黒い手−2− 『黒い手を手に入れた』日曜日 僕が目に留めた音響の書き込みだ。そしてその次の音響の書き込みは・・・・・・ 『いーよ』金曜日 5日開いている。ちょうどそんなペースなのだ。だから、おかしい。その翌日の土曜日に音響は黒い手を僕にくれた。だから、おかしい。音響が黒い手を手に入れてから、その土曜日で6日目なのだ。 黒い手に出会えたら願いがかなうそのためには黒い手を1週間持っていないといけない。たとえどんなことがあっても。信じてないなら、持っていてもいいはずだ。あとたった1日なんだから。それでなにも起きなければ、「やっぱあれ、ただの噂だった」と言えるのだから。 信じているなら、持っていなければならないはずだ。あとたった1日なんだから。それで願いがかなうなら。どうしてあとたったの1日、持っていられなかったんだろう。 頭の中に、箱を持った僕をファミレスのガラス越しにじっと見ていた音響の姿が浮かぶ。当時そんなジャンルの存在すら知らなかったゴシックロリータ調の格好で、確かにこっちを見ていた。その人形のような顔が、不安げに。ただのマネキンの腕なのに。 僕は知らず知らずのうちに触っていた右頬に、ギクリとする。忘れそうになっていたが、さっきの冷たい手の感覚はなんなのだ。振り返ると、箱はテーブルの上にあった。黒い手は箱の中に、そして蓋の下に。一瞬びくっとする。 僕はゾクゾクしながら思い出そうとする。「放り出した」というのはもちろんレトリックで、適当に置いたというのが正しいのだが、僕は果たして黒い手を箱に戻したのだったか。 箱はぴっちりと蓋がされて、当たり前のようにテーブルに横たわっている。思い出せない。無意識に、蓋をしたのかも知れない。でも確かなことは、僕にはもうあの蓋を開けられないということだ。 徐々に冷たさが薄れかけている頬を撫でながら生唾を飲んだ。5角形と5本の棒。1本だけ太くて5角形の辺1つに丸々面している。親指の位置が分かればどっちかくらいは分かる。その頬の冷たい部分は右手の形をしていた。 次の日、つまり5日目。僕は師匠の家へ向かった。音響は5日目までは持っていた。正確には6日目までだが、少なくとも5日目までは持っていられた。 僕はこれから起こることが恐ろしかった。多分、箱の位置が変わったり、頬を撫でられたりといったことは文字通り触りに過ぎないのではないかという予感がする。こんなものはあの人に押し付けるに限る。 師匠の下宿のドアをノックすると、 「開いてるよ」 という間の抜けた声がしたので 「知ってますよ」 と言いながら箱を持って中に入る。胡坐を組んでひげを抜いていた師匠が、こちらを振り向いた。 「かえせよ」 え? 何を言われたかよくわからなくて聞き返すと、師匠は 「俺いまなにか言ったか?」 と逆に聞いてくる。よくわからないが、とりあえず黒い手の入った箱を師匠の前に置く。なにも言わないでいると、師匠は 「はは〜ん」 とわざとらしく呟いた。 「これかぁ」 さすが師匠。勘が鋭い。しかし続けて予想外のことを言う。 「俺の彼女が、『逃げろ』って言ってたんだが、このことか」 その時はなんのことかわからなかったが、後に知る師匠の彼女は異常に勘が鋭い変な人だった。 「で、なにこれ」 と言うので、一から説明をした。なにも隠さずに。普通は隠すからこそ次の人に渡せるのだろう。しかしこの人だけは隠さないほうが、受け取ってくれる可能性が高いのだった。 ところがここまでのことを全部話し終えると、師匠は言った。 「俺、逃げていい?」 そして腰を浮かしかけた。僕は焦って 「ちょっと、ちょっと待ってください」 と止めに入る。この人にまで見捨てられたら、僕はどうなってしまうのか。 「だけどさぁ、これはやばすぎるぜ」 「お払いでもなんでもして、なんとかしてくださいよ」 「俺は坊さんじゃないんだから・・・・・・」 そんな問答の末、師匠はようやく 「わかった」 と言った。そして 「もったいないなあ」 と言いながら押入れに首をつっこんでゴソゴソと探る。 「お払いなんてご大層なことはできんから、効果があるかどうかは保障しないし、荒療治だからなにか起こっても知らんぞ」 そんなもったいぶったことを言いながら、手には朽ちた縄が握られていた。 「それ、神社とかで結界につかう注連縄ですか」 と問いかけるが、首を振られた。 「むしろ逆」 そう言いながら師匠は、黒い手のおさまった箱をその縄でぐるぐると縛り始めた。 「富士山の麓にはさぁ。樹海っていう、自殺スポットていうかゾーンがあるだろ。そこでどうやって死ぬかっていったら、まあ大方は首吊りだ。何年も、へたしたら何十年も経って死体が首吊り縄から落ちて、野ざらしになってるとそのまま風化して遺骨もコナゴナになってどっかいっちまうことがある。でも縄だけは、ぶらぶら揺れてんだよ。いつまで経っても。これから首を吊ろうって人間が、しっかりした木のしっかりした枝を選ぶからだろうな」 聞きながら、僕は膝が笑い始めた。なに言ってるの、この人。 「一本じゃ足りないなあ」 また押入れから同じような縄を出してくる。キーンという耳鳴りがした。 「どうやって手に入れたかは、聞くなよ」 こちらを見てニヤっと笑いながら、師匠は箱を見事なまでにぐるぐる巻きにしていった。そのあいだ中、師匠の部屋の窓ガラスをコンコンと叩く音がしていた。絶対に生身の人間じゃないというのは、師匠に聞くまでもなくわかる。わーんわーんという羽虫の群れるような音も、天井のあたりからしていた。 師匠はなにも言わず、黙々と作業を続ける。そのうちドアをドンドンと叩く音が加わり、電話まで鳴り始めた。僕は一歩も動けず、信じられない出来事に気を失いそうになっていた。 師匠が今しようとしていることに触発されて、騒々しいものたちが集まってきているような、そんな気がする。耳を塞いでも無駄だった。ギィギィというドアが開いたり閉まったりするような音が加わったが、恐る恐る見てもドアは開いてはいない。 「うるせぇな」 師匠がボソリと言った。 「おい、なにか喋ってろ。なんでもいいから。こんなのは静かにしてるからうるせぇんだ。静寂が耳に痛いって、あるだろう。あれと同じだ」 それを聞いて、僕は 「そうですね」 と答えたあと何故か九九を暗唱した。とっさに出たのだがそれだったわけだが、いんいちがいちいんにがに・・・・・・と口に出していると、不思議なことにさっきまであんなに存在感のあった異音たちが、一瞬で世界を隔てて遠のいていくようだった。 しかしその中で何故か電話は甲高く鳴り響き続けていた。 「これは本物じゃないですか」 と言って俺が慌てて取ろうとすると、師匠が 「出るな」 と強い口調で制した。その瞬間に、電話は鳴り止んだ。俺は受話器を上げようとした格好のままで固まり、冷や汗が額から流れ落ちた。 「さあ、できたぞ。どこに捨てるかな」 箱は縄で完全にがんじがらめにされ、ところどころに珍しい形の結び目ができている。 思案した結果、師匠の軽四で近くの池まで行くことにした。僕が助手席で箱を抱えて、ガタガタと揺られながら「南無阿弥陀仏」やら「南無妙法蓮華経」やら、知っているお経をでたらめに唱えていると、あっという間に池についた。そこで不快な色をした濁った水の中に二人してせぇの、と勢いをつけて投げ入れた。ボチャンと、一番深そうな所へ。 石を巻きつけていたので箱はゴボゴボと空気を吐き出しながら沈んでいった。その石も耳を塞ぎたくなるような逸話を持っていたらしいが、僕はあえて聞かなかった。 すべてを終えてパンパンと手を払いながら師匠が言った。 「問題はもう1本の手だけど、まあ本体はやっつけた方みたいだから、大丈夫だろう」 自動車のエンジンをかけながら、 「それにしても」 と続ける。 「都市伝説が、実体を持ってたら反則だよなぁ。正体がわからないから怖いんじゃないか」 僕にはあの箱の意味も黒い手の意味もわからなかったので、なにも言えなかった。 「まあこれで都市伝説としては完成だ。実存が止揚してメタレベルへ至ったわけだ。黒い手に出会えたら、か。確かにちょっとクールだな。ところで」 師匠がこっちを見た。 「おまえはなにが願いだったんだ」 あ、と思った。 『黒い手に出会えたら願いがかなう』 全然意識してなかった。ひたすら巻き込まれた感が強くて、そんな前提を忘れていた。 「もう関係ないですよ」 そう言うと師匠は 「ふーん」 と鼻で応えて前を向いた。 それからちょうど1週間目の夜。そういえばあれ、どうなった?という書き込みが例のスレッドにあった。 「まだ生きてるかー?」 との問いかけに 「なんとか」 と書き込んでみる。 「願いはかなった?」 「なんにも起きないよ」 音響は現れない。 「だれか箱いる?」 「だってガセねたじゃん」 ・・・・・・ もうこのスレッドに来ることもないだろう、と思う。ウインドウを閉じようとすると、 「ほんとに、ほんとになにもなかった?」 しつこく聞いてくるやつがいた。僕に警告してくれた三つ編み女だろうと思われる。 「知りたかったら、黒い手に出会えばいい」 そう書いて、窓を閉じた。それから、ただの一度も黒い手の噂を聞かなかった。 [*←][→#] |