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桜雨ー後編2ー
「ごめんなさい。もうなくしません。ごめんなさい」
そんな言葉を繰り返しながら。
私は呆然としてそれを見ていたが、我に返ると、肩のあたりを抱きしめた。
「もういいよ。もういい。ヒロさん。もういいんだ」
ヒロさんの生き方を呪縛しつづけたものが、なんのなのか分からない。他人が口を出していいこととも思えない。しかし、その時の私にはそうすることしかできなかった。
それでもヒロさんは抱きしめる私に抵抗して、地面を探り続けた。なにも見えていない。その目には、なにも見えていなかった。
涙が出た。こんな涙、私の中にあったのか。それが不思議だった。でも、それでもなお、なにも見えていなかったのは、私の方だったのだ。
やがて女の子の一人が、家から持ってきたらしい救急箱を私たちへ差し出した。近所の子なのだろう。
ハッとして、私は力ずくでヒロさんを止めると、その傷口に応急処置を始めた。子どものころからずっと剣道をやっていたので、この手のことには慣れている。
それぞれの傷は思ったより深くなく、見た目の無残さも半ばは元々のホームレスとしての格好が自然にそう見えさせたものだった。
少し落ち着いて、私は女の子たちに水を汲んでくるように頼んだ。
そうして、一通り傷口の消毒を終えたころ、公園の入り口の方から「放せ」という声が聞こえた。目をやると、ザビエルがあの吉永という女子生徒の首根っこを掴んでこちらに引き摺ってくるところだった。
「放せよ」
そうわめく声には力がなかった。頬には打たれたような赤い跡がある。捕まえているザビエルの服にも乱れがあった。二人とも息が上がっている。
「山中。鍵だ」
ザビエルがそう叫んだ。
「ヒロさんは、鍵を持っていたらしい」
え?
私は自分の耳を疑った。
鍵? どういうこと?
「そうだな」
ザビエルに詰問され、不貞腐れたように吉永は頷く。
「こいつらは、ヒロさんが自分たちのものを拾ったと勘違いして、無理やり手を開かせたら、鍵を握っていたって言うんだ」
どこへやった?
続けてそう訊くザビエルに、吉永は「知らねえよ。ドブの方に投げたんだよ」とわめいた。
鍵?
ヒロさん、そうなのか。
「ヒロさん」
私の呼びかけに、傷だらけの小さな身体が反応する。
頷いた。頷いた!
取り返しはつく。まだ。取り返しはつく。
私は立ち上がった。
「どこだ」
吉永はゆっくりと指をさす。
こいつに落とし前をつけさせるのは後だ。
そちらへ向かって歩き出した私に、ザビエルが「ほう」と目を見開くと「たいした不良娘だな」と言った。そうして自分の服の裾をまくり始める。
グレーチング、というのか、公園の外の側溝を覆う格子状の金属の蓋を取り外し、私たちはドブさらいを始めた。
吉永はそれを手伝おうとはしなかったが、逃げようともしなかった。ただ地面に座り込んで呆けたようにそれを見ていた。
やがてその騒ぎを聞きつけて数人の女子生徒がやってきた。うちの生徒たちだ。彼女たちはなにが起こっているのか分かっていないはずなのに、しばらく遠巻きに見ていたかと思うと、同じように腕まくりをしてドブに手を突っ込み始めた。
「鍵。鍵を探してくれ」
ザビエルが泥のついた顔でそう言う。
そうして側溝という側溝の蓋をすべて剥がし、私たちはドブさらいを続けた。
「先生〜」
そんな声がして、汗だくのジャージ姿の男が駆け寄ってくる。
誰かが言いつけに行ったのか、ランニング中と思しき我が校の陸上部の一行だった。先頭に立つのは顧問の男性教師。
「手伝いますよ」
ザビエルは「すみません」とだけ言って一瞬顔を上げると、また泥の中に腕を差し入れる。
「こんなことなら任せてください」
陸上部の顧問は上気した声でそう言うと、後ろに控える陸上部員たちに「おい」と声をかける。
ええ〜、という悲鳴のようなものが上がったが、しぶしぶという様子でみんな腕まくりを始める。
ヒロさんもドブの方へ近寄ろうとしていたが、何人かの女子生徒たちが押しとどめながら私がやりかけた応急処置の続きをしてくれていた。
泥の中で汗にまみれ、私は不思議な気持ちに包まれていた。なんだろう。これはなんだろう。
そう思いながら、額の汗を拭った。


「あった」
誰かが叫んだ。
そちらを見ると、陸上部のジャージを着た生徒が手を空にかざしている。
「あったあ」
周りのみんなが歓声を上げた。
その手の中のものは、そばにいたザビエルの手に渡る。ザビエルはホッとした顔でドブから足を抜き、「ヒロさん」と声をかけた。
『人には事情があるんだ。じろじろ見たりするんじゃないぞ』
不機嫌そうにそう言っていたその口が、今そんな優しい言葉を発するのが不思議だった。自分のマークしていた女子生徒の不良行為が、こんな事態を引き起こしたということに罪悪感を覚えていたからなのか。
いや。
私はその横顔を見て、違う、と思った。
ザビエルは、この公園の小さな住人を昔から知っていて、私と同じように気にかけていたのだろう。ただ、その生き方にお前たちみたいな子どもが気安く関わるなと告げて、思いやっていたのだ。
今はなぜかそれが分かるのだった。
「ヒロさん」
もう一度そう言って、ザビエルはヒロさんの元へ歩み寄った。そしてその手にそっと、銀色の小さな鍵を握らせようとした。
しかしヒロさんはその右手の手のひらの上に鍵を乗せたまま、それをしげしげと眺めている。
どうしたんだろうと思って、みんなそれを遠巻きに見つめている。
おっおっ、と嗚咽が漏れた。
子どものような無垢な顔をしたまま、その瞳から涙がぽろぽろとこぼれていった。
そしていつもの声で、つまり、つまりしながらヒロさんは喋り始めた。誰に聞かせるでもなく、自分とその鍵のことを。
私たちは息を飲んでそれに聞き入った。
いつにも増したどもりぐせのために聴き取りづらかったが、時間をかけて紡いだのはこんな物語だった。

            ◆

春。
桜が咲いていた。
山を越えた遠くの村で生まれたヒロさんは、流れ流れてこの街にやってきたのだった。
まだ若かったヒロさんは、頭は良くなかったが、身体は健康だったので色々な仕事をした。荷物運びのような単純な力仕事が多かった。頭の良い人にいいように使われて、お給料をあまりもらえないこともあったが、それでもなんとか自分ひとりが食べていけるくらいには頑張っていた。
そのころは労働者の住むドヤ街のような場所があり、そこの木賃宿に逗留して日々を過ごしていた。
ヒロさんは桜が好きだった。
このかわいい白い花を見ていると、故郷を思い出すのだ。ふるさとにあったどんなものよりも、この花が懐かしかった。
ヒロさんはその日も、街外れにあったお気に入りの空き地で横倒しになったドカンの上に腰掛けて、敷地の隅にあった桜の木を見ていた。
仕事は昨日で「もう来なくていい」と言われたので、その日は一日なにもすることがなかった。明日からまたご飯を食べられるように、なにか働き口を見つけなくてはならなかった。
でも今日は、いいや。
そう思って桜を見ていた。
その白い花はもう散りかけていた。明日には全部散ってしまっているかも知れない。
はらはらと、風に乗って花びらが舞う。
今日はこの友だちを見ていよう。
そう思ったのだった。
すると、いつの間にかなんとも言えない良い匂いがしてきて、思わず振り向くとドカンの端にもたれかかるようにして一人の女の人が微笑んでいた。
ドキドキした。
清潔そうな赤い服を着たその人は、とっても綺麗だった。
「なにをしているの」
そう問い掛けられた。
「さくらを、みてるんです」
女の人は「わたしも見て良い?」と訊いた。さらさらと長い髪が風に揺れた。
「いいです。さくらはみてもへりません」
我ながら上手な言い方ができた、と思った。そう思うと嬉しくなった。
女の人はクスリとかわいらしく笑うと、隣に座った。
そうして二人で同じ桜の木を見ていた。
いつまでも、いつまでも見ていた。
そのあいだも、ずっと桜の花びらは静かな春の空を舞い続けた。
綺麗だった。なにもかも。息が苦しいくらい。
「減ってくね」
女の人はぽつりとそう言った。
ヒロさんは少し悲しくなった。
「へっても、またかえってきます」
「どこから」
ヒロさんは答えられなかった。来年の春に、きっとまた桜は咲く。そう言いたかったのに。
赤い服の女の人は、優しい顔をして近づいてきた。
そうして胸元から細い鎖を取り出して、その先についていたものをゆっくりと外した。
銀色の小さな鍵だった。
ヒロさんは襟元に女の人の首筋が見えたとき、ドギマギしてしまった。
思わずそっぽを向こうとしたヒロさんの右手の手のひらの上に、その鍵が乗せられた。
「約束」
「え」
ヒロさんは顔を戻す。
すると目の前に女の人の顔があって、やっぱりそっぽを向きたくなった。
「約束。減っても、帰ってくるんでしょう」
「うん、うん」
ようやくそれだけを言った。
女の人は目を細めて笑う。
「それを、また見たいから」
そう言って手のひらをゆっくりと握らせる。手の暖かい感触にヒロさんの心臓はドキドキとしていた。
「二人で、咲いた桜をもう一度、ここで見る。その約束の証に」
その笑顔がいつまでも、瞼の奥に残った。
記憶が色あせても、それでも時が止まったように。
いつまでも。
それから、ヒロさんの暮らしは少し変わった。今まではただ食べていくために生きていたのに、胸の中のどこか奥、なによりも大事な場所にその約束がどくんどくんと息をしていた。
そのために働いた。つらいことがあっても、この街で。
一年が過ぎた。
ヒロさんは、騙されたり、嘘をつかれたりしながら、泥にまみれる日々の暮らしの中でほんの少しの蓄えを作っていた。
また桜の木が花を咲かせると、仕事を止めてあの空き地にやってきた。そして日がな一日、ドカンの上に腰掛けて桜を見ていた。
ドキドキしながら。
あの人にまた会えるかも知れないから。
あの人がいつここにやって来ても会えるように、桜が散るまでの間、ずっとここにいられるようにこの一年を頑張ってきたのだ。
三日が経った。
五日が経った。
一週間が。そして二週間が経った。
そうして散っていく桜を見ていた。
一人で。ドカンの上に腰掛けて。
桜の花は黒い枝の先から、ひらひらとひらひらと少しずつ減っていった。
右手に握った鍵をそっと見る。するとほのかに胸の奥が暖かくなった。
『二人で、咲いた桜をもう一度、ここで見る。その約束の証に』
その言葉が耳の中に蘇った。
約束。
そう。
へっても。またかえってくる。
約束。
その瞳の先に、花びらは舞い続ける。


五年が経った。
それからずっとヒロさんは、毎年桜の咲く季節にはあの空き地に行って、一日中座り込んでいた。桜は散ってもまた来年には花を咲かせる。あの約束は果たせないままだったが、その言葉を胸にこの街で生き続けた。
ある冬の日の晩に、木賃宿に帰ってきたヒロさんはお尻のポケットが破れていることに気がついた。なにかに引っ掛けてしまったのか、大きな穴が開いている。その穴から、いつも肌身離さず持っていたあの鍵を落っことしてしまっていた。
ヒロさんは半狂乱になってあたりを探した。けれど見つからなかった。
何度も何度も謝った。ごめんなさい。ごめんなさい。もうなくしません。もうなくしませんから、どうか出てきてください。そうして泣きながら探し続けた。
あの鍵がなくなった後のことなんて考えることができなかった。もう人生の一部になっていたのだった。
鍵が出てきたのは二日後だった。同じ飯場で働いていた仲間が「これ、おめえのじゃねえか」と持ってきてくれたのだ。掘り返していた土砂の中に見つけたのだという。ヒロさんがいつも大事そうに持っていたのを覚えていてくれたのだ。
ヒロさんは感謝した。神様なんているのか分からなかったので、ただただ空に向かって感謝した。
そして誓ったのだった。
もう二度となくしません。この手に握って。けっして。
新しい約束がそうして生まれた。
それからのヒロさんは、右手を開かなくなった。どんなことがあっても。それまでしていた仕事もできなくなった。哀れに思った昔の仲間が、わずかばかりのお金や食べ物をくれたが、それもいつまでも続かなかった。みんな身体をギリギリまで痛めつけながら働いていたのだ。彼らもやがて一人、二人と、どこかへ去って行った。社会の最下層で、泥水を啜って生きていたような仲間たちだった。それなのに、いったい、どこへ行けるというのだろう。
その中でも一番底の底にいたヒロさんは、それでもその街で生きていた。見ず知らずの人になにかを恵んでもらう暮らし。落ちているものを拾って、それを頭を下げ下げ誰かに買ってもらう暮らし。
お金が払えなくなって、木賃宿も追い出された。寒さに凍えて街を彷徨い、たどり着いたのはあの空き地だった。そこにありったけのボロをまとって横になった。凍てつく夜空は澄んでいて、星が一面に輝いていた。
春が来る。
また桜が咲く。
それだけを思って眠りについた。
それからの暮らしは、誰とも共有できないヒロさんだけの思い出だった。つらい、しんどい、などという生易しい言葉では語れない、長い、長い日々。
それでも春は来た。そして桜は咲いた。そのたびにのそのそとねぐらから這い出て来て、待ち続けた。あの人が、あのころと変わらない笑顔でやってくることを。
いつか交わした約束は、たぶん夢じゃなかったはずだから。
…………
時代は移り変わる。
世の中にはヒロさんの知らない便利なものが増え、道行く人々もすんなりと足が伸びて、みんなお洒落な格好をして楽しそうにしている。そんな様子を見ていると、ヒロさんも楽しかった。
しかし空き地の桜の木はある日、タクチカイハツとやらが進む中で切られてしまった。ヒロさんは必死で抵抗したが、大きな身体の若者たちにかなうはずもなかった。半分の大きさになった空き地はやがて公園になった。
横倒しのドカンもなくなったが、そこはもうヒロさんの住処だった。呆然としながらも、そこで暮らすしかなかった。
それから何年かしてヒロさんは親切な人に小さな桜の苗木をもらった。それを公園の隅に植えた。そして他の草や木に栄養を取られないように、気をつけながら少しずつ育っていくのを見守ってきた。それが今、ヒロさんの背丈を越えるほどになって、公園の隅に小さな枝を伸ばしている。
へっても、かえってくる。だから、二人で、咲いた桜をもう一度、ここで見る。
そんな約束を、昔した気がする。

            ◆

どもりながら、なにかに取り憑かれたかのように訥々と語る、ヒロさんの物語が終わった。
周りにいた何人かの女子生徒が涙を浮かべている。声を上げて泣いている子もいた。
かつてヒロさんが、たった一度だけ会った女性と大切な約束を交わしたその場所に私たちは立っていた。

吉永も泣いていた。地面に突っ伏して。
ザビエルが話し終えたヒロさんの手を取った。
そしてその手を胸元に引き寄せ、祈るようにそっと目を閉じる。その唇からやわらかな言葉が紡がれる。

「 心の貧しいものは幸いです。天の国はその人ものでしょう。
 悲しむものは幸いです。その人は慰められるでしょう。
 柔和なものは幸いです。その人は地を相続するでしょう。
 義に飢え渇いているものは幸いです。その人は満ち足りるでしょう。
 あわれみ深いものは幸いです。その人はあわれみを受けるでしょう。
 心のきよいものは幸いです。その人は神を見るでしょう。
 平和をつくるものは幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるでしょう 」

そして目を開き、ヒロさんの瞳を見つめてこう言った。
 
「 義のために迫害されている者は幸いです。天の国はその人のものなのだから 」

そこだけ時が止まったかのように、私には思えた。
ザビエルのあだ名の意味を今さらのように思い出す。フランシスコ・ザビエル。十六世紀に日本へやってきたカトリックの宣教師。日本人なら誰でも知っているような日本史を彩る有名人だ。
その先人をなぞらえたあだ名は、熱心なキリスト教徒であり、それを学校でも公言してはばからないことからつけられたものだった。生徒の間にも、その教えにちなんだ説教をすることで知られていた。もっとも、私たちにはどれもやぼったい、似たようなお説教にしか思えなかったのだが。
なのに、今ヒロさんの手を握りながら口にした言葉はどれも、とても美しく聞えた。
「やく、そく」
ヒロさんがそう呟いた。
目には大粒の涙がこぼれている。
ヒロさんは手にした鍵をザビエルに渡そうとしていた。
「え?」ザビエルは戸惑ってそれを受け取れないでいる。
「かえってきた」
ヒロさんはぼろぼろと涙を流しながら、確かにそう言った。そして公園の隅にある一本の痩せた木を震える指でさし示す。黒い樹皮。春だというのに、すっかり花が散ってしまっているその木。いや、あった。残っていた。枝の先に、言われないと気づかないような小さな花びらが、それでも懸命に。
その時私は、ザビエルも今、赤い服を着ていることを初めて認識した。泥にまみれているが、確かに赤い服だった。そして…………
ヒロさんの涙で滲んだ視界の中で、今きっとザビエルのことが、あのいつか出会った髪の長い女性に見えているのだろう。
あのころのままの、優しい笑顔をして。
そうに違いない。
ザビエルはその艶やかな長い髪をそっと整え、にっこりと微笑むと、「小さな桜ね。でもかえってきた。約束どおり。なにもかも、あなたのおかげよ」とささやいた。いつもの体育会系の延長のようなぞんざい喋り方とは全く違う。よそ行きの声。いや、それが本当の声だったのかも知れない。
ヒロさんは何度も頷いていた。何度も、何度も。
「でもこれからは」
ザビエルは少し声をつまらせて、それからまた微笑んだ。
「あなた自身のために生きて」
そうして止まっていた時間がようやく動き出したのだった。
一際強い風が吹いて、泥水に濡れた私たちの服を冷たく撫でた。陸上部の顧問が首にかけたタオルで頭を拭いている。額の上の辺りに泥がついて、それがそこにないはずの髪の毛に見えた。なんだか可笑しい。
私は目の前に視線を戻し、声を掛けようとして、一歩前に出た。
「ザビ…… じゃなかった、野田先生」
ザビエルはヒロさんの手を握ったまま私の方に顔を向けた。こんなに綺麗な人だったっけ。私はふと、そんなことを思った。


次の日、ヒロさんはもうあの公園にいなかった。山を越えた先にあるという故郷に帰ったのかも知れない。
霧雨のような雨が降っていた。昨日の夜半から降り始めた雨は、今朝まで断続的に続き、道路や家の屋根やねをすっかりと濡らしていた。
私はその中を傘もささずに自転車を漕いで駅に向かった。
会えないことは分かっていた。それでも駅の構内に立った。濡れた髪をハンカチで拭きながら。
ヒロさんは、あの年老いた小さな身体をひょこひょこと動かして、ここから旅立っていったのだろうか。元気でいてほしい。どこか知らない、その場所でも。
『義のために生きる、の、義(ぎ)って、どんな意味だ』
私はあの後でザビエルに聞いた。
『義は、そうだな。古い言葉で、ディカイオシュネーと言って、正しいこと。そして誠実であるということ。だ。どうした。キリスト教に興味があるのか』
『ばーか』
そんな言葉を選んだザビエルにも、深い意図はなかったのかも知れない。
ただ、そんなことのために生きた人が、いつか報われるといい。私はそれだけを思った。
甲高い音が鳴った。
構内アナウンスが列車の出発を告げたのだ。足元に目をやると、花びらが落ちているのに気づく。小さな白い花は、踏みつけられて足跡の形に床に張り付いていた。
桜が咲くころに降る雨のことを、桜雨というそうだ。そしてそれは、桜の花を散らせる雨でもある。
例年より開花が遅かったせいで、もう五月だと言うのにほんのわずか残っていた桜は、それでも昨日からの雨ですべて散ってしまっただろうか。
目の前で列車がゆっくりと動き出す。
顔を上げると、ホームには列車の窓に向かって手を振る女の子がいた。列車の窓からは、同じような年恰好の女の子が、やはり身を乗り出して手を振っている。
春は出会いの季節であり、別れの季節でもある。
こうしてこの駅のホームは、この春に幾度もの別れを見届けたことだろう。そして手を振り合う人々の間に交わされる新しい約束を。
私には、踏みつけられ、泥に汚れて地面に押し付けられた白い花が、新しい約束たちの、その証のための刻印のように思えてならなかった。

           ◆

京介さんの昔話が終わった。
俺はザビエルと呼ばれていた女性が去っていった改札の向こうを見つめる。
「ザビエルの本名は、松尾先生じゃなかったんですか」
「うん?」
なんだ、分からないのか。そんな顔で京介さんは苦笑した。
「美女は、野獣と結婚したんだよ」
どうやら、相合傘は本当に成就したらしい。
コレと、か。俺は親指を立てて苦笑する。
つまり、ザビエルこと野田先生は、ずっと一途に言い寄っていた陸上部の顧問である松尾先生の求愛を受け入れたということだ。そして姓も松尾に変わった。
「それから旦那の方が別の学校に移ったけど、ザビエルの方は私たちの学校に残ったんだ。私なんて三年間もずっとあいつが担任だったんだぞ」
その間、ずいぶん叱られたらしい。なにしろひどい不良娘だったのだから。
「寒いな」
京介さんはそう言って、マフラーを首に巻き直す。
「栗、ありがとう」
まだ仄かな過去の余韻が残る中、京介さんは小さく手を振り、颯爽と身を翻して、人でごった返す駅の地下を歩み去って行った。
春か。
冬支度の人々の群の中に消えて行く京介さんの背中を見つめながら、僕もまた、心のどこかで新しい春を、もう待ち始めていた。

(完)

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