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巨人の研究―後編1―
「さあ、行こう」
その言葉に背中を叩かれ、発進する。大学病院まではお互い無言だった。僕は何かを考えていたような気もするし、何も考えていなかったような気もする。
大学病院の駐輪場に到着し、弾むように後ろから降りた師匠に目で問いかける。
今度はどうしても同席したかった。何が起こっているのか、僕なりに知りたかったから。
「まあ、いいだろう。一緒に来い」
はい、と言ってすぐに自転車に施錠して師匠の後に続く。
正面玄関から入ると、病院のロビーには沢山の人がいた。さすがに大学病院は大きい。インフルエンザに罹った時に行った、自分のところのキャンパスにある、とってつけたような医務室とは雲泥の差だ。
師匠は勝手知ったる他人の家、というように人の波をすいすいとかき分けてフロアの奥の方へ向う。案内板を見ると入口から一番奥に入院病棟があるらしい。
通路を抜けて、ようやくその入院病棟の待合いに到着した。
そこに見覚えのある人が待っていた。
ほんのりと桜色をしたナース服を身に付けている五十歳前後の女性。怒っているような、呆れているような表情。
「やっぱり、あなただったのね」
野村さん、だったか。
師匠が以前入院していた時にお世話になった看護婦さんらしい。その後も長くつきあいが続いており、戦時中に撮られたというある一枚の写真にまつわる事件にも巻き込まれていた。より酷い巻き込まれ方をしたのは僕の方だが。
野村さんはかつて受け持った患者という枠を超え、まるで自分の娘のように師匠のことをとても気にかけていて、師匠の方はそれを狡猾に利用しているという構図がほの見える。
「センセイ、気が利くなあ。電話してくれてたんだ。じゃあ、用件は分かるよね?」
師匠は「お願い」というように両手を合わせ、上目遣いにシナを作る。
野村さんは何か言おうとして上半身を膨らませたが、やがて風船が萎むように深い溜め息を吐くと、「ついて来なさい」とだけ言って踵を返した。
その様子から垣間見えたのは、長年の経験が降り積もって出来たかのような諦観だった。
気力が抜けたように見えたが、さすがに職業柄、足取りはキビキビとしていた。近くのエレベーターの方へ歩いて行くのを二人して追いかける。
上へ向かうボタンを押して箱が降りて来るのを待っている間、「その節はどうも」と僕からも挨拶をしたが、じろりと睨まれただけだった。
三人で乗り込むとエレベーターは静かに上昇し、七階で停止した。扉が開くと、真っ先に循環器科という案内板が目に入った。
野村さんはすぐ近くにあったナーステーションへ行き、何人かの看護婦と短い話をした後、僕らの方へ振り向いた。
「こっちへ」
そしてさっさと歩き始める。
確か看護婦長だと聞いていたが、さすがに病院でそういう姿を見ると風格というか威厳のようなものがあった。病棟の廊下を歩きながら「この入院病棟の看護婦長なんですか」と訊いてみたが、「上から下まででベッドがいくつあると思ってるの」と笑われた。
説明を聞くに、どうやら各階ごとに小児科だとか泌尿器科だとかに分かれていて、それぞれに専属のスタッフと看護婦長がいるらしい。
では、その妙な症状を訴えるという患者は、たまたま野村さんが受け持っているフロアにいたのだろうか。
僕が抱いた疑問に先回りするように師匠が耳打ちする。
「センセイが診察した、精神以外の入院病棟の患者は全部で十人。そのうち三人がここにいるはずだ」
「会わせられるのは二人だけだからね」
聞こえていたらしい野村さんが怒ったような口調で言う。「いろいろと難しい人もいるんだから。あなたはだいたい……」
その口から憤懣が出掛かったが、また肩を落としてそれが抜けて行く。
師匠は「いいよ、いいよ。会わせてくれるだけも本当にありがたいことでございます」と卑屈にお追従し、ますます野村さんの溜め息が大きくなる。
「ここ」
廊下を歩き続け、立ち止まったのは四人部屋の前だった。前二つのベッドは空いているのが見えた。
「待っていなさい」と先に野村さんが部屋に入り、奥のベッドにいる誰かと話をしているようだった。衝立でよく見えない。
やがて戻って来て、ゆっくりとした口調で言う。
「いい? 余計なことは絶対に言わないこと。何が余計かは、判断できるでしょうね」
「大丈夫。信用して。でもわたしはどんな立場って設定?」
「医学部の学生が、実習の一環で入院している患者一人一人とお話をしに来たってことにしてる」
「ありがとう」
師匠が目で合図したので僕も一緒に病室に入る。薬品の香りが入り混じった、甘ったるい廊下の匂いともまた少し違う、何と言うか独特の匂いがする。
野村さんは外で待っているようだ。
衝立の向こうにはベッドが二つあった。片方は布団がめくれており、住人は不在のようだったが、もう片方には小学校高学年か、あるいは中学一年生くらいの坊主頭の男の子が興味津々という顔でベッドの上に上半身を起こしていた。
「こんにちは」
師匠が愛想よく首を傾けると、小さな声で「こんにちは」と返事があった。
循環器科ということは心臓でも悪いのだろうか。痩せてはいたが血色は良く、重い病気のようには見えなかった。
ベッドのそばにあった丸イスに腰掛けると、師匠は男の子に「いつごろから入院しているの? 退屈?」と親しげに話しかける。
男の子は「退屈」と言って、はにかんだ。
それからしばらく入院中のことや好きな漫画のことなどを話題にして話が弾んでいたが、やがて師匠から「ここ、夜はお化けとか出るんじゃない?」という何気ない一言が零れ落ちた。隣のイスに座り、ただ二人のやりとりを聞いているだけだった僕も、師匠が本題に切り込んで行ったことが分かって緊張する。
男の子は何か重大な隠し事をこっそり告げるというような仕草で師匠の耳元に口を寄せた。
「出るよ」
「え? ほんとに?」
わざとらしく驚いて見せている。男の子は頷きながら、入院してからこれまでに見た幽霊の話を始めた。どの話も妙な臨場感があり、夜に聞いていれば相当怖かっただろうと思える内容だったが、僕が期待したようなキーワードが全く含まれていなかった。
小人に関する話が一つもなかったのだ。
師匠も一切水を向けることもなく、ただひたすら男の子の話に怖がって見せているだけだった。一体どうするつもりなのだろうと思って、やきもきしながらも口を挟めないでいると、師匠はふいに持参した荷物をあさり始めた。
そしてさっき買っていた缶ジュースを取り出す。そう言えばまだ飲んでいなかった。もう温くなっているんじゃないだろうか。
師匠はベッドの男の子からは見えない角度で缶ジュースを持ったまま、「ちょっとクイズをするけど、受けて立つ?」と訊いた。
男の子はうんいいよ、と頷く。
「じゃあ目を閉じて。今から渡すものがなんなのか当てられたらキミの勝ちだよ」
「分かった」
素直に目を閉じる。師匠は男の子の右手を取り、缶ジュースを握らせる。ほっそりした手に三百五十ミリリットルの缶はやけに大きく見えた。
「あれ〜。これなんだろう」
男の子は目を閉じたまま首をかしげている。
師匠はもう笑っていない。真剣な表情で缶を見つめている。
「う〜ん」と唸って考え込んだ男の子に、師匠は一言ささやいた。
「ヒントは、かん、ナントカ」
それを聞いた瞬間、男の子の顔が綻んだ。
「分かった」
そしてその口から出た答えは、僕の予想していたものとは違った。
思わず「え?」と言いそうになって、慌てて口を塞ぐ。しかし師匠は「せいか〜い」と言って笑顔を作ると男の子の手から缶ジュースを素早く抜き取り、後ろ手に隠す。
男の子は目を開け、「あれ?」と言ってキョロキョロしている。師匠のジェチャーに気づいた僕はこっそりとその手から缶ジュースを受け取り、荷物の中に隠す。何故か分からないが、もう男の子に見せたくないらしい。
それは、彼がクイズの答えを間違えたことと無関係ではないだろう。
「ご褒美はこれだ。えいっ」
師匠は誤魔化すように素早く男の子のほっぺたにキスをした。
「じゃあ、もうわたしたちは行かなきゃ」
目を白黒させている男の子を置いて僕らは慌しく病室を出て行く。
廊下では野村さんが腕組みをして待っていた。
「なにか変なことしてなかったでしょうね」
「してないしてない。してないよ、な?」
「ええ。まあ」
「とにかく、本当に余計なことは言わないでよ」
野村さんは何度目かの釘を刺すと、さらに廊下の奥へ歩き始めた。僕は後ろをついて行きながら、さっきの不思議なやりとりのことを考える。その横で、師匠は視線を尖らせながら前を見据えている。
「ここよ」
病室の前に到着し、また野村さんが一人で先に入る。すぐに出てきて、「さっきと同じで医学部生ってことにしてるけど、本当に……」と言い掛けた所に、「余計なことは言いません」と師匠が言葉を繋ぐ。そして待ちきれないと言うように病室の中へ消えて行く。
僕もすぐに後を追う。
今度も四人部屋だったが、手前の二つのベッドには老人がそれぞれ布団を被って寝ていた。その奥にはやはり衝立があり、回り込むと、女の子がちょうどベッドから身体を起こすところだった。
「あ、寝ててもいいよ」
師匠が慌てて手を振ると、「大丈夫です」と静かな声が返って来た。
向かいのベッドは空だった。今度は住人がいるような気配はない。僕の視線に気がついたのか、女の子は「隣の人、昨日退院しちゃった」と言って笑った。
さっきの男の子よりは少し年上だろうか。やはり痩せていて顔や服の袖から出ている手がやけに白い。
「どんな人だったの?」
丸イスを引き寄せながら師匠が口を開いた。
「う〜ん。お母さんくらいの年の人」
「そうなんだ」
そんな会話から始まり、また当たり障りのないやりとりがしばらく続いた。僕はすべて師匠に任せきって、邪魔にならない程度に相槌だけを打っている。
「病院って、お化けが出るっていう人いるけど、どうなのかな」
「あ、私見たよ」
さっきの再現のように女の子が体験談を語る。しかしさっきの男の子と同じ話は一つもなかった。
横で聞いているだけの僕には師匠が何を考えているのか分からなかった。
「ちょっとクイズを出すけど、いい?」
「いいですけど」
「今から渡すものが何なのか、目を閉じたまま当ててみてね」
それを聞いた女の子は少し緊張したような顔をする。何かの検査だと思ったのだろうか。
それでも「どうぞ」と言って目を閉じたので師匠は荷物からまた缶ジュースを取り出した。
女の子の右手を誘導して、それを握らせる。
「どう? 何か分かる?」
缶ジュースを右手で握ったまま女の子は考え込む。分かりそうなものなのに、どうしてだろう。
「ヒントは、かん、ナントカ、だよ」
師匠はささやく。さっきと同じ言葉。これでもう分かるはずだ。
分かるはずなのに。
女の子は恐る恐るという様子で、目を閉じたままぽつりと言った。
「かんでんち」
それを聞いた瞬間、鳥肌が立った。
頭が事態を理解する前に、直感が告げたのだ。
乾電池。
さっきの男の子と同じ答え。偶然じゃない。絶対に。
分かった。分かってしまった。一体何が分かったのか、その頭の中の嵐が形になる前に師匠が言った。
「正解だよ。じゃあ今度は目を閉じたまま耳を塞いでみて」
そっと缶ジュースを右手から抜き取る。
そして言われるがままに両手で耳を塞いだ女の子から視線を逸らし、師匠は僕の顔を見る。その瞳が爛々と輝いている。
「これが最近になって急に現れた、精神科にかかる人が訴える奇妙な症状。触覚の異常により、物の大きさを誤認するという事例。目を開けている時には感じない。つまり視覚により補正される時や、あるいは事前にそれが何なのか認知している時には現れないが、それらを遮断されるとたちまちに現れる不可思議な現象。小さい。小さい。小さい。何もかもが、実際の大きさよりも小さく感じられてしまう。缶ジュースを握っているのに、それが乾電池に思えてしまうくらいに」
僕の目を見つめたまま、師匠はささやく。
「わたしは巨人を六つに分類したな。
 第一の分類は『伝説上の巨人』
 第二の分類は『巨人症による巨人』
 第三の分類は『UMAとしての巨人』
 第四の分類は『人類の縁戚としての巨人』
 第五の分類は『妖怪としての巨人』
 第六の分類は『フィクションとしての巨人』
 …………」
言葉を切って、師匠は手のひらで恭しく女の子を指し示す。
「彼女たちこそが、そのどれにも当てはまらない、第七の巨人」
僕は師匠の言葉のそのわずかな隙間の中で息を飲む。

「Giant sensory syndrome, 巨人感覚症候群の発症者だよ」



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