死滅回遊 師匠から聞いた話だ。 大学二回生の春のことだった。 僕はオカルト道の師匠から頼まれて、現像された写真を受け取りに行った。 店舗にではない。普通のマンションの一室にだ。表札もないその部屋のドアをノックすると、しばらくして中から返答があった。 「なんだ」 わずかに開いたドアの隙間からチェーン越しに、陰気な肥満男の目が覗く。『写真屋』と呼ばれる男だった。 師匠からのことづてを告げると、めんどくさそうに一度ドアを閉め、また開いた時には紙袋を持っていた。 「ん」 と言うので、受け取る。 実に冷たい態度だった。師匠と一緒に訊ねて来た時とは随分違う。いつも師匠に対して憎まれ口を叩いているが、訊ねて来てくれたこと自体は嬉しそうだった。結局のところ師匠が好きなのだろう。 どういう歪んだ「好き」なのかは知りたくもないが。 「カネ」 と言って伸ばされた、栄養過剰な芋虫のような指を見つめて、僕は用意してあったセリフを吐く。 「払わなくていいと聞いてます」 すると『写真屋』は無言で腕を伸ばし、紙袋を奪い返そうとする。僕は紙袋を背中側に回して、それを防ぐ。 チェーンを外そうとした『写真屋』に、ポケットから取り出したティシュペーパーを突きつける。 「なんだこれは」 ティッシュペーパーからはお菓子の粉がパラパラと落ちている。 「スコーンだそうです。加奈子さんの手作りの」 それを聞くと、『写真屋』は「ふん」と言ってティッシュペーパーに包まれたものを受け取り、何も言わずにドアを閉めた。 僕はその紙袋を持って、師匠のアパートへ向かう。 師匠はこのところ、写真に凝っているのだ。撮影に良く付き合わされる僕は、何が写っているのか知っているのだが、わざわざあのアングラ社会ご用達の『写真屋』に現像させたという事実との間のギャップに、変な気分になるのだった。 もっとも、師匠はただあの『写真屋』をタダで写真を現像してくれる便利な人、程度にしか思っていないのに違いないのだが。 部屋の前に着くと、師匠は玄関の前に屈んで、野良猫の喉を撫でていた。 「喉が鳴ってはいくさはできぬ。喉が鳴ってはいくさはできぬ」 そんなことを言いながら。 「お、ご苦労」 師匠は顔を上げ、部屋の中に入る。 それから紙袋から大量の写真を取り出し、二人で部屋中に広げた。 「これいいな」 師匠が指さしたのは、交差点の歩行者用の白線の上にハンバーガーが置かれていて、そこに向かいのビルの屋上越しの夕日が差し込んでいる写真だった。 「はあ」 反応の薄い僕を尻目に、師匠は嬉しそうにその写真を手に取り、頷きながらじっくりと見つめている。 「こっちも捨てがたい」 次に手にした写真も、やはりハンバーガーがフィーチャーされた写真だった。 散髪屋(美容院ではなく)で髪を切る師匠の横、ドライヤーがいくつか置いてある台の上にハンバーガーが一つ混ざっている。 全部こんな調子なのだ。 『バーガーのある風景』 師匠はこのコンセプトで、ひたすらハンバーガーが日常生活の一部に溶け込んでいる写真を撮りまくっていた。 正直いったいどこが良いのか分からない。 確かにぱっと見、面白い写真ではあるが、しょせん一発ネタであり、それを繰り返し撮り続けるというのは、よほど本人が気に入っているのだろう。 撮影に時間が掛かり、はみ出たレタスがしなびてくると、次のバーガーに替えるのだが、もちろん古い方を廃棄処分などするわけはない。 土や埃を払って食べるのだ。手分けして。 あんまりハンバーガーばかり食べさせられるのに閉口して、「テリヤキとか、チーズバーガーとか、バリエーションを入れませんか」と提案してみたが、「ハンバーガーだから意味があるんだ。馬鹿じゃないの」と罵られた。 「すみません」と言うしかない。 そんな苦労して撮った写真たちを一つ一つ、じっくりと見ていく。 スコーンを食べながらだ。 師匠が何故か大量に作ってしまったという、スコーンと紅茶をひたすら食べて食べて啜って啜って…… なんだか変なテンションになっていた。夜も更けてきたが、カフェインのせいなのか、全然眠くならない。 「あー、やっぱり、高速道路のガソスタで撮っとけば良かったー!」 師匠が畳を叩いて悔しがっている。 高速道路のパーキングエリアに寄った時、敷地内にあったガソリンスタンドになにかインスピレーションを感じたらしく、その高い屋根の上のはじっこにハンバーガーが乗ってたら最高じゃないか、と言い出したのだ。 裏のタイヤの山を足場にしてなんとか屋根によじ登り、こっそり置いて来いと、そういう命令を下され、僕は全力で拒否したのだった。 「こっちもいいなあ。これはちょっと構図がまずかったな」 師匠は飽きもせず、写真を見続ける。 もう無理。 これ以上スコーンは食えないし、紅茶も飲めないし、ハンバーガーの写真も見たくない。 僕がそう宣言しようとした時だった。 ふいに、ひんやりした空気が頬を撫でた。窓が開いていたのかと思って、そちらを見るが、しっかり閉まったままだった。 次の瞬間、皮膚の表面を小さな虫が這いまわるような悪寒が全身に走った。 なんだ。 いったい。 部屋の中に異変はない。バーガーのある風景の写真たちも、床に散らばったままだ。 なにかが起こった。いや、起ころうとしているのか。しかし、それがなんなのか分からない。 思わず腰を浮かしかける。 僕のその動きを、師匠がわずかな仕草で制する。師匠は険しい表情をして、油断なく周囲を見回している。 やがて目を閉じ、しばらく息を止めていたかと思うと、ふいに立ち上がり、「なにか来る」と言った。 師匠は上着を無造作に羽織り、テーブルに転がっていた車の鍵を手に取る。 「行くぞ」 「はい」 僕は師匠に続いて部屋の外へ出た。そしてボロ軽四の助手席に滑り込む。外は暗かった。月明かりが雲に半分遮られている。車を発進させながら、師匠は言った。 「感じたのか」 「はい」 「これは霊感じゃないぞ」 霊感じゃない? そう言われて、腑に落ちるものがあった。確かに霊感とは少し違う気がする。霊の気配をどこかに感じたわけではなかった。 ではなんだと言われると、説明し辛い。だがとてつもなくおぞましい感じがするのだ。 「こいつは……」 師匠は前を見据えながら言った。「嫌な予感ってやつだ」 車は東へ向かい、やがて川沿いの道に出た。 土手に沿って、北へ向かっていると、今度はざわざわと皮膚が粟立つような感覚がやってきた。 師匠もそれに気づいた様子で、すぐさま車を止めた。堤防のすぐそばだ。 僕たちは車を降り、堤防に張り付いた。それほど高くない。胸元から上が出るくらいの高さだ。 目の前に流れるのは市内の東を流れる大きな川だ。昔は国分川とも呼ばれたらしい。ムラとムラとを分ける、境となっていた川だ。 その川の向こう岸に、師匠は目を凝らしている。 堤防に沿って等間隔に街灯が据えられているが、その間隔はかなり広く、あたりはとても暗かった。 ようやく暗さに慣れ始めた目に、川の黒い水面が音もなくたゆたっている。 師匠はさっき、これは霊感じゃないと言ったが、今自分が感じているものは間違いなく霊感だった。だが、それはか細く、取るに足りない気配に過ぎなかった。 そのことが逆に薄気味の悪さを増している。 川を越えた向こう岸の方から、何かが近づいてきている。霊的ななにかが。それは分かる。 しかしこんな弱い気配しか感じ取れないものが、川から遠く離れた師匠の部屋にまで、その威圧感を届けた、ということに得体の知れない齟齬があるのだった。 師匠の言うように、僕らが部屋で感じたあのおぞましい感じが、嫌な予感、つまり虫の知らせのようなものだとするならば、これから一体なにが起こるというのか。 僕は不安と、迫ってくる霊的な存在の弱々しさに対する安堵とが入り混じったような気持ちを抱え、じっと暗闇の向こうの景色を見つめている。 「死滅回遊」 そんな呟きが聞えた。 僕の隣にいる師匠の口から。 「え」 と訊きかえすと、師匠は続ける。 「回遊魚って聞いたことあるだろ。同じ海域にずっと生息してる魚と違って、クジラとかマグロとかさ、夏は北へ、冬は南へ移動したりしながら暮してる魚のことだ。餌になるプランクトンの発生域の移動を追っていったり、水温の適した場所を季節ごとに追っていったり。そうとうな距離を泳いで、繁殖もそんな移動の合間にする。そういうやつらだ」 淡々とした口調だったが、その目はじっと対岸を見据えたまま身じろぎもしない。 僕は師匠の言葉に耳をすませる。 「そんな回遊魚でもないのに、海流に乗って本来の生息域から大きく離れた場所までやって来る魚がいる。スズメダイの仲間とかな。そういうやつらは、南方の海から黒潮に乗ってやって来るんだけど、元々熱帯・亜熱帯の海域の魚だから、日本海沖のあたりで冬場になると水温の低下に耐え切れずに死んでしまうんだ。回遊性もなく、南の海へ戻ることも出来ず、繁殖することも出来ない。本来、生物の持つ目体は、第一に種(しゅ)を残すことで、第二がそのために自らが生きることだ。そのどちらも出来ず、まるで自殺するように死んでいくそんな現象のことを、『死滅回遊』とか『無効分散』って言うんだ」 「しめつ、かいゆう」 僕はその言葉になにか不吉なものを感じ、唾を飲み込んだ。 「霊道を辿るやつらも、そんな『死滅回遊』のようなことを繰り返している」 師匠はそう言って、腕を目の前に伸ばし、指先を上下に揺らしながら右から左へ波打つような仕草を見せた。 そうして奇怪な秘密を静かな口調で告げるのだった。 「霊道は輪になっていない」と。 「同じ道を戻ることもなければ、ぐるりと円環を回ってくることもない。地縛されず、霊道を行くやつらは、無限に続く道のどこかで力尽き、消滅する。山や谷、潮溜まりとか、地域地域にそういう霊魂が吸われる様にして消えていくポイントがあったりもする。やつらはなにも成さず、ただひたすら歩いて、もう一度死んでいくんだ」 ぞくぞくした。 師匠の話に。 死滅回遊、という言葉に。 その時、背後を何かが通った。 思わず振り向くと、暗がりに自転車のライトが頼りなく浮かんで通り過ぎていくところだった。 背広が見えた気がした。残業帰りのサラリーマンのようだった。 その誰かは僕らの左手側十数メートル先で自転車を止めると、同じように堤防に張り付いたようだった。 川を見ている。 そう思った瞬間、右手側の方にも暗がりに誰かいるのに気づいた。堤防から川の方を見つめている人影が、確かにあった。 いつの間に。 不思議な感覚だった。 僕らが感じたあのおぞましい気配、予感を、同じように感じてやって来た人間が他にもいたのか。 だがそのことに、頼もしさや力づけられる感じは一切なかった。互いに不干渉で、言葉を発することもない。ひたすら個々に予感の正体を観察している。 師匠も二つの人影を無視をするように淡々とした言葉を続けた。 「しかし、自然淘汰を繰り返してきた生物のメカニズムに無駄はない。一見無駄に見えるものは、無駄であることそれ自体に意味がある。死滅回遊は、海流という道を辿る葬列だ。だけど、その道行きは絶滅することが目的ではない。何千年、何万年というスパンで環境が一定しないこの星では、生物は生存し種(しゅ)を次代へ繋いでいく過程で、いかなる犠牲を払ってでも多様性を担保してきた。それを担ったのが突然変異だ。ある植物が一斉に枯死した時、本来食に適さなかった別の植物を食べる個体が生き延び、変化をしながら種(しゅ)を繋ぐ。死滅回遊も、一見するとレミングの行進のように映るかも知れないが、長い地球規模の時間の中では、海域の水温の変化や海流の変化によって、南方の海が生存に適さないその種(しゅ)にとっての死の海になる可能性もある。その時、北方に散らばった種(たね)が、環境の変化に適合し、そこで新たな生息域を作り上げることだってあるんだ。今もそんな魚たちは種(しゅ)としての絶滅を避けるために、実らない種(たね)をばら撒き続けている。そしてそのことによって……」 師匠はそこで、言葉を止めた。 まだなにか続けたかったようだが、川の向こうの気配に身体を緊張させた。 ひた、ひた 暗い川面を、なにかが歩いて来る。 かつてはムラとムラを、クニとクニを分けていた広い川だ。歩いて渡れるような水深ではない。まして、まったく平然とまるで歩道を歩くように水面を渡ってくるなんて。 得体の知れない気配が、ゆっくりとこちらに向かって来る。それも、さっきまでのか細い存在感ではなく、じわじわとこちらを圧迫するような、にじり寄って来るような…… 「霊道も同じだ。死滅回遊と」 師匠が、目の前の気配から目を逸らさず、押し殺した声で続ける。 「見たことがあるんだ。ほんのさっきまで、取るに足りない、消滅を待つだけだった霊が、急に膨張するところを。やつらは種(たね)だ。いつか、まったく関係のない土地で、恐ろしい適合を果たすこともある」 ひた、ひた 人だ。人影だ。真っ暗な水の流れる川の上を人影が歩いて来る。男か女かも分からない。ただ、僕の心臓を押しのけようとするような圧力を、前方から感じる。そしてそれは刻一刻と強くなっていく。 「ひっ」 サラリーマンが呻くような声を上げ、自転車に飛び乗ったかと思うとすぐさま逃げ出した。 僕らの後ろを、来た時の倍のスピードで風が駆け抜けていった。 「川ってのは、境だ。サトとサトの。ムラとムラの。境の向こうは異界だ。そこからやって来るものは、変化と多様性とそして幸いとをもたらすまれびとか、あるいは魔か。鬼は外、福は内ってな。こういうサトとサトの境には得体の知れない異物の侵入を防ぐための、守り神があるものだがな。一昨年だったか、護岸工事の時、古い塚を壊しちまったんだよ。かわりに、そっちの土手の隅に方に小さい地蔵を据えたみたいだけどな。役割が違うんだよ。役割が。だからこういうことになってしまう」 師匠の声がかすかに震えている。 僕はどうしようもなく恐ろしくなり、師匠の手を握った。 「行きましょう」 この場を離れなくてはならない。早く。すぐに。 人影はもう川の半分を越えて近づいて来ている。 しかし師匠は熱に浮かされたように続ける。 「境を越えてやって来る招かれざる魔、異物のうち、災いをもたらすヒトの霊のことを何て言うか知ってるか」 そう言って師匠は僕の方を見た。その顔には薄っすらと汗がにじんでいるように見えた。 「悪霊だ」 師匠がそう言った瞬間、堤防の右手側にいたもう一つの人影が、動いた。なにかその手元に、遠くの街灯の明かりがギラリと反射したように見えた。 その動きに気づいた師匠がすぐさま振り向き、「やめろ」と短く叫んだ。 「一体じゃない」 堤防の人影は、ピタリと動きを止めた。 僕も思わず川の方を見る。 全身に硬直が走った。 川を渡って来るそのなにかの後ろに、同じような影がいるのに気づいたのだ。 それも一つではない。二つ、三つ、四つ、五つ…… 「逃げましょう」 僕は必死に、師匠の腕をつかんだ。 六つ、七つ、八つ、九つ…… 無理やり師匠の手を引っ張り、堤防から引き剥がした。 そして止めてあった車の方へ足を踏み出す。 師匠もようやく我に返ったように、「分かった」と言ったが、それでもまた立ち止まり、水面を歩く悪霊の群を呆然とした目で眺めた。 「いったい、なにが起こってんだ。この街で」 そう呟いて。 (完) [*←][→#] |