愛してマスター! ▼番外編▼ ある娘の最悪な一日。 この時期はもう桜なんてすっかり散ってしまって、緑の新芽が顔を出している。 桜並木に舞う花びらの中をバイクで走り抜けるのが好きな私としては少し寂しいものがあるが、この季節も嫌いではなかった。 何より、趣味にしているプチツーリングに適したうららかな気候が続くのが有り難かった。 今年は雪が大して降らなかったと父は嘆いていた。 北海道が大好きで、店の名前も一人娘の名前も、某雪国ドラマにちなんでつけた父。 遂に我慢できず一人北海道へと旅立ったので、店は一週間休業。 私はその間、のんびりと愛車・DS250のお世話をしていた。 明日は父が帰宅するという金曜日、せっかくなので朝から少し遠出をしていた。 いつもは見られない景色が綺麗で雄大で楽しくて、私はすっかり夢中になってしまった。 空の雲行きの怪しさにも、気付かないぐらい。 はっと見上げた時には既に黒雲が辺りに広がっていて、私は急いで来た道を引き返した。 (やばい…私の馬鹿…!) どうしてもっと早く気が付かなかったのか。 後悔の念と雨粒が、私に次々と降りかかる。 (ごめんね。帰ったらすぐ綺麗にしてあげるね) ピカピカに磨いた愛車の黒いボディを滑り落ちていく水滴に心が痛む。 視界の悪い中、私は我が家のガレージへ向かってひたすら走り続けた。 だんだんと馴染みの風景に差し掛かって来て、少し肩の力が抜けかけた時だった。 霞の向こうに赤いランプと、それを必死に振ってみせる黄色いヘルメットの男性の姿があった。 私はバイクを止め、頭を抱える。 “通行止め”。聞けばこの突然の雨で、トラックが荷台に積んでいた土砂が道路に流れたらしかった。 ぺこぺこと頭を下げる(別におじさんが悪いんじゃないのに)作業員に会釈した私は、仕方なしに裏路地へとハンドルを切った。 雨の中、交通量の多い大きな道路は避けたい。その上この道が封鎖となると、あとは少々狭い道を縫って帰るしかないのだ。 一度だけ、探検ついでだと裏路地を回って帰宅したこともある。 しかし今日の暗さと視界を阻む雨粒、そして苛立ちは、私を簡単には帰してくれなかった。 いくら進んでも曲がっても、辿り着ける気がしない。私もバイクももう、全身水浸しだった。 突然の雨、通行止め、風邪は免れなさそうな私、それよりも心配なバイク。 おまけに迷子になってしまった。 どうにもこうにも最悪だ。 あぁそうだ今日は確か13日。 いちいち迷信を気にする人間ではないが、こうも不運が重なると信じてみたくもなる。 やっと広いスペースにまで出たと思えば路地の行き止まりで、不法投棄物が散乱していた。 思わず天を仰いでから方向を変えようとするも、私はそのゴミ山の中に何かを見つけた。 フレームがひん曲がった自転車と横倒しになったタンスの合間。じっと目を凝らしてみる。 妙に白く浮き上がって見えるそれは、肢体を投げ出してぐったりしている、小さな女の子だった。 にわかに信じられない光景だが、それよりもやはり心配の方が勝る。 私はバイクから降りて、急いでそちらへ駆け寄った。 「大丈夫?ねぇ?」 薄く開いた瞼からエメラルド色の瞳が覗き、私は言葉を失った。 この子は人間じゃないのだと、すぐに分かった。それぐらい、人知を超えた色だった。 「だ、れ……?」 問い掛けてきた声は消え入りそうな程小さい。 この寒さの為もあるかもしれない。しかしそれよりも彼女は不安と、そして恐怖から震えているように思えた。 抱き起こそうとした背中には所々破れた羽根。 しかしそれよりも私は、その身体のあまりの冷たさに全身を粟立たせた。そうまるで生気のない人形、いやむしろ死体のようなのだ。 私は思わず硬直しそうになった表情を、半ば無理矢理和らげる。 彼女をこれ以上不安にさせてはならないと、とっさに起こした行動だった。 「私は神河ほたる。貴女は?」 「あた、し…キュナ…」 「キュナ、かわゆい名前だね」 私は、そっと少女の頭を撫でた。 濡れそぼって泥に汚れてはいるが、彼女はとても美しい金髪を持っていた。 軽率な奴だと笑われるかもしれない。何故ならば彼女は明らかに人間ではないのだ。そしてそんな彼女をここまで追いやった存在も、きっと。 何かよからぬことに巻き込まれてしまう可能性だってある。 しかし私には、この子をこのままにしておくなんて出来なかった。 撫でられたのが照れくさいのか頬に少しだけ紅が差したような気がした。 安堵感を覚えた私は身体を起こして彼女の周りを囲む瓦礫をいくつか脇に投げやる。 するとその陰で、ぴくりと何かが動いた。 それを阻む一際大きな障害物(誰だ、家庭用エスプレッソマシンなんか捨てたの)を無理矢理退かしてみれば、現れたのは彼女のお尻から生えた尻尾だった。 可愛らしさにふっと口元を緩めると、おずおずとこちらを窺う瞳と視線がぶつかった。 私は改めて彼女に向けて微笑んで、泥を拭うように冷たい頬を撫でる。 「うちにおいで」 はっとしたように息を呑んだ顔に浮かぶのはやはり戸惑いと、しかしどこか期待に満ちた表情だった。 私から迷いは完全に消え失せた。腕を広げもう一度、今度はしっかりと小さな身体を抱きかかえる。 何も言わずに身を任せた少女の背中をあやしながら、私はいまだに止む気配のない雨の中で待つDS250の元へと向かう。 彼女が顔を埋めた私の胸には、じんわりと暖かい涙が染み込んでいった。 「あの、あたし、悪魔なんです」 風呂で汚れを洗い流しただけで予想以上にとびっきりの美少女の姿を取り戻した彼女は、湯気の立つ身体をぴしっと正して私を見上げていた。 その目、牙、尖った耳、出しっぱなしは邪魔なのかいつの間にか背中から消えた羽根、おまけにゆらゆら揺れている尻尾。今更説明する理由がどこにあるのだろうか。 笑って頭を撫でてやろうとした手を両の掌でそっと包み、真っ赤に頬を染めて少女は言った。 「神河ほたる様、貴女をマスターとして、キュナに生涯のお供をさせて下さい…!」 私の頬にも一瞬にして熱が集中する。 縋るように私の手をぎゅっと握り締める彼女。 二つ並んだエメラルドがきらきらと潤んで、私は目がそらせなくなってしまった。 「よろしく、ね」 口をついて出た受諾の言葉にますます瞳を輝かせた彼女は、その場に膝を着き私の手の甲に小さくキスを落とした。 13日の金曜日 この日私は、小さな悪魔と契約を交わした。 ※これが二人の運命?の出逢い。 [←][→] [戻る] |