もういいかい 師匠から聞いた話だ。 大学二回生の春だった。 休日の昼間に僕と加奈子さんは、とある集会所に来ていた。平屋のさほど大きくない建物だ。 バイト先の調査事務所の所長から、話を聞きにいくように指示されただけで、 なんの準備もなしに、渡された地図を頼りにやって来たのだった。 迎えてくれたのは五十年配の女性。 玄関から入ってすぐの襖を開けると、十畳ほどの日本間があり、そこへ通された。 地区の寄り合いに利用される集会所で、鎌田さんというその女性は、そこの鍵を管理しているらしい。 その鎌田さんのご主人が地区長をしていて、また彼女自身、地区の婦人会の会長とのことだった。 その土地の、名主的な家柄ということだろう。 鎌田さんがほっそりした顔に、困惑げな表情を浮かべて切り出したのは、その集会所にまつわるお化けの話だった。 「気持ちの悪い声、ですか」 「ええ」 加奈子さんの言葉に頷きながら、彼女は気味悪そうに視線を部屋の中に彷徨わせる。 思わずその視線を追いかけるが、なにも変わったものは見つからなかった。 話を聞くに、かなり以前からこの集会所の中で、誰のものとも知れない声が、 どこからともなく聞こえてくることがあったそうだ。 昼のさなかであればこそ、夜の集会所ともなれば、人ごこちのしない不気味さで、 ましてたった一人居残って片付け物をしている時に、 誰もいないはずの部屋の中から声がするともなれば、その恐ろしさいかばかりか、ということらしい。 昔から密かにささやかれていた噂話だったのが、 このところのオカルトブームのせいか、地区の子どもたちの間でその噂が一人歩きしはじめ、 「お化けの声に話しかけられたら、返事をしないと殺される」だの、 逆に「返事をしてしまうと、床下に引きずり込まれる」だのといった恐ろしげな怪談になってしまい、 子ども同士で物陰に隠れて、脅かしあいをするのが流行り、 気の弱い子が気絶して、救急車を呼ぶような騒ぎも起こってしまったとのことだった。 「お寺や神職に、お払いをしてもらわなかったんですか」 加奈子さんがそう問うと、鎌田さんは答えにくそうに、「あ、ええ」と曖昧な返事をした。 その様子から僕は、『お払いをしてもらっても、怪異が終わらなかった』という裏を読み取った。 たぶん加奈子さんも、そう思っただろう。 そうでもなければ、こんな話が小さな興信所に持ち込まれるわけはない。 たとえ『お化け』がらみの依頼をいくつも解決し、業界内では多少名の知れた看板娘がいるにしてもだ。 「その噂はいつごろからあるんです」 「さあ……二十年、いえ、二十五年くらい前だったか、この集会所は一度建て替えをしてまして、 その前からあったかどうか」 そう言って鎌田さんは首を捻った。 ということは、はっきり分からないくらい昔からある噂ということか。 「あなた自身は、その声を聞いたことがありますか」 ハッと表情を硬くして、鎌田さんは曖昧に頷く。 「声だけなんですか。姿を見たという人は?」 「私は……見たことはございませんけれど」 言いよどむ。 見たという噂は歩いている。そう受け取った。 しかし、『気持ちの悪い声が聞こえる』という噂がメインであることは、間違いないようなので、 『なにかを見た』という噂の方は、信憑性がさらに低い。 「少し、見させてください」 加奈子さんは立ち上がり、周囲を軽く見回しただけで襖に手を掛けた。 日本間から出ると、真剣な表情で集会所の中を一通り見て回る。 もう一回り小さい部屋に、トイレ、台所。祭りで使うような提灯や、小道具でいっぱいの物置。 二階もなく、あっという間にもう見るべき場所はなくなってしまった。 ついて回っているあいだ、僕も何か違和感がないかとアンテナを張っていたが、特に感じるものはなかった。 しかし加奈子さんは、僕より遥かにそういう違和感を感じ取る能力が高い。畏敬を込めて師匠と呼ぶほどにだ。 その師匠が、難しい顔をして廊下の天井を睨んでいる。 一緒にそちらを見上げるが、木目が波打っているだけで何も変なところはない。 どうしました、と言おうとして、手で制された。 「何か聞こえる気がするんだけど、なんとも言えないな」 思わず耳を澄ます。しかし何も聞こえない。 師匠が神経を集中し始めたのが分かる。表情が無くなり、身動きをしなくなる。 僕は固唾を飲んでそれを見守る。鎌田さんが後ろで、気味悪そうに佇んでいる。 師匠の気配が揺らぐ。ゆらゆらと、まるでそこから消えて行きそうな錯覚。 僕は怖くなって、彼女を現実に戻すために肩を叩こうかと逡巡した。 「わかんない」 ふいに彼女が戻ってくる。その声に僕は少しほっとする。 結局、怪異に遭遇したという体験談が多い夜まで、様子を見ることになった。 鎌田さんは半信半疑というか、困ったような顔のまま僕らに鍵を預け、 よろしくお願いしますと、言いおいて立ち去った。 昼の三時過ぎだった。 今日はこの集会所を使うような予定も特にないらしく、僕と師匠はひっそりとした室内に腰を据えた。 探索もしたばかりだったのでとりあえずすることもなく、 玄関からすぐの日本間で古い型のテレビをつけて、さほど面白くもない旅番組を見ていた。 「気持ちの悪い声って、なんなんでしょうね」 ぼそりと口にした僕に、座布団を数枚並べて、その上に寝転がっていた師匠が顔を上げる。 「お化けだといいな」 お化けだといいですね。 賛同しつつも、自分たち以外のなんの気配も感じないことに疑惑を抱いていた。 異常に霊感の強い師匠でさえ、「なんとも言えない」と言っているのだ。 もし何らかの霊的存在が巣食っていたとしても、微弱で矮小なやつに違いない。 噂にあるように、「話しかけられたら返事をしないと殺される」だとか、 「返事をしてしまうと床下に引きずり込まれる」といった素晴らしい体験は、間違いなくできないだろう。 溜め息をついて僕はトイレに立った。 廊下に出る時、ギィ、と床が鳴いて、無駄に広い集会所の壁や天井に反響した。 防音構造になっているのか、外の音があまり中まで響いてこない。 なるほど、これで中の音がやけに大きく聞こえて、ちょっとした物音でも気になってしまうのか。 トイレから戻り、またテレビの前に寝そべる。 時間だけが過ぎていく。 チッチッチッチ……という壁にかかった時計の音が、テレビが静かになる瞬間にだけやけに大きく響く。 鎌田さんから食べていいと言われていた台所の柏餅を、日本間に持ち込んで、自分で淹れたお茶と一緒に口にする。 「うまいな」 うまいですね。 やがて夕暮れがやってきて、小さな窓からも光が失われていく。 知らぬ間にうとうとしていた。 師匠がなにか言った気がした。 畳の跡が頬に張り付き、剥がす時にヒリリとする。半覚醒の頭で、言葉を認識しようとする。 ああ、そうか。 もういいかい。 そう言われたのだ。 身体を起こすと、周囲を見渡す。師匠がテレビの前で、うつ伏せになったまま死んだように寝ている。 あれ?師匠じゃなかったのか。 じゃあ、一体誰が。 そう思った瞬間、もう一度聞こえた。今度ははっきりと。 『もういいかい』 立ち上がって身構える。どこから聞こえた? 分からなかった。ただ、その言葉の余韻が室内から廊下に向けて動き、襖を通り抜けていったのを感じた。 この日本間には僕と師匠しかいない。はずだ。 これか。噂は。 緊張して襖に手をかける。そろそろとずらして、首だけで覗き込む。 廊下はすでに暗く、ひっそりと静まり返っている。 闇の戸張りの向こうに、人の気配はまったく感じない。 だからこそ、異様な空気がひしひしと伝わってくる。 僕はそっと襖を閉め、室内を振り返る。 師匠はまだ寝ている。膝をついて揺り起こす。 もぞもぞと動いていたが、めんどくさそうな声で、「お化け以外見たくない」と呟いたのが聞こえた。 「見えないから問題なんですよ」 僕は白いストレッチパンツのお尻の部分を、遠慮なく叩いた。 「ッてぇな!」 師匠が乱暴な口調で起き上がったその瞬間だった。 『もういいかい』 どこからともなく、そんな問いかけが降ってきた。思わず二人とも動きが硬直する。 視線だけを走らせて室内を観察するが、なにも目に見える異常はない。 なんだ?これからなにが起こる? ドッドッドッ、という心臓の音を聞きながら考える。 噂ではなんと言っていた? 返事だ。返事はするのが正解か、しないのが正解か。もういいかい、に対してする返事は…… 「師匠」 横目で見ると、「黙ってろ」という一言。 緊張しながらもじっとしていると、また得体の知れないその声の余韻が、空中に糸を引いたようにすうっ、と動き、 今度は、テレビのある壁の向こうに消えていった。 壁の向こうは外のはずだ。 はぁっと息を吐き、初めて自分が息を止めていたことに気づく。 師匠は間を置かずに走り出した。 廊下に出て、電気を点けて回る。トイレや台所、物置ともう一つの小部屋。 すべて一通り探索したが、自分たち以外の第三者はどこにも潜んではいなかった。 玄関に戻ってきてドアを見ると、自分たちで施錠した時のままだった。 腕時計を見ると夜の八時過ぎ。ほんの少しうとうとしたつもりだったのに、こんなに時間が経っている。 「さっきのはなんでしょう」 恐る恐る訊く僕に、師匠はかぶりを振った。 「言葉は発していたが、人間的なものを感じなかった。普通の霊とは違う気がする。かと言って物霊とも……」 僕は『もういいかい』というさっきの言葉の、声色を思い出そうとする。 男か、女か。そして若いのか、年寄りなのか。 しかし駄目だった。 空気を振動させて伝わった音ならば、記憶の中に確実に残っているはずだが、 あの声は直接脳に響いたとでも言うのか、まったく勝手が違った。 まるで幻聴を思い出そうとするように、捕らえどころのない感じ。 余計な情報が刻一刻と揮発し、『もういいかい』という言葉の意味だけが純粋に脳裏に刻印されていく。 最後に、壁の向こうに余韻が消えていったような気がしたことを思い出し、玄関の扉に目を向ける。 師匠も頷いて玄関の段差を降り、靴に足を入れた。 扉を開けて外に出ると、明るさに慣れた目に、夜の空気がどろどろと黒い幕となってまとわりついてきた。 古い家の並ぶ閑静な住宅街の一角にある、集会所の敷地は広く、玄関から表の道路まで少し距離があった。 その間の砂利道を歩いてくる、黒い人影に気づいた。 「どうかされましたか」 怪訝そうな表情が、敷地の隅の街灯の明かりに照らし出される。鎌田さんが両手にお盆を抱えて立っていた。 ホッとして、「ええ、それが」と言いかけるのを師匠が制した。 「ちょっと訊きたいことがありますが、いいですか」 「え、ええ、はい」 鎌田さんは玄関の扉を開けてお盆を置いた。 ラップに包まれたお握りが六つと、惣菜らしいタッパーがのっていた。夜食を持ってきてくれたようだ。 「姿を見た、という人はいないんですね」 「え、ああ、噂ですか。そうですね、あんまり。声がすると。みんな」 「あなたは聞いたことが?」 「……気のせいかも知れませんが」 「もういいかい」 師匠の言葉に、鎌田さんは肩をビクリとさせる。 やはり。 「噂では、返事をするとどうだとか、しないとどうだとか言っていましたが、実際に」 そこまで言った時、また聞こえた。 『もういいかい』という声が、どこからともなく、そしてどこへともなく。 だが、今度はその声と同時に、なにか別の気配が高まるのを感じた。 それはほんのわずかな違和感だったが、僕の首筋をひやりと撫でて、師匠を一瞬で反応させた。 玄関から飛び出して走り出す。 集会所の壁伝いに左側へ回り込む。 自転車が何台か置き捨てられている場所を膨らみながらかわし、玄関正面から見て敷地の右奥へと向かう。 敷地の端の煉瓦塀のあたりは砂利だったが、集会所の側の地面はコンクリで舗装されている。 その壁際に、プロパンガスのボンベが二基立てられている。 小さな窓に見覚えがあった。頭の中で集会所の間取りを思い浮かべる。ちょうど台所の裏手だ。 師匠はその壁際の地面に、両手をついて這いつくばる。這っている蟻を見つけようとするような格好だった。 しかしその目の焦点は、遥か地面の下に向かっている。 「なにか、埋まっているな、ここに」 コンクリ舗装の地面を食い入るように見つめたまま、師匠は呟いた。 僕は少し手前で立ち止まり、固唾を飲んでその様子を眺める。 ようやく鎌田さんが追いついてきて、怯えたように「どうしましたか」と問いかけた。 師匠はその声が聞こえなかったかのように、ひたすら地面を舐めるように見ていたが、 やがて身体を起こし、「なにか、埋まっていますね、ここに」と言った。 僕はこちらの方角から、なにか気配のようなものを感じ取っただけだったが、師匠は確実に場所まで特定したらしい。 「なにかと言いますと?」 「それが知りたいんですよ。この下はなんです?もしかして、地下室かなにかがあるんじゃないですか」 鎌田さんは首を捻っていたが、そんなものはありませんと断言した。 確かにそれもそうだろう。 平屋のなんの変哲もない集会所に、地下室など似つかわしくないし、 中を探索した結果、それらしき地下への出入り口はなかった。 小さな貯蔵庫の類もないということを付け加えられ、師匠は考え込む。 「じゃあ、浄化槽は?」 一瞬ハッとしたが、さっきトイレに行った時、普通に水洗式だったことを思い出す。 いやしかし、水洗式でも、下水ではなく浄化槽で、汚物を溜めるということもあるのだろうか。 「浄化槽は……」 鎌田さんが答えようとした時に、表のほうから懐中電灯の光が、ゆらゆらと近づいてくるのが見えた。 「なんの騒ぎです」 近所の人だろうか。五十年配の痩せた男性が、緊張したような面持ちでやってきた。 後ろには、その奥さんらしい女性。 「ええと……」 鎌田さんがどう説明したものか迷っていると、 かまわず師匠はその痩せた男に向かって、「この下に浄化槽はありますか?」と訊いた。 男は怪訝な顔をしながらも、「ないよ」と即答した。「今は下水が通ったから」と続ける。 「だったら、下水が通る前は?」 「通る前?」 少し思い出すような表情を浮かべた後、男は表の方を指差した。 「浄化槽はあったけど、玄関の横だな」 そう言えば、トイレは玄関から入ってすぐ左手にあった。浄化槽はその表側に埋まっていたのだろう。 師匠は考え込む。ぶつぶつとなにか呟いている。 いつの間にか、男の奥さんらしい女性が消えている。 鎌田さんに向かってなにかジェスチャーをしていたので予感はあったが、しばらくすると数人の足音が聞こえてきた。 「この人が霊能者?」 そんな無遠慮な声が掛かった。小太りのおばさんが、興味津々という感じに近寄ってくる。 どうやら、婦人会長の鎌田さんが、独断でこっそり調査事務所に依頼したというわけでもないようだ。 師匠は露骨に嫌な顔をして、それでも増えた地元の人々に向かって再び問いかけた。 「この集会所の建て替えは、いつの話ですか?」 鎌田さんにも訊いた質問だ。 何人かが顔を見合わせ、 今年大学卒業のナントカ君が生まれた頃だという情報から、「二十二年前」という結論が出た。 「その建て替えの前から、気持ちの悪い声に関する噂はありましたか」 ざわざわする。 気味悪そうにその中の一人が、「あったと思う」と言った。 建て替えの前からあった? では、今の集会所の構造にこだわってはいけないということか。 「では建て替え前に、浄化槽はどこにありましたか」という師匠の問い掛けには、すぐに返答があった。 「トイレの位置は変わってないから、同じ玄関の横」 「だったら、そのさらに前でもいいですから、 とにかく、この地下になにか埋まるような心当たりはありませんか」 ざわざわと相談に入る。 いつの間にかまた人が増えてきている。 子どもの姿が表の方に見えたが、すぐに母親らしい女性に引っ張って行かれた。 なんだか大ごとになってきたな。 僕は師匠の後ろに控えたまま、困ったような興奮してきたような、複雑な気持ちで事態を見守っていた。 何度かのやりとりの結果、数十年前にこの集会所が出来る前には、この敷地は、 近所の工務店の、資材置き場に使われていたということが分かった。 その頃、工務店を手伝っていたという初老の男性がたまたまその中にいて、 「地下になにか埋めるようなことはなかったと思う」と言った。 実直そうな物言いではっきりそう告げられると、なんだかもう手詰まりな感じがしてしまったが、 次の師匠の問い掛けで空気が一変した。 「その資材置き場の頃に、気持ちの悪い声の噂はありませんでしたか」 初老の男性は、目を剥いて驚きの表情を浮かべた。そして今、重要な事実に気づいたように絶句した。 「……あった」 ええっ?と周囲からも驚きの声が上がる。 「いや、言われて思い出したんだが、確かにあった。そうだ。ヨシミツさんも聞いたと言って怖がってた」 本人も、今の噂と若き日の体験談が結びつくことに、はじめて思い至ったようで、頬が紅潮していた。 「どんな声を聞いたんです」と、師匠が畳み掛ける。 初老の男性は、「いや、自分は聞いたわけじゃないが」ともぐもぐ言ったあと、 「夜、子どもが遊んでいるような声がする」という怪談じみた話が、従業員たちの間に広がっていたことを話した。 なんだこれは。集会所の建て替えどころの話じゃない。いったいどこまで遡るんだ? 話の行く末にドキドキしていると、師匠がさらに畳み掛ける。 「資材置き場の前は、ここにはなにが?」 この問いには、なかなか即答できる人が現れなかった。 やがておずおずと六十歳くらいの女性が手を挙げて、「松原さんの地所だったはずです」と言った。 その言葉に、「そう言えば」という声があがる。 だが、直接当時を知る人は誰もいなかった。かなり古い話なのだろう。 「こりゃあ、うちの年寄りを連れてこにゃあ」と言って妙に嬉しそうにこの場を離れる人がいた。 師匠はもう一度地面に這いつくばり、コンクリの地面をコンコンと叩いたり撫でたりしながら、 なにかを感じ取ろうとするように、目を閉じたり開いたりを繰り返していた。 やがて八十歳は超えていると思われる女性が、息子に連れられてやってきた。 夜の九時を回ろうかという時間に、急に外へ連れ出されたにも関わらず、 泰然自若として、足取りも落ち着き払っていた。 師匠は身体を起こし、そのおばあさんに向かって訊いた。 「ここには、松原さんという方の家があったんですか」 「ええ、ええ、ございました」 「戦前ですか」 「ええ、日中戦争の前に家を引き払いまして、一家揃って隣町へ引っ越されました」 「では、まだ松原さんがここにおられた頃に、家を訪ねられたことは?」 おばあさんの丁寧な口調に、自然と師匠の口調も改まっている。 「ございました。私と一つ違いの、やよいさんというお姉さんがおりまして、よく一緒に遊んでおりましたので」 「その頃、今のこのあたりは、松原家でいうとなにがあった場所でしょうか」 この問いには答えられず、小首を傾げた。 「地下室、もしくは防空壕のようなものは?」 続いての問いにも記憶が定かでないらしく、かぶりを振るだけだった。 「では……」 師匠が一瞬、舌なめずりをしたような気がした。 「このあたりに浄化槽、いや、便槽はありませんでしたか?」 おばあさんは、あ、という顔をした。 「当時はもちろんボットン便所でしたが、確か、玄関からこちらに向かったところに、あったような気がします」 「ここが大事なところなんですが、どうでしょう。その家で、誰かいなくなった人はいませんか?」 いなくなった? 最初は、「亡くなった人はいませんか?」と訊いたのだと思った。 しかし師匠は、確かに「いなくなった人はいませんか?」と訊いたのだった。 行方不明になった人ということか。 おばあさんは、記憶を辿るように伏目がちに小さく頷いていたが、 やがてほっそりした声で、「ちえさん」と呟いた。 「やよいさんには、二つか三つ年下の妹さんがおりました。 今はなんと申すのでしょうか。その……知恵遅れの子でした。 いつもやよいさんの後ろをついてまわって、おねえちゃんおねえちゃんと、 傍から見ても、それはそれは懐いておりました。 やよいさんも知恵遅れの妹を心配して、あれこれと世話をやいていたのを覚えております」 「いなくなったのは?」 「さあ、それが……」 おばあさんは困ったような顔をして、懸命に記憶を呼び覚まそうとしていたが、 どうやらはっきりと分からないらしかった。 分かったことと言えば、その松原ちえという女の子が、恐らく十歳を過ぎた頃、 ある日急に姿が見えなくなった、ということだった。 「どこかにもらわれて行ったか、どうかしたのだと思うのですが」 子ども心にも、大した事件ではなかったということか。 それとも、姉のやよいさんと仲の良かった娘からすれば、その姉にべったりの妹はむしろお邪魔虫であり、 ある日急にいなくなっても、心配するようなことはなかったのだろうか。 「松原ちえ」 師匠はゆっくりと呟いて、もう一度地面に這いつくばった。 コンクリに額をぴったりとつけて、目を閉じる。 「ちえ」 もう一度そう呟く。その瞬間、僕にも分かった。 さっき玄関で、『もういいかい』と聞こえた時に、こちらの方角から感じた気配のようなものが、 足元からじわじわと湧き上がってくるのを。 足先が重くなっていく。ずぶずぶと、コンクリの中に靴がめり込んで行くような錯覚を覚える。 「チャンネルが合った」 ぼそりと師匠がそう言う。そして、「おまえは?」と訊く。僕はかぶりを振る。 師匠が言うのは、僕が今感じている程度の感覚ではないのだろうから。 這ったまま師匠の左手が差し出される。僕はそれを躊躇いがちに握る。 その瞬間、自分の視界に被るように、別の視界が開けた。 ノイズのようなものが走り、不鮮明だが、笑っている女の子が見えた。 十代前半だろうか。着物を着ている。 その子が木の幹に向かって顔を伏せた。 なにか言っている。 数だ。数をかぞえている。 視界が動いた。木と女の子に背を向けて、走り出す。 途中で茂みを掻き分けようとしていたが、諦めてまた走る。 呼ぶ声。返事をする。家が映る。古い木造家屋。その縁側を回り込む。隣の家の垣根。そのそばに井戸。 小さな離れのような建物が見え、木戸が風で揺れている。 また呼ぶ声。返事をする。視界がしゃがむ。 木戸の傍に、頑丈そうな板が地面に埋まっている。それを苦労しながら取り外す。中を覗き込む。暗い。 視界が振り返る。家と垣根の間、その向こうにはまだ人影は見えない。 地面に開いた穴に視界は滑り落ちていく。 臭気。 腰まで汚泥のようなものに浸かる。暗い。上を見ると、丸い穴から空が覗いている。 呼ぶ声。今度は小さな声で返事。見つからないように。 時間が過ぎる。 探す声。 やがて遠ざかる。 さらに時間が過ぎる。なんだか楽しい気分。 空から声。なんだ、危ないな。開いているじゃないか。 丸い穴から見下ろす男の顔。驚く。眉間に皺。 視界は半月になる。笑いかけているのだ。 ますます険しくなる男の顔。震える頬。短い時間の間に、複雑な変化をして、そして穴から離れる。 次に丸い空の穴から男が見えた時、その手には大きな石が握られていた。 打ち下ろされる手。 衝撃。赤く染まる視界。暗転…… ハッと我に返った。 師匠は左手を引きながら、見えたか、と訊いてくる。こんなことができるのは、最近知ったことだった。 僕よりも師匠の方が遥かに霊感が強く、師匠に見えて僕には見えないということが多々あったのだが、 そんな時に師匠の身体のどこかに触れていると、 どういう効果なのか、ほぼ同じレベルで見えてしまうことがあったのだ。 交霊術などで、参加者同士が手を繋ぐのと同じことなのだろうか。 周囲にざわざわした空気が戻ってくる。僕らを奇異の目で見つめる人々に、師匠は向き直った。 「この下に、松原ちえさんが埋まっています」 剣呑な言葉に驚きの声が上がれば、「やっぱり」というような声も上がった。 そして、半分以上は疑わしげな声。 姉とかくれんぼをして遊んでいる最中に、便槽に隠れたちえさんと、偶然それを見つけてしまった父親。 そしてどういう心理が働いたのか、衝動的に娘を石で打って殺してしまう。 それからは恐らくだが、便槽をコンクリかなにかでそのまま埋め立て、 ちえさんはいなくなってしまったことになった。 訥々と語った師匠に、頷く人もいれば、胡散臭そうな顔を隠さない人もいる。 しかし、当時の松原ちえを知るおばあちゃんは、涙を浮かべて言葉を発せない状態になっていた。 「じゃあ、集会所で聞こえた気持ちの悪い声は、そのちえさんが?」 誰かが言った言葉に師匠はかぶりを振った。 「私たちが聞いたのは、もういいかい、という言葉でした。ちえさんは隠れる側でした。 だから、ちえさんなら『まあだだよ』、もしくは『もういいよ』と返すはずです」 そうだ。もういいかい、は探す側の言葉。探しているのは誰だ? 「やよいさんが……」 おばあさんがようやくそれだけを言った。ハンカチで涙を止めようと、目元を赤くしている。 松原やよいが、ある日、かくれんぼの最中に急にいなくなった妹を探して、今も彷徨っているというのか。 その魂だか思念だかで。 胡散臭げだった人々も、気味の悪い怪談から人情話になりそうなせいか、納得したような雰囲気になってきた。 確かに、現にそんな気持ちの悪い声の噂が広がっている以上、これは落とし処としては取っ付き易いのだろう。 しかし僕は、最初に師匠が言っていた、 「言葉は発していたが、人間的なものを感じなかった」という言葉が引っ掛かっていた。 そこまで言うのであれば、単純な霊などではないはずだ。 俄然、井戸端会議になってしまった場所で、 それぞれの雑談の波を越えて、師匠はまだ涙を拭いているおばあさんに話しかけた。 「すみません。あと一つだけ。隣町へ引っ越した後、やよいさんはどうされました」 「……結婚されて、どこかへ行かれていたはずですが、 二十年くらい前に旦那様と死に別れて、隣町へ戻ってらっしゃいました。 その後は、私ともまた往来がございまして、親しくしておりましたが、 確かあれは五、六年前だったかと思いますが、胸を悪くして、入院先の病院で亡くなりました」 「五、六年前」 師匠はそう呟くと、違うというように首を振った。 「オッカムの剃刀だ」と、僕に耳打ちする。 「いいか。声が聞こえるという噂は、やよいさんの存命中からあった。 では生霊か? 生霊になってまで、昔いなくなった妹を探していたというのであれば美談だが、本人は隣町に住んでいるんだ。 生身で来ればいいんだから、わざわざ生霊になる必要もない。 では、昔妹がいなくなったことを、普段は忘れているかほとんど認識していないとして、 夜眠っている時にだけそれを思い出し、魂が肉体から離れて、隣町から探しに来ているのか。 そして、五、六年前にやよいさんが死んだ後も、 今度は死霊となって、以前と変わらない現れ方で妹を探し続けてる?」 師匠の囁きを聞いていると、なんだかややこしくなってきた。 「生霊から死霊へ、そのまま引き継がれる怪異なんて、聞いたことがない。 それ以外にも、めんどくさい前提が多すぎる。 オッカムの剃刀というのは、哲学だか論理学だかの言葉でな、 ある現象を同じ程度にうまく説明する仮説があるなら、より単純な方がより良い仮説である、っていう金言だ。 私なら、こう仮説するね。『もういいかい』と言って探しに来ているのは、松原やよいではない」 それはただの反論で、仮説ではないでしょう。 そう返そうと思ったが、ぞくりとする悪寒に口をつぐんだ。 では一体、なにが松原ちえを探して、集会所を彷徨っているというのか。 僕らを無視して、ざわざわと思い思いの会話をしている人々の中で、 師匠はゆっくりと、考えをまとめようとするように呟く。 「子どもなんだ。かくれんぼをしていた子ども。 探しにくるはずの鬼。なかなか見つけてくれない。わたしはここにいるのに。ここに。この地面に下に。 そうか。遊び相手だ。遊び相手がいない子どもはどうする?孤独の中で架空の遊び相手を作る。 イマジナリー・コンパニオンだ」 師匠の独り言を聞いて僕も思い当たった。 イマジナリー・コンパニオンは、幼児期に特有の空想上の友だちのことだ。 しかし、本来それは本人にしか見えないし、知覚できないもののはずだ。 「いや、触媒があれば、混線するように、他者が知覚することもありうる」 経験があるのか、師匠はそう断言する。 「触媒って……」 問い掛ける僕に、師匠は地面を指さす。 「本人だ」 松原ちえの霊魂だか、残留思念だかを通して、僕らにも彼女の架空の遊び相手の声が聞こえるというのか。 この世にはいない、架空のかくれんぼの鬼の声が。 一体それはどんな姿をしているのだろう。 想像しかけた。 師匠の表情が変わる。 「しまった」と口元が動く。 『もういいかい』 聞こえた。確かに聞こえた。またあの声が。 周囲を見たが、反応しているのは僕と師匠だけだった。 みんなお喋りに夢中だ。 しかし、異常なものはなにも見つからない。 夜空や集会所の壁、台所の窓、プロパンのボンベ、そして地面を順番に見回すが、なにも見つからない。 しかし、ゾクゾクと背筋の毛が逆立つ。 なんだ。異様な気配。どこからともなく異様な気配を感じる。 まあだだよ、と言ってしまいたくなるのを必死で堪える。 師匠は脂汗を浮かべて、目を剥いたまま俯いている。息が荒い。 「いま、わたしに触るなよ」 それだけをようやく搾り出すように呟く。 口元が声にならない言葉を紡いでいた。僕はそれを読み取る。 チャンネルがあっちまった。と、そう言っている。 師匠には見えている。 胸が脈打つ。想像しまいとする。なにを想像したくないのか。もちろん、いないはずのかくれんぼの鬼。 十歳そこそこの知的障害を持つ少女が、父親に石で打ち殺された少女が、 そのまま地面の底に埋められた少女が、ずっと誰かがみつけてくれるのを待ち続けるその少女が、 空想で創りあげた鬼。 夜な夜な集会所を彷徨うなにか。 ああ、想像しまいとして、想像してしまう。思考が止まらない。 やがて、数分にも数時間にも思える時間が過ぎ去り、硬直した肩を師匠が叩いた。 「もう消えた」 かくれんぼの鬼をやりすごすには、じっと息を殺して耐えるしかないということを、今さら思い出す。 師匠の顔色は蒼白になっている。一体どんな恐ろしいものを見たのか。 顔を上げた師匠は、慌しくそこに集まった人々に向かって、「今日はもう解散してください」と言った。 そして、明日以降なるべく早く、この下を掘り起こして遺体を見つけ、丁寧に弔ってあげてくださいと。 集まった人々がガヤガヤと、それでもなんとか全員帰ってくれた頃には、夜の十時を過ぎていた。 最後に残った鎌田さんに師匠は言った。 「もしこの下から遺体が出てきても、警察には私のことは言わないで下さい。 地区で井戸を掘ろうとしたとか、なにか適当なことを言って、上手く誤魔化して下さい」 「はあ」 反応が鈍い鎌田さんに念押しをする。 大事な所だ。警察に目をつけられるとやりにくくてかなわない。 今回のケースは古い話なのでまだいいが、 彼らは犯人しか知りえないことを知っている者は、とりあえず犯人と見做して対応するものだから。 「それから……」 師匠は少し言いよどんでから、「できたら」と続けた。 「みいつけた、と言ってあげて下さい」 鍵を返しながら、軽く頭を下げた。 [*←][→#] |