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病院−2−
PTやOTというリハビリ中心の訪問業務と違い、ナースは末期の患者を訪問することが多い。病院での死よりも、自分の家での死を家族が、あるいは自分が選択した人たちだ。多ければ年に10件以上の死に立ち会うこともある。

そんなことがあると、今更ながら病院は人の死を扱う場所なのだと気づく。複数回訪問の多さから薄々予感されたことではあったが、ついさっきまでその人のレセプトを仕上げていたばかりの俺にはショックが大きかった。

そして、いま目が開けられないのは、そこにその人がいるからだった。

その頃は異様に霊感が高まっていた時期で、けっして望んでいるわけでもないのに、死んだ人が見えてしまうことがよくあった。高校時代まではそれほどでもなかったのに、大学に入ってから霊感の強い人に近づきすぎたせいだろうか。

「じゃあ、これで失礼します。お疲れ様でした」

ナースが帰り支度をするのを音だけで聞いていた。そして蝿が唸っているような耳鳴りが去るのをじっと待った。二つの気配がドアを抜けて廊下へ消えていった。

俺はようやく深い息を吐くと、汗を拭った。たぶんさっきのは、とり憑いたというわけでもないのだろう。ただ「残って いる」だけだ。明日にはもう連れて来ることはないだろう。俺は、ここに「残らなかった」ことを心底安堵していた。その日も夜遅くまで残業しなければならなかったから。

その次の日。もう終業間近という頃。不謹慎な気がして、死んだ人のことをあれこれ聞けないでいると、所長の方から話しかけてきた。

「あなた見えるんでしょう」

ドキっとした。事務所には俺と所長しかいなかった。

「私はね、見えるわけじゃないけど、そこにいるってことは感じる」

所長は優しい声で言った。そういえば、この人はあの師匠の知り合いなのだった。

「じゃあ、昨日手を合わせていたのは」
「ええ。でもあれはいつでもする私の癖ね」

そう言ってそっと手を合わせる仕草をした。

俺は不味いかなと思いつつも、どうしても聞きたかったことを口にした。

「あの、夜中に人のいないベッドからナースコールが鳴るって、本当にあったんですか」

所長は溜息をついたあと、答えてくれた。

「あった。仲間からも聞いたし。私自身も何度もあるわ。でもそのすべてがおかしいわけでもないと思う。計器の接触不良で鳴ってしまうことも確かにあったから。でもすべてが故障というわけでもないのも確かね」
「じゃ、じゃあこれは?」

と所長の口が閉じてしまわないうちに俺は今までに聞いた噂話をあげていった。所長は苦笑しながらも、一々


「それは違うわね」
「それはあると思う」

と丁寧に答えてくれた。

今考えれば、こんな興味本位なだけの下世話で失礼な質問をよく並べられたものだと思う。しかしたぶん所長は、師匠から俺を紹介された時、なにか師匠に含められていたのではないだろうか。

ところが、ある質問をしたときに所長の声色が変わった。

「それは誰から聞いたの?」

俺は驚いて思わず

「済みません」

と謝ってしまった。

「謝ることはないけど、誰がそんなことを言ったの」

所長に強い口調でそう言われたけれど、俺は答えられなかった。

どんな質問だったのか、はっきり思い出せないのだが、この病棟に関する怪奇じみた噂話だったことは確かだ。

不思議なことに、その訪問看護ステーションのバイトを止めてすぐに、この噂についての記憶が定かでなくなった。だがその時ははっきり覚えていたはずなのだ。ついさっき自分でした質問なのだから当たり前であるが。しかし誰からその噂を聞いたのかはその時も思い出せなかった。ナースの誰かだったか。それともPTか、OTか。病院の職員か・・・・・・

所長は、穏やかではあるが強い口調で

「忘れなさい」

と言うと帰り支度を始めた。

俺は一人残された事務所で、いよいよ切羽詰ったレセプト請求の仕上げと格闘しなければならなかった。やたらと浮き足立ってしまった心のままで。泣きそうになりながら、減らない書類の山に向かってひたすら手を動かす。夜蝉も鳴き止んだ静けさの中で一人、なにかとても恐ろしい幻想がやってくるのを必死で振り払っていた。

よりによって、次の日は10日の締め切りだった。どんなに遅くなってもレセプトを終わらせなくてはならない。チッチッチッという時計の音だけが部屋に満ちて、俺はその短針の位置を確認するのが怖かった。

多分日付変わってるなぁ、と思いながら段々脳みその働きが鈍くなっていくのを感じていた。いつのまにウトウトしていたのか、俺はガクンという衝撃で目を覚ました。意識が鮮明になり、そして部屋には張り詰めたような空気があった。

なぜかわからないが、とっさに窓を見た。その向こうには闇と、遠くに見える民家の明かりがぽつりぽつりと偏在しているだけだった。

次にドアを見た。なにかが去っていく気配があった気がした。そして俺の頭の中には、今日所長に質問した中にはなかった、奇怪な噂が新たに入り込んでいた。遠くから蝿の呻くような音がする。

「誰に聞いたのか」

とは、そういうことなのか。

『誰も言うはずがない話』あるいは、『所長以外、誰も知っているはずがない話』

たとえば、所長が最期を看取った人の話・・・・・・

そんな話を俺がしたら、今日のような態度になるだろうか。そんな噂話を俺にしたのは誰だろう。今、闇に消えたような気配の主だろうか。生々しい、そしてついさっきまでは知らなかったはずの奇怪な噂が頭の中で渦を巻いている。

俺はここから去りたかった。でも絶対無理だ。今あのドアを開けて、暗い廊下に出て、人の居ない病室を通り、狭い階段を降り、霊安室の前を行くのは。

俺はブルブルと震えながら、このバイトを引き受けたことを後悔していた。廊下の闇の中に、なにかを囁きあうような気配の残滓が漂っているような気がする。

それからどれくらい経ったのか。ふいに静寂を切り裂くような電話のベルが鳴った。心臓に悪い音だった。でも、生きている人間側の音だという、そんな意味不明の確信にすがりつくように受話器をとった。

「もしもし」
「よかったー。まだいた。ねえ、そこに○○さんのカルテない?」

聞き覚えのある声がした。ステーションのナースの一人だった。

「すっごく悪いんだけど、今○○さんの家から連絡があって、危篤らしいから、ほんと悪いんだけど今すぐカルテ持って○○さんの家に来てくれない?私もすぐ行くけど、そっち寄ってたら時間かかりそうだから」

俺は

「はい」

と言って、すぐにカルテを持って駆け出した。ドアを開けて、廊下を抜けて、階段を降りて、霊安室の前を通って、生暖かい夜風の吹く空の下へ飛び出した。

所詮は臨時の事務職だ。でもその日、人の命に関わる仕事をしたという確かな感触があった。鬱々と、下を向いてばかりでなくてよかった。人の死を、興味本位で語るばかりじゃなくてよかった。

こんな、夜の緊急訪問はよくあることらしい。でも俺にとって、特別な意味がある気がした。だから、カルテを届けたあとまた事務所に帰ってレセプト請求をすべて完成させるのに、全精力を傾けられたのだろう。

次の日、あまり寝てない瞼をこすりながら出勤すると、所長が

「お疲れ様。昨日は大変だったわね」

と話かけて来た。俺は、

「いえ、このくらい」

と答えたが、所長は首を振って

「やっぱりあなたには向いてない職場かもね」

と優しい声で言うのだった。

俺はそのあと、2週間くらいでそのバイトを止めた。いい経験になったとは思う。でも、人の死をあれほど受け止めなければならない職場は、やはり俺には向いてないのだろう。

俺があの夜、カルテを届けた人はその日の朝に亡くなった。そしてその死を看取ったナースは、すぐに次の訪問先へ向かった。また、その肩に死者の一部を残したままで。

※レセプト請求とは
診療報酬明細書のことで、医療機関(病院、医院など)が患者に対して行った医療行為に対し健康保険組合等に保険点数という形で医療費を請求する際の明細書のこと。当管理人も医療関連の仕事に従事しており、顧客から毎日イヤというほど質問を受けています(どうでもいいw)


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