鋏−1−
大学3回生のころ、俺はダメ学生街道をひたすら突き進んでいた。
2回生からすでに大学の講義に出なくなりつつあったのだが、3年目に入り、まったく大学に足を踏み入れなくなった。なにせその春、同じバイトをしていた角南さんという同級生にバイト先にて
「履修届けの締め切り昨日までだけど、出した?」
と恐る恐る聞かれて、その年の留年を早くも知ったというのだから、親不孝にも程があるというものだ。
では大学に行かずになにをしていたかというと、パチンコ、麻雀、競馬といったギャンブルに明け暮れては生活費に困窮し、食べるために平日休日問わずバイトをするという、情けない生活を送っていたのだった。
大学のサークルには顔を出していたが、一番仲の良かった先輩が卒業してしまい、自然に足が遠のいていった。
その先輩は大学院を卒業して、大学図書館の司書におさまっていた。この人が俺に道を踏み外させた張本人と言っても過言ないのだが、まさかこんなにまともに就職してしまうとは思わなかった。
俺が大学に入ってからの2年間、あれだけ一緒に遊び回っていたのに、片方が学生でなくなってしまうと急に壁が出来たように感じられて、自然と距離を置くようになった。
職場の仲間や、ギャンブル仲間・バイト仲間という、それぞれの新しい世界を築いていく中で、オカルト好きという子供じみた共通項でかろうじてつながっているような関係だ。思い返すとそのころの彼は、つきあっていた彼女も学部を卒業し県外に就職してしまっていたせいか、妙に寂しげに見えたものだった。
梅雨が明けたころだっただろうか。
以前よく顔を出していたネット上のオカルトフォーラムの仲間からオフ会のお誘いがあった。ここも中心メンバーが二人抜けてからはまるで代替わりしたように新しい人ばかりになり少し居辛さを感じて、あまり関わらなくなっていた。
午後8時過ぎ。集合場所は市内のファミレスだったが、俺は妙に緊張して店内に入っていった。
「やぁ」
という声がした方に、昔からの顔なじみのみかっちさんという女性を見つけ、少しほっとする。同じ顔ぶれで何度も重ねたオフ会のような気だるい雰囲気はなく、新しい人の多い、なんというかギラギラした空間があった。オカルト系のオフ会なんだから、オカルトの話をしないといけない、という強迫観念めいた空気に、上滑りするようなトークが絡んで、俺には酷く疲れる場所になってしまっていた。
その会話の中で、一際目立っている女性がいた。積極的に話に加わっているわけではなかったが、周囲の男性陣がやたらと話しかけている。その原因は明らかで、彼女がゴシック風の黒い服を着こなした美少女と言っていい容姿をしていたからに他ならない。
俺にしても恋人がいなかった昔は、なにか起こらないかという、そういう下心を持ってオフ会に参加したこともある。しかしいま、端から冷静にそういう光景を目にしていると、ひどく間が抜けて見える。
その少女はそういう手合いに慣れているのか、淡々とあしらっていた。しかし、かくいう俺もその容姿に別の意味で気が惹かれるものがあった。どうも見覚えがある気がするのである。
すでに飲みほしたコーラのコップを無意識に口に運びながらチラチラと少女の方を見ていたのだが、一瞬視線が合ってしまい、すぐに逸らしはしたものの気まずさに
「トイレ、トイレ」
と我ながら情けない独り言をいいながら席を立った。
とりあえず男子トイレで用をたして出てくると、驚いたことにさっきの少女が正面で待っていた。
「ちょっといい?」
という言葉に戸惑いながらも
「え? なにが」
と返したが、その聞き覚えのある声にようやく記憶が呼び覚まされた。
「音響とかいったっけ」
2年くらい前に、若い子ばかりが集まったオカルトフォーラムのオフ会で俺に「黒い手」という恐ろしいものを押し付けてきた少女だ。
「今のハンドルはキョーコ」
人差し指を空中で躍らせながらそう言う。
響子。
確かにスレッドに参加していたと思しき連中から、さっきそう呼ばれていた気がする。しかし俺にとってその響きは、なんだか不吉な予感のする音だった。
「てことは本名が音ナントカ響子なわけか。音田とか音無とか」
余計な詮索だったらしい。不機嫌そうな眉の形に、俺は思わず口を閉ざした。
「ちょっと困ったことがあって……助けて欲しいんだけど」
「は? 俺が?」
音響(たとえ頭の中でもキョーコという単語を出したくない気分だった)は、オフ会の集団のいる席の方へ顔を向けながらバカにしたような口調で言った。
「あんな連中、てんでレベルが低くて」
それはまあ、そうだろうけれど。同意しつつも、ではなぜ俺に?という疑問がわいた。
すると彼女は
「黒い手はホンモノだった」
と言った。そして、
「アレから逃げ切ったらしいと聞いて、ずっと気になっていた」
と言うのだ。
俺は思わず
「いやあれは俺の師匠に助けてもらっただけ」
とバラしそうになったが、恥ずべきことに実際に口に出したのは
「まあ、あれくらい」
という言葉だった。その虚勢は、彼女がやはりかわらしい容姿をしていたことに起因していることは間違いが無いところだ。
「出て話さない?」
と言うので、頷く。さっきから、オフ会の連中の視線を肌にザラザラ感じ始めていたのだ。トイレ前で話し込んでいるツーショットをこれ以上さらしておく気にはなれない。
男どもの敵意に満ちた視線をかい潜って、レジで清算をする。音響をちらりと見ると、俺に払わせる気満々のようだったが、無視して自分の分だけ払った。
みかっちさんの意味のわからないサムアップに見送られて店を出ると、いきなり行き先に困った。近くに公園があるが、なんだかいやらしい感じだ。
「居酒屋とかでもいいか」
と聞くと、音響は首をヨコに振り、
「未成年」
と言った。
18、19は成人擬制だと無責任なことを俺が口にすると、驚いたことに彼女は自分を指差して、
「16」
と言うのである。俺は思わず逆算する。
「あの時は中3、今は高2」
と先回りして答えてくれた。黒い手は学校の先輩にもらったと言ってなかったっけ、と思うやいなや、また先回りされた。
「中高一貫」
ずいぶんカンのいいやつだと思いながら、近くのコーヒーショップに入った。
俺はオレンジジュースを、音響はパインジュースを注文して横並びの席に着くと、ひと時のあいだ沈黙が降りてガラス越しに見える夜の街に暫し目を向けていた。
やがて紙が裁たれるようなかすかな音が聞こえた気がして、店内に視線を移す。すると音響が前を向いたまま手元の紙で出来たコースターをまるで無意識のように裂いている。
俺の不可解な視線に気がついてか、彼女は手を止めて切れ端のひとつを指で弾いて見せる。
「学校の近くの山に、鋏様ってカミサマがいてね。藪の中に隠れてて、知ってなきゃ絶対見つかんないようなトコなんだけど。見た目は普通の古いお地蔵様で、同じようなのが3つ横に並んでる。でもその中のひとつが鋏様。どれが鋏様かは夜に1人で行かないとわからない」
スラスラと喋っているようで、その声には緊張感が潜んでいる。俺は少し彼女を止めて、
「なに? それは学校で流行ってる何かなの」
と問うと、
「そう」
という答えが返ってきた。
「その鋏様に、自分が普段使ってるハサミを供えて、名前を3回唱える。すると近いうちにその名前を唱えられたコが髪を切ることになる」
おまじないの類か。女子高生らしいといえば女子高生らしい。
「その髪を切るってのは、やっぱり失恋の暗喩?」「そう。ようするに自分の好きな男子にモーションかけてる女を振られるように仕向ける呪い。すでに出来上がってるカップルにも効く」
そう言いながら自分の前髪を人差し指と中指で挟む真似をする。
陰湿だ。
思ったままを口にすると、黒魔術サークルのオフ会に来てる男には言われたくないと冷静に逆襲された。
「で、その鋏様のせいでなにか困ったことが起こったわけだ?」
音響はパインジュースにようやく口をつけ、少し考え込むそぶりを見せた。その横顔には、年齢相応の戸惑いと冷たく大人びた表情が入り混じっている。
「うちのクラスで何人かそんなコトをしてるって話を聞いて、試してみた」
「自分のハサミで?」
「赤いやつ。小学校から使ってる。夜中にひとりで山にあがって、草を掻き分けてるとお地蔵さんの頭が見えて、それから目をつぶって鋏様を探した」
「目を閉じないと見つからない?」
「開けてると、わからない。全部同じに見える」
「真ん中とか、右端とか、先におまじないしてる子に聞けないのか」
「聞けない」
「秘密を教えたら呪いが効かなくなるとか?」
「そう」
「目を閉じてどうやって探す?」
「手探りで、触る」
「触って分かるもんなの?」
「髪の毛が生えてる」
音響がその言葉を発した途端、再び紙の繊維が裁断される音が俺の耳に届いた。
ぞくりとして身を起こす。
いつのまにか黒い長袖の裾から細い指が伸びて、俺のコースターを静かに引き裂いている。いつ、グラスを持ち上げられたのかも分からなかった。
恐る恐る、
「今、自分がしてることがわかってる?」
と聞くと、
「わかってる」
と少し苛立ったような声が返ってきた。
俺はあえてそれ以上追及せず、代わりに
「髪の毛って、苔かなにか?」
と問いかけた。
音響はそれには答えず、
「シッ。ちょっと待って」
と動きを止める。
溜息をついてオレンジジュースに手を伸ばしかけた時、なにか嫌な感じのする空気の塊が背中のすぐ後ろを通り過ぎたような気がした。未分化の、まだ気配にもなっていないような濃密な空気が。
周囲には、明るい店内で夜更かしをしている若者たちの声が何ごともなく飛び交っている。その只中で身を固まらせている俺は、同じように表情を強張らせている隣の少女に、言葉にし難い仲間意識のようなものを感じていた。
嫌な感じが去ったあと、やがて深く息を吐き彼女は
「とにかく」
と言った。
「私は赤いハサミを鋏様に供えて、名前を3べん唱えた」
目を伏せたまま、長い睫がかすかに震えている。
「誰の」
聞き様によっては下世話な問いだったかも知れないが、他意は無く反射的にそう聞いたのだった。
「私の」
その言葉を聞いた瞬間、俺の中の理性的な部分が首をかしげ―― 首をかしげたまま、目に見えない別の世界に通じているドアがわずかに開くような、どこか懐かしい感覚に襲われた気がした。
「なぜ」
「だって、何が起こるのか、知りたかったから」
ああ。
彼女もまた、暗い淵に立っている。
そう思った。
「で、何が起こった」
俺の言葉に、消え入りそうな声が帰ってきた。
ハサミの音が聞こえる……
「ちょっと待った。ハサミってのは、失恋で髪を切る羽目になるっていう比喩じゃないのか」
「わからない」
彼女は頭を振った。
「だって、いま好きな男なんていないし。失恋しようがないじゃない」
その言葉が真実なのか判断がつかなかったが、俺は続けて問いかけた。
「そのクラスの仲間に名前を唱えられた女の中で、実際に髪を切った、もしくは《切られた》やつはいるか」
「知らない。ホントに振られたコがいるって話は聞いたけど、髪の毛切ったかどうかまでは分からない」
「その、鋏様の所に置いてきたハサミはどうした」
「……ほんとは見にいっちゃいけないってことになってるんだけど、おとといもう一度行ってみたら……」
無くなってた。
音響は抑揚の薄い声を顰めると、
「どうしたらいいと思う?」
と続け、顔を上げた。
「その前にもう少し教えて欲しい。ハサミは一個も無かった? 自分のじゃないやつも?」
頷くのを見て、腑に落ちない気持ちになる。
「おまじないの儀式としては、ハサミは供えっぱなしで取りに戻っちゃいけないってことじゃないのか? だったら、どうして前の人が置いたはずのハサミが無いんだ」
願いが叶ったら取りに戻るという話になっているのかと聞いても、違うという。誰かが地蔵の手入れをしてるような様子はあったか、と聞いたが、完全に打ち捨てられているような場所で、雑草はボウボウ、花の一つも飾られていない、人から忘れ去られているような状態だというのだ。
何かおかしい。なにより、今さっき感じた嫌な空気の流れが、事態の不可解さを強めている。
「なあ、その鋏様っていうおまじまいは、昔からあるのかな。先輩から語り継がれた噂とか」
「わからない。たぶんそうじゃないかな」
「だったら、噂が伝わる途中でその内容がズレて来てるってことはありうるね。元は少し違うおまじないだったのかも知れない。例えば」
言うまいか迷って、やっぱり言った。
「ハサミを供えて、死んで欲しい子の名前を3回唱えれば……」
ガタンと丸い椅子が鳴り、頬に熱い感触が走った。
「あ」
と言って、音響は立ったまま自分の右手を見つめる。
平手だった。
「ごめんなさい」
そう言ってうつむく姿を見てしまうと、頬の痛みなどもはやどうでもよく、怯えている少女をわざわざ怖がらせるようなことを言った自分の大人気なさに腹立ちを覚えるのだった。
「わかった。なんとかする」
安請け合いとは思わなかった。司書をしているオカルト好きの先輩に泣きつく前に、自分の力でなんとかできるんじゃないかという算段がすでに頭の中に出来上がりつつあったのだ。
「とりあえず、その鋏様の場所を教えてくれ」
頷くと、音響はバッグから可愛らしいデザインのノートを取り出して、地図を描き始めた。
案内する気はないようだった。得体の知れないものに怯えている今は、それも仕方がないのかも知れない。
山への上り口までは簡単だが、地蔵のある場所までが分かりにくいはずだった。ところが、途中の目立つ木のいくつかに印がしてあるのだという。誰がつけたのかは分からないそうだが、過去から現在において秘密を共有している女子生徒たちのいずれかなのだろう。
「でもあんまり期待すんなよ」
音響は神妙に頷いた。
「でもどうして俺なんだ」
「さっき言った」
「2年も前のことを今更思い出したのか」
「……」
彼女はペンを止め、それを指の上でくるくると器用に回す。
「あのくだらないサークルにひとり、ホンモノがいるって聞いてた。倉野木っていうのが、あなたじゃないの」
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