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館ー上1ー


潮騒を聞いている。
暗い海がその向こうにある。
空には一面の星。水面にはその欠片が揺れている。
春はようやくやってきたが、夜はまだまだ肌寒い。
「最後の1本だ」
何度目かになる言葉のあと、マッチの明かりが一瞬、海辺の闇を深くする。
煙草の匂いを嗅ぐことで、脳裏にはその匂いと結びついた記憶が滔々と湧いてくる。
いろいろな話をした。
いろいろなところへ行った。
別の世界へと通じているかも知れない扉を開けて。彼女との冒険も今日で終わり。終わり。終わり。
俺は彼女の横顔を見る。
彼女は夜空を見ている。
さっきのホテルでのことが蘇りかけて、頭を振る。
岸壁に2人腰掛けて、とりとめもない話をする。
こんな時間もいつか終わる。
「なあ、知ってる星座はあるか」
煙草を持った手が空を指す。
空に散りばめられた光に目を凝らしたけれど、星と星とを繋ぐ線は見えなかった。
「ありません」
オリオン座ならわかるんだが。あれは冬の星座だ。
「こんなとき、星座の話のひとつやふたつでもサラッとできれば、ロマンティックなのにな」
「すみません」
今度覚えよう。
そうして沈黙がやってくる。岸壁を撫でる波の音が大きくなる。煙草の吸殻を靴で踏むときの、赤く小さな火花が転がるのが見えた。
「あいつも、どんな気持ちで夜空を見ていたんだろう」
遠くを見るような声でそう言った。
「知らない星を」



京介さんから聞いた話だ。


「なんでそうなるんだ。第7室には太陽しかいないのに」
「よく見なさい。第1室に火星が入っているでしょう。オポジションで凶相よ。この場合は配偶者に、あなたとは別の男女関係が生まれやすいことを示しているの」
「これが180度か? ちょっとずれてるじゃないか」
「何度説明したらわかるの。メジャーアスペクトのオーブは広いの! これは5度だから範囲内よ」
おばさんが机を叩く。
私は机の上の紙を睨みつけている。12個に切り分けられたケーキのような形が描かれている。
ホロスコープというやつだ。西洋占星術で使う、自分の生まれた瞬間の星の配置を表したもの。
その星の配置がその人の人生を支配するというのだ。
「あー、だめだ。頭が煮えそう」
私は鉛筆を放り出して頭を抱えた。
目の前の紙の上に、私の人生のすべてがある、なんて言われても、どうやってそれを読み解いていくのかのハードルが高すぎる。
タロット占いなら、引いたカードの配置でその人の、そのときどきの、かつ特定の分野のことを自在に占うことができるのに、西洋占星術は基本的に、定められたその人の人生をただ解き明かしていく作業だ。
考えてみれば恐ろしい。これは恐ろしいことだ。知れば知るほど、そのことがわかってくる。
「休憩しましょうか。紅茶淹れてあげる」
おばさんが小太りの体を揺すって立ち上がる。その後ろ姿を見ながら私はため息をついた。
アンダ朝岡という名前のこの占い師と出会ったのは、今年の夏のことだった。街中を襲った不気味な怪奇現象を追っていた私は、その先で4人の人物と出会った。全員が、私と同じようにその怪奇現象の根源を追っていた。
この街のなかでたった1人、私だけが気づいていて、だからこそ私がなんとかしないといけない。そう思っていた。
しかし、この街で昼ひなかにお互いにすれ違っても気づかないけれど、その日常の仮面の下に、非日常の世界を見通す目を秘めている人々がいたのだ。私のほかにも。
そのことが、なぜか嬉しかった。
『今度会ったら、タダで占ってあげるわよ』
偶然街ですれ違ったとき、その夜に交わした約束を彼女は覚えていた。
「あら、あなた」
50年配の女性にいきなり声を掛けられて、とまどったが、すぐに思い出した。けれどそれは相手の顔を思い出しただけだった。なにしろお互いに名前も知らなかったのだから。
2人で苦笑して、あらためて自己紹介をした。
彼女は《アンダ朝岡》と名乗った。聞いたことのある名前だった。地元の情報誌で星占いのコーナーを持っている人だ。その星占いは、街に迫りつつあったその怪奇現象に、私が気づくきっかけにもなっていた。
いま時間あるでしょ、とアンダ朝岡は言って、無理やり私を自分の店に連れていった。
『アンダのキッチン』
そんな名前の、駅に近いビルの1階のテナントに入っている、小洒落た店だった。まるで喫茶店のような店構えだったが、実際に軽食を注文して、それを食べてリラックスしながら占いの相談をする、という珍しいスタイルだった。
料理が上手いのか、占いが上手いのか、あるいはその両方なのかわからないが、とにかく結構流行っている店らしかった。
アンダはタロットなどの占いもするけれど、西洋占星術がメインだった。しかしそのタロットにしても、私がかじっている知識よりはるかに詳しい。さすがにこの道で食べているプロだな、と思う。
再会したその日は、私のことを占う、というより、占いに興味を持っていると言った私に、あれこれとアドバイスをしてくれた。
ただの客としての対応とは明らかに違っていた。私を見つめるその優しげな瞳には、秘密を共有する仲間としての親しみが込められているような気がした。
「また遊びにいらっしゃい」
帰るとき、そう言われた。紅茶の風味が口のなかに甘く残っていて、また来てもいいな、と思った。
それから、2度、3度と店に顔を出していると、いつの間にか私は彼女の教え子になっていた。
後継者などというつもりは毛頭なかった。ただ自分の知らない西洋占星術という占いに興味を持ったのだ。トランプやタロットを使った神秘主義的なものとは違う、ホロスコープという生涯変わることのない出生時の星の配置……つまり運命の地図が、まず面前に示されるという、その潔さに、逆に途方もない奥深さを感じていた。
私は学校帰りに時間をつぶしたあと、『アンダのキッチン』が閉まる午後7時過ぎに顔を出し、客のいなくなった店内でいろいろなことを教えてもらう、という日々が続いていた。
「なあ、アンダ。これって、どういうことなんだ」
ある日、ローカル情報誌を広げてアンダを問い詰めた。
アンダが担当している星占いのコーナーだ。店と同じ、『アンダのキッチン』というコーナー名だった。
よく見るものと同じく、おひつじ座から始まる12星座ごとに、その月の運勢を占ったものだ。
以前の私は、素直に自分の誕生星座のところを読んでいた。あるいは、気になっている相手のところを。
しかし、西洋占星術をちゃんと習っていくと、こういう星占いとはまったく別物だということに気づいてきた。
まず第1に、西洋占星術ではホロスコープの起点となる第1室の支配星座は、その人が生まれた瞬間に東の地平線にあった星座なのだ。これを上昇宮(アセンダント)と言って、その人の本質を読み解くキーとなっているものだ。
私はみずがめ座のはずだったが、アセンダントを調べると、ふたご座だった。
今まで星座別の性格占いで、みずがめ座の欄に『常識やモラルに捉われない。推理力、洞察力に優れ、クールで気ままな性格』などと書いてあるのを見ては、当たっている! と思っていたのに。
しかし私が習う西洋占星術では、生まれた瞬間の太陽の位置を第1室に置くやり方はしなかった。
サン・サイン占星術といって、太陽の位置を起点にするやり方もあるらしいし、誕生日はわかっても、生まれた時刻がわからない場合に太陽を第1室に置くやり方もあるのは習ったが、アンダの西洋占星術では、明らかに太陽星座を重視していなかった。
まして、ホロスコープは、言わばその人の人生の地図のすべてであって、今月の運勢やら今週の運勢やらといった、狭い範囲を言い当てるものではない。
そういうことがだんだんとわかり始めて、あらためてあの星占いコーナーとの矛盾に気づいたのだ。
「なあ。なんでこんな適当なことばっかり書いてんの」
私が情報誌を突きつけると、アンダはしばらく黙ったあと、にっこりと笑って言った。
「お坊さんがね。檀家さんに『昨日の夜、死んだ父が枕元に立ってこんなことを言うのです』って相談されたら、『それはあなたを守るために、心配しておっしゃっているのですよ』って言うでしょう。でもお釈迦様の教えでは、人間が死んだ後には霊なんかになってこの世にさまようなんてことは、言ってないの。でもその理屈を説いて、あなたが見たのは幻だ、錯覚だ、なんて言ってもその人は納得するかしら。そういうことの専門家だと思い込んで相談しにきているのに。そんなときに、相手に合わせてあげて、返事をすることを、なんて呼ぶか知ってる?」
「知らない。なんだ?」
「方便よ」
なんだそりゃ。
うそも方便ってやつか。
「ようするに金儲けのために、でたらめをでっちあげてるんだろう」
「でたらめじゃなくて、ほ・う・べ・ん」
アンダは指を立ててゆっくりと訂正した。
「これでも、ちゃんと私なりに研究してやってるのよ。方法は企業秘密だから、教えてあげないけど」
納得はいなかなかったが、それでも店では一貫してストイックな占いの手法を守っているようだった。
アンダはよく、自分のホロスコープを例にして私に説明してくれた。
「私のアセンダントはおひつじ座にあるけど、ルーラー(支配星)はなにかしら?」
「火星」
「そう。その火星が第8室にあるでしょ。セックスや死を司るハウスに、マレフィック(凶星)の火星があり、損なわれているということ。そしてこの火星が、さらに別のマレフィックの土星とスクウェアで、凶相を成しているわ。これは短命の相よ。さらに第8室のルーラーの冥王星が、マレフィックの天王星とオポジション。海王星とセミスクウェアよ。これがどういうことかわかる?」
ひどいな。
顔をしかめたら、アンダは「そうね」と言って続けた。
「天寿をまっとうする自然死ではないわね。間違いなく。せめてもの救いは、第8室がカーディナル・サイン(活動宮)じゃなくて、フィックスド・サイン(不動宮)だってことね」
「ええと、その場合は病院で死ぬとか、そういうこと?」
「少なくとも即死ではないと思うわ。だれかに看取ってもらえるなら、まだましね」
自分の死について、あっけらかんと語るアンダを見ていると、なんだか不思議な気持ちになる。自分で自分の西洋占星術を信じていない、というわけではないだろう。ただ、人の運命を、星の配置のなかに読み解くことを生業にしていると、そういう達観めいた心境に至ってしまうのだろうか。
数年前に起きた夫との死別という悲しいできごとまで、自分のホロスコープのなかに読み解いて説明をしてくれる彼女の横顔を見て、なんだか辛い気持ちになった。

学校の廊下で、間崎京子とすれ違った。
この高慢な秘密主義者は、あいかわらず私のかんに触るやつだったが、風のなかにだれとも知れない人間の髪の毛が混ざっているという、気持ちの悪いできごとのときに、図らずも一緒に組んでその謎を追ったりしていたせいで、このところ休戦状態にあった。
「よう」
そう言って通り過ぎようとしたら、向こうからそっと寄ってきて、打ち明け話をするように私の耳元に口を近づけた。
「最近、占いに凝ってるんですって?」
それを聞いてビクリとする。こいつはなぜそんなことを知っているんだ。
「どんな先生かしら。今度紹介してくださらない?」
「いやだ」
その言葉のあと、なにか理由をつけようとしたが、うまく出てこなかった。それが妙に気恥ずかしくて、とっさに出た言葉が「おまえ、何座だ?」という問いかけだった。
「あら、そういう占いなの」
間崎京子は興味を失ったような顔をした。
違う。そういう星座占いみたいな程度の低い占いじゃないんだ。
思わずそう言い訳をしようとしたが、(こいつに侮られることが、そんなに嫌なのか)ということに思い当たり、(だれが! 勝手に思ってろ!)と、我ながら天邪鬼なことを考えて、結果的に黙っていた。
すると間崎京子は、「私、星占いとか、占星術とか、好きじゃないのよね」と言いながら、両手を後ろに回して、すねたように足を蹴り上げる仕草をした。
「いいから、何座だ」
重ねて訊くと、くすり、と笑って言った。
「……くじら座」
なんだそれは。
何座かと訊かれて、「ヤクザ」と答えるのが、子どものころの定番ジョークだったが、これは、なんて中途半端な……。
「そうそう。今度、私の誕生日会をするの。あなたもご招待するから、きてね」
間崎京子はそう言って去っていった。
誕生日会?
あいつの?
そんなな女の子じみた行事に呼ばれるなんてことは、ここ数年なかった。しかも、あいつの?
その場に残された私は、痒くもない頭を掻きながら、立ち尽くしていた。
 
その日の放課後、アンダの店に寄ってから午後9時過ぎに家に帰ると、玄関に張り紙があった。
『ちーちゃんとまーちゃんへ。パパとママは、レストランでお食事をしてきます』
ずる賢そうな顔をした2人の似顔絵つきだ。母親が描いた絵だった。
妹のまひろはまだ帰ってきてないらしい。郵便受けにあった新聞とチラシを取り出してから鍵を開けて家のなかに入り、テーブルの上にそれらを投げ出す。
ふと、そのなかのチラシの文字に目が留まった。
『劇団くじら座』
地元の劇団の公演の案内チラシだった。そういえばたまに見る名前だ。
そう思った瞬間、昼間に間崎京子が言った変な言葉を思い出した。
『おまえ、何座だ?』
『……くじら座』
そうか。そういうことか。あいつも、そういう冗談を言うんだ。
なんだかおかしくて、声に出して笑ってしまった。
だれもいないリビングに自分の声だけが響く。
ひとしきり笑ったあとで、あのとき笑ってやらなくて悪かったな、と思った。



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