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巨人の研究―前編1―

師匠から聞いた話だ。


大学二回生の夏。ある寝苦しい夜に、所属していたサークルの部室で数人の仲間が集まり、夜通しどうでもいいような話をしてだらだらと過ごしていた。
酒も入っていたし、欠席裁判よろしく嫌いな部員の話や色恋沙汰に関する話が主だったが、その中である同い年の女の子がふいに流れを断ち切って、こんな話を始めた。
「そういえば、このあいだ変なもの見たんだよね」
「変なって、どんな」
「なんていうか、小人?」と自分で言いながら小首を傾げている。
彼女が言うことには、数日前の夕暮れ時に街を歩いていると急に雨が降ってきたのだそうだ。傘を持っていなかった彼女は慌てて雨が避けられる路地裏に駆け込んだ。そしてすぐに止みそうかどうか、空模様を気にしながら往来の方を眺めていると、足下になにかの気配を感じて飛び上りそうになった。ネズミかと思ったのだ。ところがよく見ると、ゴミの収容ボックスの陰にいたのは小さな人間だった。体育座りのような格好で無表情のまま前を向いてたたずんでいる。大きさは自分の手のひらくらいだろうか。白いシャツと青いズボン。おカッパ頭の若者のような容姿。そのあたりは薄暗くてはっきりとは見えなかったけれど、人形とは思えなかった。ぼそぼそと口元が動いているようにも見える。
身体は凍りついたように動かない。真横にいる小人のようなものへ視線だけを向けていると、眼球を動かす筋肉が疲れて鈍い痛みがやってくる。
私が気付いているということに小人が気付いたら、いったいどうなるのだろう。
そう思った瞬間、どうしようもなく恐ろしくなり、雨が降り続いている道路へ向って後ろも見ずに駆け出した。
「怖かった、ほんと」
心なしか青ざめた顔で話し終えた彼女へ「人形が捨てられてただけだろう」という突っ込みが入ったが、「あれは人形じゃなかった」と繰り返した。
理由は直感だそうだ。
周りもそれ以上追及せず、「なんだかわからないけど、気持ち悪いな」という空気だけが漂っていた。
「そう言えば私も見た」
別の女の子が口を開く。
「夜中の十二時過ぎくらいだったと思うけど、バイト帰りにいつもの道を通ってたら変な声が聞こえてきてさあ」
そうして身振り手振りで説明してくれたところを要約すると、こういうことらしい。
一週間ほど前のバイト帰りでのこと。自転車で住宅街を通り抜けていると、急に前方から人の話し声が聞こえてきた。小さな声だったが、それらしき人影が見当たらないので妙に気になり、キョロキョロとしながらペダルをこぐスピードを落とすと、「ビン」「ビン」という単語が耳に入ってきた。
ビン?
コーラの空きビンとかのビンだろうか。そんなことを思いながら聞こえて来た方向を見るが、民家の玄関があるばかりでやはり人の姿はない。
恐る恐る近づいて行き、遠くの電信柱に取り付けられた電灯の明かりにうっすらと照らされているブロック塀に添って、その向こう側を伺う。中庭を隔てた敷地の中には明かりのついた部屋の窓がいくつか見えるが、玄関の門扉のあたりにはまったく人の姿はない。身を乗り出してブロック塀の内側を覗き込んでみたが、やはり誰も潜んではいなかった。
おかしいなと思いつつ、立ち去ろうとするとまた「ビン」「ビン」という小さな声が聞こえてくる。ぼそぼそとしたその話し声の中に「コーヒー」という単語も混じっている。
気持ちが悪くなり、もう帰ろうと自転車に足を向けかけた時、ブロック塀の上に取り付けられた木箱が目に入った。前面に飲料会社のマークが付いている。牛乳の配達をしてもらっているらしい。ビンとはこのことだろうかと思って近づくと、「ビン」「コーヒー」というぼそぼそとした声が、その木箱のあたりから聞こえてくる。
ぞっとしながらも、好奇心に負けて手を伸ばすと、木箱の上蓋は何の抵抗もなく開き、その瞬間に声がぴたりと止まった。
木箱の中には牛乳ビンが二本、封をされたまま残されていて、そのビンと木箱の間のわずかな隙間に小さな顔が二つ覗いていた。
その二つの顔は呆けたような目を彼女の方へ向けている。
悲鳴を上げて彼女は逃げ出した。
「ホントにほんと。小人がいたんだって。箱の中に」
語り終えた彼女へ、牛乳ビンの他になにか別のものも入っていて、それが顔のように見えたのではないかという疑問がていされたが、彼女はあくまでも見間違いではないと主張した。
家の人が取り忘れたのであろう牛乳ビンについて、夜中小人がなにごとか話し合っていたというのか。奇妙な話だ。
「それに顔見る前に声が聞こえてたし。ビン、ビンって」
「でもそれって、配達用の箱が先に目に入ってたから聞こえた幻聴じゃないの」
「なんで。ビンだけじゃなくてコーヒーとかも言ってたし。コーヒーってなんだろうって思ったもん。それで箱の蓋開けたら、牛乳ビンが二本あって、片方色が違うんだよ」
「え?」
周りの仲間が気味の悪そうな声を出した。
「だから、片方コーヒー牛乳だったんだって」
なるほど。箱を開けるまで知りえなかった情報があらかじめ示されていたわけだ。幻聴だと言っていた一人も薄気味悪そうに黙り込んだ。
「実は僕もこの間……」
それまで黙って聞いていた男が手を挙げたかと思うと、おずおずと話し始めた。
数日前、真夜中に部屋に一人でいたとき、ふいに誰かの視線を感じて、思わず「誰だ」と口にしたものの、誰もいるはずがないと苦笑した。その直後にまた誰かの視線を首筋に感じる。刺すような視線。うそだろう、と思いながら視線の感じる先に恐る恐る近づいていくと、本棚の後ろに女の横顔が見えた。
顔の左半分だけが壁と本棚の隙間から覗いていて、眼だけがギョロリとこちらを見ている。そんな隙間なんて、あっても一センチか二センチだろう。
彼は叫び声を上げて、近くにあった雑誌を顔に投げつけた。壁にあたってずるずると落ちる雑誌の向こうに妙にくすんだ肌色がまだ見えた気がして、喚きながら雑誌と言わずそこらにあったものを手当たり次第に投げつけた。
何も投げるものがなくなったころ、荒い息を吐きながらそちらを見ると、もう顔は見えなくなっていた。彼は本棚に全身を預け、わずかな隙間もなくなるように壁に向って力いっぱい押し付けた。子どものころに祖母に習ったうろ覚えのお経を唱えながら。
「それからその顔、出たの?」
「いや、その時だけ。でもあんなの見ちゃったら寝てられないよ。引っ越そうかなあ」
「そういや、私も友だちに聞いたんだけど、つい最近……」
そうしてその後も、小人やありえないほど狭い場所で人の姿を見たというような怪談話が口々に語られていった。
本人が体験したという話は最初の三人だけだったけれど、これほど似たような体験談が溢れ出てくると気味が悪い。
僕は黙って相槌を打っているだけだったが、どれも最近の話だということに引っ掛かりを覚えていた。
あえて口に出さなかったが、実は自分自身も三日ほど前に小さい人を見ていた。夕食後に近所を散歩していた時のことだ。最初は子どもかと思ったが、道路に倒れこんで足をバタバタとさせていたのに、通行人の誰もがそちらを見ようともしていないことと、子どもにしても小さ過ぎるので、これはこの世のものではないと直感した。
小人は苦しげにもがいていたが、やがてずぶずぶと沈み込むようにアスファルトの中へ頭から消えていった。
自分の経験上、夏は特に霊感が高まる季節なので色々と奇妙なものを見てしまうのだが、小人のような霊を見てしまうことはあまり記憶になかったので、強く印象に残っていた。
(師匠に話してみるか)
友だちの体験談から、だんだんと誰から聞いたのかも分からないようなあいまいな噂話の類へランクが落ちて行っているにも関わらず、ますます盛り上がりを見せる即席怪談話大会を尻目に、僕はオカルトに関して師事している人の顔を思い浮かべていた。



その翌日のことだ。
正午を回ったころに、僕は自転車を駆ってある家を訪ねた。昨日サークルの部室で聞いた怪談話について、こうした出来事に造詣の深い自分の師匠ならどう思うだろうかと、意見を拝聴しに来たのだ。
ボロアパートの部屋の前に立ち、ノックをしたが反応がない。念のためにしばらく叩いていると代わりに隣の部屋のドアが開き、住人が顔を出して「お出かけのようです」と教えてくれた。
礼を言ってもう一度自転車に跨る。今日が土曜日だったことを思い出し、この時間ならあそこだろうとあたりをつけてハンドルを切った。
スピードを上げるとアスファルトで熱された空気が巻きあ上がるように頬にまとわりつくが、じっとしているよりもまだ心地が良い。
やがて目的の公園が見えてきた。公園と言ってもちょっとした球技ができる程度の広さがあり、大勢の子どもたちの掛け声が聞こえてくる。
「腰落とせ、おらぁ」
その声に混じって、子どもではない人の声が一際大きく聞こえてきた。
公園の球技用フェンスの前に自転車が止まっている。近づいてみるとやはり師匠のものだった。
フェンスの向こう側では、小学生と思われる十人以上の子どもたちがグローブを手に、土のグラウンドの上を転がりまわっている。
「セカンドどうしたっ、カバーが遅いぞ」
また大きな声を出しながら、金属バットで強烈なゴロを打っている女性がいる。師匠だ。
次々と放たれる白いボールに子どもたちが飛びついて行く。その瞳には、やる気に燃える鋭い光が……ない。うんざりしたような暗い表情で彼らは自分の身体を叱咤するように動かしている。
怒鳴られるから仕方がない。そんな雰囲気がありありと見とれる。
「何度言ったらわかるんだ。手で取りにいくな。腰落として身体で取るんだよ!」
子どもたちのイヤイヤ感などおかまいなしに容赦なくノックは続く。
師匠はその昔、少年野球で男の子に混じって活躍していたことがあるそうで、毎週土曜日にここで野球あそびをしていた子どもたちのふにゃふにゃした動きを見るにつけ、居ても立ってもいられなくなり、昔取った杵柄で金属バットを手にコーチを買って出たのだ。
もちろん子どもたちは喜んでいない。この変なお姉さん、早く帰ってくれないかな、と内心思っているに違いない。
彼らにはユニフォームもない。本当にただの野球遊びであり、どこかの少年野球チームと練習試合をするあてもないのである。
その彼らに、師匠はバントシフトやヒットエンドランなど、無意味と言っていい練習をさせている。このあいだなど、ライナーをとっさのグラブさばきでみごとに捕球した遊撃手に対して、「落してゲッツー狙いにいけるタイミングだろうが!」などと怒鳴っていた。かわいそうに。
そんな無駄に高いレベルを求めるのであれば、コーチとしてチームの体裁を整え、保護者からお金を集めて、ユニフォームを作り、近隣の少年野球チームに話をつけて練習試合の一つや二つ段取ってあげるのが筋だと思うのだが、彼女はそうしたことには無頓着で、ひとしきり身体を動かすとそれに満足して「少し休憩」ではなく「あとはやっとけ」と帰ってしまうのだ。完全に自己満足である。
子どもたちもある程度の時間我慢していれば、この変なお姉さんは帰ると分かっているので、口答えもせずに嫌々ながらも従っているようだった。
僕はなぜか申し訳ない気持ちでグラウンドの方へ近づいていった。
その時、師匠の自転車のカゴに一冊のノートが入っているのに気がついて足を止める。
ノート?
近づいて手に取ると、それはどこにでもあるキャンパスノートで、表紙には『巨人の研究』と黒のマジックで書いてある。
そんなに本気かよ。
プロ野球チームの戦術だか技術を小学生に叩き込む気か、と呆れてしまった。
「よおし、かなり動きが良くなったぞ。もう帰るから、あとはやっとけよ」
良く通る声で爽やかにそう告げると、師匠はタオルで汗を拭きながらこちらに引き上げてきた。「ぁしたー」という、嫌に空虚な合唱がその背中を追いかける。
振り返りもせずに右手をひらひらと振って応える師匠は、前に僕が立っているのにようやく気付いたようだ。
「どうした。お前もやりたいのか」
「遠慮しておきます」
師匠は僕のそばまでやってくると、ジャージの土ぼこりを払いながら、腹減ったと呟く。
「昼、まだですか」
「ああ。一緒に食うか。家にもらいものの素麺があるぞ」
軽く食べてきてはいたが、せっかくのお誘いなので御相伴にあずかることにする。
「それにしても、ジャイアンツの研究をするのは勝手ですけど、子どもで試すのはやめてくださいよ。そもそも巨人ファンでしたっけ?」
「なに言ってんだ。こちとら子どものころから阪神ファンだけど………… って、ああ、これのことか」
師匠は吹き出しそうになりながら自転車のカゴからノートを取り出した。
「巨人って、ジャイアンツのことじゃないよ」
笑いながら言う。
「じゃあなんですか」
「お前、そのことで来たんじゃないのか」
「は?」
「小さい人を見たって話だろ」
ゾクリとした。
さっきまで笑っていた師匠の目が、一瞬でこちらの目の奥を透視するような鋭さを帯びた。
「どうして分かるんです」
「そこまでの鈍感野郎じゃないと、期待していたから」
師匠は自転車に跨った。
「いつくるか、いつくるかと待ってたんだけどな。ジャイアンに空地へ連れ出されたのび太を、家で待っているドラえもんみたいな心境で」
まあ、家で話そう。腹減った。
そう言って師匠は自転車をこぎはじめた。僕はショックを受けたまま、それでもついて行こうと後を追いかける。
なんだ、この人は。
出会って以来、何十回、何百回目かも分からない言葉を呟きながら。





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