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祖母のことー2ー
依頼人は俯いてそっと息を吐いた。まるで凍えているような口元の動きだった。
話が終わったことを確認するためか、師匠はたっぷり時間を開けてから口を開いた。
「お祖母ちゃんではなかったと?」
「はい」
声が震えている。
「棺おけの中にいたのは、祖母ではありませんでした」
「そんな」
僕は絶句してしまった。
それでは、一体誰の通夜だったのだ。
「お祖母ちゃんではなかったというのは、確かですか。つまり、その、死んだ人を見たのは初めてだったのでしょう。死因にもよりますが、死後には生前の顔と全く違って見えることもあります。死化粧というものもあります。そのため、まるで別人に見えてしまったのではないですか」
そういう師匠の言葉に、頼子さんは頭を振った。
「いえ。同じくらいの年齢のお年寄りではありましたが、確かに祖母ではありませんでした。今でも白い花に囲まれた顔が瞼の裏に浮かびます」
「しかし、あなたは大好きだったお祖母ちゃんの死を認めることが出来ず、別人だと思い込んだのではないですか。そうした思い込みは小さな子どもならありうることでしょう。まして、ずっと忘れていたような遠い記憶なら……」
なおも慎重に訊ねる師匠に、頼子さんはまた頭を振るのだった。
「祖母の右の眉の付け根には、大きなイボがありました。私はそれが気になって、何度も触らせてもらった記憶があります。しかしその日、棺おけの中にいた人の顔にはそれがありませんでした。もちろんそのことだけではありません。本当に全くの別人だったのです」
きっぱりとしたそう言いながら胸を張る。しかし次の瞬間には目が頼りなく泳ぎ、怯えた表情が一面に広がった。
それでは、一体どういうことになるのだ。親戚がお祖母ちゃんの家に集まり、お祖母ちゃんの通夜と偽って全くの別人を弔っていたというのか。
その状況を想像し、僕は薄気味悪くなる。いや、そんな生易しい感覚ではなかった。はっきりと、忌まわしい、とすら思った。
「……」
師匠は首を傾げながら、なにごとか考え込んでいる。
「それでは、ご依頼の内容というのは?」
代わりに僕はそう訊ねる。
「ええ」と頼子さんは顔を上げた。「その時起きたことを調べて欲しいのです。その出来事のあと、私は祖母と会った記憶がありません。いったい祖母はどうしてしまったのか? それから、その通夜の日、祖母の代わりに棺おけに入っていた死人が誰なのか」
祖母の家はもうずっと以前に取り壊され、そのあたりは道路になってしまっていた。
そして頼子さんはついこの間、当時のことを知っている親戚をようやく探し当てたという。
しかし耳も遠くなっていたその親戚は、せつ子さんの通夜におかしなことはなかったと繰り返すだけだった。
「私がお祖母ちゃんと呼んでいたその人が、父の祖母にあたる人だったと、今ごろ知ったんです。つまり正しくは私の曾祖母ですね。そう言えば、せつ子という名前さえ知らなかったのですよ。いつもただお祖母ちゃんとだけ、そればかり……」
また視線を落とし、頬を強張らせる。
事務所の中に、沈黙がしばし訪れた。遠くで廃品回収のスピーカーの音が聞える。
師匠が口を開く。
「その、天井に貼ってあったという紙ですが、なんという文字が書かれていたのですか」
「はい。ええ。それが、はっきりとはしないんですが。私はなにしろまだそのころ小学校にも上がっていない年でしたので。ただ……」
口ごもった頼子さんを師匠が促す。「ただ、なんです」
「ええ。それが、その、霊という文字だったと」「霊?」
「はい。幽霊とか、霊魂とかの、霊です」
少し恥ずかしそうにそう言った。しかしその顔には得体の知れないものに対する畏怖の感情も同時に張り付いている。
「霊?」
師匠は眉をひそめた。
僕もまた、なんだか気味の悪い感覚に襲われる。霊とは。その場に相応しいようで、またずれているようで。いったいなんなのだろうか、その天井に貼られた文字は。
「その文字ですが、もしかしてその日だけではなく、いつも貼られていたのではないですか」
師匠が不思議なことを訊く。
いつも? いつも天井にそんな霊などという文字が貼られていたというのか。
「いえ。どうでしょうか。そう言われてみると」
頼子さんは驚いた顔をしながら記憶を辿るように視線を彷徨わせる。そしてハッと目を見開き、「あった、かも知れません」と言った。
「どうしたのかしら、私。そうだわ。祖母に尋ねたことがあった。この紙はなに? この紙は。この紙はね。この紙は」
頼子さんは独り言のようにその言葉を繰り返す。
「川添さん。もう一つ確認したいことがあります。その通夜のあった部屋は、確かにお祖母ちゃんの部屋でしたか」
「ええ。それは間違いないと思います」
「お祖母ちゃんは小さな家に一人で住んでいたとおっしゃっていましたが、その家は平屋でしたか。それとも二階建てでしたか」
「ええと、それは」
頼子さんは自信のなさそうな顔になる。はっきり思い出せないようだ。
「あなたがいつも縁側から訪ねていったという部屋ですが、そこで通夜が行われたのですよね。その部屋の他に、どんな部屋がありましたか」
「あの、ええと」
不安げな表情のまま、頼子さんは必死に記憶を辿ろうとしている。
「他の部屋は…… 覚えがありません。いつも祖母はその部屋にいました。私もそこにしか行ったことが……」
そうしてまた口ごもる。
その様子をじっと見つめながら、師匠はふっ、と小さく息をついた。
「川添さん。あなたのご依頼である、その奇妙な通夜のあと姿が見えなくなったというお祖母ちゃんがいったいどうしてしまったのか、という点についてはお答えできる材料がありません。ですが、お祖母ちゃんの代わりに棺おけに入っていた死者が誰なのか、ということについてはお答えできると思います」
「え」
僕と、頼子さんは同じように驚いた声を上げる。そして師匠の顔を見る。
「その前に、天井に貼ってあったという紙の文字について見解を述べます。それは『霊』という文字ではありません。小さな子どもには見分けられなくても仕方がないでしょう。『霊』と良く似た漢字。『雲』です」
くも?
どうしてそんなことが断言できるのか。意味が分からず、狐につままれたような気分だった。
「その部屋には神棚があったはずです。ご存知かと思いますが、神棚は一番高いところに設置されるものです。出来るだけ天井近くに。そしてそれだけではなく、その建物の最上階に設置されるべきものなのです。もし最上階に設置できない場合、そこが天に近いということを表すため『雲板』と呼ばれる板を神棚の上部に飾ります。雲をかたどった意匠を施してある板です。あるいは、『雲文字』と呼ばれる文字を天井に貼るのです。『天』や『雲』などと書いた紙を天井に貼ることで、その部屋が天に近い場所であるということを表すのです。これらは古い習慣ですが、今でもまれに見ることができます。その通夜があったのは、五十年近くも前のことです。まだそうした習慣が色濃く残っていた時期でしょう」
師匠が言葉を切って依頼人の方を見る。
頼子さんは「雲」と呟いて、どこか遠くを見るような顔をしている。
「そしてそれは、お祖母ちゃんの部屋がその家の最上階にはなかったことを示しています。小さいころの川添さんが縁側から訪ねたという部屋は一階にあったことは疑いありません。しかし、その家は平屋ではありませんでした。なぜなら、『雲文字』を天井に貼らなくてはならなかったからです。つまり二階部分があったのです。なのに神棚は一階の部屋に設置されていた。家の、もっとも高い場所に置くべきものが、です。ここから想像できることは、こうです。『お祖母ちゃんはその家の間借り人だった』」
だから、神棚を一番高い場所に置きたくても、家の人間ではなかったお祖母ちゃんは一階の間借りしている部屋に置くしかなかった。
師匠は淡々とそう語った。
「その家にはお祖母ちゃん以外に、他の住人がいたのです。あなたが記憶していなくても。お祖母ちゃんの代わりに棺おけに入っていた死者が誰なのか、もうお分かりですね。いえ、正確にはあなたが『おばあちゃん』と呼んでいた人物の代わりに、棺おけに入っていた人のことです。せつ子さん、とおっしゃいましたか。お父さんの祖母、あなたにとっては曾祖母にあたる女性。棺おけに横たわり、残された親類や親しかった人々に死に顔を見てもらっていたのは、その人です」
頼子さんは目を見開いた。そして口が利けないかのように喉元が震えている。
「あなたがただ、おばあちゃん、と呼んでいた、名前も知らなかった女性は、もちろん曾祖母のせつ子さんではありません。またあなたの祖母にあたる人でもなかった可能性が高いと思います。ひょっとすると、全くの他人だったかも知れません。ただ本当の曾祖母の家の一部屋を間借りしていたというだけの…… 先に断ったとおり、そのおばあさんがどこに行ったのかは分かりません。せつ子さんの通夜の日、間借りしていた部屋がすっかり片付けられ、たくさんの弔問客を受け入れていたことを考えると、おばあさんはその時すでにもう家から引っ越したあとだったのかも知れません。病院か、別の借家か。あるいは……」
そう言って師匠はそっと指を天に向けた。
「古い話ですし、全くの他人であった場合、どこに行かれたのかを調べるのは難しいでしょう。満足の行く調査結果を出すことはできないかも知れません。それでも、私に依頼をされますか」
静かにそう告げる師匠に、頼子さんは戸惑いながら膝の上に置いたハンドバックを触っていた。その手のひらが、やがてしっかりと握られ、ハンドバックの上で静止する。
かすかに上ずった声が、唇からこぼれた。
「私にとって、祖母はその人です。縁側の戸を開けて、いつも私に微笑みかけてくれた、優しいおばあさん。例え名前も知らない、赤の他人だったとしても」
そこで言葉を切り、ゆっくりと口の中で咀嚼してから頼子さんが発したのは、とても穏やかな声だった。
「私たちは、ひとりぼっちを持ち寄って、それでもひとときの幸せを共有していたのだと思います」
そうして依頼人は、「お願いします」と頭を下げた。

(完)

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