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心霊写真5ー中編ー
師匠のボロ軽四で小川調査事務所に到着した僕らは松浦を待っていた。師匠が八時半にここで会う約束を電話で取り付けたという。
ホワイトボードを確認すると、小川所長が帰ってくる時間が今日の夜九時となっている。しかし九時といえば飛行機の到着の時間のはずなので、実際はまだ一時間程度は猶予がある。
師匠は小川所長が戻って来る前にこの件のカタをつけるつもりなのだ。無断でヤクザの依頼を引き受けた手前、そうせざるを得ないのだろう。
カタをつけるといっても、依頼部分については半ば出来レースだ。預かった写真のうち、四枚は心霊写真じゃありません。もう一枚はたぶん念写によるものです。そう説明したところで、結局は偽造写真として扱われるだけだ。田村がまだ見つかっていないとしても、躍起になって探し出すモチベーションにはならない。
松浦の真意は別のところにある、というようなことを師匠は言っていたが、それもどうということはないだろう。
問題なのは、田村が持って逃げているはずの写真の現物を師匠が持っていたということだ。そしてそれを松浦に伝えたであろう茶髪を、本職のヤクザを、夏雄がボコボコにしてしまったということ。これがまずかった。兎の着ぐるみを被っていたが、僕を助けに来たのだ。こちらサイドの人間に決まっている。
単独行動を取っていた茶髪が、このことを松浦に、あるいは石田組に報告していないのではないか、という甘い希望はこの際持たなかった。
タダで済むとは思えない。
「黒谷さんは」
師匠に訊くと、「帰した」という答え。
「あいつがいると話がこじれる」
この件は暴力抜きで決着できると判断したのだという。話がこじれるのは想像できるが、なんだそれは、と僕は思った。
寺から帰る時に、「ヒマか」と訊いたのは師匠の方だ。関わりたくないのか、夏雄はついて来ることを拒否したのに、結局師匠を心配してやって来ている。そして身体を張って僕を助けてくれたのに、邪魔になったから帰れ、というのは……
僕は嬉しかったのだ。
あの兎が現れた時。
あの、僕がボコボコにされていた時に。痛ッ。
怪我のことを思い出した途端、傷口が痛み出した。切った頬などより、打ち身のところがキツイ。特に腹は茶髪、夏雄、茶髪と同じ場所ばかり殴られているから。なんだかムカムカして来た。夏雄の野郎。
しかしまた、これから石田組とどうケリをつけるのか心配になり、落ち込む。
生きた心地がしない状態で事務所の椅子に座っていたが、心の準備が整わないうちに事務所のドアが開いた。
そして四人の男たちが入って来る。
松浦がいる。そして最初の時にいた年嵩の男と、ゴリラのような顔の男。あと初めて見る体格の良い男がいた。背は夏雄と同じくらい高く、黒いスーツを窮屈そうに着ている。ひしゃげたような団子鼻で、人相も相当に凶悪だった。耳が潰れていて、いわゆるギョーザ耳になっている。かつては柔道の重量級全国大会出場者、というところか。
その男を見て、僕は茶髪が兎にやられた一件が完全に石田組にも伝わっていることを悟った。しかし彼らが警戒しているその兎は今ここにはいない。最悪の状況だ。
「その化け物に用はない。帰せ」
師匠が自分のデスクから立ち上がり、はっきりそう言い放った。
化け物と言われても、団子鼻の男は顔色一つ変えない。師匠の物言いを咎める喚き声も聞えてこなかった。その役割をしていた茶髪がいないからだった。
「それはそちらの態度次第だ」
松浦が静かに口を開いた。
「写真は渡す。本来、これは田村のものだ。お前たちに渡す義理はないが、この騒動を収めるためにそうしよう」
師匠は懐から写真を取り出し、その場で腕を伸ばして差し出した。年嵩の男がスッと近づき、写真を受け取る。
手元にやって来た写真を松浦がちらりと一瞥する。
「いいだろう」
室内の緊張感が少し和らいだ気がした。
「だが、田村の居場所はどこだ」
「知らん。写真はやつがお前らに腹を刺されて事務所に転がり込んで来た時に、押し付けられただけだ。その後は会っていない。一度電話があったが、居場所を聞く前に切られた」
こっちだって迷惑なんだ!
師匠はそう言ったが、写真を最初に松浦に渡さなかった理由にはなっていない。
「なぜ渡さなかった」
やはりそこを訊かれた。
『ヤクザが嫌いだろう』
田村にはそう言われたのだったか。しかし師匠は、松浦に向かって平然として言った。
「この写真には秘密がある」
「なに?」
松浦が眉根を寄せた。
「あんたにだけ話したい」
師匠は真っ向から松浦を見ている。
「依頼のこともある」
そう続けた師匠に、ようやく松浦は頷いた。
「下で待て」
男たちはその指示を受けて、整然とドアから去って行く。あらかじめ心得ていたようだった。化け物と呼ばれた男も、全く表情を変えず、ドアの向こうへ消えた。
「そちらは」
松浦は僕を見た。
嫌だ。絶対にここにいる。
テコでも動かない気だったが、師匠が「怪我人だ。いいだろう?」と言うと、ふ、と空気が抜けるような笑いを浮かべ、松浦は何も言わずソファに腰掛けた。
「あの歯の抜けた茶髪の男はどうなった?」
師匠がデスクから椅子をソファの方へ回して、そう訊いた。
「あなた方には関係がない」
松浦はそのことについて話す気はない、というようにそっけなく言った。僕はその様子から、茶髪の独善的行動が松浦の逆鱗に触れたのではないかと想像した。恐らく当たっているだろう。だとするならば、今ここにいないあの男が、夏雄にやられた以上の重症を、仲間からの制裁によって負っている可能性さえあった。
「関係ないのだったら、そいつの怪我についても不問だな」
師匠は夏雄の暴行について踏み込んだが、松浦はそれについてもそっけなかった。
「関係がないと言ったはずです」
そうして胸の内ポケットから黒革の財布を取り出して、数枚の一万円札を僕に突きつけた。
一瞬なんのことか分からなかったが、自分の頬に当てられた包帯を手で触り、そう言うことかと気づく。
「やめろ」
師匠は強い口調で言った。
言われなくても受け取る気などなかった。なにしろ僕はあの診療所でお金を払っていない。どこにツケられたのか分からないが。
「嫌われたものだ」
松浦は一人ごちて財布を仕舞う。
「では、聞かせてもらいましょう」ギシリ、とソファがきしんだ。
「まず、依頼の方からだ」
師匠はそう言ってから机の上に置いてあった自分のリュックサックを持って来て、中から封筒を取り出した。それから僕に目配せをして、来客用のテーブルを持って来させる。
ソファと机の間に置かれたテーブルに、五枚の写真が並べられた。いや、うち一枚はその複写だ。
あえて師匠は、現物の方ではなく、複写の方で話を進めた。
「そちらの依頼は、この横浜にある角南家の別邸で撮られた1938年か39年の写真に写っている、死んだはずの正岡大尉の正体を調べろ、というものだった」
「そうです」
「心霊写真なのか、それとも他のなにかなのか……」
師匠はゆっくりと写真のコピーを指の腹で撫でた。
「ここに写っているこの正岡大尉に良く似た人物は、今現在も死んでいない」
松浦は、ほう、という顔をした。
「生きていないものは、死なない。このテーブルが死なないように」
コツコツと中指の第一関節で叩く。
「わたしの結論としては、念写だ。こいつは、ここにいる仲間たちの思念によって写し込まれた、命なき存在なんだ」
ね・ん・しゃ。
松浦は馬鹿にするでもなく、なんの先入観もないようにその言葉を吟味しているように見えた。
「だが、ただの精巧な人形がここに置かれていただけなのかも知れない。あるいは、ただの心霊写真なのかも知れない」
師匠はただの、を強調して言った。
「でもそれも大した問題じゃない。なぜならこれは偽造写真だからだ。真実がどうあれ、最初からそう決められている。角南一族にダメージを与える致死的な毒にはなりえない」
そうだろう?
師匠は松浦の目を真正面から見る。松浦はなにも答えない。
「あんたの真意は別にあった。本当の依頼はこっちさ!」
師匠はテーブルを叩いた。いや、その上に並べられている他の四枚の写真をだ。
「海辺の家族連れ。男の子の両膝から先がないのは、ただのシャッター速度の問題だ」
写真はピン、と弾かれテーブルの外に落とされた。
「アイスを食べているカップル。この肩の手はよくあるイタズラだ」
ピン、と弾かれる。
「飲み会の写真。煙草の煙がストロボに照らされ、偶然顔のように見えただけだ」
ピン。
「母親と男の子の写真」
師匠はそう言って写真を手に取った。
「この男の子は、あんただ」
驚いて目を疑った。なぜそうなるんだ?
松浦も驚いているかと思ったが、その表情は逆に冷え切ったように緊張感を湛えている。
「そして母親は、立光会の先代の愛人だった女。あんたを産み、中学校卒業まで私生児として育てていた女だ」
師匠の頬にも緊張があり、こわばっているように見えた。テーブルを真ん中にして向かい合い、お互いしばし押し黙った。
口を開いたのは松浦だった。
「なぜ分かった」
その言葉には、脅しというよりも純粋な興味が混ざっているようだった。
「わたしは、霊を見ることが出来る。それは人の思念、怨念、執念を五感ではないなにか別の知覚で捉えることが出来るからだ。心霊写真にはほとんどそれがない。確かに撮影されるまではそういう思念が影響している。だけどネガからプリントされるのは薬品による化学反応だ。写真として手元に来た時点で、残念ながらわたしに感知できるような霊ではなくなっている。ただの視覚的なものに過ぎない」
心霊写真は苦手だ。
寺に向かう車の中で、僕にしてくれたような説明を師匠は繰り返した。松浦はじっと聞いている。
「しかしこの母子の写真は違った。見た瞬間からビンビン来たよ。念だ。念。強烈な思念、怨念、執念。わたしにも感じることが出来るやつだ。それがこびり付いて離れない。あんたのだよ。その写真を他の写真に混ぜて持って来た、あんたの念だ」
松浦はなにも言わない。
「この、窓のところに薄っすらと写っている男。あんたは、この男のことを知りたかったんだ。家の前で写真を撮る母子。カメラを構えているのは、近所の人か? そして窓辺で薄ら笑いを浮かべてそれを見ている男…… 目元なんかはよく見えないのに、その口元は分かる。薄ら笑い。それがその男の本質であるかのように、だ。あんたはこの男がこの時、家の中にいたのか、それとも霊体として写っているのか、それを知りたかったんだ」
違うか?
刃物を前にしてなお喉を突き出すような、緊張した声だった。
松浦はまだなにも言わない。その顔から表情が完全に消えている。写真の中の男の子は、はにかんだようにほんの少し笑みを見せていた。目の前の男にその面影はない。
「それにこだわる理由も分かる。この男が、あんたの父親だからだ。だけどくだんの立光会の先代じゃない。顔つきがまるで違う。あんたは立光会の先代の愛人の息子だが、先代の実の子ではなかった。そうだろう。あんたの実の父は、薄ら笑いを浮かべているこの男だ。言ってやるよ。こいつは霊じゃない。ここにいたんだ。あんたら母子と一緒のフレームに入ろうとせず、ただ離れた場所から薄ら笑いを浮かべている。そういう男だ」
師匠は自棄を起こしたように捲くし立てると、さあ矢でも鉄砲でも持って来い、とばかりに開き直って、腕組みをしながら椅子の背もたれにふんぞり返った。生きた心地がしない状態で僕は手に汗を握っていた。
松浦はまだなにも口にせず、写真をじっと見ている。男の上半身が薄っすらと見えている窓のあたりを。
「そうか……」
ようやく開いた口からは、そんな静かな言葉だけがこぼれた。そうしてそっと写真を仕舞う。
師匠はばつが悪そうに、頭を掻いている。
立光会の先代の顔つきなんて、昨日の今日まで知らなかったはずだ。西署の刑事に会いに行ったのはそのためか。ヤクザ嫌いの師匠が、ヤクザの世界の事情を調べようとすれば、警察しかないのだろう。
松浦はなんの詮索もせず、この件を終わりにした。
『あんたの後ろにあるのは虚無だ』
僕はこの男の持つ虚ろな冷たさが、師匠の言う虚無が、どこから来るのか、おぼろげながら分かった気がした。
松浦が腰を浮かしかけた時、師匠が声を掛けた。
「待てよ。まだ話は終わってない」
「もうなにも話すことはない」
そう言えば、最初に師匠は青年将校たちの写真を指して、この写真には秘密がある、と言っていた。思わせぶりだったが、そのことなのだろうか。
しかし、僕にももう、そっちの写真にはあまり価値がないとしか思えなかった。
「聞け。聞いてくれ。重要な話だ」
師匠が身を乗り出す。
「頼む」
その懇願に、松浦は一瞬逡巡したように見えたが、やがてソファーに座りなおした。
「写真を」
師匠にそう請われて、松浦は一度仕舞った写真を取り出そうとする。しかし師匠は「そっちじゃない。『老人』の方の写真だ」と言った。
そうして、テーブルの上に写真と、その複写が並んだ。複写の方は中央部分が黒く潰れていて、『老人』の顔が見えない。
「これがなにか」
師匠は考えを整理するようにしばし視線を落とし、慎重に口を開いた。
「わたしの知り合いに、ある霊能者がいてな」
そうして名前や詳細を出さずに、アキちゃんのことを話し始めた。僕らの目の前で起きた、写真の人物の目が閉じるという、あの集団催眠なのか集団幻覚なのか分からない不思議な力のことも。
そうして、写真の原本の方を使って、そのシーンを再現する。写真の上に手をかざし、手のひらをくるくると回しているのだが、蝋燭の明かりもないこんな明るい場所ではやけに滑稽に見えた。
松浦の口元に冷笑が浮かんだのを見て、「笑わず聞いてくれ」と師匠は言う。
「『閉じない』『どうして』そう言ったんだ、その霊能者は。確かに正岡大尉の目は閉じていなかった。だからわたしは、それが生きている人間ではないからではないかと思ったんだ。でもよくよく考えるとおかしいんだ。他の写真でも目を閉じた人間と、閉じていない人間がいる。飲み会の写真なら、一人のおっさんは目を閉じていたけど、他は閉じていない。それ自体にはなにもおかしいことはないはずだ。『老人』たちの写真なら、一人は目を開いていて、他は閉じている。今はもう死んでいる人もいるし、生きている人もいる。それだけのことだ。目を閉じない、なんて言って怯える必要はない。確かに古い写真だが、いつごろのものだとか、大逆事件に関わる写真だなんていう背景は一切話していない。ましてこの後彼らは処刑されたなんて話は。なのになぜ、一人でも目を閉じない人間がいると、おかしいんだ? 現に青年将校たちの年齢を考えると、今生きていたら八十歳くらいだ。一人くらい目を開けていてもなにもおかしくない」
師匠はそこで言葉を切り、
『閉じない』『どうして』
と繰り返した。
なにが言いたいのか分からず、僕は困惑していた。やっと松浦たちヤクザとの縁も切れ、この写真にまつわるやっかいごとが終わりかけていたのに、なにを師匠は言おうとしてるのだろう。
スッ、と師匠の指が写真に向かう。そしてそれは『老人』の顔の上で止まった。
「閉じなかったのは、こいつだ」
ゾクリとした。
なぜか分からないけれど、この二日間で、最大の寒気が前触れもなくふいにやって来た。心臓が、今初めて動き出したかのようにバクバクと音を立て始める。
「正岡にばかり目をやっていて、わたしも気づかなかった。だけどその霊能者だけは見ていた。写真の上から手を離した時、この『老人』だけは、一度閉じた目をもう一度薄っすらと開いたんだ」
寺から帰りかけたところで、いきなり引き返してアキちゃんのところへ走ったのは、そのためか。
『閉じない』『どうして』という、アキちゃんのもらした言葉の齟齬に気づき、その真意の確認のためだった。そして、アキちゃんが見たものとは……
「半眼だ。言われなくては分からないくらい、薄っすらと。それが何度手順を繰り返しても、その度に閉じた目をわずかに開けたそうだ。まるで薄目を開けて、写真の中からこちらを覗いているみたいに……」
そんな現象は初めてだったから、怖くなったそうだ。
師匠はそう言って右の拳を縦にして口元に当て、睨みつけるように写真を見下ろす。
「死んだ人間は目を閉じる。生きている人間は目を開けたまま。では、一度閉じて、薄目を開けるやつは?」
ぶつぶつと言いながら、師匠はリュックサックを手元に引き寄せ、中身を探る。
「そっちのコピー。複写してる時に、途中で田村に写真を奪われたから、真ん中が黒く潰れてるってやつ」
テーブルの方を見ないで師匠は続ける。
「本当に、そうなのかな」
「なんのことです。なにが言いたい」
松浦が怪訝な顔で問い掛ける。
「どうして写真を渡さなかったのかと訊いたな。田村から無理やり押し付けられた写真なのに、あんたたちがやって来た時にどうして渡さなかったのか、と。正直言うと、昨日、一度目は迷ってた。小川所長に迷惑が掛かるなら、渡してしまおうかとも思った。けど、なにか第六感みたいなのが働いてな。黙ってたんだ。そして次の日、二度目にあんたらが来た時には、もう渡すつもりはなかった。一度目と、二度目の違いがどうして生まれたのか」
ごそごそとやっていた手の動きが止まる。
ゆっくりとリュックサックから半透明なクリアファイルが出てくる。中になにか入っている。
「初日、つまり昨日の夜、コピーをな。取ってみたんだ。持ち歩くにも、あんたたちとやりとりするにも、あった方が便利だと思って。そしたら、こうだ」
クリアファイルから、写真のコピーが出て来た。だがそれを見た瞬間、僕の身体には鳥肌が立った。
コピー用紙の中央が真っ黒に潰れている。『老人』の顔を中心に。まるで同じだった。松浦が持って来たものと。
「まさかそれが」
松浦の目が、クリアファイルに注がれる。クリアファイルの中にはまだ用紙が入っていた。
「なんだこれは、と思ってな。いろんな所でコピーをとったよ。コンビニを回ったり、文具屋を回ったり。そのすべてがこれだ」
テーブルの上に、コピー用紙がばら撒かれる。
目を疑った。すべてだ。すべてまったく同様に、『老人』の顔を中心にして真っ黒く潰れている。いや、よく見るとその黒い部分は、すべて微妙に形が違う。生物に、個体ごとの差異があるように。
「複写を途中で止められたから起きた焼きミスなんかじゃないんだ。これは。まともじゃない。もっと恐ろしいものだ」
松浦も食い入るようにコピー用紙を次々手に取っている。オリジナルからコピーされた写真のすべてから、『老人』の顔が消されている。
「消された大逆事件とやらでお縄になった青年将校たちが、どうして北一輝の名前を、つまり『老人』角南大悟の名前を割らなかったか、考えたことがあるか」
松浦がコピーから目を離さず、答えなかったので師匠は続ける。
「どういう思想を植えつけられたのか知らないが、首謀者の名を明かさなかったのには二つの理由が考えられる。一つは、首謀者への畏敬から、罪が及ぶのを防ぐため。そしてもう一つが、彼らの計画が、そして思想が、まだ生きる望みがあったためだ。首謀者が無事で、かつそのまま軍に知られなければ、自分たちの失敗の後でもまだ思想は達成できる。その捨石になるためだ」
だがこいつは。
と師匠は、原本の方の『老人』の顔を見つめる。
「こいつは、そんな大逆事件などなにもなかったかのように、戦後は商売を広げ、角南家を大きくする。政財界にも手を伸ばし、フィクサーとも呼ばれる存在になる。思想はどこにいった? 青年将校たちを決起させたイデオロギーは? 論理は? そんなものが本当にあったのか? 青年将校を駆り立てた言葉は、もう誰も知らない。こいつは…………」
化け物だ。
師匠は吐き捨てるように言った。
あの団子鼻のヤクザに言った言葉と同じだったが、その重さは全く違っていた。
「わたしが念写だと思ったのにはそういうわけもあった。こいつにとっては、ただあるべき姿に修正しただけだ。自分の描いた地図の通りにだ。岩川大尉が死んでいれば岩川が。もう一人のなんとかって大尉が死んでいれば、そいつがここに現れていただろう。亡霊のように。そう思えばなぜかしっくり来るんだ」
写真の中の『老人』は、当時まだ五十代だと言うのに、眉間と頬には深い皺が刻まれ、すべてを知り尽くした賢人のような威厳が備わっていた。だがその威厳は、尊大さを併せ持ち、わずかに上げた顎が目に映るすべてを見下しているかのように見えた。
「腹を刺された田村。その揉み合いになった時に怪我をしたというあんたのところの若い衆。歯抜けの茶髪野郎にボコボコにされたこいつ。お返しにボコボコにされた茶髪野郎…… この写真に関わった人間が昨日今日の二日間でかなりの怪我を負っている。他にもいるんじゃないか」
そう振られ、松浦はハッと気づいたような顔をして「弁護士が」と言いかけた。そのまま口をつぐむ。
「なんだ、弁護士先生もどうにかなったのか。面白いな。深く関わった人間で無事なのはわたしとあんたくらいじゃないか。こいつはよっぽど強い守護霊を持ってないと対抗できないらしい」
ははは、と師匠は笑ったが、松浦はその冗談を笑いもせず射るようにスッと目を細めた。
師匠はばつが悪そうに視線を逸らすと、テーブルの上に散乱したコピー用紙を片付け始める。
「こいつは燃やすよ。あんたも、そのオリジナルをどうするつもりか知らないが、手放した方がいい。今は握りつぶすつもりだと言っても、あんたらの稼業は明日はどっちに向くか分からないんだろう。だからと言ってずっと持っているのはまずい」
実にまずい。
師匠はそう繰り返したが、忠告は聞かれる様子はなかった。松浦は写真を懐に仕舞い、今度こそ腰を浮かせる。
「無視かよ。幽霊やら怨霊やらという生易しいものじゃないぞ。こいつは」
「では、なんですか」
師匠は言葉に詰まった。
「分からない。死んでいるのに、死んでいない。死してなお、その思想が生きている、とかそういう抽象的な話じゃない。なんらかの存在として、この世にある。そんな気がする。半眼に薄っすら開かれた目。今も死の淵の向こうから、この世を覗いている」
御霊(ごりょう)……
ふと、その言葉が頭に浮かび、僕はぼそりと口にする。師匠と松浦がこちらに顔を向けたので、「いや、その」と手を振った。
師匠の言う怨霊という言葉から、歴史上の凄まじい祟り神であった、菅原道真や崇徳上皇、そして平将門などのことがふいに連想されたのだ。世に怨念を撒き散らした彼らはまた、諡号をされ、神として祀り上げられることで鎮められた。だがその鎮魂は、恐怖に蓋をしたものであり、彼らの怨念がいつまた世に溢れ出すか分からないという畏怖の上に成り立っている。
「御霊か」
師匠はそう呟いて考え込んだ。
松浦は、ふ、と笑い、スーツのズボンに出来たわずかな皺を手で払った。
「お嬢さん、お話が出来て楽しかった。約束の報酬は、この事務所の正規の料金分でも受け取ってくれないのでしょうね」
「わたしが欲しいのは、ヤクザのいない日常だ。もう二度と顔を見せないでくれ」
最後まで師匠は口調を改めなかった。
松浦は顔色を変えることもなく、ただ「さようなら」と言って僕らに背を向けた。ドアノブに手を触れかけた時、じっと見ていた師匠が声を上げる。
「なあ、一つだけ教えてくれ」
「……なんです」
松浦は上半身を捻って顔を半分こちらに向けた。
「本家立光会の先代の落し種だって噂。わざわざ広めてるのは、あんたか?」
挑発的なその言葉に、松浦はなにも答えなかった。ただじっと師匠の方を見た後で、全く別のことを言った。
「私が見ている世界は、あなたの見ている世界と似ているだろうか」
また、どこかで。
独り言のようにそう口にしてドアを開けた。その後ろ姿が消えて行くのを、僕と師匠は静かに見送った。




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あきゅろす。
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