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館ー下2ー
「暖房をつけるわね」
京子は部屋の隅にあった、古そうな暖房器具らしいものにスイッチをいれた。
「なんだこの時計の墓場は」
自分でそう言ってから、気がついた。よく見ると、どの時計も動いている気配がなかった。それどころか、指している時刻がどれもバラバラなのだ。
 壁に掛かっているものもあるが、ほとんが、その胴体に大きな振り子を抱えた、床に据え置くタイプの柱時計だった。
昔の映画のなかでしか見ないような代物だ。
それらが整然と、ひっそり立ち並んでいる光景は、まるで墓石の群のように見えた。
「アンティーク時計よ。子どものころから好きで、パパにねだって集めたの」
京子は勉強机らしきものの前にあった椅子に座って、こちらを向いた。
「人の作ったものは、いつかみんな死ぬ。時計にとっては、針が動かなくなるときがそうね。人の作った機械が、人の見ていない、だれもいないところで、ひっそりと死んでいく。形ある無生物の死を、生物のそれのように定義づけることは難しいわ。でも私は、時計の死の潔さがとても好き」
そう言って、視線を正面の一際大きな柱時計に向ける。
ガラス張りの胴体の向こうに、長い振り子が幾本か覗いている。上部にある時計部分には、豪華な装飾が施されていたが、短針と長針は張り付いたように2時半を指していた。
「自分が死んだ時間を、指している」
ハッとした。
その京子の声の響きが、とても心地よかったからだ。こいつの言葉は、蠱惑的だ。
「いつまでも、自分の死んだ時間を指し続けているのよ。どの時計も、すべて。なんだか、美しいと思わない?」
退廃的だ。没落したかつての子爵家という血筋と、この館の古びた空気がこんな娘を育てたのか。
私は、この女の作り出す妖しい空間に取り込まれないように警戒心を強める。
「あの椅子は、本物なのか」
「ええ。本物よ。この家で起きた3つの死も」
ただ……
京子は言いよどんだ。
「ただ、なんだ」
「フェレイクシアに、恋人と見初められた人間は、今までに何人いたかしら。座ってしまっても、全員が全員死んだわけではないわ。この家でも、パパは新しくきた家政婦には、必ず座らせていた。もちろん、なにも説明しないでね」
最悪だ。こいつの父親は。
「でも、死んだのは1人だけだった。若くて、とても綺麗な人だったそうよ」
「私なら、大丈夫だといいたいのか」
「そんなことないわ。あなたは綺麗よ。たぶん、自分が思っているよりも、ずっと」
虫唾が走った。こいつにそんなことを言われたくない。
「椅子の呪いは不安定ね。人が移り気であるように」
そう言ったあと、京子はふいに鍵束を掴んだ。
「あなたが入って、そして椅子に座った部屋は、本当は左の部屋だったのかも知れない。あとで掛かっていた鍵のことは私にもよくわからないけれど。この家では、不思議なことがときどき起こるから」
「持ち主も把握し切れてない、カラクリ細工だらけだってのか。でも椅子が床にあるほうの部屋だったとしても、私が椅子に座ったのは間違いないんだ」
どうしてくれる、と言いそうになって、それはこらえる。
すると京子は変なことを言うのだ。
「言わなかったかしら。左の部屋の椅子は、レプリカなのよ」
なんだと? 聞いてない、そんなことは。
「パパのガールフレンドに椅子の話をすると、怖いもの見たさでどうしても座りたがるから、そっくりに作ったレプリカのほうで満足させてあげていたそうよ」
「ちょっと待て。だったらなぜ、そのレプリカの部屋のほうに必ず鍵をかけていたんだ」
「ほかに大事なものを置いているからよ」
「大事なもの?」
左の部屋にあったものを思い出してみる。
たしか洋服箪笥のようなものと、小さな地味な絵がいくつかあっただけだ。私がそう言うと、京子は「そんな風に言われると、レンブラントがかわいそうね」と笑った。
そう言えば、右の部屋には天井の椅子以外、なにもなかった気がする。
「だったら、椅子が2つ揃いだと言ったのはウソか。椅子を作った変態野郎の幼馴染の双子の話も?」
そうか。双子の話に持っていったのは、私にあてはめるためか! そもそもなぜ、こいつが双子の妹、まひろのことを知ってるんだ。
一方的に男に片思いされて、知らないうちになにもかも調べられる女性の気持ちが、わかった気がする。気色が悪い。
そう思って鳥肌を立てていると、京子は首を振った。
「椅子は2つ揃いよ。フェレイクシアの双子の幼馴染への執着の話も本当」
「だったら、もう1つの椅子はどこにあるんだ」
そう怒鳴ってから、体の中に嫌な予感が走った。
こいつ……
私から、その言葉を引き出したな。
汗が皮膚の上に湧き出てくる。自分が座っている椅子の感触が、艶かしく躍る。
部屋に入ってきたあと、無意識に腰掛けたこの椅子は、どんな形をしていた?
思い出そうとしても、思い出せない。自分の体を見下ろそうとしたが、首の油が切れたようにうまく動かなかった。
京子は笑って、立ち上がった。
「私が愛用しているわ」
京子のドレスのスカートがそこをどくと、座っていた椅子が見えた。見覚えがあった。同じ椅子だ。
なんてやつだ。
私は唖然として固まった。
こいつは、やっぱり普通じゃない。
「椅子の呪いも、弾くことは可能よ。私と同じ場所に、あなたも来ることができる」
京子はそう言って、こちらに右の手のひらを伸ばした。
弟子を導く、教導者であるかのように。
「願い下げだ」
とっさにそう言い返した。
「そう」
京子はさほど残念そうでもなく、伸ばした手を下ろす。そしてまた、あの椅子に腰掛けた。平然と。
「今この街で、途方もなく大きな呪いが蠢いているわ」
こちらを見るでもなく、京子はひとり言のように淡々と語った。
「目に見えない、とても邪悪ななにかが。……いったい、なにが起ころうとしているのかしら。私は、見届けたいと思っているの。この街の、未来を」
京子は指を交差させ、その上に顎を乗せた。前にも見たことがある。無意識にする仕草なのかも知れないが、彼女の意思の形を表しているかのようで、とても似合って見えた。
沈黙が降りた。
無数にある時計から、時を刻む音はなにも聞こえない。
すべてが古い灰につつまれていく。石化していくような時間だった。
やがて私は腰を上げた。
「帰るの」
「ああ」
「今日はありがとう。来てくれて」
「……誕生日、おめでとう」
今日、まだ一度も言っていなかったような気がして、そう言った。
「ありがとう」
京子はふっ、と息を漏らした。

それから玄関まで送ってもらって、外に出た。
あの椅子のある別館のほうが気になりはしたが、意地でも振り返らなかった。もうなにが本当で、なにが嘘なのかわからない。
すっかり遅くなってしまった。さすがに親に怒られるかも知れない。
空には一面の星空が輝いていた。私の住む市街地から少し離れたせいか、街の明かりが少なくて、その分、星がよく見える。
ふと思いついて、玄関に立っている京子を振り返った。
「お前、さそり座生まれだよな。さそり座の女って、歌になるくらい酷い言われようだけど、お前に関しては当たってると思うぞ」
それを聞いて、京子は露骨に不快そうな顔をした。
「お前のホロスコープを確認してみたけど、お前が生まれた瞬間に、東の地平線にあった星座は、やっぱりさそり座だったよ。上昇宮って言うんだ。お前の本質を表しているのが、それなんだ」
やりかえしてやった。
単純に、そう思って気が少し晴れた。すると京子は、「くだらない」と言ってため息をついた。
「お前、占いが好きなのに、どうして占星術は嫌いなんだ」
私よりはるかに色々な占いに長けているのに、どうしてなんだろう。素直にそう思った。
「そうね」
京子はそう言って星空を見上げた。
つられて私も空を見る。
「私が子どものころ、夜にこうして庭に出ていたの。そばにはだれもいなかったわ。みんな家のなかにいた。私だけ外で、そのとき庭にあった木馬に乗っていた。なぜそうしていたのか覚えていないわ。パパに怒られて拗ねていたのかも。何時くらいだったのかしら。急に地面が揺れたのよ」
「地震か」
私は、自分が子どものころに経験した地震のことを思い出そうとする。しかし、あまり記憶に残っていない。
「すごい揺れだった。地面がひっくり返るかと思うくらい。木馬から転げ落ちて、私は泣き叫んだわ。痛かったし、強かった。おうちも揺れていて、今に崩れ落ちそうだった」
そんな大きな地震があったか? 私の家も同じ市内だというのに、まるで思い出せなかった。
「揺れが収まって、私は泣き止んだ。家に入ろうとして、立ち上がったとき、奇妙なことに気がついたの」
京子は空を指さした。
「星の配置が変わっていた」
冗談めかしたような言葉だったが、その声は緊張を帯びたようにかすかに震えていた。
「空の星が、すべてでたらめな形に変わってしまっていたのよ。目を擦ったわ。でも見間違いじゃなかった。私は星が好きな子どもだったの。星座の本を片手に、夜空を見るのが好きだった。遠く離れた星ぼしを結びつけ、古来から人々がつむぎだした物語を空に浮かべて、夢想するのが好きだった。なのに、その夜、たった一度の地震のあと、そのすべてが狂ってしまったのよ。私は怖くなった。いったいなにが起こったのかわからなくて、また泣いてしまった。そして家に帰って、パパに抱きついたの。地震のせいで空が揺れて、星がずれてしまった。そんなことを口走ったと思うわ。なのに、パパは私の頭を撫でてこう言ったの。『大丈夫。地震なんて起きていないし、一晩寝れば空も元通りになるよ』って。泣く子どもをあやす言葉でも、ちょっとおかしいと思わない? 空の星のことはともかく、地震が起きてないって言うなんて。でもそれは、その言葉の通りだった。地震は起きていなかったのよ。次の日、だれに聞いても、友だちに、先生に、道行く大人に聞いても、だれ1人、地震のことを覚えていなかった」
京子は力なく笑った。
私は背筋がゾクゾクとしていた。なぜだろう。子どものころの、荒唐無稽な話なのに。
「次の夜も、その次の夜も、星の形は変わってしまったままだった。太陽や月、火星や土星……太陽系の星はそのままだった。でも遠くの星は、どれも似ても似つかない配置になってしまっていた。なのにそれを、だれも不思議に思っていなかった。あの地震と同じように、みんなの記憶まで変わってしまっていたの。街の本屋で星座の本を買ったわ。どの頁にも、私の見たことのない星座がちりばめられていた。怖かった。怖くてたまらなかった。私が……私だけが、別の世界に紛れ込んでしまったみたいで」
それは、本当なのか?
そう訊こうとして、ためらわれた。あまりに真摯な声と、表情だったから。
「黄道12星座も変わってしまっていたわ。計算尺座も、大猫座も、帆掛け船座も、なくなっていた。あの可愛いねずみ座も、気高い銃士座も。みんなみんな。うお座やてんびん座はあったわ。でも似ても似つかない形になってしまっていた。クルミ座はどこにいったの? 大きく手を広げた山猿座はどこに? あの、全天を睥睨する13の赤色巨星の群、魔王座は……?」
京子は早口でそう捲くし立てると、そこで息を止め、ゆっくりと吐き出した。
「雑誌で星占いのページを開いても、私はどこを見ていいかわからないの」
京子はこちらを見て笑った。泣いているような笑顔だった。
私はそのとき初めて京子の心に触れたような気がした。
「お前の本当の星座は……」
くじら座よ。
あのとき、冗談だと思った言葉が脳裏に蘇る。
京子ははにかむように俯いた。そして、もう空を見なかった。
一面の星空の下で、私はなにか謝る言葉を探していた。けれど、それは余計なことのようにも思えた。
そのかわりに、京子の胸元を指さした。鍵束の首飾りを。
「それ、変だぞ。いくつ部屋があるのか知らないけど、マスターキーを作ったほうがいいよ」
照れ隠しだった。あまり深い意味もなく、最初から思っていたことを口にしただけだった。
京子は自分の胸元を見下ろして、少し気を緩めたように微笑んだ。
「パパはマスターキーを使っていたけど、私はこっちのほうが好きなの」
「変わったやつだ」
笑ってやった。少しでも救われればいいと思って。
すると、京子は玄関口に立ったまま、鍵束を右手でチリンと鳴らして言った。
「マスターキー…… 本当の意味で、『支配者の鍵』と呼べるものはそんな即物的なものではないわ」
「なんだそれは」
「たとえば……」
京子は、目を閉じてゆっくりと言った。
「ひらけゴマ」
その瞬間、京子の背後、玄関の向こうの館のなかから、体に響くような音が聞こえてきた。
ガガコン……。
鈍く響く、重層的な金属音だった。まるで無数の扉の鍵が、いっせいに開いたような。
私は慄然として、耳に反響するその音の意味を考える。
京子は目を開き、私をまっすぐに見つめた。
「気をつけて帰ってね」
なんなんだ、こいつは。
今のは、祖父が作ったという仕掛けなのか。それとも……?
全身に鳥肌が立ったまま、私はその館を後にした。まるで逃げるように。
帰り道、京子の言っていた、星の配置が変わったという話のことを考えた。子どものころの荒唐無稽な記憶だと、笑い飛ばすのは簡単だ。ディティールが細かすぎるのが気持ち悪いが。
けれどそこには、あいつがあいつである、その根源を垣間見た気がする。
あいつは自分を異邦人だと言ったのだ。
1人なんだ。
そうか。
クラスで取り巻きたちに囲まれていても。誕生日会で、ハピバースデーと歌ってもらっていても。
そのことが、ストンと胸に落ちるようにわかった。
そして私は、彼女の部屋で、まっすぐに差し出された手のことを思った。私が握り返さなかった、あの手のひらのことを。

(完)

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