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人形−3−
続き

全員腰を上げ、客間を出る。
スリッパの音がバラバラと床を叩いた。みかっちさんが先導して1階の奥の部屋へ足を踏み入れると、広々とした和室に礼子さんの後姿が見えた。

「いないのよ。あの子が」

屈み込み、取り乱した声で畳を爪で引っ掻いている。
和箪笥など古い調度品が並ぶ中、奥に床脇棚があり、その上に空のガラスケースが置かれていた。ガラスケースの中には薄紫色の座布団のような台座だけがぽつんと残されていて、丁度あの人形が納まる大きさのように思えた。

「誰なの。どこへやったの?」

と呻く様に繰り返している礼子さんに、みかっちさんが駆け寄り

「落ち着いて」

と背中をさする。
次の瞬間、

「バン!」

という大きな音がして横を見ると、師匠が後ろ手で壁を叩いた格好のまま険しい顔つきで女性二人を睨んでいる。

「落ち着くのは、キミもだ」

そう言いながら床脇棚に近付き、ガラスケースを持ち上げる。台座を触り、その指を二人に見せ付けた。

「この埃は、少なくとも何年かここに人形なんか置かれていなかったことの証だ。あの絵を見た時からおかしいと思っていたが、写真を見て確信した。人形なんかこの家にはないじゃないかと」

礼子さんが怯えたような顔で、頭を抱える。みかっちさんも目の焦点が合っていない。

「先日の温泉旅行、その人形がバッグから出てくるところを見たのは彼女の他にキミだけだ。それは本当にあの人形だったのか?」

師匠の詰問に、みかっちさんはうろたえて

「え、だって」

と口ごもった。
そして、

「あれ?あれ?」

と両手で自分の頭を挟むように繰り返す。

「人形を絵に描いたと言ったが、具体的にどこでどうやって描いたか、今説明できるか?」

「え?うそ?あれ?」

みかっちさんは今にも崩れ落ちそうに小刻みに震えながら、なにも答えられなかった。

「あの写真持ってきて」

との師匠の耳打ちにすかさず従い、ほどなく俺は3人の前に写真を掲げた。

「僕はその人形を描いたという絵の着物の襟元を見ておかしいと思った。それは合せ方が通常と逆の左前になっていたからだ」

師匠は洋服とは違い、和服は男女ともに右前で合せるのが伝統だと語った。

「これに対し、死んだ者の死装束は左前で整えられえる。北枕などと同じく葬儀の際の振る舞いを『ハレ』と逆にすることで死の忌みを日常から遠ざけていたんだ。だから子どもの遊び道具であり、裁縫の練習台であった、いわば日常に属する市松人形が左前であってはおかしい。こんなことは説明するまでもなかったか」

と呟いてから師匠はみかっちさんの方を向いた。

「モデルを見て描いたのであれば、こんな間違いは犯さないはずだ。絵の技法上の意図的なものでない限り、彼女はその人形を見ていないんじゃないかとその時少し不審に思った」

そして写真を指差す。


「そこで出てきたのがこの銀板写真だ。銀板写真は明治の志士の写真などで知られる湿板写真やその後の乾板写真と大きく異なる性格を持っている。それは被写体を左右逆に写し込むという技術的性質だ」

え?と俺は驚いて写真を見た。
文字の類は写真に写っていないので、左右が逆であるかどうかは咄嗟に判断がつかない。

そうだ。

着物の襟だ。気付いてからもう一度3人の女性の襟元をよく見た。
本人から見て左側の襟が上になっている。

「ホントだ。左前になってます」

と言うと、師匠に話の腰を折るなと言わんばかりに

「バカ、左前ってのは本人から見て右側の襟が上に来ることだ」

と溜め息をつかれた。

あれ?

じゃあ写真の女性は右前なわけで、正しい着方をしていることになる。
左右逆に写っていないじゃないか。師匠は人さし指を左右に振ってから続けた。

「これが日本人の迷信深いところだ。銀板写真が撮られた当時、被写体は武家や公家などの支配階級の子弟たちだったわけだが、出来上がった己の写真が死装束である左前となっていては縁起が悪いために、わざわざ衣服を逆に着て撮影していたんだ。もっとも単に見栄えの問題もあったのだろう。武士など刀まで右の腰に挿し直して撮っている。当時の銀板写真を良く見ると、襟元や腰の大小が変に納まり悪く写っているから、彼らの微笑ましい努力の跡が垣間見えるってものだ」

ということは、つまりこの着物姿の3人の女性も撮影時にわざわざ左前にしてカメラの前に座ったのか。
俺は感心し、言われなかったら気付かなかったであろう100年の秘密に触れたことに、ある種の快感を覚えた。

「そこで、もう一度この真ん中の女性が抱える人形を見て欲しい」

師匠の言葉に、視線をそこに集中させる。人形の襟元が、他の女性たちと逆に合せられている。

左前だ。

銀板写真は左右を逆に写すので、つまり撮影時には右前だったことになる。


「市松人形としてはこれで正しい。ただ撮り終わったあとの写真が間違っていただけだ。だから・・・」

と言って、師匠はみかっちさんに視線を向け、笑い掛けた。

「キミのあの絵は、この写真の一見左前に見える人形を描いたものなんだ。キミは人形を絵に描いたと言いながら、人形を見ていない。奇妙な記憶の混濁があるようだ。なぜならそんな人形はもう存在していないんだから」

「キャアァー!!」

という甲高い金属的な悲鳴が家中に響き渡った。俺は背筋を凍らせるような衝撃に体を硬直させる。頭を抱えて俯いている礼子さんの口から出たものにしては、おかしい。
まるで家中の壁から反響してきたような声だった。

「その人形がどうしてなくなったのかは知らない。あなたの口からそれが聞けるとも思わなけど。戦争で焼けたのか。処分されたのか…。ただあなたの中に棲みついて、そこにいる友だちの中にも感染するように侵入したそれは、この世に異様な執着を持っているみたいだ。自分の存在を、再び世界と交わらせようとする意思のようなものを感じる。実際に、絵という形で、一度滅びたものが現実に現れたんだから」

ミシミシという嫌な圧迫感が体に迫ってくるようだ。
これは、髪が伸びるだとか、涙を流すだとかいう人形にまつわる怪談と同質のものなのか?

いや、絶対に違う。

俺は底知れない嫌悪感に体の震えを止めることが出来なかった。

「その人形。あなたの先祖の家業だった写真屋の、これは商売道具のはずだ。だから実のところ、一見して左前に見えてはおかしいんだ。衣服だけでなく刀などの道具立ても左右逆にしつらえて撮るように、膝に抱く人形だって持ち主に合せるべきだ。市松人形はもともと女性や子どもの着せ替え人形なんだ、合せ方を逆にして着せるなんて容易いはず。同じ目的でずっと使う人形ならばなおさらそうすべきだ。しかし、この写真に残されている姿はそうではない。何故だかわかるかい?それは」

師匠は憂いを帯びたような声で、しかし俺にだけわかる歓喜の音程をその底に隠して続けた。

「真ん中に写ったものが早死にするという噂のためにこの人形を真ん中に据えるってことと同じ目的のためだ。写真にまつわる穢れをすべて人形に集中させるため、徹底した忌み被せが行われている。つまりわざわざ死者の服である左前で写真に写るように、この人形だけは右前のままにされているのさ」

吐き気がした。
師匠に連れ回されて今まで見聞きしてきた様々なオカルト的なモノ。
それらに接する時、しばしば腹の底から滲み出すような吐き気を覚えることがあった。
しかしそれは大抵の場合、霊的なものというよりも人間の悪意に触れた時だったことを思い出す。


「付喪神っていう思想が日本の風土にはあるけど、古くから人間の身代わりとなるような人形の扱いには特に注意が払われていた。しかしこいつは酷いね。その人形に蓄積された穢れの行き着く先を誤っていれば、どういうことになるのか想像もつかない」

柱時計の音だけが聞こえる。
静かになった部屋に、畳を擦る音をさせて師匠が俯いたままの礼子さんに近付いた。

「あなたが魅入られた原因は、実にはっきりしている。なくなったはずの人形がこの世に影響を及ぼす依り代としたもの。それは真ん中で写ったものの寿命が縮まるという噂と同じくらいポピュラーで、江戸末期から明治にかけて日本人の潜在意識に棲み続けた言葉。『写真に写し撮られたものは、魂を抜かれる』という例のあれだ」

師匠は俺の手からもぎ取った写真の人形のあたりを手のひらで覆い隠すようにして続けた。

「あなたがおばあちゃんから貰ったというこの写真こそが元凶だよ。人形の形骸は滅んでも、魂は抜かれてここに写し込まれている」

そう言いながら礼子さんの顔を上げさせた。
目は涙で濡れているが、その光に狂気の色はないように思えた。

「これは僕が貰う。いいね?」

礼子さんは震えながら何度も頷いた。師匠は呆然とするみかっちさんにも同じように声を掛け

「あの絵は置かない方がいい。あれも僕が貰う」

と宣告する。
そうして最後に俺に笑い掛け

「おまえからは特に貰うものはないな」

と言って俺の背中を思い切りバンと叩いた。
いきなりだったのでむせ込んだが、その背中の痛みが俺の体を硬直させていた『嫌な感じ』を一瞬忘れさせた。

「引き上げよう」

と、師匠は静かに告げた。

その後、礼子さんは糸が切れたようにぐったりと客間のソファーに横たわった。その顔はしかし、気力と共に憑き物が取れた様に穏やかに見えた。
俺たちは礼子さんに心を残しつつもその大きな家を辞去した。

みかっちさんが青ざめた顔で、それでも殊勝にハンドルを握り元来た道を逆に辿っていった。

「あんた何者なのよ」

小さな交差点で一時停止しながら掠れたような声でそう言って、横の師匠を覗き見る。
彼女の中で、『gekoちゃんの彼氏』以外の位置づけが生まれたのは間違いないようだ。その位置づけがどうあるべきか、迷っているのだ。
それは俺にしても、出会った頃からの課題だった。

「さあ?」

と気の無い返事だけして師匠は窓の外に目をやった。


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