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怖い夢
幽霊を見る。大怪我をする。変質者に襲われる。どんな恐怖体験も、夜に見る悪夢一つに勝てない。そんなことを思う。実は昨日の夜、こんな夢を見たばかりなのだ。

自分が首だけになって家の中を彷徨っている。なんでもいいから今日が何月何日なのか知りたくてカレンダーを探している。誰もいない廊下をノロノロと進む。その視界がいつもより低くて、ああ自分はやっぱり首だけなんだと思うと、それがやけに悲しかった。

ウオーッと叫びながら台所にやってくると、母親がこちらに背を向けて流し台の前に立っている。ついさっきのことなのに何故かもう忘れてしまったが、俺はなにか凄く恐ろしいことを言いながら母親を振り向かせた。するとその顔が、   だった。

という夢。こんな夢でも、体験した人間は身も凍る恐怖を味わう。しかしそれを他人に伝えるのは難しい。4時間しか経っていないのにすでに目が覚める直前のシーンが思い出せない。けれど怖かったという感覚だけが澱のように残っている。

そんな恐怖を誰かと共有したくて、人は不完全な夢の話を語る。しかし上手く伝えられず、「怖かった」という主観ばかり並べ立てる。えてしてそういう話はつまらない。もちろん怖くもない。それを経験上わかっているから、俺はあまり怖い夢の話を人に語らない。

いや、違うのかもしれない。怖い夢を語るというのは、人前で裸になるようなものだと、心のどこかで思っているのかもしれない。それは情けなく、恥ずべきものなのだろう。夢の中の恐怖の材料はすべて自分自身の投影にすぎない。結局自分のズボンのポケットに入っているものに怯えるようなものなのだから。

大学2回生の春。俺は朝からパチンコに行こうと身支度を整えていた。目覚まし時計まで掛けて、実に勤勉なことだ。その情熱のわずかでも大学の授業へ向ければもっとましな人生になったかと思うと、少し悲しい。

ズボンを履こうとしているときに電話が鳴り、一瞬びくっとしたあと受話器をとると

「すぐ来い」

という女性の声が聞こえてきた。オカルト仲間の京介さんという人だ。「京介」はネット上のハンドルネームである。困りごとがあってこっちから掛けることはよくあったが、あちらから電話を掛けてくるなんて実にめずらしかった。俺はパチンコの予定をキャンセルして、京介さんの家へ向かった。

何度か足を踏み入れたマンションのドアをノックすると、禁煙パイポを加えた京介さんがジーンズ姿で出てきた。いったい何事かと、ドキドキしながらそして少しワクワクしながら部屋に上がり、ソファに座る。

まあ聞け、と言って京介さんはテーブルの椅子にあぐらをかき、語り始めた。

「すげー怖いことがあったんだ」

声が上ずり、落ち着かないその様子はいつもの飄々とした京介さんのイメージとは違っていた。

「一人でボーリングしてたら、やたらガーターばっかりなんだ。なんでこんな調子悪いかなと思ってると、トイレの前で誰かが手招きしてるんだよ。なんだあれって思いながら続けてると、またガーター連発。知らないだろうけど私、アベレージで180は行くんだよ。ありえないわけ。

それでまたちらっとトイレの方を見たら、誰かがすっと中に消えるところだったんだけど、その手がヒラヒラまた手招きしてる。気になってそっちへ行ってみたら、清掃中って張り紙がしてあった。でも確かにナカに誰か入っていったから、かまわずズカズカ乗り込んだら、ナカ、どうなってたと思う。女子トイレだったはずなのに、なぜか男子トイレで、しかもゾンビみたいなやつらが便器の前にずらっと並んでるわけ。それも行列を作って。

パニックになって私が叫んだら、そいつらが一斉にこっちを振り向いて、見るなコラみたいなことを言いながらこっちに近づいて来ようとし始めたんだよ。目なんか半分垂れ下がってるやつとかいるし。そいつらがみんな皮がズルズルになった手を、こう、ぐっと伸ばして・・・・・・」

そこまで聞いて、俺は京介さんを止めた。

「ちょっと、ちょっと待ってください。それってもしかして、ていうか、もしかしなくても夢ですよね」
「そうだよ。すげー怖い夢」

京介さんは両手をを胸の前に伸ばした格好のままで、きょとんとしていた。そのころから他人の夢の話は怖くない、という達観をしていた俺は尻のあたりがムズムズするような感覚を味わっていた。

自分の見た怖い夢の話をする人は、相手の反応が悪いとやたら力が入りはじめ余計に上滑りをしていくものなのだ。

「まあ聞けよ。そのゾンビどもから逃げたあとが凄かったんだ」

話を無理やり再開した京介さんの冒険談を俺は俯いてじっと聞いていた。

この人は、朝っぱらから自分の見た怖い夢を語るために俺を呼び出したらしい。まるっきりいつもの京介さんらしくない。いや、京介さんらしいのか。夢の話は続く。

俺は俯いたまま、やがて涙をこぼした。

「・・・・・・それで、自分の部屋まで逃げてきたところで、て、おい。なんで泣く。おい。泣くな。なんで泣くんだ」

俺は自然にあふれ出る涙を止めることができなかった。視線の端には、水が抜かれた大きな水槽がある。京介さんを長い間苦しめてきた、その水槽が。

「泣くなってば、おい。困ったな。泣くなよ」

俺はすべてが終わったことを、そのとき初めて知ったのだった。去年の夏から続く一連の悪夢が終わったことを。

結局俺は、さいごは蚊帳の外で。なんの役にも立てず。京介さんや彼女を助けた人たちの長い夜を、俺は翌朝のパチンコをする夢で過ごしていたのだった。

「まいったな。泣くほど怖いのか。こどもかキミは」

泣くほど情けなくて、恥ずべきで、そしてポケットに入れた魔除けのお守りをすべて投げ出したくなるほど、嬉しかった。京介さんの、夢を見た朝が、どうしようもなく嬉しかった。

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あきゅろす。
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