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心霊写真5ー後編ー

松浦が去った後、夜九時半になる前に僕らは小川調査事務所を出た。なんだか疲れ果てていて、今所長が帰って来てしまったら逐一何があったか説明するような元気はなかったのだ。
何ごともなかったかのように事務所を片付け、慌しく雑居ビルを出ると一階の喫茶店ボストンの入り口に、カクテルグラスの絵のプレートが掛けられているのが見えた。
髭のマスターが脱サラして始めたこの店は、昼間は喫茶店で、夜はバーになる。そのガラス戸から漏れる淡い光を見ていると、なんだか飲みたい気分になったので、そっと師匠にジェスチャーを送る。
さすがにこのボストンでは小川所長に見つかる可能性があったので、別の店に行くつもりだったが、師匠は背負ったリュックサックの肩口の捩れを直しながら「用があるから」とそっけなく言った。
「僕も行きます」
嫌な予感がした。この人はまだなにかする気なのか。そんな予感が。
いや、正直に言う。黒谷に、夏雄に会わせたくなかった。少なくとも二人きりでは。今はだめだ。
「勝手にしろ」
歩き出した師匠を追う。打撲を受けた場所がきしみ、痛みが走る。だから今はだめだ。
深入りするな、と言われた。だから今はだめだ。
なのに助けられた。だから今はだめだ。
無力感が込み上げて来た。
だから今は。
「結構歩くぞ」
振り返って言う師匠に、「大丈夫です」と痛みを隠す。
歩きながら師匠は松浦のことを少し話した。西署の刑事に聞いたことを。
「あいつは若いころ、日ごろからいがみ合ってた親戚筋の若い衆と本格的にやりあったことがあった。攫って監禁してぶちのめしたらしいんだが、最終的に殺しはしなかったんだ。腕を一本もぎとっただけだった。だけど、そのもぎとるまでに腕の付け根を縛ってな。血を止めて腐らせたんだ。その腕に蛆の卵を埋めたらしい。孵化しなかったら、殺すって宣言して。その相手の男は自分の腕の肉を喰い破って蛆の幼虫が顔を出すのをひたすら願っていた。まるで薬物中毒者が見るような悪夢を」
「男はどうなったんです」
「助けられた時にはおかしくなっていたらしい。残ったもう一本も、もぎ取ってくれと喚いていたそうだ」
蛆が出てくるからだ。そう思ったに違いない。
松浦の蛇のような冷たい顔を思い出して、背中におぞ気が走る。そんな人間に。そんな人間と分かっていながら、師匠は怯みながらも決して引かなかった。
どうすればそんな師匠のようになれるのか。
僕はそのことを考えながら歩いた。繁華街を離れ、住宅街へと進む。路上に明かりは少ない。時々ぽつりと立っている街灯が、リュックサックを背負った背中を浮かび上がらせる。
やがて古びたアパートの前で止まる。見覚えのないアパートだ。
師匠は一階の右端の部屋のドアをノックした。返答はない。しかし格子の嵌った小さな窓からは明かりが漏れている。
少し強く叩く。時間が過ぎる。
ドアがほんの少し開く。師匠はすぐに半歩分離れる。
「誰だ」
見たことのない男の顔が半分だけ覗いた。警戒した表情。師匠はにこりと笑って言った。
「松浦に電話してくれ。探偵が、田村と話をしたがっていると」
男はギョッとした顔をした。そこへ間髪入れず畳み込む。
「小川調査事務所の浦井だ。松浦と田村から聞いているんじゃないか。心配するな。石田組の人間じゃないよ。もちろん他の組でもない。こんなかわいいヤクザがいるか?」
師匠の軽口に、男は慌てたように「待て、少し待て」と言ってドアを閉めた。
混乱している様子だった。
それは僕も同じだ。一体どういうことだ。ここに田村がいるのか。逃げているはずの田村が。この男は誰だ? 松浦との関係は? そもそもなぜ師匠が田村の居場所を知っているんだ。
唖然としていると、やがてドアが開く。さっきより大きくだ。
「入れ。二人だけだな」
男が警戒した表情のままそう言った。
「ああ」
師匠は顎をしゃくって僕を促す。そうして後に続いてアパートの部屋の中に入った。
玄関には靴が一足だけ転がっていたが、師匠はそれを踏み越えて土足のまま部屋に上がる。僕もわけのわからないままそれに続いた。
台所の奥にあった居間は狭く、三人の男が壁際にいた。
ドアを開けた男と、もう一人見知らぬ男。そして田村。田村以外は靴を履いたままだった。
「よう。元気そうだな」
「ああ」
田村は後ろ手に縛られてしゃがんでいた。しかし不敵な表情をして口唇の端を上げてみせる。
「写真は渡したぞ」
「ああ、聞いた」
「悪かったな」
「仕方ねえよ」
田村はくくく、と笑った。
「俺もヤクザは嫌いだが、こうなっちまえば背に腹は代えられない」
「あんたらもヤクザか」
師匠は壁際に立つ二人の男に訊いた。どちらも油断なくこちらの一挙手一投足を見つめている。
「……」
男たちは曖昧に首を振るだけで答えなかった。
「松浦の子飼か。田村のことは石田組のやつらにも秘密ってことだな。心配しないでくれ。誰にも喋らないよ。あの男の怖さは知っている」
師匠は一方的にそう言って、田村に向き直る。
「このヤサが見つかったのはいつだ。今日の午前中、わたしに電話して来た時にはもうこいつらがいたんだな。電話は松浦の指示か」
「よけいなことは訊くな」
田村が口を開こうとすると男たちが鋭く制した。師匠は男たちを睨みつけてから、別のことを訊ねる。
「あの写真はどこで手に入れた」
今度は止められる前に、すぐ答えた。
「取材源は明かせない」
「なるほどな。守秘義務か。でもそれが通用していたら、こんなのん気な面会なんてできてないだろ。今ごろどこか誰も知らない場所で腕に蛆虫の卵でもうえつけられてるはずじゃないか」
田村の顔から血の気が引いたのが分かった。
「やめろ」
壁際から男たちが一歩前に出る。僕も師匠の前に立ち塞がるように足を踏み出した。まだ体中が痛いが、そんなことは一瞬頭から飛んでいた。
「ああもう、やめやめ。暑苦しい。おまえ、松浦に口を割ったな。でもそれで正解だ。投げちまえ、こんなヤバいネタ。多分おまえが思ってる以上にこの件は危険だ。化け物と蛇の喰い合いに巻き込まれるようなもんだ。おっと、分かった分かった。もう帰るよ」
詰め寄ろうとする男たちに師匠は両手を上げる。
「なあ、最後に一つだけ訊かせてくれ」
「なんだ」
田村は精一杯の虚勢を張って、後ろ手のまま挑発的に返事をする。
「おまえの死んだ兄貴なら、このネタ最後まで追ったのか」
驚いた顔をした後、田村はゆっくりと考え、そして素直にこう答えた。
「いや。手を引いただろう」
師匠は満足そうに頷いた。
「小川さんもだ。絶対に途中でケツまくってるよ。で、二人で肩を落として夜のボストンに行くんだ。ヤケ酒だよ。ツケで」
ははは。
田村が笑った。
「そうだ。たぶんそうだ」
師匠も笑っている。
「解放されたら、今度飲みに行こうぜ」
「ああ」
田村は頷いた後、少し胸を張って「またな、バイトのお嬢さん」と言った。
そうして僕と師匠はその部屋を後にする。無事に出られるような気がしなかったが、思いのほか二人の男は立ち塞がろうとしなかった。代わりに師匠を呼び止めて、「あの人から伝言だ」と言った。仏頂面をしたままで。
「丸山警部によろしく、と。それからもう一つ、『素人やらせとくには惜しい。だが、こっちの世界に来るのはもっと惜しい。お互いに、いつの間にか背負っていたくだらないものを、いつかすっかり下ろしてしまったら、また話をしよう』」
師匠はその言葉に「ケッ」と顔をしかめて、踵を返した。
「待って下さい」
僕は後を追った。
なんの変哲もないアパートが遠ざかり、住宅街を元来たとおり歩いて行く。民家の屋根が暗いシルエットを不揃いに並べているその向こうに、繁華街の明かりが薄っすらと見える。
僕は身体に響くのを我慢して足を速め、師匠の隣に並んだ。
「田村はどうしてあそこにいたんですか。松浦たちはずっと探してたんじゃないんですか」
師匠は足を止めずにボソリと答える。
「田村のとっておきの隠れ家だったんだろ。すぐにばれたみたいだけど。多分、石田組はこのことを知らないよ。松浦だけだ。知っていたのは」
「なんで松浦は知ってて知らないふりしてたんですか」
「決まってるだろ。田村を見つけてしまったら、小川調査事務所に来る口実がなくなるからだ」
「は? どういうことですか」
「だから、松浦はわたしにあの母親と子どもの写真を見せるためだけにすべてを動かしてたんだよ」
唖然とした。信じられない。僕は空気が抜けたように笑った。
「仲間へのエクスキューズ。わたしへのエクスキューズ。そして恐らく自分自身へのエクスキューズ。馬鹿だなあ。馬鹿。ああいう勘違いした完璧主義者はいつか大ポカをやらかすぞ」
「ちょっと待って下さい。今日の昼間に松浦たちが帰った後に掛かってきた田村からの電話も、松浦の指示だったんですか」
「多分な。石田組のやつらから逃げてた田村が、うちの事務所でわたしに写真を押し付けたとこまでは仕込みじゃないだろう。で、その日の夜だかに隠れ家が松浦の個人的な網に掛かってしまって、とっつかまったんだ。わけも分からないまま写真を持っているわたしは、田村から連絡がない限りあそこを動けない。だから、松浦はあの電話を掛けさせた。怯えてる。もうしばらくは連絡もないだろう。わたしにそう思わせて、依頼の方に取り掛からせたんだ」
「でもなんで、そんなことが分かったんです」
「なんでだと思う?」
分かるわけがない。さっぱり分からない。
「松浦が、わたしに『老人』の顔が潰れているとは言え、角南家の別邸だと分かる写真のコピーを預けた時点で、写真自体が偽造で無価値なものだと断定できているって話はしたろ。もちろん実際はそれが心霊写真だろうがなんだろうが、だ。でもそれだと、まだ論理に瑕疵がある」
「瑕疵、ですか」
こんな無茶苦茶な話に、そんなもの一つや二つあったところで、という気がしたが「それはなんです」と訊ねた。
「写真が一枚とは限らないってことだ」
「え?」
驚いた。全く考えてなかった。
「あの一枚だけなら、死んでいるはずの正岡大尉が写っているという事実で偽造を主張できるけど、もし他に正岡大尉が写っていない写真が現存していれば話が変わってくる。そしてそれを田村が持っていたとしたら、写真の持つ毒性は復活するんだ。次の衆議院議員選挙に出るっていう、角南家の秘蔵っ子の命取りになりかねないスキャンダルの元がな。角南家を強請るにしても強請らないにしても、写真自体は握りつぶす腹の石田組が、そんな危険な写真をわたしなんかに預けて出歩かせると思うか。どこからどういう噂が立つか分からない。わたしが持っているコピーのオリジナルが偽造だとしても、偽造ではない、少なくともそう断定できない別の証拠写真がどこかにあるんなら、そんな噂ごときでも危険性が跳ね上がるんだよ」
それに、わたしならこうする。
と言って,師匠は何かを破るジェスチャーをする。僕はハッと気づいた。というか、なぜ今まで気づかなかったんだ。
正岡大尉がいる左端を破れば、偽造問題の根拠がなくなるじゃないか。一部が破損していたとしても、後のフィクサー、角南大悟が消えた大逆事件に関わっていたという揺るがし難い証拠写真になってしまう。
「松浦が、そんなことに気づかない男とは思えない。そんなやつがわたしにコピーを預けたんだ。田村はすでに手の中に落ちてると考えていい。あの時点でもうスキャンダル写真の問題は解決していたんだよ。後はすべて松浦の手のひらの上だ。わたしも含めてな」
忌々しそうに師匠は吐き捨てる。
そうか。田村を捕らえて、写真の入手先のことを吐かせた上で、他の写真の存在などの問題をクリアできると判断したのなら、残る不確定要素は師匠の持つコピーと、そしてオリジナル写真だけだ。
「今日の午前中に松浦がうちの事務所にやって来る前に、すでに田村は吐かされてるんだから、当然わたしがオリジナル写真を持っていることは知っていた。知っていて泳がせていたことになる。もちろん監視つきだ。尾行していたのがあの茶髪のチンピラだけとは限らない」
「なんのために」
答えは最初から出ていた。そこに戻るのか。馬鹿な。
「あの母親と子どもの写真を鑑定させるためだ。松浦とわたしにとって、自然な形でだ」
なんなんだ、あのヤクザは。
いや、ヤクザの範疇を逸脱しているとしか思えない。かけている天秤が全く釣り合っていないことに気づいていないのだろうか。いや、釣り合っているのか。やつにとっては。異常だ。どこか故障しているとしか思えない異常さだった。
こっちの頭がおかしくなりそうだ。
最後に残っていた疑問をようやく口にする。
「どうして田村の隠れ家が分かったんです」
日中、僕とずっと行動していたのだから、おそらく寺から戻って来て二手に分かれた後にどこかで情報を入手したのだろうが、石田組にも知られていないあの場所をどうして知ることが出来たのか不思議でならなかった。
ところが師匠は、驚くようなことを言った。
「知ったのは今日の朝だよ。お前もいた時だ」
今日の朝だって?
それは小川調査事務所で朝から用もなくデスクに肘をついていた時のことか。一体その時どうやって?
「服部だよ。あの根暗野郎。昨日田村が腹を刺されてうちに転がり込んで来た時、いつの間にかいなくなってたろ。あいつ、田村が出て行った時、どこかに隠れててそのまま尾行したんだよ。大した理由もなく。なんとなく、とかで。変態だ、変態。所長に尾行のテクを褒められていい気になってんだ。多分、事務所に『田村が見つかった』って電話したのは、服部だ。ヤクザどもが田村を追ってるのに気づいて。うちの事務所もやばい状態になってると考えたんだろ。助け舟のつもりかあの野郎」
師匠が日ごろ本人に面と向かって言わない辛らつな言葉を、吐きまくる。
「で、追っ手から逃げ切った田村が隠れ家に入ったところまで見てたんだよ。それであいつどうしたと思う? 今朝、所長から電話があっただろう。田村が捕まってなかったから、石田組のやつらが来る前に帰れって。それであの根暗、ワープロ立ち上げたまま帰ったろ。消そうとして画面見たら、田村の名前と住所が書いてあったよ。クソったれ。所長に報告せずに、わたしに投げたんだ。おかげで振り回されて散々な目に合ったよ」
散々な目にあったのは僕もだ。だったら今日、最初から師匠は田村の居所を知っていたんじゃないか。
もうなにがなんだか分からない。
「田村が松浦の網に掛かった後、別の場所に移された可能性も高かった。でもこの隠れ家が石田組の網からは完全に外れているとしたら、そのままそこに監禁している可能性もあった。五分五分といったところか。無駄足にならなくて良かったよ」
 あいつも多分、腕の一本も落とさずに済むんじゃないか。
 師匠は無責任にそう言う。
僕は足元に転がっていた空き缶を蹴飛ばした。勝手にしろ、という気分だった。
一歩進むたびに、身体のどこかが痛かった。そのたびに、苛立ちが募っていく。隣の師匠の方を見たくなかった。
そして一歩進むたびに、その苛立ちが、師匠と夏雄が一緒にいるところを見るたびに感じているものと同質のものではないか、という気がしてきて、余計に僕の心はかき乱される。
師匠は多分、松浦の冷酷な瞳の後ろに広がる虚無に、ひかれている。ヤクザであるあいつが嫌いだという事実と同じくらいの確かさで。そのことが、どうしようもなく僕を苛立たせるのだった。
『私が見ている世界は、あなたの見ている世界と似ているだろうか』
頭の中で、松浦の去り際の言葉が繰り返し再生される。繰り返されるたび、その言葉の音色は希薄になり、やがて意味だけが残される。
僕は行く手に伸びる暗い夜道をじっと見据える。僕らのほか、歩く人の姿はない。だがその光景も、師匠の目には全く別の様相を見せているのかも知れない。無数のうつろな人影が闇に漂う不確かな光景が……
アキちゃんの見る世界。師匠の見る世界。松浦の見る世界。そしてこの僕の見る世界。どれが正しいなんてことは、きっとないのだろう。ただどれも少し似ていて、そして違っているのだ。
『お互いに、いつの間にか背負っていたくだらないものを、いつかすっかり下ろしてしまったら、また話をしよう』
去り際の言葉が消えていった後で、入れ替わりに松浦の最後の伝言が脳裏をよぎった。
馴れ馴れしい言葉だ。素面でよくこんなセリフを吐けるものだ。
苛立ちが再び湧き上がる。しかし僕は、その言葉の中に微妙な違和感を覚えていた。
なんだ。なにが気になるんだろう。なにかがぴたりと嵌った感じ。あまりに状況を射抜いているような……
そこまで考えた瞬間、僕は立ち止まって師匠の背中を指さしていた。
師匠は怪訝な顔をしていたが、すぐにハッと気づいたように背中のリュックサックを下ろした。焦ったのか、ジッパーを開けるのに手間取る。
そしてようやく差し入れた手が中を探り、また出てきた時には白い封筒が握られていた。封筒はかなり厚い。簡単には折れないくらいに。
師匠は歯軋りをして、複雑な表情を浮かべたまま呟いた。
「下請けの下請けをやってるような零細興信所の規定料金、買いかぶりすぎだ」
いつの間に入れたんだ!
僕は驚愕する。
さっき事務所でテーブルに写真を並べて話し合っていた時だ。それしか考えられない。リュックサックも確かに口を開けたまま近くに置いていた。しかし僕も師匠も全く気づかなかった。そんなそぶりさえ。ぶつかりざま、写真を師匠の服に滑り込ませた田村とは全くレベルの違う技だ。
師匠は抑え切れない怒りを全身に漲らせ、リュックサックを背負いなおす。
「化け物に、喰い殺されろ」
押し殺した声でそう吐き捨てると、足を強く踏み鳴らしながら歩き出した。
後を追う僕の目の前に、一万円札がひらひらと舞いながら落ちて来る。宙に放り投げられた、くだらないものたちが。
何枚あるのか、数え切れない。
そんなものが舞う、街の明かりが遠く幻のように見える暗い道を、僕らは振り返らずに歩いた。

(完)

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あきゅろす。
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