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田舎−中編2−
師匠は秘密めかして仰向けのまま指を立てる。

「犬神というのはその名前とは裏腹に、小さな鼠のような姿で描かれることが多い。もしくは豆粒大の大きさの犬だとする記録もある。犬神筋はそれらを敵対する者にけしかけ、腹痛や高熱など急激な変調をもたらす。犬神にとりつかれた者は山伏や坊主などに原因を探ってもらい、どこの誰それの犬神が障っているのだと明らかにする。その後は、原因と判じられた犬神筋の家へ赴いて……」
「貢物を差し出すわけですか」

口を挟んだ俺に、師匠は首を振る。

「文句を言いに行くんだよ。人の道に外れたことをしやがって、と」

犬神の伝説が息づいているのは、農村地帯がほとんどなのだそうだ。人と人との関わりが深く濃密な、狭い共同体の中でなにか理不尽な災いが起こった場合、それを誰か特定の人間のせいにしてしまうのは、日本の古い社会構造の歯車の一つなのだろう。それが差別階級を生む要因にもなっている。ところが師匠は、この犬神筋についてはいわゆる被差別部落民とは少し意味合いが違うと言う。

「犬神筋は、裕福な家と相場が決まっている。それも、農村に商品経済、貨幣経済が浸透しはじめたころに生まれた新興地主がほとんだ。土地を持つこと、そして畑を耕すことがすべてだった農村の中に、土地を貸し、貨幣を貸し、商品作物を流通させることで魔法のように豊かになっていく家が出現する。そしてこのパラダイムシフトを理解できない人々は思う。"あの家が金持ちになったのは、犬神を使っているからだ"と。我々の土地を、財を、貪欲に欲しがり、犬神を使役してそれらを搾取しているのだと。金がないのも、土地がないのも、腹を下したのも、怪我をしたのも全部犬神筋のせいだ、というんだ。そう信じることで、共同体としてなんらかのバランスを保とうとしているのかも知れない」

気がふれるということを、昔の人は狐がついたとか、犬がついたとか言うだろう?師匠はそう続けながら指を頭のあたりで回す。




「これは犬神に限らず、狐憑きも蛇神筋も猿神筋も同じだ。気がふれたフリをするのはとても簡単で、しかも何が憑いているのかを容易に表現できるからだ。狐なら狐の真似を、犬なら犬の真似をすればいい。そうすれば、憑き物筋という家が存在し、それが他に害を成しているということを、搾取されている人々の間で再確認することができる」

ようするに「やらせ」なのだ、というように俺には聞こえた。犬神は、なにかおどろおどろしい存在なのではなく、いや、それ自体が人の心の闇を秘めているにせよ、農村における具体的な不満解消のシステムの一つに過ぎないのだと。そう聞こえたのだった。

しかし師匠はふいに押し黙る。俺はその沈黙の中で、前日にあの四つ辻で京介さんが倒れたシーンと、そのあとに襲われた悪寒が脳裏をかすめ、ジワジワと気分が悪くなっていった。

「犬神の作り方として伝えられる記録に、こんなものがある。まず、犬を土中に埋め、首だけを出して飢えさせる。そして飢えが極限にきたところで餌を鼻先に置き、犬がそれにかぶりつこうと首を伸ばした瞬間にその首を鉈で刎ねる。"念"の篭ったその首を箱に納めて術を掛け、犬神とする。その時、残された胴体は道に埋めたままとし、その上を踏みつけられることで犬の「念」は継続し、また強固なものになっていく。その道が人の行き来の多い、四つ辻であればなお理想的とされる」
「うっ」

思わず吐き気がして口を押さえた。嫌な予感が頭の中でパチパチと音を立てているような気がした。

ユキオが原付に乗ってやって来たのは、朝の10時過ぎだった。

「おー、リュウ。お出迎えとは珍しいにゃあ」

そう言いながら、軒先に座っているリュウの頭を撫でた。俺も朝方、飯を食べにノソノソと犬小屋から這い出てきたリュウの顔をじっくりと観察したが、記憶のヴェールは「自信ないけど、リュウらしい」という程度にしか、真実に近寄らせてくれなかった。

「じゃあさっそく行こう」

ユキオが原付で先導し、俺たちは師匠の運転で伯父に借りた車に乗ってついていった。最初京介さんが運転席に乗ろうとすると、師匠が

「初心者マークは大人しく後ろに乗ってろ」

というようなことを言って、

「そっちも大した腕じゃないくせに」

と言い返され、険悪なムードになりかけたことを言い添えておく。

ユキオの「先生」は、本当に学校の先生だったらしい。ユキオは小学校の頃に教わったことがあるそうだ。定年になり、子供たちが独り立ちすると山奥に土地を買って住まいを構えて奥さんと二人で暮らしているとのことだった。

「こんな田舎で公務員なんてやってると、デントーってのを守る義務から逃げれんがよ」

出掛けにユキオはそう言ったが、神楽を習っていること自体はまんざら嫌でもない様子だった。

「先生はちょっと気難しいき、変なこと言うても気ぃ悪うせんとって下さい」

俺は幼い頃に見た白装束の太夫さんの神秘的な横顔を姿を思い浮かべた。

車は一度国道に出てから川沿いを走り、再び山側へ折れるとそこからは延々と山道を上って行った。道は悪く、割れた岩のかけらのようなものがアスファルトの上のそこかしこに転がっている。

「これって落石じゃないのか」

と師匠はぶつぶつ言いながらも慎重に石を避けていく。

昨日より幾分日差しは穏やかで、車の窓を開けると風が入ってちょうどいい涼しさだ。山の斜面に蛇の黒い胴体を見た気がして身を乗り出した時、後部座席のCoCoさんがふいに口を開いた。

「バイクから、離れない方がいい」

さっきまで隣の京介さんを意味なくくすぐって騒いでいたのに、一変して真剣な響きの声だったので思わず前方に視線をうつす。ユキオを見失いそうになっているのかと思ったが、適度な距離を保ったまま車はついていけている。

どういう意味だったのだろうとCoCoさんの方を振り返ろうとした時、不思議なことが起こった。ユキオの原付が加速した様子もないのにスルスルと先へ先へと遠ざかって行くのだ。坂道でこっちの車の速度が落ちたのかと一瞬思ったが、そうではない。速度メーターは同じ位置を指したままだ。

何が起こっているのか理解できないうちに車は原付から離され、ユキオの白いヘルメットはこちらを振り向きもしないで曲がりくねる山道の奥へと消えて行こうとしていた。

「アクセル」

京介さんが鋭く言ったが、師匠は

「踏んでる」

とだけ答えて真剣に正面を見据えている。こちらが遅くなったわけでも、原付が早くなったわけでもない。俺の目には道が伸びていっているように見えた。周囲を見回すが、同じような山中の景色が繰り返されるだけで、一体どこが「歪んで」いるのかわからない。

そうしているうちに完全にユキオの原付を見失った。道は一本道だ。追いつくまでは、このまま進むしかない。師匠は一度ギアを落としたが、回転音が派手になるだけで効果がない。

「まずいなあ」

ギアを戻しながら呟く。

「これって、なんの祟り?」

師匠の軽い調子に、京介さんは

「知らない」

と突き放す。
俺は今起きていることを信じられずに、ひたすら目をキョロキョロさせていた。まだ午前中の早い時間帯だ。すべてが冗談のように思える。

「実にまずい」

前方に目を向けると、道がますます狭くなっているような気がした。カーブもきつくなっていて、フロントガラスの向こう側の景色はいちめんに屹立する木、木、木。緑色と山の黒い地肌が壁となって迫ってくるかのようだ。ギリギリ二車線の幅が、今は完全に一車線になっている。ガードレールも消えさってしまった。

右側は渓谷だ。転落したらまず、命はない。反応を見る限り、俺が見ているものを他の3人も見ているのは間違いない。

集団幻覚?そんな言葉が頭をよぎる。しかし、車のアクセルの効果までそんなものに束縛されてしまうのだろうか。

「なあ」

と師匠がCoCoさんに呼びかけた。

「これって、夢じゃない?」

CoCoさんは首を横に振る。師匠は少し経ってから頷く。奇妙なやりとりだ。

「なにか他に異変が起きてくれれば、ヒントになるんだけどな。たとえば木の枝に」

人間がつりさがっているとか……囁くような師匠の口調に、思わず身を竦める。

本当に周囲の山林のなかにそんな不気味な光景が現れるような気がして、チリチリとうなじの毛が逆立つ。前へ伸びる道と後ろへ伸びる道。その両端が、曲がりくねる山のどこかで繋がっているようなイメージが頭を掠め、ゾクリとした。

師匠は迫ってくる鋭いカーブに際どくハンドルを切り続けている。まるで止まることを畏れているようだった。

異変、異変。そんなフレーズが頭の中で繰り返されていると、視線の中に見覚えのあるものがチラッと映った気がした。

山の斜面に目を凝らすが、あっと言う間に通り過ぎる。

少しして、前方にもう一度同じものが現れた。それを見た瞬間俺は叫んだ。

「蛇が!」

師匠が素晴らしい反応でブレーキを掛ける。車はカーブする斜面に半ば擦りそうになりがら止まった。京介さんが後部座席のドアを開けて飛び降りる。そしてすぐさま木の根っこをよじ登り、山肌に横たわった黒い蛇の姿をとらえた。俺たちも車から降りて近づく。

見ると、その黒い頭には長い釘が深々と突き通っている。頭から顎まで貫かれて地面に縫い付けられ、蛇は死んでいた。丈の短い草の中にのたうつその体が、地下水のように湧き出たどす黒い血のように見える。

京介さんが右手の指を絡ませ、その釘を抜いた。その瞬間、上空から。上空から、としか言いようがない場所から耳をつんざく様な悲鳴が聞こえた。男とも女とも、そして人とも獣ともつかない声だった。

しかし次の瞬間、説明しがたい感覚なのであるが、一瞬にしてそれが幻聴だとわかったのだった。そしてなにか目の前の光景が今にもペロリと裏返りそうな、そんな不気味な予感に襲われる。ざわざわと木の枝が鳴って、俺は足を棒のように固まらせていた。

「車に戻れ」

という師匠の声に我に返ると、逃げ込むように助手席に飛び乗った。シートベルトをする暇もなく、車は急発進する。そして次のカーブを曲がるや否や、ユキオの原付が目の前に現れた。遠ざかって行く前となにも変わらない様子で山道を走り、白いヘルメットがゴトゴトと揺れている。道もいつの間にか元の幅に戻り、ガードレールも所々へこみながらもちゃんと両側にある。

俺は言葉を失って、首をゆるゆると振る。まるでさっきまで緑色の迷宮に閉じ込められていた間、時間がまったく経過していなかったかのように、すべてはすっきりと繋がっていた。

今まで心霊体験の類を数知れず味わってきた俺にも、まるで白昼夢のような出来事に呆然とせざるをえなかった。

「やってくれたな」

師匠が深く息を吐いて、背もたれに体を預けた。

「今のが人間の仕業とは」

言葉の端から、ゆらゆらと青白い炎が立つような声だった。

京介さんの方を見ると、さっきの蛇に打ち込まれていた釘を手にしている。

「持っていろ」

そう師匠が言ったとたん、京介さんは窓からそれを投げ捨てた。

「おい」

怒るというより、溜息をつくような調子で師匠が咎める。京介さんは、

「よけいな物がよけいな物を招くんだよ」

と言って横を向いた。師匠は恨めしそうにバックミラー越しに睨んでいる。

前を行くユキオがハンドルから片手を離し、山側を指さした。もうすぐ目的地だ。ということらしい。

まもなく俺たちは山の中にぽつんと立つ一軒家に辿り着いた。伯父の家によく似た造りの日本家屋だ。広い庭に鶏を飼っている。ユキオがヘルメットを脱ぎながら

「せんせー」

と家に向かって声をかけ、俺は後ろから近づいてその耳元に囁いた。

「なあ、さっき俺たちの車を見失わなかったか」
「いや」

ユキオは怪訝そうに首を振る。そうだろうとは思った。おそらくあれは、俺たちの霊感に反応したのだろう。ユキオには何事もない山道にすぎなかったはずだ。だが、俺たちが狙われたのは明らかだった。なにか、「警告」じみた悪意を感じたからだ。それは、京介さんが足から血を流したあの四つ辻で感じたものと同質のものだった。

俺は師匠の顔を見たが、首を横に振るだけだった。なりゆきにまかせよう、というように。

「電話しといた例の人たちです」

ユキオが玄関の中に体を入れながら奥に向かって言葉をかける。奥からいらえがあって俺たちは家の中へ招き入れられた。

畳敷きの客間に通され、その整然とした室内の雰囲気から正座して待った。廊下がきしむ音が聞こえ、白髪の男性が襖の向こうから姿を現した。ユキオの小学校の先生だったというので、もう少し若いイメージだったが、70に届こうという歳に見えた。

先生は客間の入り口に立ったままで室内を睥睨し、胡坐をかいているユキオを怒鳴った。

「おんしゃあ、どこのもんを連れてきたがじゃ」
「え」

と言ってユキオは目を剥いた。俺は驚いて仲間たちの顔を見る。先生は険しい表情をしたまま踵を返すと、足音も乱暴にその場から去ってしまった。それを慌ててユキオが追いかける。残された俺たちは呆然とするしかなかった。しかし師匠は妙に嬉しそうな顔をしてこう言う。

「あの爺さん、どこのモノを連れてきたのか、と言ったね。そのモノはシャと書く"者"じゃなくて、モノノケの"物"だぜ」

あるいは、オニと書く鬼(モノ)か……

師匠はくすぐったそうに身をわずかによじる。京介さんがその様子を冷たい目で見ている。やがてもう一度襖が開いて、先生の奥さんと思しきお婆さんが静々と俺たちの前にお茶を並べてくれた。

「あの」

口を開きかけた時、ユキオを伴って再び先生が眉間に皺を寄せたままで現れた。入れ違いにお婆さんが襖の向こうに消える。座布団をスッと引き寄せながら先生は俺たちの前に座った。ユキオも頭を掻きながらその横に控える。

「で、」

先生は深い皺の奥から厳しく光る眼光をこちらに向けて口を開いた。

「先に言うちょくが、わしは本来おまんのようなもんを祓う役目がある」

その目は師匠を見据えている。

「その上で聞きたいことというがはなんぞ」

師匠は怯んだ様子もなくあっさりと口を開いた。

「いざなぎ流の勉強を少し、させてもらいました。密教、陰陽道、修験道、そして呪禁道。それらが渾然一体となっているような印象を受けましたが、陰陽道の影響がかなり強く出ているようです。明治3年の天社神道禁止令とその後の弾圧から土御門宗家はもちろん、有象無象の民間陰陽師も息の根を止められていったはずですが、この地ではどうしてこんな現実的な形で残っているのでしょう」

先生は表情を崩さずに、

「知らん」

とだけ答えた。

「まあいいでしょう。法律の不知ってやつですか。そういえば『むささび・もま事件』ってのも舞台はこのあたりじゃなかったかな。……話がそれました。ともかくいざなぎ流はこの平成の時代に、未だに因縁調伏だとか病人祈祷だとかを真剣に行っているばかりか、"式"を打つこともあるそうですね」
「式王子のことか。……生半可に、言葉ばかり」
「まあ付け焼刃なのは認めますが。僕が知りたいのは実は犬神筋についてなのです」
「わしらには関係ない」

先生は淡々と返す。

「まあ聞いてください。ご存知でしょうが、犬神筋というのは四国に広く分布する伝承です」

師匠は正座したまま語った。

曰く、犬神を祓うことのできるわざの伝わる場所には、それゆえに犬神が社会の深層に潜む余地があるのだと。ましてそんな技法が日々の生活の中に織り込まれているこの地では、犬神もまた日常のすぐ隣に存在している。

「ここに来る途中、頭を釘で貫かれた蛇を見ました。明らかに呪いをかけるための道具立てです。もし仮に、誰かの使っている犬神の、その胴体を埋めてある秘密の場所を見つけられてしまったとしたら、その誰かは一体どうするのでしょうか」

師匠が言葉を途切れさせたその瞬間、みんなの手元に置いてある湯飲みが一斉にカタカタと鳴りはじめた。地震かと思い、とっさに電灯の紐を見る。紐はわずかに揺れていて、外から光の射す障子の白い紙も微かに振動していた。こぼれたお茶の雫を京介さんが指で掬い、じっと見つめている。俺はどうやらただの微弱な地震らしいと思ってなお、得体の知れない胸騒ぎがした。揺れが収まってから先生はゆっくりと口を開く。

「いね」

え? と問い返す師匠に、

「帰れ、という方言です」

と耳打ちする。

「それは、この地を去るほかないということですか」

師匠は急に立ち上がり、障子に近づくと骨に手をかける。サーッと木が擦れる心地よい音とともに、眩しい光が飛び込んできた。

縁側の向こうでは、庭につくられた垣根の中で鶏が地面をついばんでいる。その様子を見ながら、師匠がボソっと言った。

「全然騒ぎませんでしたね」

さっきの地震のことを言っているのだと気づくまで、少しかかった。確かに鶏の騒ぐ音はしなかった。

「なんとかなりませんか」

師匠の言葉に、先生は首を横に振るだけだった。ユキオはよくわからないままにオロオロしているように見えた。

「どうも僕はここではやたら嫌われてるみたいだなあ。フィールドワークのために郷土史研究家だとか民俗学の研究者が訪ねてくることだってあるでしょうに。そんな部外者もみんな追い返すんですか」
「人じゃのうて魔物がやってくりゃあ、つぶてで追い払うががつねじゃ」

魔物と来たよ。

師匠は声になるかならぬかという小声で足元にこぼし、また顔を上げた。

「魔物と言えば、いざなぎ流では目に見えない魔物を儀式に引っ張り出すために"幣"という紙細工を作るそうですね。魔群というんですか。川ミサキだとか、水神めんたつだとか、蛇おんたつだとか。神様を模したものも多いようですが。それぞれに決まった形の幣があって、切り方・折り方は師匠から弟子へ御幣集という形で伝えられると聞きました。ある資料で何点か挿絵を見たことがあります。ヤツラオだとかクツラオだとか、おどろおどろしい怪物も幣になってしまえば随分可愛らしくなってしまうと思いました。……ところで」

師匠は障子を閉め、一瞬室内が暗くなる。

「犬神の幣がないのはどうしてですか」

誰の気配ともしれない、ハッとした空気が漂う。俺は固唾を飲んで師匠を見ている。

「どの資料を見ても出てこないんですよ。犬神を象った幣が。たまたまかも知れない。あるいは見落としかも知れない。でもどこか引っかかるんです。犬神は深く土地に食い込んだ魔物で、四国の各地に隠然と広がっている。いざなぎ流によって祓われる対象として、どうしてもっと目立っていないんでしょうか」

先生は師匠の視線を逸らすように天を仰ぎ、深く溜息をついた。そしてそれきり目を閉じて、なにも言葉を発しようとしなかった。

「わかりました。いにますよ」

いにますって、使い方合ってるよね。師匠は俺にそう言うと、先生に向かって頭を下げ、止める間もなく部屋から出て行 ってしまった。残された俺たちもいたたまれない雰囲気になって、腰を上げざるを得なかった。出されたお茶に誰ひとり手もつけないままに退散する羽目になるとは思わなかった。と、俺の隣で京介さんが目の前の湯飲みに手を伸ばし、一気に飲み干した。

帰れと言われた去り際にそんなことをするなんて、少し京介さんのイメージとはズレがあり、奇妙な行動に思えた。すると立ち上がりざま、俺にだけ聞こえる声でこうささやくのだ。

「貸してるタリスマンは持ってきたか」

かぶりを振ると、独り言のように

「気をつけろよ」

と言って部屋から出て行った。俺はなにか予感のようなものに襲われて、自分の前に置かれた湯飲みを掴んだ。

冷たかった。

思わず手を離す。

出された時は確かに湯気が出ていた。間違いない。あれからほんのわずかしか時間は経っていないというのに。一瞬のうちに熱を奪われたかのように、湯飲みの中のお茶は冷えきっていた。まるで汲み上げたばかりの井戸水のように。


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