列 師匠から聞いた話だ。 大学に入ったばかりの頃、学科のコースの先輩たち主催による、新人歓迎会があった。 駅の近くの繁華街で、一次会はしゃぶしゃぶ食べ放題の店。 二次会は、コースのOBがやっているドイツパブで、僕は黒ビールをしたたかに飲まされた。 三次会はどこに行ったか覚えていない。 ふらふらになり、まだ次に行こうと盛り上がっている仲間たちから、なんとか逃げおおせた頃には、 夜の十二時近くになっていただろうか。 同じようにふらふらと歩いているスーツ姿の男性と、それにしなだれかかるような女性、 路上で肩を組んで歌っている、大学生と思しき一団、 電信柱の根元にしゃがみ込む若者と、背中をさする数人の仲間…… そんなごくありふれた繁華街の光景を横目に、僕は駅の方角に向って、 液体のように形状の定まらない足を、叱咤しながら歩いていた。 前掛け姿の店員が看板を片付けている、中華料理屋の前にさしかかった時だった。 自分が進んでいる道と垂直に交差する道が、視界の前方にあり、 その十字路の上を、奇妙なものが歩いているのが見えた。 それは街路灯に照らされているわけでもないのに、ほんのりと光を纏っている。 人間のようにも見えるが、妙にのっぺりしていて、顔があるあたりは眼鼻の区別が定かではない。 そういうものが何体も、前方の道を右から左へ通り抜けて行く。 この世のものではないということは、すぐに直感した。 元々他人より霊感が強く、幽霊の類にはよく遭遇するのであるが、 こうして街なかで、群をなしているのを見るのは珍しかった。 ゆっくりと十字路に近づいていくと、その歩いてる連中が行列をなして、同じ方向へ進んでいるのが分かった。 その数は十や二十ではきかない。 無数の人影が、ぼんやりと繁華街の夜陰に浮かびながら、そろそろと歩いている。 寒気のする光景だった。 「霊道」という言葉が思い浮かんだ。 蟻が仲間のフェロモンをたどって、同じ道を列をなして通るように、なにかに導かれて彷徨う霊たちが通る道だ。 こんな繁華街の真っ只中に…… 恐る恐る十字路に出て、行列の向かう方向を窺う。 どこまでもずっと続いているような気がしたが、道の向こうに、列の先頭らしきものが見えた。 その瞬間だった。列の中から、こちらに手を伸ばしてくるやつがいた。 間一髪でその手をかい潜り、距離を取る。 思いもかけない攻撃に、焦って足を挫きかけた。心臓がバクバクしている。 異様に長い白い手が、波打つように揺れながら列の中に戻っていく。 周囲の人々は、誰もその光景を見ている様子がない。 行列を横切ろうとする人はおらず、十字路にさしかかった人も、何気ない歩調で左右に折れていく。 元々そちらに向かう人なのか、それとも、無意識に霊道を横切らないように迂回しているのか…… そんな中、彼らの存在が「見えて」いる僕に反応したのだろう。 それでも、列から離れて、こちらを追いすがってくる様子はない。 列に添って進むことは、抗いがたい何かを秘めているのか。 体勢を立て直し、道の中心を通る彼らからなるべく離れたままで、その進む方向へ足早に歩を進める。 ぼんやりと光る彼らに横から目をやると、 その着ている服がうっすらと見えたり、無表情な横顔や砕けて開いたままの顎から垂れる血糊、 左の肩が落ち込んで、鎖骨が覗いている姿などが垣間見えた。 はっきり姿が見えるものや、闇に消え入りそうなものもいて、 そんな「見え方」はバラバラで一貫性はなかったが、どれも一様に歩を乱さず歩いて行く。 僕は小走りに駆け、ふたブロックほど先でその先頭に追い付いた。 その時に見た光景をなんと表現すればいいのか。 その光景は、僕の生涯の中で忘れることのできない輝きを持って、様々な瞬間に幾度となく蘇ることになるのだ。 明かりの落ちた薬局の看板の前で思わず立ち止まり、その横顔に見とれていた。 霊道の一番先端を行くのは女性だった。 白いジャージの上下を着て、ポケットに両手を突っ込み、少し猫背で、睨み上げるように前を見据えて歩いている。 その相貌は怒気を孕んだように白く、眼は…… 眼は、そこに映るすべてのものを憎悪し、唾棄し、苛み、 そしてそれでいて全く興味を喪失しているような、そんな色をしていた。 苛立ちを撒き散らし、自分を不機嫌にさせたすべてを呪いながら彼女は歩いている。 その後に、ぼんやりと光る死者の行列が音もなく続く。 僕は息を止めて見つめている。 葬列にも似た荘厳な行進は、夜半を過ぎて狂騒の冷めかけた繁華街の夜の底を行く。 この世のものならぬものたちを従え、そして、そのことに気づいているのかどうかも分からない表情で、 振り返りもせず、ただ前方を睨み据えて彼女は歩き続ける。 いったい彼女の何が、まるで誘蛾灯のように彼らを惹きつけるのだろう。 僕はその幻想的な光景に一歩足を踏み出し、通り過ぎようとする彼女に声をかけようとした。 「あの……」 挙げかけた右手が虚空を掻く。彼女は足を止めようともせず、そしてこちらを一瞥もせずに、ただ短く口を開いた。 「後ろに並べ」 そして次の瞬間、彼女は今自分が言葉を発したことさえ忘れたように、表情を変えず歩き去ろうとする。 すべてがスローモーションのように映る。 今自分に話しかけたものが、この世のものなのか、そうでないのか、まったく関係がない。そんな声だった。 そうした区別もなく、ただ、どちらにも等しく価値がないと、他愛もなく信じているような。 僕はその声に従いそうになる。 深層意識のどこかで、彼女につき従う葬列に混ざり、意識を喪失し、個性を埋没させて、 ただひたすら盲目的について行きたいと、そう思っている。 だが現実の僕は、目の前を通り過ぎていく寒々とした列を、呆けたような顔で見送っている。 その時僕は、彼女の横顔に涙が流れていくのを見た。 いや、それは涙ではなかった。左目の下、頬の上あたりに、仄かに光る粒子が溢れている。 それが風に流れる水滴のように、ぽろぽろとこぼれては、地面に落ちる前に消えていく。 その粒子の跡を追って、無数の死者たちが光の帯となって進む。静かな川のようだった。 僕はそれに目を奪われる。 その情景に、自分の感情を表現するすべを持たない自分が、ひどくもどかしかった。 気が付くと行列は去り、やがて再び繁華街のざわめきが戻ってきた。 さっきまでの異様な空気は、もうどこにもない。 何ごともなかったかのように、酒気を帯びた人々が道を横断していく。 遠くで客の呼び込みをしている、嗄れた声が聞こえる。 終わりかけた夜の残滓が、アスファルトの表面をゆっくりと流れている。 我に返った僕は、棒立ちのまま左目の下に指をやる。 もう一度、どこかであの人に会うだろう。 そんな予感がした。 [*←][→#] |