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短編小説集
[3.]
 あの日は確か仕事ばかりの毎日に疲れていて、社の連中と顔を合わせたくなかったから会社から離れたバーで一人酒でも飲もうと思っていたのだ。
会社と自宅の間にある適当な駅で降り、どこか落ち着いて酒が飲めそうな場所がないか探している時に見つけたのがNIGHT・SKYだった。
 そこは薄暗い照明で、オシャレではあったが派手ではなかった。ここにしようと思い、中に入ってカウンター席に座った。
 私は酒に強い方ではないし、酒の力に任せて全て忘れたいと思っていた訳ではないので、度数の低いウィスキーを一杯だけ頼んだ。
それを、口の中を湿らすようにチビチビと飲んで行く。煙草はやらないので、ただそのウィスキーだけが私の口を慰めてくれていた。
 私がそうしていると、少し離れた同じカウンター席から「あっ」という声が聞こえた。
そちらに目をやると、そこには一人の女性が座っていた。数ヶ月前からパートとして同じ部署で働くことになった池島愛だった。
私はとても驚いた。
まさかこんな所で同じ社の人間に会うとは思っていなかったというのもあるが、それ以上に、既に私は彼女のことを異性として意識していたからだった。
 日頃から、なんとか彼女と同じ時を過ごせはしないかと考えてはいたが、会社には周りの連中の目がある。
ウチの会社はそういうことには緩い方だと思うが、だからと言って堂々と出来るものではない。
そういう状況が、不倫という道への一歩を踏み出しそうになる自分を制していた。
 しかし今彼女は、周りに知った人間のいないこの環境の中で目の前に現れたのだ。私はなんとか自分を抑えようとした。
 私が無言でいると、愛が席を立って私の許へ近付いて来た。

「あ、あの、こんばんは。まがみ真上さん…ですよね?」

 私が何の反応も示さないでいると、この薄がりでもしや間違えたのかと思ったのか、私の名字を呼んで確かめてきた。

「あ、ああ。そうだ」

「あ、私同じ部署で働かせて頂いている――」

「池島君だろう?」

「は、はい。そうです。よかった。私のこと、まだ覚えて頂けていないのかと思って少し悲しくなっちゃいました」

 愛は微笑みながらそう言った。

「あ、いや、君が来てからもう暫く経つし、それに君は良く働いてくれているからね。優秀な人のことはすぐに覚えられる」

「そんな…。ありがとうございます。そう言って頂けると頑張ってることが報われるような気がします。
これからもますます頑張っていきますんでよろしくお願いします」

 そう言って、愛は深々と頭を頭を下げた。

「池島君、私達はプライベートな時間に偶然出会っただけなのだから、そう固くならなくていい。それでは肩が凝ってしまうだろう?」

「あ、ありがとうございます。…、あの、お隣…、宜しいですか?」

 愛が、私の隣にある空いた席を見ながらそう問い掛けてきた。愛のその行動が私の自制心を少しずつ蝕んでいく。
ただ、十も年下の女性が自分のことなど相手にする訳がないと心の中で唱え続けることだけが唯一の支えだった。

「勿論だとも。君さえ良いのであればね」

「ありがとうございます!」

 嬉しそうに礼を言って、愛は元々座っていた席に置いていたグラスを持って私の隣の椅子に座った。
 それから私達は随分と話し込んだ。初めは堅苦しい敬語を使っていた愛も、敬語ではあるものの次第に砕けた話し方になっていった。
 いつの間にか私も気心を許してしまい愚痴なども溢してしまった。
それでも愛は私を突き放したりすることなく、親身になって聞いていてくれた。私もいくつか愛の話を聞いた。
そうして気の置けない時間を共有している内に、少しずつ私の中の自制心は姿を消していった。

「池島君、この後、私とホテルに行かないか?」

「えっ?」

 やはり愛は驚いていた。当然だろう。
今までは仕事の上の話くらいしかろくに会話もしなかったような、十も年上の男に、唐突にこんなことを切り出されたのだから。
もしかしたらこれで私は嫌われたかもしれない。こうして話をすることすらなくなってしまうかもしれない。
それでも後悔はしない。私の立場がどんなものであれ、こんなに熱く人を想ったのは久し振りなのだから。
そんな自分の気持ちに最も素直に動いた結果なのだから。

「だけど真上さんには奥さんが…」

「そんなことは関係ない。いや、君にしたら関係なくはないのかもしれないけれど、だけどこれが私の素直な気持ちなんだ。
これからも君とこうして酒を飲みながら話をしたりしたい…。やはり、嫌か?」

 はっきり言って殆ど期待などしていなかった。しかし、次の瞬間私が聞いた言葉は、私の予想を良い方に裏切ってくれた。

「あの、それじゃあ、…喜んでお供させて頂きます」

 あのときはまさに天にも昇る気持ちといった感じだった。

「そういえば、愛はどうしてあのとき私の誘いにOKしてくれたんだ?」

 私と同じように当時のことを思い出していたらしい愛が少し身体の角度を変えた。

「だって、やっぱり女だったら気になる男性に誘われたら、例え奥さんがいたとしても、したいって思いますもん」

「え?じゃああのとき愛は既に私のことを?」

「はい。好きだったんですよ?知りませんでした?」

「ああ、全然…」

 暗闇の中、薄ぼんやりとしか見えないが、クスクスと笑う声だけが聞こえてくる。

「だって、NIGHT・SKYで淳哉さんと出会ったとき、私、こんな所で会えるなんて運命だって一人で舞い上がってたんですよ?」

「そうだったのか。意外だな、愛が私を好きだったなんて。てっきり、憐れなオヤジに同情してくれたのかと思っていた」

「あはは。同情なんかじゃさすがにホテルなんていきませんよぉ」

「それもそうだな」

 私達はあまり声が大きくならないように気をつけながら笑った。笑いながら再び当時の記憶を蘇らせていった。
 私達はNIGHT・SKYを出て夜の街を歩いていた。銀座や六本木のように、夜でもネオンの光で街が明るいということはなかった。
何もないという訳でもなかったが、会社や近所の知り合い連中と会いたくないと思い偶然降り立ったのがここだっただけで、夜の店が充実している訳ではなかった。
そして当然、ここらの地理を私が知っている筈もなく、NIGHT・SKYから少し行った所に住む愛に道案内をさせる破目になってしまった。

「アハハ、なんか自分でホテルに案内するっていうのも恥ずかしいですね…」

「すまない。本来なら女性にさせることじゃなにのに…」

「いえっ、いいんですっ。普通こういう時って女の人は男の人に付いて行くだけじゃないですか。
でも私は、もちろんリードしてくれる人も素敵だと思いますけど、たまにはこうやって自分で男の人をリードして歩いてみたいなぁ。って思ってたんです。
でも、あまりそういう機会もありませんでしたし、私自身そんなにしっかりしてなかったせいで機会があっても出来なかったんです。
だからこういう、私が案内しなきゃいけないって状況が出来て、逆にちょっと嬉しいんです」

 いつになくよく喋る愛の話を私がジッと聞いていると、突然愛が慌て出した。

「あ、あ、あの、すみませんっ。私ばっかり話しちゃって…。やだな、き、緊張してるのかな…」

 愛は、職場では、周りの若い連中共の騒がしさに紛れてあまり目立たないが、実はそれ程無口ということもなかった。が、この夜は特によく喋っていた。

「いや、いいよ。反対に黙りこくられた方が私としても困る。実は私も少し緊張していてね、正直助かっているんだ」

「そ、そうですか。それじゃ、……」

 その後も、ホテルに到着するまで愛は殆どずっと口を開いていた。

 ホテルに到着すると、これまで休む間も無く話していた愛が今度は何も話さなくなった。

「どうかした?」

「いえ、あのよろしくお願いします」

「あ、ああ」

 そう改めて言われると少し照れたので、なんだか生返事になってしまった。
 愛が先にシャワーを浴びた。その間私はベッドの上でボーっとしていた。
実は少し心配なことがあった。歳も取ったし、最近は妻とも何もなかったので、ちゃんと機能するかどうかが心配だったのだ。
 私がベッドに腰掛けそんなことを考えていると、愛がシャワールームから出て来た。
身体にはバスタオルを一枚巻いているだけだった。
濡れた髪に、ほんのりと赤みがかった肌はひどく扇情的で私の胸を大きく昂ぶらせた。
しかし、私の心配が解消されることはなく、相変わらず身体的な反応はなかった。

「身体が冷えるといけない。布団の中にいなさい」

 私がそう言うと、愛はコクッと首だけで頷きベッドに向かった。
 私はシャワーを浴びている間も落ち着かなかった。
いや、落ち着く筈もないのだが、何分こんな状況は久し振りで動悸が収まる様子はなかった。
 そして、さっさとシャワーを済ませ部屋に戻ってみると、愛は身動き一つせず布団に包まったままだった。
もしかしたらもう眠ってしまったのかもしれないと思った。もしそうならこのまま寝かせてあげようと思った。
その場合はこの動悸をどうやって鎮めたものか…。
そう思いながら愛の方へ近付くと、愛が布団の端から少しだけ顔を覗かせた。

「なんだ、起きてたのか」

 私が思わずそう言うと、愛は「当たり前ですよ」と少し頬を膨らしながら言った。

「こんな状況で眠れる訳ないじゃないですか。私そんなに無神経じゃありませんよっ?」

「いや、悪い。悪気はなかったんだ」

 何気ない一言が、思いの外愛を怒らせてしまったようだ。

「じゃあ、…今回は許してあげます」

 愛がそう言った。

「ありがとう。今後は気をつけるよ」

 私がそう言うと、愛はプッと吹き出し、そして「あははっ」と笑った。つられて私も笑った。

「真上さん、私…もう心の準備、出来てますから」

「ああ」

 笑って、愛も私も少し緊張が解れた。そして、愛の声に引き寄せられるように愛の上に重なっていった。
 愛の乳房に触れた。それは弾力があり、肌もとてもきめ細かくて滑らかだった。
薄明かりに照らされた愛の身体は美しく、私の身体は心配をよそにあっさり反応していた。
 私に触れられる愛の反応はいちいち新鮮で、なんだか妙に初々しかった。
そして私は分かった気がした。何故これ程愛に惹かれたのか。愛が他の子達とどう違うのか。
 愛は純粋なのだ。大人の世界の汚さを知って尚、純粋だったのだ。
 私はそれを壊したくないと思った。愛の純粋さを失いたくないと思った。そうして今も関係を続け大事にしている。
そして愛は変わらず純粋だった。
 私は、愛と関係を持つようになった日のことを考え、無駄な心配をしていたことや、愛が眠っているのではと思ったことを思い出し、思わず笑ってしまった。
すると愛が、

「何?どうしたんですか?突然笑ったりして」

 と言ってきた。

「いや、なんでもない…」

 その様子が布団から覗いていたあの日の愛と被って妙に可愛く見え、また笑いそうになるのを我慢してそう言うと、笑いを堪えていたことがばれたらしく愛が怒った。

「えーっ?何なんですか?言って下さいよぉ。気になるじゃないですか!」

「いやいや、ホント何でもないんだよ」

 別に言っても良かったのだが、怒っている愛の様子が可愛くて言わないことにした。

「うそっ。ねえ、教えて下さいよぉ!」

「はいはい、また明日な。あまり夜更かしはよくない。今日はもう寝なさい」

 私がそう言うと、愛は不服そうにウーウー唸っていたが暫くするとそれはスースーと寝息に変わっていた。
 私は一人布団を抜け出し窓に向かった。窓を覆っていた障子を開けると、明るい月の光が差し込んできた。
 夜はやはり静かだった。私は、家に帰ってからのこと、これからの会社のことを考え、すぐに止めた。
明日からはどうせ考えなければならないのだ。星も見えず、月も汚れた空気に霞んで見えるあの街で。
だから愛といる今は考えないようにしようと思った。愛といる今は自分も純粋でいられるような気がするのだ。
 そして私は、愛を連れてまた来ようと思った。ここじゃなくてもいい。また愛と旅行しようと思った。
 愛は子供のような顔をして眠っていた。
 もう一度見上げた空は何処までも暗く、明るかった。


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