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保育園―前編1―


師匠から聞いた話だ。



土曜日の昼ひなか、僕は繁華街の一角にある公衆電話ボックスの扉を開け、中に入った。
中折れ式のドアが閉まる時の、皮膚で感じる気圧の変化。それと同時に雑踏のざわざわとした喧騒がふいに遮断され、強制的にどこか孤独な気分にさせられる。
一人でいることの、そこはかとない不安。
まして、今自分が密かな心霊スポットと噂される電話ボックスにいるのだという意識が、そのなんとも言えない不安を増幅させる。
夜の暗闇の中の方がもちろん怖いだろうが、この昼間の密閉空間も十分に気持ち悪い。僕は与えられた使命を果たすべく、緑色の公衆電話の脇に据え付けてあるメモ帳に目をやる。
メモ帳は肩の部分に穴があけられていて、そこに通した紐で公衆電話の下部にある金具に結び付けられている。
紐を解き、メモ帳を手に取る。何枚か破った跡もあるが、捲ってみると各頁にはびっしりと落書きがされていた。僕は頷いて、財布を取り出すとテレホンカードを電話機に挿し込む。
「えーと」
記憶を確かめながら、バイト先の番号を押す。
『……はい、小川調査事務所です』
この声は服部さんだ。
「あ、すみません、僕です。加奈子さんはいますか」
『……中岡さんのことですか』
「あ、すみません。そうです」
僕も、先輩にあたる加奈子さんもバイト用の偽名を使っているのだが、依頼人がいる場所でもついうっかり本名で呼んでしまいそうになることが多々あった。なるべく小川調査事務所でのバイト中は偽名で呼び合うように気をつけているのだが、正直徹底できていない。しかしバイト仲間の服部さんには時々それを嫌味であげつらわれている。服部さんはクスリとも笑わないので、嫌味なのか怒っているのか分からないのでとても怖い。
『代わります』
保留音に変わった。ワルキューレの騎行にだ。いつもイントロで終わってしまいメインラインを聴けない。だいたい二十五秒くらいで勇壮なメインラインに入るはずなのだが、『あたしだ』、ほらね。
静々と始まったイントロが盛り上がってきたところで、保留が解ける。
『首尾はどうだ』
「手に入れました。これから戻ります」
『ご苦労。ボールペンも忘れるなよ』
そう言われて手で探るが、メモ帳を置いてあるあたりにはない。誰かに盗っていかれたのかと思ったら、足元に落ちていた。
拾ってから「じゃあ、これで」と言って受話器を戻す。
扉を押すとベキリという折れるような音とともに、気圧の変化と外のごみごみとした騒々しさがやってくる。
その瞬間にあっけなく孤独は癒され、拍子抜けしたように僕は太陽の下に足を踏み出した。



大学二回生の春だった。
僕は繁華街から少し外れた通りを足早に進み、立ち並ぶ雑居ビルの一つを選んで階段を上っていった。
そのビルの三階にはバイト先である小川調査事務所という興信所がある。ドアをノックして中に入るとカタカタという音が静かな室内に響いていた。
フロアには観葉植物の向こうにデスクがいくつか並んでいて、二人の人物の顔が見える。
「お疲れ」
バイト仲間であり、オカルト道の師匠であるところの加奈子さんがやる気なさそうにデスクに足を乗せたまま雑誌を開いている。
「……」
もう一人、ワープロを叩いていた服部さんが僕の方に一瞬だけ視線を向け、そしてまた何の興味も失ったようにディスプレイに目を落とす。相変わらず冷たい目つきだ。
嫌な空気が漂っている。
同じアルバイトの身ではあるが、服部さんは所長である小川さんの本来の助手である。それに対して師匠と僕はイレギュラーな存在であり、ある特殊な依頼があった時だけ呼び出される。
この界隈の興信所業界では『オバケ』と陰口を叩かれている奇妙な、そして時に荒唐無稽な依頼、つまり心霊現象が関わるような事件の時にだ。
霊感などとは無縁の服部さんからすれば、師匠のやっていることなど胡散臭いだけで、口先で依頼者を騙して解決したように見せかけている姑息なやり口に見えることだろう。
元々無口な服部さんは実際のところ何を考えているのか分からないのだが、師匠と仲が良くないのは間違いない。
「メモは?」
師匠は雑誌を置いて、催促するように右手を伸ばした。
僕はポケットからさっき電話ボックスから回収したばかりのメモ帳とボールペンを取り出してデスクの上に置いた。
「ほほう」
師匠は身を乗り出してデスクの上のメモ帳を捲り始めた。
どのページにもゴチャゴチャと線が走り、色々な落書きが残っている。三角形がいくつも重なった図形もあれば、グルグルと丸を続けたもの、そして割と上手なドラえもんの顔やかわいいコックさんを失敗してグチャグチャに消してある絵…… 他にも形をとどめない様々な落書きがあった。
感心したような溜め息をつきながらメモを眺める師匠に、ようやく声をかける。
「それがなんなんですか」
「うん」
生返事で顔を上げもしない。
僕が知っているのはただ、あの電話ボックスに一人で入っていると、目に見えない何かに肩を叩かれたり物凄い寒気に襲われたり、あるいは足を掴まれたりする、という噂だけだった。
そして師匠がこっそりとその電話ボックスにメモ帳とボールペンを持ち込み、まるで備え付けのものであるかのように偽装して放置してから三日目の今日、僕に回収に行かせたのだ。
回収したメモ帳は電話口で訊いた用件をメモしたのであろう、破りとられた頁もあったが、ほとんどが落書き帳と化していた。
「無意識にだ」
師匠がメモから視線を切らずに口を開く。
「人間は電話中にペンを取る時、電話の内容や、そこから連想したもの、あるいは全く関係がないようなその時頭に浮かんだもの書きつける。たいていは意味のない落書きだ。後からそれを見ると、自分でも描いたかどうか覚えていないような模様が残っていたりする」
いきなり師匠がメモ帳開いて僕の前に突きつける。
「そんな無意識下におきた現象がこれだよ」
その妙な圧力のある言葉に息を呑む。
メモ帳にはキノコのようなものが小さく描かれ、それがゴチャゴチャした線で消されていた。
「これもだ」
何頁かメモを捲り、またぐいと開かれる。
オカッパのような髪型の誰かの顔が描かれているが、失敗したのか途中で線が途切れている。
「そしてこれ」
ドキリとした。
別の頁に、さっきとはまるで違う筆致で頭のようなものが描かれている。
オカッパ頭が。
顔は描かれていない。頭の外殻だけの絵。
「お……女の子」
「そうだ」
師匠はニヤリと笑う。
僕は思わずメモ帳を受け取り、さっきのキノコのようなものの絵を見る。髪だ。あらためて確認するとキノコではなく明らかに髪の毛として描かれていた。
ドキドキしながら頁を捲っていくと、他にもそのオカッパのような髪型がいくつか現れた。
偶然。
にしては多すぎる頻度だ。
電話ボックスに入った不特定多数の通行人が無意識に握ったペン。それが描くものがたまたま同じであるという蓋然性は?
そしてそれが偶然ではないのだとすると、そこに描かれたものは一体……
生唾を呑んで僕は師匠を見る。
しかし彼女はへら、と笑うとメモ帳を摘むようにして取り上げた。
「だいたい分かったし、もういいや」
そうしてメモ帳をデスクの引き出しに放り込み、また雑誌を手に取った。読みかけた場所から頁を追い始める。
さっきまで興奮気味だったのに、すっかり興味を失っているようだ。この熱しやすく冷めやすいところが師匠の特徴の一つだった。
そんなやりとりの間にも事務所の中には服部さんが叩くキーボードの音が静かに響いていて、僕はふいにここがどこであるのかを思い出す。
「何時からでしたっけ」
僕が言うと、師匠は雑誌から目を逸らさずに壁を指さした。そこにはホワイトボードが掛かっていて、『所長』と『中岡』の欄に『十三時半、依頼人』という文字がマジックで走り書きされている。
もう少しでその時間だ。
「あれ、そう言えば所長は?」
「あれだよ。下のボストンで待ち合わせ」
ああ、そうか。思い出した。今度の依頼人は若い女性で、こんな妖しげな雑居ビルにある興信所などという場所にいきなり足を踏み入れるのを躊躇したのだ。
気持ちは分かる。
それでまずビルの一階にある喫茶店『ボストン』で所長と待ち合わせをしていたのだった。そこで少しやりとりをして、多少なりと安心してもらってから事務所まで招き入れる、という算段だろう。
この零細興信所の所長である小川さんは、服の着こなしからして随分くだけた大人なのだが、人あたりは良く、初対面の依頼人の緊張をほぐすようなキャラクターをしていた。
「あ、やべ。お茶切れてたんじゃないか」
師匠はふいに立ち上がって台所の方へ小走りに向かった。
そしてガタゴトという音。引き出しをかき回しているらしい。傍若無人な振る舞いをしている師匠だったが、何故かこの事務所ではコーヒーやお茶などを出す係を当然のように引き受けている。女だから、などという固定観念で動く人ではないはずなので、意外な一面というところだろうか。
台所をひっくり返すような騒々しさに苦笑していると、服部さんがキーを叩く手を止め、ぼそりと呟いた。
「彼女は、この仕事に向いてない」
服部さんから僕らに話しかけて来ること自体まれなので、この部屋に他に誰かいるのかと一瞬キョロキョロしそうになったが、どうやらやはり僕に聞えるように言ったらしい。
「探偵には」
そう補足してから、服部さんはまたキーを一定のリズムで叩き始める。
自分の師匠が馬鹿にされたというのに、僕は何故か腹が立たなかった。ただ服部さんがどうして今さらそんなことを口にするのか、そのことを奇妙に思っただけだった。
「でも、服部さんだって一緒に仕事したことあるでしょう。僕はあの人、凄いと思いますけど」
一応反論してみる。
確かに師匠はオカルト絡みの依頼専門なので、どうしても本来の興信所の業務とは異なる手法を取ることが多いが、その端々で見せる発想や推理力の冴えは探偵としても凡庸ではないと十分に思わせるものだったはずだ。
そんな僕の説明を聞き流していたように見えた服部さんだったが、またピタリと手を止め、眼鏡の位置を直しながら淡々とした口調で言った。
「名探偵に向いている仕事なんて、何一つない」
「え」
それってどういう意味ですか、と訊こうとした時、「あったー」という声がしてふにゃふにゃになったインスタント緑茶の袋を手に、台所から師匠が顔を出した。
「間に合った? 間に合った? セーフ?」
師匠が入り口のドアを見てそう繰り返す。
階段を上ってくる足音が聞こえる。
師匠と、そしてそのオマケの僕が呼ばれた依頼。
つまり、不可解で、普通の人間には解決できない不気味な出来事が、これからドアを開けてやってくるのだ。



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