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貯水池−2−
師匠が車のキーと金属バットを持って立ち上がる。
いくらなんでもそれは、職質されたらまずいですよ、と言う僕に師匠は「野球好きに見えないかな」と冗談めかし、「鏡を見て言ってください」と返したが、そもそもそういう問題なのかという気がして、「なんの役に立つんですか」と重ねるも、「防犯」というシンプルな答え。

もういいや、なんでも。
僕も覚悟を決めて師匠の車に乗り込んだ。
今日は雨が降っていない。

「稲川淳二でも聞こう」

夜のドライブにはやはりこのBGMしかない。
僕もすでに洗脳されつつあるらしい。

「あの手の平。フロントガラスの。あれ、2種類あったよね」
「え?」
「いや、気づいてないならいい」

師匠はあの異常な状況下でも、ガラスに浮かび上がった手の平の形を冷静に判別していたのだろうか。
「それって、どういう……」と問いかけた僕に、淳二トークのツボに入った師匠の笑い声がかぶさり、そのままなおざりにされてしまった。
車は前回と同じ道をひた走り、同じルートで貯水池へアプローチを始めた。

今夜は視界が良い。月も出ている。
同じ場所から減速をはじめ、師匠は「今日も出るかな」と言いながらハンドルをソロソロと操作する。

いた。
黒いフード。夜陰になお暗い、この世のものではない儚げな存在感。
その姿はまた今度もフェンスの内側にあった。そして右手を挙げている。

緊張が高まってくる。
車はその目前で停まり、エンジンをかけたまま師匠が降りる。
慌てて僕もシートベルトを外す。
師匠がフェンスの格子越しに黒い影と向かい合っている。
手には金属バット。空には月。

「乗る?」

あまりに直截すぎて、間が抜けて聞こえるが、師匠は師匠なりに緊張しているのが声の震えで分かる。
土の上に、なにか重いものが落ちる音がした。

フードの足もとに滴る水に混じって、黒い石が落下している。右手は挙げたままだ。
一度は遁走した霊を相手に、もう一度近づくだけならまだしも車に乗るように語り掛けるなんて、正気の沙汰ではない。
黒い影から石が落ちるのが止まった。風が凪いだような空白の時間があった。
しかし次の瞬間、貯水池の水面がさざめいたかと思うと、なにか小さい黒いものが水の中から斜面に這い上がり、あっという間もなく黒いフードの影の背後からその足元に絡み付いた。
息をのむ僕の目の前で、黒い影が斜面を引きずられるようにして貯水池の方に引っ張られていく。
挙げていた右手がそのまま、まるで助けを求めるようにこちらに突き出されている。
そして音もなく影は暗い水の中に引きずり込まれていき、気がついた時には微かな波紋が月の光に淡く残るだけだった。

静寂が訪れる。
僕らはフェンスに掻きつくように近づく。
しかし、目の前には何事もないただの夜の貯水池の静かな情景が月明かりの下に広がっているだけだった。
僕の肺は急に小さくなってしまったようだ。息が、苦しい。

やがて師匠が口を開いた。

「フロントガラスの手の平は、大きい手と小さい手と二通りあった。多分小さい方が心中で先に殺された赤ん坊のものだろう」

母親の魂がこの世界を離れるのを、あの赤ん坊が留めているんだな。
死んだ後も、その重石としての役割を果たして。
師匠の言葉に、さっき見た小さい黒いものが赤ん坊の姿かたちをしていたようなイメージが脳裏をよぎる。
では、あの二人はこの貯水池に永遠に縛られたままなのか。

その絶望的な想像に、僕はしゃがみこんだ。
俯いて地面だけを見ている。
師匠は何を考えているのだろう。
僕には分からない心中という道を選んだ母親の心を想像しているのだろうか。

少し、寒くなってきた。
車から、つけっぱなしの稲川淳二の声が微かに流れてくる。
師匠はそれが聞こえていたのか、ふいにクスッと笑うと踵を返して「バッテリーがあがる。帰ろう」と言った。
師匠の、フェンスを握っていた指が離れたのか、カシャンという音が響き、僕も我に返って振り向きながら立ち上がった。その次の瞬間。

目の前に、壁があることに気がついた。
いびつな菱形をした金網の格子。それが僕の体にぶつかったのだ。
格子の向こうには、車のライトとそこへ歩いてく師匠の背中がある。

鳥肌が全身に立つ。
心臓が早鐘のように鳴る。
いつの間に、僕は、フェンスの内側にいたのか。

「師匠ーっ!」

格子に指をかけながら、思い切り叫んだ。
その瞬間、師匠は振り返り、目を剥いて僕を見た。

「いつの間に中に入った」

自然、声が大きい。
入ってなんかいない。
どうやってこの鉄条網つきの高いフェンスの内側に入れるというのか。
……けれど確かにここはフェンスの内側なのだ。

ばちゃん。

という音がして、背後を見た。
貯水池の黒々とした水面に、なにか手のようなものが突き出されている。
それが地面を掴み、ヌルヌル光る泥のようなものを纏いながら這い上がろうとしていた。

「退いてろ」

という声とともに、師匠の金属バットがフェンスを殴打する。
しかし小さな火花が散っただけで、衝撃は波のように左右へ広がるだけだった。
べちゃんべちゃんという気持ちの悪い音が地面を叩き、小さくて黒いものが斜面をよじ登ってくる。

「出入り口は!」
「反対側です」

心臓が止まりそうな恐怖を味わいながらも、僕は正確に答えた。

「でも金属の鍵が掛かってます」
「フェンスの下を掘れないか」
「無理そうです」

師匠の舌打ちが聞こえた。
サッと走り去る気配。
僕はくだけそうになる足腰を、かろうじて支えながら貯水池に正対した。
斜面に泥の跡を残しながら、小さくて黒いものがこちらに這って来ている。
黒いフードの人影にはあった、わずかなヒトの意思というものが、この小さい黒いものからは一切感じられない。

ただ、怖いもの。危険なもの。嫌なもの。そして絶対に助からないもの。
水面から続く泥の筋が、まるで臍の緒のように伸びている。
僕は混乱する頭で、なにをするべきか考えた。
母親の魂が救われる手助けをしようとしたから、こうなったのか。
だったら、もうそんなことはしないということを伝えなければ。
そう思っても、その小さくて黒いものに向かうと何故か声が掠れて出てこないのだった。

貯水池のまわりを走り回って逃げる?
閉じられたフェンスの囲いの中でずっとそうしてるというのか。
僕は心が折れていくのを感じていた。
ジーンズのお尻が冷たい土の感触にふれ、(ああ僕はもう座り込むしかないんだな)と現実から乖離したような思考がふわふわと漂った。

次の瞬間、轟音がした。
タイヤがアスファルトを引っ掻く音とともに、車のフロントがフェンスに突っ込んできた。
金属の焦げたような匂いがして、フェンスが風を孕んだように大きくひしゃげている。
たわんだ金網の破れ目から何かを叫びながら師匠が手を伸ばした。
僕はその瞬間に立ち上がり、金属の鋭利な突起に服を引っ掛けながらも脱出することに成功する。
すぐに車はタイヤをすり減らしながら、強引にバックで金網から抜け出し、僕を助手席に乗せて走り出した。

後ろは振り返らなかった。
そのわずかな間に色々なことを考えたと思う。でももう覚えていない。
そして僕は助かった。

師匠のアパートに戻ってきた時、鍵も掛けてないドアをあっさりと捻ると、なぜだか笑いが込み上げてきた。
このオカルト道の先達にとって、本当に怖いものは鍵など通用しない存在なのだと、今さらながら気づいたのだ。
ドアはドアでありさえすればよく、鍵は緊急時の自分の行動を制限してしまうだけなのだと。

「怖い目に遭わせたなぁ」

部屋の電気をつけながら、師匠はあまり済まなそうでもなく言う。

「ちびりました」

僕の言葉に、師匠は「男物の下着はないぞ」と嫌な顔をした。
冗談ですよと返しながら、僕は車のことを謝った。
フロントに傷がついてしまったはずだ。
それよりも、あの破壊したフェンス……

「なんとでもなる」

そんなことより、スパゲティの残りを食うかと言って、師匠はあと200グラムほど残った束をほぐし始めた。
「ダイエットじゃないんですか」と声を掛けると、「パワー不足を痛感した」と言って後ろも見ずに壁に立てかけた金属バットを指さす。

「防犯なら、それよりもボディーガードを置きませんか」

僕なりに、真剣な意味を込めて言ったつもりだった。
それが伝わったのか、師匠は台所からきちんとこちらに振り向いて、「さっきの霊が背中にくっついて来てるのに気づかないやつには無理だな」と言った。
僕は悲鳴を挙げて、飛び上がった。

「ウソだウソ」

笑う師匠。

ウソと笑える神経が分からない。
服の内側、背中一面に泥がついている。

なぜ気づかなかったのか。
血の凍るような恐怖を感じながら、僕は背中に手をやって悶え続ける。
金属バットに足が当たって、ガランという音を立てる。

ウソだよウソ……

師匠の声が、ぐるぐると回る。

「このクソ女!」

確か、そう叫んだはずだ。その時の僕は。


師匠の、長い話が終わった。
大学1回生の冬の始めだった。
俺はオカルト道の師匠のアパートで、彼の思い出話を聞いていた。

「これがその時の、バットでついた傷。まったく、ただの泥にえらい醜態だった」

そう言って壁の削れたような跡を指さす。
俺はまるでデジャヴのような感覚を覚えていた。

「まるで今の俺みたいですね」

師匠も1回生の頃は、そんな情けない青年だったのか。
今からたった4,5年前の話なのに。

「情けなかったとも思わないけどなぁ。あの人みたいな化け物と一緒にされると、そう聞こえるかも知れないけど」

師匠の師匠、当時大学院生だったという女性は加奈子さんといったそうだ。
彼女がいなくなったあと、師匠は空き部屋になった彼女の部屋に移り住んだらしい。
つまり今のこの部屋だ。

「でも、当時の家賃が1万円って、今より千円も高いじゃないですか」

値上げするならまだしも、値下げされるなんて、よっぽど酷い物件なのだろう。

「その加奈子さんって人は、今はどうしてるんです」

師匠は急に押し黙った。目が、昏い光を帯びてくる。
そしてゆっくりと口を開き、死んだ、と言った。
この部屋の家賃が、下げられた理由が分かった気がした。
けれど、いつどこで、どうしてということを続けては聞けなかった。
何事にも順序というものがあり、師匠が師匠になるまでにしかるべき段階があったように、一人の人間がこの世からいなくなるのにも、相応しい因果があるのだろう。
その彼女の死は、師匠の秘密の根幹ともいうべき暗部であるという、確信にも似た予感があった。
ただその時、彼女はまだ、少しはにかみながら師匠が語る思い出話の中で、不思議な躍動感とともに息づいていたのだった。


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あきゅろす。
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