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保育園―前編2―



次の日、つまり日曜日。師匠と僕は市内のとある保育園に来ていた。
子どもの声のしない休日の保育園はやけに静かで、こんなところに入っていいのだろうかと不安な気持ちになる。
二階建ての園舎の一階、その中ほどにある部屋で僕らは座っていた。床は畳ではなくフローリングで、開け放した園庭側のガラス戸から暖かな風と光が入り込んできている。ガラス戸からはそのまま外へ出られるようになっていて、すぐ前には下駄箱がある。横長の園舎の一階の部屋は全部で五つ。門を潜るとすぐ左手側に園舎の玄関があり、そこをつきあたりまで進むと、右手に真っ直ぐに廊下が伸びていてそのさらに向かって右手側に事務室、四歳児室、五歳児室、倉庫、調理室、という順で部屋が並んでいる。また玄関の奥には二階へ上がる階段があり、玄関の下駄箱はその二階へ上がる人たちのためのものだった。階段を上るとまた廊下が真っ直ぐ伸びていて、右手側に遊戯室、0歳児室、一歳児室、二歳児室と並んでいる。
保育園の敷地は四角形で、おおよそ園庭と園舎とで半々に区切られている。門の真正面はその園庭側で、わずかな遊具と砂場、そしてその奥には花壇と小さな農園がある。園庭側の周囲は背の高いフェンスで覆われており、そのフェンスの内側は木が並べて植えられている。残りの半分の園舎側はフェンスが途中で材質変更されたような形でブロック塀に切り替わり、それがぐるりとちょうど農園の手前まで周囲を覆っている。門を通り抜けてすぐ左手に進むと、園舎の玄関とブロック塀の間に隙間があり、裏側へ進むことが出来るが、途中に物置があるくらいで園舎の真裏にはブロック塀との間にほとんどスペースがなく、調理室の裏手のあたりでフェンスに阻まれ行き止まりとなっている。そしてその向こうはプールだ。出入りは園舎の廊下側からしか出来ないようになっている。敷地で言うと調理室の隣ということになる。
以上がこの保育園の概要だ。
師匠は到着して早々、一通りの案内を頼み、ようやくその構造が頭に入ったところで一階にある一室に腰を落ち着けたのだった。
「で、ここは五歳児室というわけですね」
師匠が周囲の壁を見回す。
「はい」
女性が頷いた。
小川調査事務所に依頼人としてやって来た人で、悦子さん、という三十歳くらいの保育士だ。
「私が担任をしています」
悦子さんはいつもはエプロン姿なのだろうが、今日は私服だ。本来は休みである日なので当然か。
僕と師匠の前には悦子さんの他に三人の女性が座っている。
順に紹介される。
「あと、麻美先生が隣の三・四歳児室の担任、それから洋子先生が二階の二歳児室、由衣先生がその隣の一歳児室の担任です」
それぞれが緊張気味に会釈する。
お互いが先生と呼び合うのか。そう言えば自分が昔保育園に通っていた時もそうだったことを思い出して懐かしくなる。
悦子先生は見るからにしっかり者、という感じで喋り方や動きがキビキビしていて、明らかに他の先生を引っ張っているリーダー役だった。
「で、これが問題の写真ですね」
師匠の言葉に、全員の視線が床に置かれた一枚の写真の上に注がれる。
それはこの園舎の二階の窓から園庭に向かってシャッターを切った写真であり、雨に濡れてぬかるんだ園庭の中ほどに奇妙な丸い模様が浮かび上がっている様が写し出されている。
その丸い模様は直径二メートルほど。すぐそのそばにエプロン姿の女性が一人写っていて、園舎側から足跡が伸びている。
写真を見ながら、四人の若い保育士が息を呑む気配があった。
師匠が顔を上げ、そんな様子を意にも介さない口調ではっきりと言う。
「では、詳細な説明を」



先週の金曜のことだった。
その日は朝から曇りがちで、天気予報でも降水確率は50%となっていた。
空が暗いと気分も暗くなる。悦子先生は園庭で遊ぶ子どもたちを見ながら、ここ最近続く気持ちの悪い出来事のことを考えていた。
一階や二階のトイレでなにか人ではないものの気配を感じることがたびたびあった。
他にも花壇やプール、時には室内でさえ何か人影のようなものを見ることもあった。先輩から聞いた噂によると、この保育園の敷地は元々、罪人の首をさらす場所だったとか……
悦子先生だけではなく、他の先生や、子どもたちまでも何か幽霊じみたもののを見てしまう、ということがあった。少なくともそんな噂がまことしやかに囁かれている。
お祓いをしてもらった方がいいんじゃないか。
先生の間からそんな意見も出たが、園長先生はとりあってくれなかった。
馬鹿らしい。子どもに悪影響が出る。
そんな言葉で却下された。
『だいたいねえ、うちは公立なんだから、そんなお祓いなんていう宗教的なものに予算がつくはずないでしょう?』
そんなことを言われたので、悦子先生は市の保育担当職員にこっそりと訊いてみたが、やはりそういう支出はできないのだそうだ。
公立だろうが私立だろうが、出てくるお化けの方はそんなことを気にはしてくれないのに。
理不尽なものを感じたが、どうしようもなかった。
ああいやだ。
そんなことを考えながら一瞬ぼんやりしていると、パラパラと雨が降り始めたらしく、子どもたちがきゃあきゃあと騒ぎだした。
すぐにみんなを室内に引き上げさせる。そうこうしていると、お昼を食べさせる時間がきた。
それぞれの教室で食事を取っていると、外はかなり雨脚が強くなり風も少し出てきたようだった。
食事の時間が終わり、昼寝の時間になったが、子どもたちはカーテンの隙間から外の様子を見たがってなかなか落ち着かなかった。
「はい、もう寝るの!」
カーテンをジャッ、と閉め、たしなめると子どもたちはようやく布団に入る。
それから悦子先生は事務室とトイレに一度だけ立ち、それ以外は自分の五歳児室で子どもの寝顔を見ながら連絡帳などをつけて過ごしていた。
叩きつけるような雨音を聴きながら。
一度だけ外が光ったかと思うと雷が鳴って、その時だけは子どもたちを起こさないようにそっとガラス戸のところまで行って、カーテンの隙間から外を覗いたが、特に変わったことはなかった。随分近くで鳴ったような気がしたのだけれど。
それからしばらくして昼寝の時間が終わった。
ちょうどそれに合わせるように、雨が止んだようだった。子どもたちにおはようと言いながらカーテンをあけると、外はまだ曇っていたが、遠くの空から光が射している。
ふと、園庭の一箇所に目が留まった。
地面になにかある。
なんだろう、と思いながらガラス戸を開け、サンダルをつっかけて外に出る。雨は降っていない。
しかし強く降った雨で、地面はかなりぬかるんでいる。泥にサンダルを引っ張られながら、園庭の中ほどまで進むと、悦子先生は自分の目を擦った。
え?
思わず呆けたような顔をしてしまう。
あまりに似つかわしくないものがそこにあったからだ。
<魔方陣>
そうとでも呼ぶしかないような模様が泥の中に描かれている。円の中に三角形だか四角形だかが重なったような図形、そして円の外周にそってなにか文字のようなもの……
「   」
悲鳴を上げた、と思う。
園舎から、ガラス戸が開く音がして、他の先生たちも顔を出した。子どもたちまで出てこようとしているのを、みんな必死で止める。
状況を把握した園長先生が物置の方へ走ったかと思うと、地ならしをするトンボを持って来て、すぐにその魔方陣のようなものを消し始めた。
そしてみんな部屋に戻りなさい、と怒ったように叫ぶ。
悦子先生は呆然としながら、頭の中に繰り返される声のようなものを聞いていた。
『だから言ったのに。だから言ったのに』
それは自分の声だったと思う。
でも。いやに他人事のような声だった。



「で、今日がその出来事があってから、ひいふう…… 九日目か」
師匠が指を折る。
気持ちの悪い話を聞いたばかりなのに平然としている様子はさすがというべきか。
「この写真は誰が?」
問い掛けに、洋子先生と呼ばれた一番若い保育士がおずおずと手を挙げる。
「私です。悦子先生の悲鳴を聞いたあと、カーテンを開けると、その…… 魔方陣みたいなものが見えて、ちょうど私、次の遠足の写真の担当だったからカメラをいじってるところだったんで」
「思わず、シャッターを切った、と」
「はい」
「これ一枚だけですか」
「はい。園長先生がすぐにトンボで消してしまったので」
「消した後の園庭の写真は?」
「撮っていません」
「そうですか。分かりました」
師匠は写真を手にして、少し考えているような顔をする。
「この写真をとったのは、二歳児の部屋からですね?」
「はい、ちょうどこの部屋の真上です」
「なるほど、ではこの魔方陣は、この部屋の正面に近い位置にあったわけですね」
そう言って師匠は立ち上がり、ガラス戸の方へ向かう。
開け放してあった戸から外へ出て、すぐ外にあった小さな板敷きから自分の靴を選んで園庭へ出て行った。
僕らもそれについていく。
数メートル進んで、写真と周囲を見比べながら「このへんですね」と言う。
当然だが、地面はすっかり乾いていて、泥に描かれていたという魔方陣のらしきものの痕跡すらない。
「ふうん」
師匠は怪訝な表情で地面を触る。そして首を傾げた。
その場所からは、部屋の正面側のフェンスや左手側の花壇まで、まだ十メートルほどもある。
「あそこから撮ったんですね」
師匠が園舎の二階を指さす。
園庭から見て、一番右端の部屋だ。一階の倉庫と調理室にあたる部分には二階がないためだった。そしてその二階にはテラスがなく、師匠の指さす方向には窓と壁だけが見えている。
「念のための確認ですが、これが描かれているところを、誰も見てないんですね?」
「はい」
「雨の降っていた時間は?」
「十一時から昼の二時までです」悦子先生が答える。「それ以外の時間は曇ってはいましたが、雨は降っていません」
それを聞いて、師匠が意味深に頷く。
「なるほど、呼ばれた訳が分かりましたよ」
じゃあ、部屋に戻りましょうか。
師匠にそう促されて全員、五歳児室に戻る。
また同じような配置で床に座ったとたん、師匠が口を開く。写真を手にしたままで。
「これを、どう思ったんです」
先生たちは顔を見合わせる。
「園長先生は、たちの悪いイタズラだと」
悦子先生がそう答えたのを師匠はニヤニヤしながら聞いている。
「何年か前にあった、机を9の字に並べるイタズラ事件のことを思い出しますね」
師匠の言葉に僕もその出来事のことを思い出した。
確か東京の中学校で、夜のうちに何者かが校内に侵入し、何百という大量の机を運び出して校庭に並べた、という事件だ。
校庭から見ると、ただむちゃくちゃに放置された机にしか見えなかったが、屋上から見るとそれがアラビア数字の「9」の形になっている、という奇怪な事件だった。
そのことが全国的に報道されると、視聴者たちは素人探偵となってその事件の犯人や「9」の意味、そして動機について様々な推理がなされることになった。
規模はまったく違うが、保育園の園庭に奇妙な図形が描かれるというのは、その時のことを彷彿とさせるものがあった。
「イタズラねぇ……」
師匠はまだ笑っている。「あなたたちは、そうは思わなかった訳ですね」
みんな神妙な顔をして頷いた。
「理由はだいたい分かりますよ。まず、第一にこの保育園で以前から心霊現象のようなものが続いていたこと。そして第二に、この写真の、これですね」
師匠は写真の中の一箇所を指さす。
そこには魔方陣のそばで立ち尽くす悦子先生が写っている。いや、師匠の指はそこから少し外れた位置、その悦子先生の足跡らしき小さな点々が園舎の方から伸びてきている部分に掛かっている。
「サンダルの足跡。雨が上がったばかりでぬかるんでいたので地面についていて当然です。しかし…… 問題はそれが一人分しかないこと。魔方陣に最初に気づいて外に出た悦子先生のものだけ、つまり、イタズラでこの魔方陣を作ったはずの人物の足跡が残っていないこと、それが問題なんですね」
師匠の言葉に保育士たちの顔が強張る。
「園長先生はこんなことがあった後も、お祓いなんかしないの一点張りで。だから私たち、有志でお金を出し合って依頼をしたんです」
最初は神主さんに頼もうとしたのだが、魔方陣、というところが引っかかっていた。専門外ではないかと思ったのだ。それはお寺であっても同じだ。かといって西洋式の、たとえばエクソシストのような人にはツテがないし……
そんなことで悩んでいると、悦子先生の伯母にあたる人が「いい人がいる」と小川調査事務所を紹介してくれたのだという。
「またあの婆さんか」
師匠が顔をしかめた。以前師匠が心霊がらみの依頼を解決してからというもの、そのお婆さんは師匠のことをいたく気に入り、それ以来ことあるごとに無償の広告塔となり、その人脈の限りを尽くして宣伝をしてくれているらしい。
こちらからすると仕事が増えていいことなのだが、噂というものはどんな膨らみ方をするのか分かったものじゃない。
まるでテレビでよくやっている、効果てきめんの除霊のような真似事を期待されると困るのだ。
しかし、今回の依頼人は回りくどい師匠のやり方にここまでは辛抱強く付き合ってくれている。
「じゃあ今日のことは園長先生には秘密なわけだ」
師匠が笑ってそう言う。
なるほど。だから日曜日なのか。こんな依頼のことがばれないよう、保育園が空っぽになる休日にこっそり集まっている、というわけだ。
「ところで、さっき言った足跡って、どういうことです」
僕がそう言うと、師匠はふんと鼻で笑って、説明を始めた。
「この写真には悦子先生が魔方陣に近寄って行った時の足跡しか写っていない。確かに二階から撮影したものだから、見えにくいだけで実際は他の足跡はあったかも知れない。でもそうではないんでしょう?」
師匠が訊くと、悦子先生は頷く。
「私が外に出た時、他の足跡はありませんでした。後から思い出して、そうだったかも、というんじゃありません。私、その場にいる時から他の足跡がなかったことを変だと思ってましたから」
そう強く断言する。
「そして雨は十一時から降り始めて十四時で止んでいる。どの時点で地面に魔方陣が描かれたのかは、はっきり分からないけど、少なくとも雨が強く降っている時ではないないはずだ。だとしたら、こんなにくっきりと形が残っているはずがないから。では雨が止んだ後に描いたのか? それもおかしい。ぬかるんだ地面に、それを描いた人の足跡が残っていないんだから」
師匠の言葉の揚げ足をとるような形で僕は口を挟む。
「じゃあ雨が降っている間にそこまで歩いて行って、止んでから描いたとか」
「行きの足跡は消えたとしても、帰りの足跡は?」
そうか。
立ち去った時の足跡もないのなら、その後で雨によって消されたということになる。しかし魔方陣は消えていない。
「やっぱりおかしいですね」
雨が止んだ後で魔方陣を描いたのなら、そのイタズラをした誰かはどうやって足跡を残さずにその場を去ったというのか。
写真を見る限り、魔方陣は園庭の中ほどにあり、園舎からもフェンスからも花壇からも、そして門からもかなり離れている。一番近いフェンス側でも恐らく十メートルはある。とても一飛びに飛べるような距離ではない。
「竹馬で行ったとか」
僕の意見に呆れた顔をした師匠だが、一応確認する。
「竹馬はありますか」
「うちにはありません」
「まあ、かりにあったとしても、そんなことまでして足跡を残したくない理由はないでしょう。仮にまだ雨が降っていて、園児の昼寝の時間中だったとしても、先生の誰かがカーテンの外を覗けば間違いなく見つかってしまうこんな遮蔽物もない場所で、そんなイタズラを敢行しようというんですから。描いているところを見られてもかまわない、と思っている人ならそこまでして足跡だけを残したくない理由はないでしょう。逆に出来れば見られたくないと思っている人なら、これはスピード勝負です。そんな目立つ竹馬なんかに乗ってえっちらおっちら行くなんて考えられません」
「じゃあ、トンボみたいなもので自分の足跡を消しながら立ち去った、とか」
「む、なるほど」
僕の言葉に師匠は思案げな顔をして頷く。
すると悦子先生から反論が出た。
「だとしたら地面にナメクジが這いずったみたいな跡が残るんじゃないですか。そんなものありませんでした」
「ふうん。ではとりあえず足跡の問題は置いておくとして、もう少し確認したいことがあります」
師匠はそう言った後、ゆっくりと口を開いた。



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