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溶接ー1ー

ウニ


大学一回生の冬。
俺は自分の部屋で英語の課題を片付けていた。その頃はまだ、それなりに授業も出ていたし、単位もなんとか取ろうと頑張っていた。
ショボショボする目で辞書の細い字を指で追い、構って構ってとちょっかいを出してくる子猫の小さい手を掻い潜りながら、ようやく最後のイディオムを翻訳し終えた。疲れた目を押さえ、テキストを仕舞う。
もう夜の一時半を回っている。寝ようかと思い、欠伸をしたところで部屋の隅のパソコンが目に入った。そう言えばここ何日かインターネットに繋いでいなかったことを思い出す。
パソコンの前に座り、電源を入れると、とりあえずオカルトフォーラムを覗いてみることにする。
そこは地元の人々が集う場所だった。本来は黒魔術などの西洋系のオカルトに関する話題を扱う場所なのだが、常連たちもあまり堅いことを言わないので、そんな話に限らず、みんな割と何でも話している。
その時も、話題は心霊スポットに関するもののようだった。
ログを遡って流れを確認していると、伊丹さんという人が突発的なオフを提唱していたらしい。突撃オフというやつだ。伊丹さんは男性で、商科大の三年生だった。
『その廃工場の地下に、なんのためにあるのか分かんない空間があるんだって』
伊丹さんは隣の市の外れにあるという廃工場にまつわる噂話をどこからか仕入れて来ていた。
「ユキちゃん。前のご主人様が遊ぼうってさ」
俺はパソコンの前に座ったまま、そばに来た子猫をつかまえて抱き上げる。メスの白猫で、ついこの間、その伊丹さんの家からもらって来たばかりだった。最近伊丹さんのアパートに野良猫が住み着いていたのだが、それが子どもを四匹も産んだとのことで、俺を含む知り合いに片っ端から声をかけたらしい。
『なんか、だだっ広い地下室の床に血みたいな染みがあって、夜中にそこへ行くと血の上にぼうっと立ってる幽霊が見えるんだって』
そんな書き込みの後で、今から突撃するから参加者募集、と続けていた。タイムスタンプを見ると一時間以上前だ。何人か反応していたが、今からは無理、という声ばかりだった。
そして三十分ほど前に、『う〜ん、じゃあツレと二人で行って来る』という伊丹さんの書き込みがあった。それが最後だ。
その後で、別の誰かが『今来た。もう行っちゃった? 俺も行きたかったな。なんか場所よく分かんないし、報告待ちにするわ』と書いてあったが、それにも反応はなかった。
「前のご主人様はもう遊びに行っちゃったみたいだねえ」
 子猫に話しかけながら身体を前後に揺する。
その頃はまだ、出先から携帯電話でネットの掲示板を更新する、というような文化はなかったので、オフ組が自分の家に戻るのを待つしかなかった。
俺もその廃工場への突撃がどうなったか気にはなったが、猛烈に眠くなってきたので、今夜はもう寝ることにした。
だから、その後のひと騒動を知らずにいたのだった。


次の日の夜のことだ。
俺が自宅でぼんやりしていると、PHSに電話が掛かってきた。出ると、みかっちさんというハンドルネームのオカルトフォーラム仲間からだった。
なにか面白いことがあったから、来いということらしい。テンションが高くて半分くらい何を言っているのか分からなかったが、とりあえず混ざることにした。
寒波が来てるとかで、外はやけに寒かった。遊ぼうとワキワキしている子猫を残し、精一杯の厚着をして部屋を出ると、俺は自転車に跨って目的地に向かった。
いつものオフだと、だいたいファミレスか居酒屋、あるいはcoloさんというハンドルネームの女性が住んでいるマンションの一室に集まるのだが、その日は和気さんという男性のアパートが集合場所だった。
和気さんはオカルトフォーラムの管理人で、普段はあまりオフなどには出てこないのだが、最古参ということもあり、常連の中でも一目置かれた存在だった。というか、むしろフォーラムの創設者だったからか。
一度だけ部屋に行ったことがあるのだが、とても物静かな人だった。雰囲気は全然違うのだが、容姿がどこか俺のオカルト道の師匠に似ていて驚いたことを覚えている。
寒空の下うろ覚えの道を進み、ようやくそのアパートにたどり着いた。
ノックすると、ドア越しに人の話し声が聞えて来る。構わず中に入り、「ちわ」と言いながら靴を脱いだ。
「お、来た、少年」
みかっちさんが手を振っている。
部屋の中は暖房が効いていて暖かかった。あまり広くない一室に数人が車座になっている。
全員見知った顔だった。いつもはファミレスなどでオフをするのだが、一部の常連たちはさらにその後、反省会などと称して誰かの家に集まり、二次会を開くのだ。
誰が呼んだか、密かに『闇の幹部会』などと呼び習わされていたりする。俺も若輩の身ながら、なぜかその一員に入れてもらっているのだが、ようするに気の合う仲間で集まっているだけだった。
今日集まっていた仲間は俺を除いて全部で四人。
みかっちさん、ワサダさん、という女性陣に、和気さんと伊丹さんという男性二人。このうちワサダさんと和気さんは社会人だった。
あれ?
伊丹さんと言えば……
俺は昨日の突発的な突撃オフのことを思い出した。あの後どうなったのだろう。ツレと行くって言っていたけれど。
その時、俺は前に座っている伊丹さんの様子がおかしいことに気がついた。目に隈が出来ていて、表情がどこか切羽詰っている感じだ。そしてしきりに貧乏ゆすりをしている。
僕の顔を見ても、「猫元気?」とも訊いてこなかった。なんだか気まずい雰囲気だ。
「ええと、今来たヒトもいるから、もう一度見てみる?」
沢田さんが提案する。
「そうね。見よう見よう」とみかっちさんが頷く。
「じゃあ、最初からでいいかな」
和気さんが自分の部屋のビデオデッキを操作し始める。どうやらみんなでビデオを見ていたらしい。
部屋にいた全員が、身を乗り出すようにしてテレビ画面に目をやる。一瞬砂嵐が映った後、ビデオが始まった。



最初は懐中電灯が暗い夜道を照らしている場面だった。画面が揺れている。歩きながら撮影しているようだ。
『ええと、もう映ってんのこれ?』
伊丹さんの声がする。
『ほら』という別の男性の声とともに画面が動き、伊丹さんがアップで映った。懐中電灯を当てられている顔だけが暗闇に浮かび上がっている。
『おい、眩しいって』と手のひらで庇った後、少し明かりの焦点の位置がずれる。
『ええと、いま藤原と二人で心霊スポットに向かってまぁす。クッソ寒いでぇす』
そう言う口の端から白い息が出ているのが映っている。
『噂の廃工場の秘密の地下室へ突撃する決定的瞬間を撮るために、藤原を無理やり誘ってまぁす』
そう言いながら、伊丹さんは歩き始める。
カメラはしばらく伊丹さんの横顔を映していたが、やがて前を向き、行く先の暗い道を映し始めた。
『まだついてんの、それ』
『おう』
画面の外から声だけが聞こえる。
『今回は、残念ながら他の人の参加はありません。突発すぎたので反省です。二人だけなので、ちょっと怖いです』
『ていうか、なあ、これ道あってんの?』
『あってるって。ええと、さっきまでちょっと迷ってましたが、ここまで来たら後は一本道らしいんで、多分大丈夫でぇす』
ザッザッザ…… という二人の足音をマイクが拾っている。
舗装されていない道らしい。山の中だろうか。懐中電灯の明かりが二本、揺れながら地面ばかりを照らしている。
『さっきから、なんか山鳩?の声がしてます。結構怖い雰囲気です』
伊丹さんの声がそう言った後、『寒っむう』と続けた。確かに山鳩の声が遠くで聞えていた。
それからしばらく二人は黙ってしまい、ただ画面が前に進みながらガサガサと揺れていた。
その場面が淡々と続いていたかと思うと、ふいに電話の着信音が聞えた。立ち止まり、カメラが伊丹さんを映す。
『あ。もしもし。伊丹ですけど』
携帯電話を耳にあて、伊丹さんが誰かと話している。
『あ、掲示板見てくれた人っすか。どうも、始めまして。良かった。こっち二人で心細かったんで。今どこです。え? 先? うっそ。まじ?』
そこでカメラが振り向き、前方を映した。しかし懐中電灯の明かりには、何もない道だけが浮かび上がっていた。
『そっち何人ですか。三人? え? 男二人? うちと一緒だ。ていうか、なんかもうそこ着いてないスか』
伊丹さんが、「行こう」と手で合図する。
カメラが進み出し、また上下に揺れる。
『そうそう。それが廃工場ですよ。間違いないスよ。うちら、二、三分前に石碑みたいなところを曲がったんですけど、後は一本道ですよね。後どのくらいで着きますか』
暗闇に伸びている道のバックで、伊丹さんの声が聞えている。
『ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ。一緒に行こうよ。待っててよ』
伊丹さんが焦った声を出す。そしてカメラが早足になる。
『蓋? 蓋があんの? 鉄製? あ、多分それ。その下が。ていうか、もうちょっとで着くから一緒に行こうよ。抜け駆けはなしだって。おい』
携帯電話に向かって大きな声で呼びかけたが、向こうからの反応がないようだった。
『もしもし、もしもし』
くっそ。先越された。
伊丹さんは毒づくと、カメラの前に出た。その背中を追って、映像は続く。
二、三分ほど経っただろうか。ずっと木立ばかり照らしていた光が、無機質な壁に反射した。苔むしたなにかの建物だ。
『どっちだ』
カメラの先を行く伊丹さんが懐中電灯を振りながら入り口を探す。
『あ、こっちこっち』
そしてカメラを手で招きながら壁を回り込む。その先に左右二枚の横開きの大きな扉があり、片方の扉の下部が潰れ、斜めに傾いでいるせいで、ひと一人が十分出入り出来る隙間が出来ていた。
『おおい。いますか』
伊丹さんが懐中電灯をその隙間に差し入れながら声を掛ける。
そうしておっかなびっくりといった様子で、自分の身体を隙間に滑り込ませた。すぐに隙間から顔が覗き、『入れるか?』と訊いて来る。
『いける』
カメラもそれに続いて隙間から入っていった。
元は一体何の工場だったのか、中はほとんどもぬけのからで、錆びたドラム缶がいくつかと、破れ目から砂がこぼれている白い袋が隅の方に転がっていた。
工場の中を見回している一瞬、音が消えた。他の人影も見えない。画面から冷え冷えとしたものが漂って来る。
一部が破れたトタン屋根の天井から一筋の月光が降りて来て、床の中央に満月のような模様を描いていた。雨も吹きさらしなせいか、そこだけ床が汚らしい色に変色している。
『あれじゃないか』
伊丹さんが手に持った明かりを、左奥の隅に向ける。
近づいていくと、木なのか金属なのか見た目で判別がつかない建材のようなものが積まれているその脇に、蓋が見えた。
カメラが近寄り、斜め上からその姿を映す。網のような模様のついた金属製の蓋だ。縦横五十センチくらいの四角い形状をしている。かなり大きい。人が十分出入り出来そうな大きさだ。
伊丹さんがゴン、ゴン、と蓋を叩いた。
『いますか』
しばらく待ったが反応がなかった。
『これ持ち上がるのか』
カメラから声が掛かると、伊丹さんは顔を上げる。
『さっきの人が、開けてたからな。電話からギィーッて聞えたから。こう、ガポっと持ち上げるんじゃなくて、どこかの縁が固定されててそこが軸になって持ち上げるタイプじゃないかと……』
そう言いながらまた蓋に目を落とした瞬間、『えっ』と絶句した。
『ちょっと待てよ!』
建物の中に悲鳴に似た声が響く。
『なんでこれ溶接されてんだよ!』
大きくぶれた後で、カメラがさらに蓋に近づく。そして地面との境目を映し出す。
コンクリートの地面に鉄製の縁取りがあり、その内側にまるでマンホールのような質感のずっしりした蓋があるのだが、本来であれば、持ち上げる時のとっかかりとなるはずの穴が縁取りに沿って開いているはずだった。
しかし、その蓋には穴の痕跡はあるものの、縁取り全体にそって溶接をされていて、穴も完全に塞がっていた。
『どういうことだよこれ』
伊丹さんは息を飲みながら、また蓋を叩いた。
『おおい。いるのか。おおい』
『おい、落ち着けって』
カメラからそう声が掛かるが、髪を振り乱して顔を上げると、伊丹さんは嗚咽のような声を絞り出した。
『開けて入ったんだって。電話のやつが言ってたんだよ。先に降りとくって! ギィーッ、ゴトッって音がして、電話が切れたんだよ! さっきのやつ、入ってんだって。この中に』
その切羽詰ったような表情に気おされたように、カメラが一瞬引いた。
なんとかして蓋を開けようとしているが、力を入れるとっかかりさえない状態だった。
ゴン、ゴン。
蓋を叩く鈍い音が聞える。
『誰が塞いだんだよ、これ』
喚く伊丹さんの様子がただならないことに気づいたのか、カメラが床の上に置かれ、画像が一瞬乱れる。
斜めになった画面の端で二人の人影がもつれあっている。
『落ち着けって。そんな一瞬で溶接できるわけないだろ。勘違いだって』
しばらく言い争いをしていたが、カメラマンの説得にようやく落ち着きを取り戻し始めた伊丹さんが『そうだな』と呟いた。
それからもう一度カメラは肩に担がれ、廃工場の中の探索が始まった。しかし、それ以外に蓋らしいものは何一つ見当らなかった。もちろん、地下室への入り口も、何一つ。
その後、斜めに傾いた扉から外に出て、廃工場の外側の敷地をしばらく探索していたが、結局蓋や地下への入り口はおろか、さっきまでここにいたという二人組みの痕跡も全く見つけられなかった。
廃工場に背を向け、元来た道を引き返しながら、無言のままビデオは終わった。



和気さんがビデオデッキの停止ボタンを押した後、しばらく沈黙があった。まるでビデオの続きのように。
みかっちさんが重い空気を振り払うように、明るい声を出す。
「というわけで、伊丹くん勘違いの巻、でした」
のまっき、という発音が場違いに聞えた。
「だったら、あの電話はどこから掛けてたんだよ」
伊丹さんが苛立った声を上げる。
「だから、イタズラだって。どっか別の場所から適当に掛けてただけだったんよ」
「だけど、俺が今どこにいますかって訊いたら、斜めに傾いた扉の前にいるって言ったんだぞ。で、中に入った後、左の奥の方に蓋みたいのがあるって、言ってたんだ」
怯えた表情で伊丹さんは捲くし立てた。
「実際俺たちが着いた時も、全く同じだったじゃないか」
「ええと。それは」
みかっちさんが口ごもったところを、和気さんが落ち着いた口調で繋いだ。
「以前行ったことがあったんじゃないかな」
「そうそう。それ。行ったことあった人が、イタズラで電話したんだって」
「なんでそんなことするんだよ」
「人が怖がるのが面白いんじゃないの」
みかっちさんは伊丹さんの目の前で口を半月状にして笑った。
「笑うな!」
伊丹さんが声を荒げかけると、すぐさまワサダさんが止めに入る。
「まあまあ、人の家で喧嘩しちゃだめ。……ところで、その電話して来た人って、ホントに知らない人?」
伊丹さんは相手の名前は分からない、と言った。
「向こうがはじめましてって言うから、そう思っただけだよ」
でも、聞いたことがない声だった。
そう言って手元の携帯電話に視線を落とす。
「ちょっと、その相手の番号見せてよ」
そう言って顔を寄せたみかっちさんに、伊丹さんは着信番号が表示された画面を見せた。
「090‐9733‐…… ふうん、私も知らないなあ」
俺も覗き込んだが、やはり見たことのない番号だった。少なくともフォーラムの常連の誰かではなさそうだ。
「リダイアルしても出ないんだっけ?」
みかっちさんに訊かれて、伊丹さんは携帯電話のボタンを押す。耳にあててしばらく待っていたが、首を横に振って「ほら」とこちらに向けた。
『……電波の届かない場所におられるか、電源が入っていないため、お繋ぎできません』
そんな言葉が電子音で流れて来ていた。
「それでね、管理人の特権のアクセス解析の話なんだけど」
和気さんがぼそりと言う。
「そうそう、それを聞くところだったんだ!」
無邪気なみかっちさんの言葉に苦笑しつつ、和気さんは続けた。
「前に何回も説明したと思うけど、アクセス解析じゃあどこのだれが掲示板を見てたかってのは分からないんだよ。せいぜいプロバイダとOSの種類、それからブラウザは何を使っているのかってことくらいしか分からないんだ」
「ホントにぃ? 個人情報ダダ漏れじゃないの?」
「まあ、会社とか、官公庁から繋いでる場合は、ズバリの名前が分かることもあるけど」
「でもIPアドレスってのがあるんじゃないですか。それも分かるんでしょう」
ワサダさんが横から口を出すと、和気さんは頭を掻いた。
「う〜ん。詳しい説明は省くけど、基本的にはIPアドレスはその都度取得するから、同じ人でも毎日違うよ。といっても、ある程度この人かなって絞れることもあるけど。でもそれも、リアルで知ってる常連で何度も来てる人だったらって話で、一見さんならどこの誰かなんて警察でもないと調べられないと思うよ」
「下手したら、その警察沙汰なんですって!」
伊丹さんが余裕のない声でそう言った。
「地下に閉じ込められてるかも知れないんですよ」
ううん。と伊丹さんはまた頭を掻いている。
「でもさ、あの蓋見たでしょ。完全に溶接されてたじゃん。絶対昨日今日されたんじゃないよ、あれ。ずっと前からだって、明らかに。だったらあの中に入れるわけないよ」
「それはそうだけど!」
「夜遅いから、もうちょっと静かにね」
ワサダさんが常識人らしいたしなめ方をする。
その時、玄関のドアをノックする音が響いた。ついで、ドアの開く音と、「ちわ。遅くなった」という声。
常連の一人で京介さんというハンドルネームの女性だった。部屋に入ってくるなり、「キョースケぇ」と言ってみかっちさんが抱きつこうとする。それを武道家らしい最小限の動きでひらりとかわし、平然とした口調で「で、なにがあったの」と言った。
この人が来るだけで場の空気がなんとも言えない安心感に包まれるので不思議だった。
京介さんが来たので、また最初からビデオを見ることになった。俺は二度目だったが、一度目の時にあまりじっくり見られなかった蓋のアップのシーンを今度は砂被り席で見た。
その時、気がついたことがあった。蓋は確かに縁に沿って溶接されていて、穴も完全に塞がれていたのだが、その縁のところになにかが映っているのが見えたのだ。
「ここ、止めてもらっていいですか」
和気さんが一時停止ボタンを押してくれた。
すると固まった画面の左端のあたりに、黒い線のようなものがあるのだ。ちょうど蓋の丸い縁どりの端から外へ向かって伸びている。
銅線?
一瞬そう思ったが、懐中電灯の光に照らし出されたそれが、やけに細くて柔らかく曲がりながら何本にも分かれているように見えた。
「髪の毛だ……」
思わずぼそりとそう口にすると、伊丹さんの押し殺した悲鳴が聞えた。
「え。なによ髪の毛って」
みかっちさんがテレビの画面に掻き付くように前に出る。
「これが? そうかなあ」
そう言われると自信がなくなってくる。
「やばいよ、これ。まじやばい」
伊丹さんが尋常ではないうろたえ方をしている。
「俺、気づいてなかった。こんなのあったなんて」
髪の毛だとすると、縁から出ているということは溶接された隙間から出ていることになる。それが一体どういう状況なのか想像して、ゾクリと寒気が走った。
「でもこれ、長くない?」
ワサダさんが呟いた感想を耳にすると、確かにそう思えた。男にしては長すぎると。しかし伊丹さんはそれを聞いた途端に余計に怯え始めていた。
「やっぱり女がいたんだよ。女が。俺が最初に電話でそっち何人ですか、って訊いた時、後ろで女の声がしたんだ。間違いない。だから三人かって訊いたのに、男二人だっていうから、あれ? って思ったんだ」
なんだそれは。そんなことさっきまで言ってなかったじゃないか。
俺がそう指摘しようとしたことを、三倍くらいの分量に増やしてみかっちさんが言いつのった。
「それは……」
伊丹さんが言いづらそうにしながら、「これ以上変に思われたくなかったし」と呟いた。
「後から辻褄あわせしようとすんなって!」
と、みかっちさんが辛らつな言葉を口にすると、和気さんがおもむろに手を挙げる。
「あ、それ、僕は聞いてました。最初に伊丹君から相談受けた時、確かにそう言ってましたよ。女の人もいたみたい、って」
しいん、と部屋の中が静かになった。
「なによそれ」
みかっちさんが気味悪そうに言った。
俺も何ともいない気持ち悪さに襲われていた。直前まで電話で話していた相手が、廃工場の溶接された蓋の下に閉じ込められているっていうのか? それも髪の毛が挟まれた状態で。
想像するだけで寒気がしてくる。
安全なはずの和気さんの部屋の中にいるのに、油断できない恐怖感に圧迫されそうになっていた。
その空気を破ったのは京介さんだった。
「行ってみるか」
こともなげにそう言った京介さんの腕に、みかっちさんが抱きつく。
「行くの、キョースケ? 今から? まじで」
鬱陶しそうにそれを振りほどき、伊丹さんに顔を向ける。「これ、場所はどこ」
「本当に行くんですか」
俺も驚いて立ち上がった。
しかしその答えもすでに分かっていた。そういう人だと、分かっていたからだ。
そうなると、次に取るべき俺の行動も自ずと限定されて来る。
「キョースケに着いて行く人!」
やけに元気にみかっちさんが手を挙げながらそう言った時、俺も迷わず右手を挙げていた。



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