈んでその排水溝を覗き込む。中は暗い。照明を遮る僕自身の影の下で、何も見えない。
……ボソ……ボソ……ボソ……
囁き声は、この下から聞こえてくる。
僕はタイルに手をついて、排水溝に耳をつけた。正面の白い無地の壁を見ながら、心は真下に向けて耳を澄ます。
…………ボソ…………ボソ…………
遠い。聞き取れない。さっきよりももっと遠い。
何も聞き取れないまま、やがて音は消えた。
僕は身を起こし、その場にしゃがみ込む。
なんだ?
何事も起きないまま、怪異は去った。
いや、そもそも怪異だったのかすらよく分からない。ただ小さな声、いや、音が聞こえたというだけだ。
その時僕の頭に、ある閃きが走った。
もう一度、『洗浄』のボタンを押す。水が流れる音がして、やがてその一連の音も収まる。そして聞こえてきた。
……ボソ……ボソ……ボソ……
もう一度、排水溝に耳をつける。
今度は空気の流れを、耳の奥にはっきりと感じる。
どういう仕組みかわからないが、便座洗浄をするための水が流れると、振動だか水圧だかのせいで、排水溝からこんな音が聞こえてくるのだ。
くだらない。
肩の力が抜けた。
師匠もこんな単純なオチに気づかないなんて大したことないな。
そんなことを考えていると、笑いが込み上げてくる。このトイレの話をした時の、彼の真剣な顔が道化じみて思い出される。
(そういえば、最後に変なことを言ってたな)
確か……
『利き耳はだめだ。利き耳は、現実の音を聞くために進化した耳だからだ。いつだって、この世のものではない音を聞くのは、反対側の耳さ』
バカバカしい。
師匠のハッタリもヤキが回ったってものだ。
僕は薄笑いを浮かべながら、左の耳たぶを触る。今まで確かになんの意識もせずに右の耳を排水溝に近づけていた。考えたことはなかったが、右が僕の利き耳だったのだろう。
だけど左で聞いたからってどうなるっていうんだ?
師匠を馬鹿にしたい気持ちで、僕はもう一度床のタイルに両手をついた。
さっきと同じ格好だ。入り口のドア側から体を倒して床に這いつくばっている。排水溝は個室の真ん中にある。奥側は便座がある分、這いつくばるようなスペースがないからだ。
スッと左の耳を床に向けた時、得体の知れない悪寒が背筋を走りぬけた。
何だろう。タイルについた膝が震える。
だけど止まらない。僕の頭は排水溝の銀色の蓋に近づき、その穴に左の耳がぴったりとくっついた。
さっきとは違う。右と、左では明らかな違いがある。どうしてこんなことに気がつかなかったのか。
心臓は痛いくらい収縮して、針のような寒気を全身に張り巡らせていく。
今、僕の目の前には壁がない。右耳を排水溝にくっつけた時にはあった、あの白い無機質な壁が、今はない。
左耳で聞こうとしている僕の目の前には今、洗面台の基部と床との間にできたわずかな隙間がある。モップさえ入りそうもないその隙間の奥、光の届かない暗闇から、誰かの瞳が覗いている。
暗く輝く眼球が、確かにこちらを見ている。
……ボソ……ボソ……ボソ……
左耳が囁きを捉える。地面の奥底から這い上がってくるような声を。
僕はその小さな声が、言葉を結ぶ前に跳ね起きてドアを開け、外に転がり出た。ドアから出る瞬間、視線の端に洗面台の鏡が見えた。顔のない僕。あれは本当に僕なのか。
振り返りもせずに駆け出す。角を何度か曲がる。
フロアに出た時、騒々しい、デパート特有の様々な音が耳に飛び込んで来た。冷たい汗が胸元に滑り込んでいく。今見たものが脳裏に焼きついて離れない。僕は壁際のベンチの横で、寒気のする安堵を覚えていた。たぶん、床の隙間のあの眼を見てしまった後、あの個室から逃げ出すまでの間に、一瞬でも『このドアは開かないんじゃないか』と思ってしまっていたら、きっとあのドアは開かなかったんじゃないかという、薄気味の悪い想像。
そんな想像が沸いてくるのを、止められなかった。





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