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ドッペルゲンガー−2−
俺は注文したオレンジジュースを飲みながらそう言った。そう言いながら、京介さんの様子がいつもと違うのを訝しく思っていた。あの、飄々とした感じがない。逼迫感とでもいうのか、声がうわずるような気配さえある。ドッペルゲンガーだな、と言ったその言葉からしてそうだった。

「どうしたんですか」

とうとう口にした。京介さんは

「うん?」

と言って目を少し伏せた。そして溜息をついて、

「らしくないな」

と話し始めた。

京介さんがもう一人の自分に気づいたのは小学生のときだった。はじめは、ふとした拍子に視線の端に映る人間の顔を見てオバケだと思ったという。視界のいちばん隅。そこを意識して見ようとしても見えない。なにかいる、と思ったのはあるいはもっと昔からだったかも知れない。でも視線の端の白っぽいそれが人の顔だとわかり、オバケだと思ったすぐあと、

「あ、自分の顔だ」

と気づいてしまった。それは無表情だった。立体感もなかった。そこにいるような存在感もなかった。顔をそちらに向けると、自然とそれも視線に合わせて移動した。まるで逃げるように。

いつもいるわけではなかった。けれど疲れたときや、なにか不安を抱えているときにはよく見えた。怖くはなかった。

中学生のとき、ドッペルゲンガーという名前を知った。その本には、ドッペルゲンガーを見た人は死ぬと書いてあった。そんなのは嘘っぱちだと思った。

そのころには、それは顔だけではなかった。トルソーのように上半身まで見えた。ただその日着ている自分の服と同じではなかったように思う。どうしてそんなものが見えるのか、不思議に思ったけれどだれかに話そうとは思わなかった。自分と、自分だけの秘密。

高校生のとき、自己像幻視という病気を知った。精神の病気らしい。嘘っぱちだとは思わなかった。ドッペルゲンガーにしても、自己像幻視にしても、結局自分にしか見えないなら同じことだ。そういう病気だとしても、同じことなのだった。

そのころには、全身が見えていた。視線の隅にひっそりと立つ自分。表情はなく、固まっているように動かない。そして、それがいる場所をだれか他の人が通ると、まるでホログラムのように透過してしまい揺らぎもなくまたそのままそこに立っているのだった。

全身が見えるようになると、それからは特に変化はないようだった。相変わらず疲れたときや、精神的にピンチのときにはよく見えた。だからといって、どうとも思わない。ただそういうものなのだと思うだけだった。


それが、である。最近になって変化があらわれた。ある日を境に、それの「そこにいる感じ」が強くなった。ともすればモノクロにも見えたそれが、急に鮮やかな色を持つようになった。そしてその立体感も増した。だれかがそこを通ると「あ。ぶつかる」と一瞬思ってしまうほどだった。ただやはり他の人には触れないし、見えないのであった。

ところが、ある日部屋でジーンズを履こうとしたとき、それが動いた。ジーンズを履こうとする仕草ではなく、意味不明の動きではあったが確かにそれの手が動いていた。

それから、それはしばしば動作を見せるようになった。けっして自分自身と同じ動きをするわけではないが、なにかこう、もう一人の自分として完全なものなろうとしているような、そんな意思のようなものを感じて気味が悪くなった。

相変わらず無表情で、自分にしか認識できなくて、自分ではあるけれど少し若いようにも見えるそれが、はじめて怖くなったという。

京介さんの独白を聞き終えて、俺はなんとも言えない追い詰められたような気分になっていた。逃げてきた先が、行き止まりだったような。そんな気分。

「ある日を境にって、いつですか」

なにげなく聞いたつもりだった。

「あの日だ」
「あの日っていつですか」

京介さんはグーで俺の頭を殴り、

「またそれを言わせるのかこいつ」

と言った。俺はそれですべてを理解し、すみませんと言ったあとガクガクと震えた。

「どう考えても、無関係じゃないな」

おまえのも含めて。京介さんは最後のトーストを口に放り込みコーヒーで流し込んだ。俺はそのときには、京介さんの部屋へタリスマンを返しに行った時の違和感の正体に気がついてしまっていた。

「部屋の四隅にあった置物はどうしたんです」

あの日、結界だと言った4つの鉄製の物体。それが1週間前には部屋の中に見当たらなかった。

「壊れた」

その一言で、俺の蚤の心臓はどうにかなりそうだった。

「それって、」

しゃくり上げるように、俺が口走ろうとしたその言葉を京介さんが手で無理やり塞いだ。

「こんなところでその名前を出すな」

俺は震えながら頷く。

「ドッペルゲンガーっていうのは、大きくわけて2種類ある。自分にしか見えないものと、他人にも見えるもの。前者は精神疾患によるものがほとんどだ。あるいは一過性の幻視か。そして後者はただの似てる人物か、あるいは生霊のような超常現象か。どちらにしても、異常な現象にしては合理的な逃げ道がある。私が前者でおまえが後者だが、それが同じ出来事に触れた二人に現れたというのは、しかし偶然にしては出来すぎだ」

つまり、あの人なわけですね。俺は頭の中でさえ、その名前を想起しないように意識を上手く散らした。

「甘く見ていたわけじゃないんだが、まずいなこれは」

京介さんは眉間に皺を寄せてテーブルを指でトントンと叩いた。俺は生きた心地もせず、ようやくぼそりと呟いた。

「こんなことならタリスマン、返すんじゃなかった」

その瞬間、京介さんが俺の胸倉を掴んだ。

「今なんて言った」
「だ、だからあの魔除けのなんとかいうタリスマンを返したのは失敗だったって言ったんですよ。また貸してくれませんか」

なぜか京介さんは珍しく険しい形相で強く言った。

「なに言ってるんだ、おまえはタリスマンを返してないぞ」

俺はなにを言われているのかわからず、うろたえながら答える。

「先週返しにいったじゃないですか、ほら風呂入るから帰れって言われた日ですよ」
「まだ持ってろって言ったろ?! あれをどうしたんだ」
「だから返したじゃないですか。だから今はないですよ」

京介さんは俺の胸元を触って確かめた。

「どこで無くした」
「返しましたって。受け取ったじゃないですか」
「どうしたっていうんだ。おまえは返してない」

会話が噛み合わなかった。俺は返したと言い、京介さんは返してないと言う。嘘なんか言ってない。俺の記憶では間違いなく京介さんにタリスマンを返している。そして少なくとも、いま俺が魔除けの類をなにも持っていないのは確かだった。

京介さんはいきなり自分のシャツの胸元に手を突っ込むと、三角形が絡み合った図案のペンダントを取り出した。

「これを持っていろ」

それはたしか、京介さん以外の人が触ると力が失せるとか言っていたものではなかったか。

「よく見ろ。あれは六芒星で、これは五芒星」

そう言われればそうだ。

「とりあえずはこれで、もう一人のおまえにどうこうされることはないだろう。だがなにが起こるかわからない。しばらく慎重に行動しろ。なにかあったら、私か・・・・・・」

そこで京介さんは言葉を切り、真剣な表情で続けた。

「あの変態に連絡しろ」

あの変態とは、俺のオカルト道の師匠のことだ。京介さんは師匠とやたら反目している。はずだった。

「まったく」

と言って、京介さんは喫茶店の椅子に深く沈んだ。そして「ドッペルゲンガーは」と繋いだ。

「死期が近づいた人間の前に現れるっていうのはさ、嘘っぱちだと思ってた。ずっと前から見えてたのに、今まで生きてたわけだし。でも、違うのかも知れない。ただの幻が、いまドッペルゲンガーになろうとしているのかも知れない」

俺は死にたくない。まだ彼女もいない。童貞のまま死ぬなんて、生き物として失格な気がする。

「その、もう一人の京介さんは今もいますか」

うつむき加減にそう聞くと、京介さんは頷いて長い指でスーッと側方の一点を指し示した。そこにはなにも見えなかった京介さんの指先は店内の一つの席をはっきり指していたのに、そこにはだれも座っていなかった。

店内はランチタイムで混み始め、ほとんどの席が埋まってしまっているというのに、そこにはだれも座っていないのだった。


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