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貯水池−1−
大学1回生の秋だった。
その頃の僕は以前から自分にあった霊感が、じわじわと染み出すようにその領域を広げていく感覚を半ば畏れ、また半ばでは身の震えるような妖しい快感を覚えていた。
霊感はより強いそれに触れることで、まるで共鳴しあうように研ぎ澄まされるようだ。
僕とその人の間には確かにそんな関係性があったのだろう。
それは磁石に触れた鉄が着磁するのにも似ている。
その人はそうして僕を引っ張り上げ、またその不思議な感覚を持て余すことのないように次々と消化すべき対象を与えてくれた。

信じられないようなものをたくさん見てきた。
その中で危険な目にあったことも数知れない。
その頃の僕にはその人のやることすべてが面白半分の不謹慎な行動に見えもした。
しかしまた一方で、時折覗く寂しげな横顔にその不思議な感覚を共有する仲間を求める孤独な素顔を垣間見ていたような気がする。
もう会えなくなって、夕暮れの交差点、テレビのブラウン管の前、深夜のコンビニの光の中、ふとした時に思い出すその人の顔はいつも暗く沈んでいる。
勝手な感傷だとわかってはいても、そんな時僕は何か大事なものをなくしたような、とても悲しい気持ちになるのだった。

「貯水池の幽霊?」

さして面白くもなさそうに胡坐をかいて体を前後左右に揺する。
それが師匠の癖だった。あまり上品とは言えない。
師匠と呼び始めたのはいつからだっただろうか。
オカルトの道の上では、何一つ勝てるものはない。
しかし恐れ入ってもいなかった。
貶尊あい半ばする微妙な呼称だったと思う。

「そうです。夕方とか夜中にそこを通ると、時々立ってるんですよ」

その日、僕は師匠の家にお邪魔していた。
築何十年なのか聞くのも怖いボロアパートで、家賃は1万円やそこららしい。
部屋の中に備え付けの台所から麦茶を沸かす音がシュンシュンと聞こえている。

「近くに貯水池なんてあったかな」
「いや、ちょっと遠くなんですけど。バイト先からの帰り道なんで」

行きには陽があるせいか出くわしたことはない。

「高校のプール10コ分くらいの面積に、周囲には土の斜面があってその周りをぐるっと囲むようにフェンスがあります。
自転車をこぎながらだと貯水池は道路から見下ろすような格好になって、行きにはいつもなんとなくフェンスのそばに寄って水面を眺めながら通り過ぎてます。
それが結構高いフェンスなんですけど、帰りにそのこっち側、道路側に時々出るんですよ」

はじめは人がいると思って避けて通ろうとしたのだが、横切る瞬間の嫌な感覚は、これまで何度も経験した独特のものだった。
それは黒いフードのようなものを頭からかぶっていて男か女かも判然としない。
ただ足元にはいつも水溜りが出来ていて、フードの裾からシトシトと水が滴っている。晴れた日にもだ。

(関わらないほうがいい)

それは信じるべき直感だったが、かといって道を変えるほど素直でもなかった。
それからはバイト帰りには必ず道の反対側を通るようにしている。
といっても1車線の、あまり広いとはいえない道なので嫌が応にも横目で見る形ですれ違うことになる。気分が良いはずはない。
一度師匠をけしかけてみようと虫の良いことを思いついたのだが、どうやらあまり琴線に触れる内容ではなかったようだ。
正直に「ナントカシテ」と言うのも情けない。

少しがっかりしながら、3回に1回くらいは向こう側に出ることもあると付け加えた瞬間、師匠の体の揺れがピタリとおさまった。

「なんて言った?」
「いや、だからフェンスのこっち側の時と向こう側の時があるって話です。立ち位置が」

師匠は首を捻りながら、へぇえと言った。
僕は大学の授業で習っている中国語のピンインのようだと、見当違いなことを思った。
第四声だったか。下がって上がるやつ。

「物理的な実体を持たない霊魂にとってフェンスという障害物なんてあってもなくても同じだから、こっちか向こうかなんて大した違いはなさそうに思えるかも知れないけど……実体を持たないからこそ"ウチ"か"ソト"かっていうのは不可逆的な要素なんだ。場についてる霊にとっては特にね」

だから地縛霊って言うんだ。
師匠はようやく乗り気になったようで、声のトーンが上がってきた。

「なにかあるね」

体の揺れの代わりに、左目の下を触る癖が顔を出した。
そこには薄っすらとした切り傷の跡がある。
興奮してきた時にはなぜか少し痒くなるらしい。

何の傷かは知らない。
じっと見ていた僕に気づいて、師匠は「嫁にもらってくれるか」と冗談めかして言う。
とにかく、その貯水池に夜になったら行ってみようということになった。
しかし僕にとっては思った通りの展開だと、手放しで喜ぶわけにはいかない。
なにか得体の知れない不気味な気配が、貯水池の幽霊の話から漂い始めているような気がしていた。

そのあと、師匠が作った夕飯のご相伴に預かったのだが、これが酷い代物で、なにしろ500グラム100円のパスタ麺を茹でてその上に何かの試供品でもらったという聞いたこともないフリカケをかけただけという、料理とも言えないようなものだった。
毎日こんなものを食べてるんですか、と訊くと「今はダイエット中だから」という真贋つきかねる回答。
家賃も安いし、一体何に金をつかっているのやら、と余計な詮索をせざるを得なかった。
あっという間に食べ終わってしまい、師匠は水っ腹でも張らすつもりなのか麦茶をがぶ飲みし、トイレが近くなったようだった。

「僕もトイレ借ります」

と言って、戻ってきた師匠と入れ違いに部屋を出る。
このクラスのアパートだとトイレは普通、共有なのだろうがなぜかここには専用のトイレがある。
ただし一度玄関から外に出ないと行けないという欠陥を持っていた。
生意気に洋式ではあったが、これがおもちゃのようなプラスチック製で、なるほどダイエットでもしていないといつかぶち壊れそうな普請だった。
便座を上げて用を足しながら(冬は外に出たくないだろうなあ)と、すでに秋も半ばというほのかな肌寒さにしばし思いを馳せた。
戻ってくると、師匠が上着をまとって「さあ行くか」と立ち上がった。

「雨、降りそうですよ」
「うん。車で行こう」

師匠の軽四に乗り込んだ時には、日はすっかり暮れていた。
そして走り出して100メートルと行かないうちにフロントガラスを雨の粒が叩き始める。

「稲川淳二でも聞こう」

カーステレオからカツゼツの悪い声が流れてくる。
師匠は完全に稲川淳二をギャグとしてとらえていて、気分が沈みがちな時にはその怪談話をケラケラ笑いながら聞き流してドライブするというのが常だった。
僕はその頃まだ稲川淳二を笑えるほどスレてはいなく、その独特の口調による怪異の描写に少しゾクゾクしながら助手席で大人しくなっていた。
雨の降り続く中を車は走り、やがて貯水池のある道路にさしかかった。
師匠はギアを2速に落とし、2メートルあまりの高さのフェンスを左手に見ながらそろそろと進む。
雨が車の窓やボンネットに跳ねる音と、ワイパーがガラスを擦るキュッキュッ、という音がやけに大きく響き、僕は少し心細くなってきた。

「あれかな」

師匠の声に視線を上げると、車のライトに反射する雨粒の向こうに人影らしきものが見えた。
だんだんと近づくにつれ、それがフェンスの向こう側にいることに気づく。
近くに民家もなく、人通りもない。
そこに雨の中、まして夜に一人で貯水池に佇んでいる人影が、まともな人間だとは思えない。
少なくとも僕の良く知る世界のおいては。

さらにスピードを落として車は進む。そしてあと10メートルという距離に来た時、意表を突かれることが起こった。
そのフードをすっぽりとかぶった人影が、右手を挙げたのである。
まるで「乗せてくれ」と言いたいかのように。
僕の知る世界において馴染みのある仕草に一瞬混乱し、次に起こった思いは「乗せてあげないといけない」という至極当然の人間心理だった。
雨の中、困っている人がいたらたとえタクシーでなくとも乗せてあげるだろう?
その、一見すると正しいように見える着想は、口にしたとたん次の瞬間師匠の一言に掻き消された。

「あれはヤバイ」

緊迫した声だった。
クラッチを踏んで、バックするべきか、刹那の迷いのあとで師匠の足は全開でアクセルを踏み込んでいた。
背もたれに押し付けられるような加速に息を詰まらせ、心臓がしゃっくりあげる。

「どうしたんですか」

ようやくそれだけを言うと、助手席の窓から右手を挙げたままの黒い人影がフェンスの向こうに立っている姿が一瞬見えて、そしてすぐに後方へ飛び去って行った。
顔も見えない相手と、なぜか目が合ったような気がした。

「雨に濡れて途方にくれてるヒトが、なんでフェンスの向こう側にいるんだ」

人間じゃないんだよ!
そんな言葉が師匠の口から迸った。
フェンスは高い。上部には鉄条網もついている。
そして貯水池に勝手に入り込めないように、唯一の出入り口は錠前に固く閉ざされている。
その向こう側に、車に乗せて欲しい人がいるはずは、確かにないのだった。
そんな当然の思考を鈍らされ、僕一人ならそのまま確実に心の隙につけこまれていた。
ゾッとする思いで、呆然と前方を見るほかはなかった。
しかしすぐに気を奮い立たせ、後ろを振り返る。

リアウインドの向こうは暗い闇に閉ざされ、もう何も見えない。
そう思った瞬間に、なんとも言えない悪寒が背筋を走り、視線が後部座席のシートにゆっくりと落ちた。

表面が水で濡れて、かすかに光って見える。
女が忽然と車中から消える、濡れ女という怪談が頭をよぎり、つい最近読んだのはあれは遠藤周作の話だったかと思考が巡りそうになったが、脊髄反射的に出た自分の叫び声に我に返る。

「乗せてなんかいないのに!」

僕の言葉に、師匠も首を捻って後部座席を一瞥する。
そして、ダッシュボードから雑巾を取り出したかと思うとこちらに放り、「拭いといて」と言った。
唖然としかけたがすぐに理性が反応し、座席を倒して腫れ物に触るような手つきで後部座席のシートの水を拭き取ると、師匠の顔を見て頷くのを確認してから手動でくるくるとウインドガラスを下げ、開く時間も惜しんでわずかな隙間から外へとその雑巾を投げ捨てた。

まだ心臓がドキドキしている。
手についた少量の水分を、おぞましい物であるかのようにジーンズの腿に擦り付ける。
車は、すでに対向車のある広い道に出ている。それでも嫌な感覚は消えない。
動悸が早くなったせいか、車のフロントガラスが曇りはじめた。

「これはちょっと凄いな」

師匠の口調は、すでに冷静なものに戻っている。
しかし、その言葉の向かう先を見て、僕の心臓は再び悲鳴をあげる。
フロントガラス一面に、手の平の跡が浮かび上がって来たのである。
外側ではない。ワイパーが動いている。

内側なのだ。

フロントガラスの内側を撫でると皮脂がつくのか、そのままでは何も見えないが、曇り始めたとたんにその形が浮かび上がって来ることがある。
まさにそれが今起こっている。
けれど、やはり僕らは乗せてなんかいないのだった。貯水池の幽霊なんかを。
師匠は自分の服の袖で正面のガラスを、一面の手の平の跡を拭きながら、「やっぱり捨てなきゃ良かったかな、雑巾」と言った。

カーステレオからは稲川淳二の唾を飲み込むような声が聞こえてきた。
話を聞いてなんかいなかった僕にも、これから落とすための溜めだということが分かった。
やはり僕にはまだ笑えない。情けないとは思わなかった。怖いと思う心は防衛本能そのものなのだから。
けれど一方で、その恐怖心に心地よさを覚える自分もいる。
師匠がチラッとこちらを見て、「オマエ、笑ってるぞ」と言う。僕は「はい」とだけ答えた。

その夜はそれで解散した。
「ついてきてはないようだ」という師匠の言葉を信じたし、僕でもそのくらいは分かった。
3,4日経ったあと、師匠の呼び出しを受けた。夜の10時過ぎだ。
自転車で師匠のアパートへ向かい、ドアをノックする。
「開いてる」という声に、「知ってます」と言いながらドアを開ける。
師匠はなぜかドアに鍵を掛けない。
「防犯って言葉がありますよね。知ってますか」と溜息をつきながら部屋に上がる。
師匠は「防犯」と言って壁に立てかけた金属バットを指さす。
なんか色々間違ってる人だが、いまさら指摘するまでもない。
「ここ家賃いくらでしたっけ」と問うと、「月一万円」という答えが返ってくる。
ただでさえ安いアパートで、この部屋で変死者が出たという曰くつきの物件であるためにさらに値引きされているのだそうだ。

「あの貯水池、やっぱり水死者が出てたよ」

本当に師匠はこういうことを調べさせたら興信所並みだ。
言うには、あの貯水池で数年前に若い母親が生まれたばかりの自分の赤ん坊と入水自殺したのだそうだ。
まず赤ん坊を水に沈めて殺しておいて、次に自分の着衣の中にその赤ん坊と石を詰めて浮かび上がらないようにして、足のつかない場所まで行って溺れ死んだという話だ。

「じゃああれは、その母親の霊ですか」
「たぶんね」

では何故迷い出てきたのだろう。

「死にたくなかったからじゃないか」

師匠は言う。
死にたくはないけれど、死ななくてはならないと思いつめていた。
その死にたくないという思いを押さえ込むための重しが、服に詰めた赤ん坊の死体であり石だった。
そしてそれは死んだのちも、この世に惑う足枷となっている……

「フェンスのウチかソトか、っていうのはそのアンヴィヴァレントな不安定さのせいだね。乗せてくれという右手と、乗ってはいけないというフェンスの内側という立ち位置」
「車に乗せてたら成仏してたわけですか」
「さあ」

乗せてみたらわかるんじゃないかな……
師匠の言葉はどうしてこんなに蠱惑的なのか。
僕はもう今夜呼び出された目的を理解していた。

「じゃあ行こうか」


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あきゅろす。
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