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見えない男ー2ー



それから数日が経った。
『ピーチロア』のほうをずっと見ていたが、特に変った話はなかった。音響も現われない。
そして久しぶりに覗いた本来のマイホームである、『灰の夜明け』のログで、ビクリとするものを見つけた。

 音響:見えない××× 明日19時このまえのとこで

その新顔の単発の発言にはだれもレスをつけず、そのままスルーされていた。
音響だ。俺にはわかる。ピーチロアと灰の夜明け、両方を見ている俺にだけわかるメッセージ。ログは昨日。指定は今日だ。慌てて時計を見る。18時過ぎだ。よかった。まだ間に合う。
俺は身支度をしながら、胸が高鳴っているのを感じていた。その鼓動は、気になる女の子に会うという期待感から来るもののはずだった。けれど、その心地よい鼓動を乱す不穏な予感のほうが勝っていた。
音響はコンタクトが割れたと言っていた。当然、コンタクトを新調するため、俺と同じように眼科か眼鏡屋で視力検査をしたはずだ。そして……。
2人が同時に同じことを思ったとしたら、それは妄想だとしても、なにか意味のある妄想なのかも知れない。
そんなことを考えながら、ファミレスに着いた。先日ピーチロアのオフ会で行った店だ。
自転車を停めていると、「時間ぴったし」と声をかけられた。音響だ。いつものゴシックな服装に、今日は眼鏡をしていない。やはり、コンタクトを作ったのだ。
2人で店に入り、変な話をしても大丈夫なようにと、ガラガラの奥のほうの席を選んで座った。すぐさま店員が箸やフォークのセットと水を持ってくる。
音響はカツカレーとサラダを注文し、俺はポテトフライを頼んだ。
(こいつ、がっつり食う気か)
と少しあきれて、「奢らないからな」と念のために釘を刺した。眼鏡とコンタクトを買い直した者同士なのに、なぜこんなに財布の紐の堅さが違うのだろう。
カレーを食べ終わるまで待たされて、ようやく本題に入った。
「やっぱり眼鏡換えたんだ」
音響はそう言って手を伸ばし、俺の眼鏡を外してフレームを見た。そして眼鏡を返さないまま、こちらに指を立てて見せた。
「2本」
「残念、チョキでした」
俺は眼鏡を取り返し、「そっちはコンタクト、こっちは眼鏡。新しいものを買うには避けて通れないってわけか」と言うと、音響は「やっぱり気づいてたね」とテーブルに肘をついて顎を載せた。
「『見えない男』が見えない人の共通点についての仮説@、眼鏡をかけている」
音響は肘をついていないほうの手で、指を1本立てて見せる。
「わたしはコンタクトで、眼鏡はかけていないのに見えなかった。あなたはかけているのに見えていた。のでバツ。で、仮説A、近視」
それは俺が唱えた説だ。
「わたしもあなたも目が悪い。のに、あなたには見えた。のでこれもバツ」
音響は3本目の指を立てる。
「そして仮説B、この街で、他覚的屈折検査を受けたことがある」
想像していたより小難しい単語が出てきて、「んん?」と言いそうになったが、なんとか取り繕って頷いてみせる。そして言った。
「そう。眼鏡やコンタクトを作るには視力検査を受ける必要がある。あの機械で。大学に入る前に俺が住んでいたところでは、なかの絵は大型トラックが道の先にある構図だった。大学のいろんな地方の出身者に訊いてみたけど、気球の絵のパターンがほとんどだった」
「逆に、この街で生まれた私にはわからなかった。あのレフラクトメーターの絵が、ほかでは使われていない特殊な構図だってことが。地元の友だちに片っ端から訊いてみたけど、どの眼科のレフラクトメーターも、やっぱりあの絵だった」
レフ?
また知らない単語が出てきたが、どうやらあの視力検査の機械の名前らしい。とりあえずさもわかっている風に頷いてみせた。
「角南精機っていう地元メーカーが作ってるやつで、この街ではシェアがほぼ100パーなんだって」
俺は目の前で肘をついているかわいらしい黒服の少女を、驚きの顔でまじまじと見ていた。
こいつは、みんな見た目で騙されているかも知れないが、やはり油断できないやつだ。
「お前も、あの絵の道路に立っているやつが、都市伝説の『見えない男』だと?」
音響は答えるかわりに、「ケーキ食べていい?」と訊いてきた。先を促そうと思わず頷いてしまったが、これは俺の奢りという意味になってしまったのだろうか?
嬉々として注文をする音響を見ながら、これも策略だったような気がして変な身震いをしてしまった。
「サブリミナル効果ってあるでしょ」
イチゴのショートケーキにフォークを刺しながら音響は言った。
「映画館でフィルムの何カットかに1枚、コーラを飲めっていう文字を差し込む実験をしたら、一瞬すぎて見えてないはずなのに、観客はみんなコーラを飲みたがったっていう話」
「それ都市伝説だろ」
「でも、潜在意識に直接影響を及ぼす視覚、聴覚の効果についてはまだわかってないことが多い。ディズニーの『ライオンキング』で、星空に一瞬《SEX》の文字が浮かんで見えるのは知ってる?」
「おい」
音響の口からセックスなんていう言葉が堂々と出たことに驚いて、思わず周囲を見回してしまった。
「ディズニーアニメって、性的なサブリミナル効果を利用して、戦略的に子どもを引きつけてるんだって」
「陰謀論かよ」
オカルティストの鑑だな。イチゴのショートケーキにかぶりつくオカルティストを見ながら、そのギャップに苦笑する。
「レフラクトメーターの絵だとね……」
音響は最後に食べたイチゴの余韻を楽しむかのように、唇をペロリと舐めてから続けた。
「地平線のトラック、浮かぶ気球、赤い屋根の家…… 普通のメーカーのものだと、どれもそこに視点を集中させるための構図になっている。なのに、この街の機械では、気球の手前に男が立っている。まるで邪魔するみたいに」
そうだ。邪魔なのだ。「まっすぐ正面を見てください」と言って、視点を一点に集中させようというときに、気球の手前に人間が立っているのはおかしい。どちらを見ていいかわからなくなるからだ。
「でもすぐに機械のフォーカスで、視点は無理やり気球に合わせられる。周りがぼやけてしまうから」
「じゃあその男の意味がない」
あいの手を入れながら、俺はまるで師匠と話しているようだと感じていた。
俺もおそらく音響と同じ想像をしている。けれど、あえてこの少女の口から聞きたいと思ったのも、つくづくこういうポジションが染み付いてしまっているからなのかも知れない。
「そう。気球に視点は集中して、フォーカスから外された男は、いないのと同じ扱いにされる。見るべき対象じゃない。『見えているのに、見えない』」
それでサブリミナル効果か。脳のどこか奥のほうに、インプットされてしまった情報。
この男は、見えない。
あらためてゾクリとした。うっすらと考えていたことを、音響が綺麗に言葉にしてしまった。
「でもあの絵では小さすぎる。顔もよく見えない」
「3000分の1秒の『Drink Coke』と同じよ。潜在意識に埋め込むための手法ね」
いやにコークの発音上手いな。
「俺は前にそいつを一度見てたけど、見てないお前はなんでわかった?」
「耳鳴りがした」
耳鳴り。その言葉にドキリとする。俺も、この世のものではないものと遭遇するとき、耳鳴りがする。
「嫌な感じ。あの絵の男は……」
音響は口をつぐみ、確かめるように頷いた。
「普通じゃない」
恐れを抱きながら、それをなお見つめようとする、『こっち側』の表情だった。
「『黒い手』は本物だった。どこのサイトも、くだらない人たちばかりだけど、あなたは逃げ切れた」
「だから俺も、眼科に行けば気づくと?」
ご期待に沿えてなによりだ。少女らしい見た目に反していやに大人びた語り口を見せる音響に、俺は最後の疑問を口にした。
「なぜ、そんな絵を作ったんだろう」
「わからない。ただひとつ言えるのは……」
そこまで話した音響がふいに言葉を切った。その顔はすぐさま驚いた表情になり、そのまま凍りついていた。
どうした? そう訊こうとして、ただならない様子に俺も息を飲む。
音響はまっすぐ俺のほうを見ている。けれどその焦点はどこにも合っていない。
前を向いたまま、音響は汗をかいたグラスの下の水滴で、テーブルに文字を書いた。
《みないで》
その瞬間、俺は首のなかに鋼鉄の芯棒が入ったような気がした。
隣のテーブルに、だれかいる。
まっすぐ音響を見つめたまま、俺の全神経は視界の端に映るだれかに向けられた。
だれだ?
でも振り向けない。店内の空気が濁るような異様な気配が、そちらから溢れ出ている。
男だ。顔はよく見えない。いつからいた? 店に入ったときにはいなかったはずだ。さっき音響の際どい発言に、思わず店内を見回したときも気づかなかった。
視界の端で、顔のぼやけたそいつの席には、水も、スプーンや箸のセットも置かれていなかった。
俺たちにも、店員も気づかれず、そいつはいつの間にかそこにいた。
見えない、男。
じわじわと全身が嫌な汗をかきはじめたとき、その男はスッと席を立った。そして静かに歩いて出口へ向かって行った。
店を出るまで、店員のありがとうございました、の声も聞こえなかった。
ふいに喧騒が戻った。ファミレスのざわざわした空気が。
俺と音響は金縛りが解けたように息を吐いた。
「嘘だろ」
思わず口にした。追いかけるなんて発想はなかった。やり過ごすしかない、ということが直感でわかったのだ。あいつは、やばすぎる。
「なんでそいつが、今ここに現われるんだ?」
「ネット」
青ざめた顔で音響は呟いた。
「少なくとも『ピーチロア』と、あなたたちの『灰の夜明け』、両方を見ている」
そうか、今日ここで俺たちが会うことを知っているのは、両方のサイトのユーザーだけだ。
そんな奴は俺だけだと思っていた。
Koko、みかっち、京介、ワサダ、山下、wak、伊丹、みら吉、ひとで、ドラ……。
『灰の夜明け』のメンバーたちの名前が脳裏に揺らめく。顔を知っている人もいれば、知らない人もいる。
「レフラクトメーターに仕込まれたサブリミナル効果について、ただひとつわかるのは」
音響はかすかに震える声で、さっき言いかけた続きを口にした。
「目に見えないなにかが、目に見えない存在であるために、この街に住む人間に仕掛けた悪意のかたまりだと言うこと」
ただ見えない、というだけの都市伝説的な存在ではない。それを知ったのは、俺たちだけなのかも知れない。そいつは、匿名の世界に潜んで、じっとこちらの世界を見ている。
得体の知れない嫌な予感が体のなかに満ちるのを感じながら、俺はしばらくのあいだ、目の前の少女と見つめあっていた。





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