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握手ー中編1ー

それから数日、僕は大学の新入生としての日々を緊張気味に送りながら、ずっと考えていた。
キャンパスの妖精などというふざけたあだ名で呼ばれる、あの女性のことを。その彼女が見ているもののことを。
僕は今まで、周りの人々が気づかない、この世のものではないものをたくさん見てきた。そして嫌というほど叩き込まれてきたのだ。そういうものを見るということを、僕らの社会は受け入れてくれないという現実を。だから、見ても、見ない振りをしてきたし、そういうものに自分から近づいていくこともしなかった。
『それでも、どうか目を閉じないで』
頭の中で繰り返されるその呪いのような言葉に首を振りながら。
それなのに。
見えていないのは、僕のほうだった。
『妖精』が見ていたものは、僕には見えていなかった。なんだろう、この感じ。僕に見えないものを見ているという彼女を、気持ちの悪い異物として、ただ避けていくということは、僕を受け入れてくれなかった世界と同じではないか。
《妖精を見るには、妖精の目がいる》
昔読んだSF小説の一節が頭に浮かんだ。
妖精の目……。
僕の目は、いつかそんな目になるのだろうか。

僕は黒いものを探して歩いた。生活圏である、大学生協から一般教育棟、学部棟、図書館、そしてサークル棟の間だけではなく、これまで足を踏み入れなかった他学部の敷地にまで捜索の範囲を広げた。
いる。確かにいる。
視界の端に一瞬入ったかと思うと、次の瞬間にはもう消え去ってしまうものが。急に振り向いた僕に、驚いた顔を見せて、気持ち悪そうに眉をひそめる学生たち。
「どうかした?」と心配そうに話しかけてくれる人もいたけれど、黒いものを見なかったか、と訊ねると、ああそっち系のやつか、という顔をして、「さあねえ」とそそくさと去っていく。
そんなことを様々な場所で繰り返した。
僕なりに考えたことがある。あの黒いものは、見よう、見ようとするその気持ちを、見透かしているようだ。見ようとすると去っていく。そんなものをどうやって見ればいいのか。
……見ない。見ないで、近づく。目を閉じたままで。そのためには、どうしたらいい。
気配だ。気配を感じるしかない。目に頼らず。
僕は目を閉じて学内を歩いた。
10数分後、10人目の人とぶつかって平謝りしたあとで僕は、昼間は無理だと悟った。賢明ではあったが、やや遅きに逸した感があった。
その夜だ。
春とはいえ、夜はまだ肌寒い。ジャンパーを着てくればよかったと少し後悔しながら、僕は真っ暗なキャンパスのなかを歩いた。
ところどころに白色の光を放つ街灯があったけれど、深夜の大学構内はいつもの華やいだ雰囲気とは違う。自然と息をひそめてしまうような、静謐な感じがした。
学部棟のいくつかの窓には明かりが灯っていて、学生なのか、教員なのかはわからないけれど、こんな時間にも研究を続けているようだった。
大学生協の前の通りに出た。昼間は学生の往来のメッカで、立ち止まっているだけで、足を踏まれたり、ぶつかったりしてしまう場所だ。
今はだれもいない。目を閉じてみた。そのまま歩いてみる。
さっきまであったはずの道が、記憶のなかでどろどろと溶けて、自分がどこにいるのかわからなくなる。
目を開けた。5メートルも歩いていなかった。
これは怖いな。心霊的な怖さというというより、心理的な怖さだ。
もう一度目を閉じた。
静かだ。
自分の呼吸を感じる。
闇のなかに、別の呼吸を探す。
呼吸でなくてもいい。なにかがそこにいるという、痕跡。気配を。
しばらくそうしていて気づいた。
どこかに、どこかに、と思いながら、自分は前方にしか意識を向けていないことに。
なぜだろう。
ぐっと深く瞼を閉じる。だが、そうすればそうするほど、『面』を感じた。
自分の前にある大きなスクリーンが幕を閉じている感じ……。
眼球だ。
目を閉じていても、眼球の形状に意識が限定されてしまっている。闇は、全方位に広がっているはずなのに、前方の闇にしか意識が向かない。
この発見を面白く感じると同時に、やっかいさもわかってしまった。
闇は、左右にも、頭上にも、後方にも伸びている。
そうイメージしようとしても、なかなかうまくいかない。前だ。前だけ。目の前の景色を、塗りつぶしているだけだ。
期せずして、瞑想の訓練となってしまった。
目を閉じている自分自身を無にするイメージ。闇そのものをとらえるイメージ。
時間はたっぷりあった。だれにもぶつかることもなく。
どれほど経っただろうか。
なにかが、僕のそばを横切った。
黒いなにかが。
遠い。近づこうとして、足を動かした瞬間、その方向が斜め後ろであることに気づいた。そして同時に、自分が目を閉じたままだったことに。
あ。
そう思った瞬間、闇は『面』になった。戻ってしまった。
目を開けて斜め後ろを見たが、生協の外壁があるだけだった。
(くそっ)
悪態をついたが、収穫も感じていた。完全な闇のなかで、「黒いなにか」を幻視したのだ。見られないはずのものを。
もう一度だ。
僕は繰り返した。目を閉じて、闇を『面』から『球』にし、『球』から『穴』にした。
場所を変えて何度も何度もその瞑想を繰り返したが、黒いものの気配を感じることはできなかった。
頭が疲れきってしまい、最後には微かな夜風を頬に感じながら、ただ歩いた。歩いた。
なにも考えず歩いていると、光るものが風に乗って流れてくるのを見た。
なんだろうと思って手を伸ばすと、それは手に触れることもなく、瞬くように消えてしまった。
幻覚か。疲れきった頭が、そんなものを見せているのか。
空を掻いた指先を見つめ、僕は思い出していた。いつか見た、列をなして歩く、死者の群を。
その列の先頭を行く人の、頬からこぼれる光を。
僕はハッとして周囲を見回した。
彼女がいる。
このどこかに。
目の前にグラウンドの高いフェンスの黒い影が見えた。歩き回っているあいだにサークル棟の近くまで来ていたらしい。
あそこにいるのか。
そんな気がして、街灯の明かりを頼りに、サークル棟への直線道に入った。
暗い。真っ暗だ。道中にあるはずの照明柱が点いていなかった。故障なのか。僕は足元に気をつけながら、そちらへ向かって歩く。
空は曇っている。月明かりもほとんど漏れていない。その空のなかに、明かりのない柱の先がうっすらと見えた。
いる。人影が。
柱の上に腰掛けて、どこか遠くを見ている。
僕はそっと柱の下まで近づいて、声をかけようかどうしようかと、迷った。こんな夜中に人が来るなんて思ってもいないだろう。驚かせてしまい、足が滑って落下するようなことになったら大変だ。そう思って。
僕は息を殺して、このまえ彼女が見ていた方向に目をやった。教育学部の建物が黒々とした影となっている。
なにを見ていたのだろう。
そう思った瞬間だった。
背筋を、ゾクリとしたものが走った。
繰り返した瞑想の影響なのか、いつもより鋭敏になっていた僕の感覚が、頭上の異様な気配をとらえていた。
あの人じゃない。
思わず柱から離れて、後ずさった。
柱の上の人影のようなものは動いていなかった。暗すぎてよく見えない。それでも、わかるのだ。あれは……
人じゃない。
ドキンドキンと打つ鼓動を悟られはしないか、という強迫観念に囚われながら、僕はゆっくりと後退を続けた。
柱が遠ざかっていく。暗闇のなかの後ずさりは怖い。躓きそうで。それでも、目を切れなかった。闇のなかに完全に照明柱が溶けてしまってから、僕は振り向いて足早にその場を去った。
歩きながら、自分の右目を触る。
怖い。怖い。
その素直な感情が渦巻いている。
こんな怖いものを見ないといけないのか。
僕はだれにぶつけていいのかわからない怒りが、湧いてくるのを感じていた。
教育学部の学部棟のほうを睨む。あっちだ。直感と、ほんの少しの推理で、僕は彼女の居場所を予測した。
彼女のうしろで列をなしていた死者の群を思い出す。夜の彼女は、死者にとって特別な存在なのだ、という想像。さっきのなにか得体の知れないものが、柱の上で見ていたものはなにか。
その先に彼女がいるのではないか。そう思ったのだ。
予感は、正しかった。
なじみのない教育学部のエリアの建物の下で、僕は頭上を見上げた。淡い幻のような光の粒子が微かに見える。
屋上だ。




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