心霊写真3ー前編ー それから僕らは連れ立って小川調査事務所を後にした。 師匠は「餅は餅屋だ」とだけ言って、行き先は告げなかった。僕はただそれについて行った。 JRの駅に向かったので少しドキドキしたが、ロッカーには近寄りもせず、切符を買って改札を抜けた。 一番安い切符だった。 普通列車はさほど混んではいなかった、師匠が乗車口の近くで吊り革につかまって立っていたので、僕もそうする。 どこへ行くのだろうと思っていると、出発のチャイムが鳴り出した。そしてドアが閉まり始めた瞬間だった。 「降りるぞ」 師匠はそう言いざま僕の手を掴み、無理やり引っ張って、閉まるドアをすり抜けるように電車から飛び降りた。 乗る電車を間違えたのかとも思ったが、師匠はホームに降りた瞬間、左右を素早く見回した。 「誰も、降りなかったな」 「ええ」 師匠はふん、と頷いた。 まさか、と思ったが今のは尾行をまく時の手ではないだろうか。 「尾行されてたんですか」 「いや、念のためだ」 師匠が言うには、松浦が尾行をつけさせた可能性があったのだという。こちらが田村とつながっていることを疑い、泳がせておいて接触したところを押さえる腹かも知れないのだと。確かに、結果的にあわやそうなるところだったわけだから、そんな馬鹿なとは僕も言えなかった。 しかし尾行者はいないようだった。 「お前はまだ素人だからな。尾行のことを話せば、もし本当にされていた場合、こちらが気づいたことを相手に気取られる危険性があった。そうなると、こんな電車を使った古い手が通用しないことも考えられたけど…… まあ、取り越し苦労だったと思っていいだろう」 本当に熟達したやつの尾行は警戒していても簡単には見抜けない、と師匠は言った。この世界を多少なりと覗いた師匠が言うのだから、僕は頷くしかなかった。 それから僕らは電車に乗ることなく、そのまま買った切符で駅を出て、繁華街の方へ向かった。 途中、師匠は自販機の前で立ち止まった。あまり見ない、サンガリアの自販機だった。そこでメロンソーダを三本も買ったので、どうするのかと訊くと、差し入れだという。 「あのデブ、これが好きだからな」 その一言で、これから向かう所がどこなのか分かってしまった。 それから僕らは繁華街から少し裏へ入った通りを進み、薄汚れた小さなアパート、いやアパートのようなマンションの前で止まり、中へ入っていった。 なんだか小汚い印象のエレベーターを使い、三階の中ほどにある部屋が目的地だった。表札はない。新聞の勧誘や訪問販売の人間につけられたのか、小さなシールがドアの端に幾つか貼られている。 『写真屋』と呼ばれる男の部屋だった。 本名は確か、天野と言ったか。 通り名のとおり、写真を生業にしている男だったが、いわゆる普通の写真屋ではなかった。 街なかの普通の写真屋に持ち込んだのでは、フィルムを現像してもらえないような種類の写真を、少々割高な値段で何も言わずに現像してくれるという類の、そういう商売だ。 いや、僕も最初のころは単純にそう思っていた。 この『写真屋』は、小川調査事務所も浮気調査に関する証拠写真などの現像で贔屓にしているのだが、師匠は個人的にもこのアンダーグラウンドな世界の住人と仲が良く、悪友とも言える関係を築いていた。 「写真屋、いるか」 師匠はチャイムを鳴らした後、ガンガンとドアを叩く。中から物音がしたかと思うと、しばらくしてドアが細く開けられる。 「ぼくがいないことがあったか」 眼鏡の奥の暗い目がドアの隙間から覗く。 ドアチェーンが外され、僕らは部屋の中に招き入れられた。中に入ると、異臭としか言いようのない匂いが鼻をつく。 部屋中のいたるところにゴミが散らかっているが、匂いの原因はそれだけではない。この部屋の主人は、その一室を暗室に改造して、そこで現像作業をしているのだ。その時に使う液体の匂いがこの異臭の主たる原因だった。 『写真屋』はその暗室のドアの前を通り過ぎ、片方の足を引きずりながら、部屋の奥に進むと、三台のパソコンに囲まれた机にとりつくようにして座った。 「差し入れだ」 師匠が三本のメロンソーダを差し出すと、彼は薄っすらと笑いながらそれを受け取った。いや、笑っているというより、癖なのだろう。喋っている間もずっとしゃっくりあげるように変な笑い声のような空気が漏れるのだ。「ひ」「ひ」という具合に。 髪は伸び放題で、見るからに風呂にもめったに入っていないような不潔感がある。そしてはち切れんばかりに膨れた腹や顎、そして二の腕の肉。部屋に満ちているのか、自身の身体から漂ってきているのか、その匂いも含め、すべてが生理的な嫌悪感を抱かせる男だった。 「今日は助手君も一緒か、探偵」 僕はこの男を好きになれないのだが、どうも、と当たり障りのない挨拶をする。 「今日はちょっと訊きたいことがあって来た」 師匠は背負っていたリュックサックを下ろし、その中をガサガサと漁る。 「おっと、その前に、報酬を決めようじゃないか」 「あん?」 師匠が手を止め、険悪な顔をして睨みつけた。 こういう、悪そうな顔をさせると師匠は本当に様になっている。 「どうせやばいネタなんだろう。僕の口を硬くするのは金の額だけだ。金は要らないなんていう『写真屋』に、誰が人間の真実の姿が写り込んだフィルムを持ち込むもんか」 「なにが人間の真実の姿だ。変態どもがお前のところに持ち込んでるのは、ただのエロ写真だろうが」 「失礼だな、それも真実の姿の一つさ。アホなカップルが街なかで顔をくっつけ合ってイエーイって間抜け面晒して写ってる写真に、本当に写るべきものは一本の棒と一つの穴だ」 ひ、ひ。 と喋る合間にも空気が漏れる音が混ざる。 「だけど、最も奥深い所にある、人間の真実とは…… ひ…… そんな下劣なものとは程遠い、神秘的なものだよ」 こんな風に。 『写真屋』は机から一枚の写真を取り出して見せた。 何が写っているのか察した僕は咄嗟に目の焦点を合わさないようにしたが、それでも少し見えてしまった。 人間の頭が砕けて、血と脳がアスファルトの上に飛び散っている写真だった。 この『写真屋』の本当の商売がこれだ。 二倍程度の料金を払って、普通の写真屋では現像してくれないエロ写真の類を現像する仕事が世の中にはある。しかし、その特殊な写真屋でも現像してくれない、本当にアンダーグラウンドな写真がこの世にはあり、さらにその数倍の料金を受け取ってそれを現像する、現行法からもそして常識からも掛け離れた倫理観を持つ『写真屋』。 それがこの男の生業だった。 「おい、それが写真屋の守秘義務か」 師匠がそう突っ込んだが、『写真屋』はそれを仕舞いながら「これはぼくの私物さ」と言った。 まあどうでもいいけど。 師匠は溜め息をついた後、「なあ、アマノちゃん」と声色を変えた。 「わたしとお前の仲じゃないか。硬いこと言わずに協力してよ。な」 「いや、駄目だ。ケジメは大切だ。僕は金しか信用しない」 さっきの松浦と同じようなことを言っているが、その二人の人間性やビジュアルの差を思うとなんだかおかしかった。 「いや、駄目だ。ひ。ケジメは大切だ。ひ。僕は金しか信用しない。うひ」 師匠が『写真屋』の言葉を真似して、それを大袈裟に再現して見せた。馬鹿にするためだ。 からかわれて、さすがに『写真屋』は鼻白んだ。 なにか言い返そうとした瞬間、師匠はその開きかけた口を右手の手のひらで押さえ込んだ。アイアンクローのような格好だった。 「おい、てめぇがわたしの写真でせ○ずりこいてんの知ってんだぜ。ご大層な理念を掲げるのは結構だが、その写真、燃やされたくなかったら黙って言うこと聞け、この野郎」 瞬間的な迫力、とでも言うべきか。 いきなり豹変したような勢いで脅しつけられ、『写真屋』は目を泳がせながら、とっさに頷いてしまった。その顔に、しまった、という表情が浮かんだが、もう取り繕えないようだった。 「あ〜あ、汚ったな」 師匠は『写真屋』の口元の涎がついた右手を振って、机の上のティッシュを数枚抜き取った。 「くそう」 写真屋はなにかぶつぶつ言っていたが、机の上を片付け始め、そして折り畳み椅子を出してきたかと思うと、二つ並べて置いた。 「で、なにが訊きたいんだい」 諦めたように溜め息をついて、『写真屋』は切り出した。 空気が澱みきっているが、窓を開けていないどころかカーテンも締め切っており、それもどこで買ったのかというような厚手なので、電球の明かりの下、一体今が昼なのか夜なのか分からなくなる。 時計を見ると、まだ昼の十二時を少し回ったころだった。 「これなんだけど。専門家の意見を訊きたい」 師匠はリュックサックの中から封筒を取り出し、その中から写真を抜き出した。田村の持っていたものと、松浦から預かった四枚。合わせて五枚すべてを。 引き出しから薄い手袋を取り出して両手にはめ、『写真屋』はそれらを手に取る。 「心霊写真かい。専門家は…… ひ…… そっちじゃないか」 「まあそう言うな。心霊写真は苦手なんだよ」 「ふうん」 すべてに軽く一瞥をくれてから、机の端に並べて置いた。 そして春だというのに身体を動かしもしないまま汗を額に浮かべて、差し入れのメロンソーダの蓋を開けて勢いよく呷る。 「おい、貴重な写真もあるんだ。汚すなよ」 「ふん。もう見終わったよ」 そう言って大袈裟な仕草で写真から椅子ごと遠ざかる。 「ええと。まず、飲み会の写真だけど。これは煙草の煙だろうね。ほら、このハゲ親父が、テーブルの上に不自然に右手を伸ばしてる」 遠くから芋虫のような指で写真を指し示す。 「手前の人の身体で見えないけど、この隠れた手の先に灰皿があるのさ。そこから上がって来てる煙が、ストロボで浮かび上がって見えてるだけだ。それが人間の顔のように見えるのは、まあ偶然だろう」 「ほう」 師匠はやけに熱心に頷いている。 「あと、この海辺の家族連れの写真。たぶん、右膝が消えてるとか言って、心霊写真扱いされてるんだろうけど、よくある勘違いだね。これは撮影速度が遅いせいで、男の子が右足を動かした瞬間に、透けたように見えているだけだ。こっちの手をごらん。お父さんの腰のあたりを掴んでいる。ここで重心の変化を支えているから、足以外はぶれてないんだ。そのせいで余計に足が透けているのが目立っている」 『写真屋』は解説を続けながら、二本目のメロンソーダの缶を手に取った。 「……それから、と。カップルの写真はどうかな。これはイタズラの可能性が高いね。二人の背後に、ちょうど人間一人くらい隠れられる。二人の身体が離れている部分があるから、そこを上手く避けて、となるとかなりアクロバティックな格好になるけど、不可能じゃない。偶然なはずはないから、こういう写真を撮ろうとして三人で遊んでたんだろう。あと、この家の窓に男の上半身が薄っすら見えてるのは、どうだろうな。二重露光にも思えるし、室内灯の光の当たり具合が良く分からないけど、単にそこに人がいたという可能性もある。少なくとも、幽霊なんてものを持ち出さなきゃならない写真には思えないな」 彼は二本目を半分ほども飲んだところで、ゲップをした。長いゲップだった。師匠は良くこんな生理的に気持ちの悪い男と一緒にいて平気だなと感心する。 「最後は、なんだこりゃ。年代ものだけど、普通の写真じゃないか。どこが心霊写真なの」 逆に訊ねられた。 「この中の誰かに、不自然なところはないか」 師匠にそう言われ、もう一度写真に顔を近づける。しばらく唸ったあと、彼はやはり同じ答えを出した。 「古い写真は得意じゃないけど、別におかしなところはないと思うよ。影のでき方なんか見てもね」 そう言って二本目の缶の残りを飲み干す。 僕ももう一度まじまじとその戦時中に撮られたという白黒写真を眺める。整然とした和室に、和服を着た初老の男が腕組みをして座り、その周囲に軍服姿の青年たちが正座をしている。彼らは二十八、九から三十歳くらいのはずだったが、どの顔も、現代の同じ年齢の日本人よりもどこか幼く見えた。だが、誰一人として笑いもせず、唇を引き結んで、正面を見据えている。画質のせいなのか、彼らのその相貌がやけに青白く見えた。 「こいつはどうだ」 師匠はついに、左隅にいた正岡大尉を名指しした。先入観を持たせないために、ここまであえて避けていたのだろう。 だがその問いにも『写真屋』は大した関心を示さず、「おかしなところはないね」という答えを繰り返しただけだった。 だが師匠は諦めず、表現を変えて質問を続ける。 「偽造の可能性は」 「偽造? 写真の加工ってこと?」 『写真屋』は鼻で笑った。「おかしなところは……ひ……ないって、いったろ」 「こいつが、実際にはここにいなかったのに、いるように見せるのは無理か」 「このくらい違和感のないフェイクを作るのは難しいね。ネガの編集にしても、プリント後の加工にしてもね。今の技術でも、難しいんだ。当時のテクじゃ無理だろう」 まあ、これからはこいつが…… と、『写真屋』はパソコンの箱を手のひらで叩いて見せた。 「あらゆる写真を自由自在に編集するようになっていくだろうけど」 そのころは、ワープロがやっと普及してきた時期であり、パソコンなど持っている人はまだまだ少なかった。僕自身、キーボードに触ったことすらなかった。 「撮影は戦時中でも、偽造を施すためにプリント時期を偽っている可能性は」 師匠はまだ粘っている。 「最近プリントしたってことか。ふん。紙質にも違和感はないね。それ相応の年代モノだよ」 それを聞いて、ようやく納得したように一つ頷くと、師匠は背中を掻いた。 「ここに来ると、なんか痒くなるんだよな。ダニとか、ノミとか、飼ってるんじゃないか、お前」 「ノミは知らないけど、水虫は飼ってる」 うへ、という顔をして師匠は後ずさる。 「うつされる前に退散するが、あと一つだけ教えてくれ」 そう言って師匠は、封筒に指を入れ、まだ中に残っていた一枚の紙を取り出した。 松浦に預かったコピーの方だ。 それを『写真屋』の方に向け、こう訊ねた。 「このコピーと、その写真は、同じものか」 ふいに、僕の中に疑念が湧く。 なぜ師匠はそんなことを言うのだろう。コピーだと今自分でも言ったではないか。それに言うまでもなく、同じ構図、同じ男たちなのだ。 『写真屋』は両者を見比べ、つまらなさそうにぼそりと言った。 「コピーは専門外だけど。全く同じに見えるね。この写真をコピーしたんだろう。この中央は焼きミスだね。もしかして、同じネガの別プリント写真のコピーじゃないかってことか? だとしたら分からないとしか言いようがない」 師匠はその答えを反芻するように、しばらく頷いていた。 そして、「よし」と言って膝を打ってから立ち上がった。 「邪魔したな」 「あ、もう帰るの」 あれほどただ働きを嫌がっていたのに、『写真屋』はなぜか名残惜しそうに口を尖らせた。師匠はそれを見て、ニコリと笑うと「またな」と優しい声で言った。 異臭にも少し慣れつつあったそのマンションの一室から出た直後、僕は師匠に耳打ちをする。 「その、せん……の写真って、盗撮でもされたんですか」 「なんだって? ああ、わたしの写真か。盗撮といえば盗撮だな」 「取り返した方が良くないですか」 「いいよ、めんどくさい。どうせ焼き増しして、分かんないところに隠してんだろ」 師匠が良くても僕は困る。 「良くないですよ。あの変態にそんな写真持たれて、何されるか分かったもんじゃないですよ」 「なんだ。酷い言われようだな、あいつ。そんな写真って、どんな写真だと思ってんだ」 「え」 僕は思わず口ごもった。 そういう写真に決まっているではないか。古式ゆかしい表現で言うところの、無防備な…… いやまて、もっと凄い写真かも知れない。え、うそ。まじで。 想像が頭の中をぐるぐると回る。 ええ? そういう写真なの。いやでもまさか、ああいう写真とか。まずいまずい。実にまずい。まずいですぞ、これは。 「おい。大丈夫か。とっとと出るぞ、こんな水虫屋敷」 そう言って師匠はエレベーターの方に向かって歩き出した。 ◆ [*←][→#] |