花 大学二回生の春だった。 その日は土曜の朝から友人の家に集まり、学生らしく麻雀を打っていた。 最初は調子の良かった俺も、ノーマークだった男に国士無双の直撃を受けたあたりから雲行きが怪しくなり、半チャンを重ねるたびにズブズブと沈んでいった。 結局ほぼ一人負けの状態で、ギブアップ宣言をした時には夜の十二時を回っていた。 「お疲れ」と、みんな疲れ切った表情でそれぞれの帰路へ散っていく。 俺も自転車に跨って、民家の明かりもまばらな寂しい通りを力なく進んでいった。 季節柄、虫の音もほとんど聞こえない。 その友人宅での麻雀のあとは、いつもこの暗く静かな帰り道が嫌だった。 けっして山奥というわけでもないのに、すれ違う人もいない道で、自分の自転車のホイールが回転する音だけを聞いていると、なんだか薄気味の悪い気分になってくる。 ところどころに漏れている民家の明かり。 その前を通るとき、その明かりの向こうには本当は人間は一人もいず、ただ町を模した箱庭のなかに据えられた、空虚な構造物にすぎないのではないかと、そんな奇妙な想像が脳裏を掠める。 その日も、眠気とそんな薄気味悪さから逃げるように、スピードを上げて自転車のペダルを漕いでいた。 線路沿いの道からカーブして、山裾に近づいていくあたりでのことだった。 ふいに、ずしんと内臓に重い石を入れられたような感覚があった。 目の前、切れかけてまばたきをしている街路灯の下あたりに、人影が見えたのだ。 車道だ。ガードレールの外側に、より沿うように何かが立っている。 異様な気配。思わず前方に目を凝らす。 確かに人の形をしている。 夜とはいえ、月明かりはある。そして街路灯のまたたく淡い明かりも。なのにそれは人影のままだった。 じっと見つめていても、真っ暗で、色のない人影のままだった。 自分が歩道、つまりガードレールの内側を走っていることを確認する。 あれと、近づきたくなかった。しかしこの道を通らないと家には帰れない。 俺は息を止めて、その人影の横を駆け抜けた。 ガードレールの向こうで、真っ黒な人の形をしたものが、こちらを向いている。 前後など分からない。なのにそれがこちらを見ているような気がする。 わずか一メートルの距離。道路側にさらした二の腕の皮膚がゾゾゾと波立つ。 一瞬が、やけに長く感じられた。 そのままペダルを踏む足に力を込め、振り返りもせずに俺は全力でそこを立ち去った。 異様な気配はそれでもしばらく、うなじのあたりにチリチリと続いていた。 その翌日。 俺は師匠の家に行った。オカルト道の師匠だ。こんな話にはめっぽう詳しい。 昨日体験したことを話すと、思いのほか興味を引かれた顔で食いついてきた。 体験した自分には恐ろしくても、話自体はそれほど衝撃的なところも、おどろおどろしいところもなく、浴びるほどそんな体験を見聞きしてきたという師匠ほどになると、この程度の話では「ふうん」と鼻で笑われると思っていたのだ。 その師匠が身を乗り出してやけに真剣に聞いてくれる。逆に気持ちが悪い。 なのに、そのくせ聞き終わるとこう言うのだ。 「それは幽霊じゃないよ」 俺は唖然として、「なぜですか」と言った。 「幽霊ってのが、死人の身体から離れた肉体を持たないなにか、と定義づけるなら、そいつは違う」 肉体? ではあれが肉体をもっていたというのだろうか。 「違う違う」 師匠は右手をひらひらさせる。 「でも、あとから思い出したんですよ。 あの街灯の下のガードレールのあたりに、いつも花が飾ってあったんです。 こう……地面に置いた空き缶とか空き瓶に花を挿してたんです。こういう花ですよ」 俺は散らかった師匠の部屋の窓際に置かれている、小さなプランターを指さした。 黄色い花弁の中に黒い染みがある。パンジーという名前だったか。 「今日、近くに住んでる友だちに聞いたら、あそこで昔、交通事故があったらしいんですよ。 子どもが車に轢かれて、即死したらしいです。 それで、その事故現場のあたりを夜中通ってると、今でもその子どもがそこに立っているのが見えてしまうらしいです」 確かに麻雀をしにその友人の家に行くときは、いつもその手向けられた花が目に入っていた。 お菓子の袋なども添えられていることがあった。 ぞっとする。 それでも成仏できずに、今もその子が彷徨い出てくるのだろう。 何気なく見過ごしてきた日常の風景の中にも、消えることのない人の思いが潜んでいる。 なんだか暗い気持ちになって僕は肩を落とした。 その僕の思いが全く伝わっていないかのように、師匠は「違う違う」と左手をひらひらさせた。 なにが違うのか。気分に水を挿され、少しムッとしながら一応言い分を聞いてみる。 「それって、あそこだろう。交通安全の看板が近くにある……」 ああ、そういえば、間抜けな標語が書かれた看板があった気がする。 師匠は立ち上がり、プランターのパンジーを引き抜いて、台所の転がっていた空き缶に挿してから、俺の前に置いた。 「で、その花ってこんなだろう」 「そうですけど」 「これだよ」 「は?」 「だから、これ、僕が置いてるんだ」 ぽかんとした。 「どこから話せばいいかな…… まあ、めんどくさいんで端的にいうと、僕の仕業だ」 唖然とする僕を尻目に師匠は続ける。 「もともとは僕の師匠の研究だったんだ。 まったく何の謂れもない、その変の道端に花を飾るとどうなるか、っていう。 もちろん交通事故なんて起こってないし、死んだ子どももいない。 花が枯れてもしばらくすると、また新しい花を置きに行くんだ。何度も何度も。 誰が置いてるかばれないように、人気のない夜中を選んで。 そうしていると、ある日置いた覚えのない花が置かれてるんだ。誰か他の人が置いたんだよ」 師匠は嬉々として語る。胸糞の悪くなるような、それでいて聞き逃せない、奇妙な話を。 空き缶の中のパンジーの花びらをつまみながら師匠は続けた。 「ガードレールの下の花に、手を合わせる人も現れた。お菓子を置いていく人もいる。 一ヶ月や、二ヶ月なら、そこで事故なんて起こってないってことは地元の人なら分かってるさ。 でもそれが何年も続いていると、記憶が曖昧になってくる。 あの花はいつから置かれていたっけ? 自分の知らない間に、そんな事故があったのかも知れない。 あそこで事故があった?他の人にそう尋ねる。 何年も経つと、周辺の住民にも人の入れ替わりがある。 引っ越してきて以来、ガードレールの下の花を見るたびに、事故でもあったんだろうかと思っていたその人は、こう答える。 事故が、あったみたいですねえ」 師匠は声色を変えて演じる。 気持ちが悪い。その声が、ではない。人の心を操るようなその不遜さが。 「人々の心の中に、死者が生まれたんだ。 人は花を飾り、手を合わせ、祈る。死者の冥福を。魂の安らぎを。 そうして生まれてしまった死者は、人の言葉から言葉へと感染する。 ガードレールのそばで車に跳ねられた子どもとして。あるいは老婆として、あるいは妊婦として。 元々の形をもたないそれは、様々な姿をしている。 コミュニティを媒介する摸倣子は、情報伝達の過程で変異する。 あるはずのない、怪談話が生まれるまではもうすぐだ」 ただ花を置いただけだ。道端に、ただ花を。 たったそれだけで。 俺は得体の知れない寒気が身体の中を走るのを感じていた。 「十年だ。僕の師匠が街中に花を飾り始めて」 師匠はニヤリと笑った。 街に花を飾ろう、という運動は聞いたことがある。しかしこれは、似て非なるものだ。 まちじゅう? 少し遅れてその意味を認識する。 そう言えば、師匠のアパートには部屋の中だけではなく、玄関の外にもプランターがいくつかあったことを思い出す。 この人にしては妙な趣味だと思っていた。 街中に、そんな花が飾られているのか。 そして、その花の中から湧き出るように、名前のない死者たちが…… 「幽霊ってのが、死人の身体から離れた肉体を持たないなにか、と定義づけるなら、 昨日見たそれは幽霊ではない。 死人の身体から離れたものではなく、はじめから死人としてしか存在していないんだから。 そしてどれほど多くの人が冥福を祈っても、成仏を願っても、叶うことはない。 本来の意味で言う、死者ですらないそれは、 人々が冥福を祈ることで、成仏を願うことで、そして畏れることでこそ、存在し続ける」 なんてことをするんだ。と思った。 語りながら恍惚とした表情を浮かべるこの人は、普通の人とは違う倫理観を持っているということを、今更ながら思い知らされた。 人から人へと感染し続けるウイルス。 目に見えないその存在のことを考えた時、脳裏に浮かんだのはそれだった。感染が人の心に幻を生むのだ。 そして自分の中にもそれは入り込んでいる。 だが。 「おかしいですよ」 ようやくその言葉を搾り出した。 「なにが」 「その、ガードレールのところに花が飾られていたのを思い出したのは、通り過ぎた後です。 それにそこで交通事故があって、子どもの霊が彷徨っているなんて話を友だちから聞いたのは、 今日になってからです」 「だから?」 「だから、誰からもそんな話を聞いていないし、なにも知らなかったのに、 存在しないものをどうして見られるんです? 『あれ』はなんだったんですか」 自分で言っていてゾクリとした。 俺は『感染』していない。誰からもそこで起きた、ありもしない事故の噂を聞いていない。 自転車で通るときに、花があるなあ、とは思ったことがあったが、そこで誰か死んだのではないかという思いを抱いたことはなかった。 連想すれば自然にたどり着くかも知れないが、そこまでの興味を持たなかった。 ただ視界に入った、というだけの景色の一部に過ぎない。 そしてそんな花のことも思い出さず、ただ自転車をこいでいただけの俺の前に、 どうしてそんな得体の知れないものが現れる道理があるのか。 人間心理を利用して人為的に作り出されたはずの幻としての「死者」が、まるで………… まるで、人の心の外へと滲み出して、ひとりでに歩き出したかのようではないか。 俺が見つめているその先で、師匠が空き缶に挿したパンジーの茎に指先を添えて、ゆっくりと口を開いた。 「だから、研究を続ける価値があるんじゃないか」 そうして静かに花の首を手折った。 [*←][→#] |