思う存分、とまではいかないけど、歌って音魔を倒して、良い気分のままバスに戻ろうとした。
けど、体の向きを変える前に背後から声がしたからあたしの動きは止まった。
「甘く見てやって30。だが0.5減点で29.5だ。」
音もなくあたしの真後ろに立った時雨はそう言いやがった。
「……なんで赤点なわけ?」
あたしが音魔と戦うごとに、時雨はあたしの戦い方に点数をつける。
ちなみに、赤点は30点以下。
なんで赤点がそんなに低いかと言うと、時雨の採点基準が高過ぎるせいだったりする。
時雨曰く、そこらの音響師を採点した平均は19.85なんだとか。
あたしにはどこが悪いのかさっぱりだけどね。
ちなみに、あたしの最高点は初めて老成中期の音魔と戦った時の63点。
で、赤点を取るとどうなるかと言うと、次の日の練習量が2倍近く、いやそれ以上に増やされる。
しかも基礎練習を永遠とやるから地味にキツい。
呼吸法3時間とかありえないって……。
「つか、あれ……?時雨、バスの中にいたんじゃなかったの?」
たしか面倒だ、とか言ってた気がすんだけど。
「お前が音魔をバスから下ろした後、バスが動き始めたからな。降りてきた。」
「お、降りてきたって……あ、あたしの荷物は!?」
時雨の足元にはあまり大きくないトランクが置かれてあるけどそれは時雨の荷物。
あたしの荷物のトランクはもちろん、肩掛け鞄さえも見当たらない。
「知らんな。」
「はぁぁあぁぁああっ!?」
知らないとか、ちょ、いっぺん死んできやがれ!
「今からお前が全力で走ればバスに追いつけなくはないだろう。」
ふっと鼻で笑うような音が聞こえて相手を見れば、時雨はにやりと口元を歪めた。
む、むかつく……!!
「行くぞ。荷物はお前が持てよ馬鹿弟子。」
「あっ、ちょっと!!」
あたしが止める前に時雨は地面を蹴っていて、音波を使って飛ぶように走り出していた。
掴み止めようと伸ばした手も空しく宙をかいた。
数秒停止した後、置き去りにされた時雨のトランクを見やる。
これ置いていきたい。
すごく置いていきたい。
だって走るのに邪魔だもん。
でもそんな事したらあたしの命が……!!
時雨の仕打ちを想像しただけで血の気が失せるような気がした。
「し、時雨なんて、時雨なんて……!!音魔に喰われて死んじまえぇぇえぇ!!!!」
遥か遠く、その姿が点になりかけている時雨に向かって叫びながらトランクを引っ掴んで駆け出した。
「……っまじ、あ、りえん……!スピ、ド、全開のバ……ス、と……競争、するとか、も、や……。」
「一生に2度もないような貴重な経験が出来て良かっただろ。」
必死の思いで第2ドームと第3ドームの境目にあるバスのターミナルに着くと、時雨が悠然と構えていた。
こっちは息が乱れまくって死にそうなのに、時雨は落ち着いた呼吸をしている。
やっぱり音波の量とか質とかの違いのせいだと思うけど、納得いかない。
四捨五入したら40になるおやじに負けるなんて、あたしの中の何かが認めない。
「ほら荷物だ。眼鏡と髪を括るのを忘れるな。」
言葉と一緒にあたしの荷物を投げ渡した時雨は羽織った上着の内ポケットから何か出して口に銜えた。
続いてシュボッと音がして時雨が両手を口元へ伸ばす。
手を退かすと紫煙が上がって……………………って、は、ちょ、紫煙っ!?
時雨のトランクを持ったまま慌ててその反対の手で荷物を受け取ったけど、これは見過ごせなくてその場に荷物を放る。
そのまま空いた手で時雨が銜えている物を分捕った。
「バカ時雨!!百害あって一利なしって言われてる煙草なんかすんな!!それにお前は音きょぅぐっ!!」
「黙れ。職業ばらしてどうする。」
「んんっんんん、んーんんんー!!」
素早く伸びてきた時雨のでっかい手で口を塞がれて呼吸が出来ない!
何気に鼻も塞いでるしこいつ!!
あたしの手から最初より半分くらいまで短くなった煙草を奪うように取ると、時雨はそれを興味なさそうに地面に落として素早く踏みにじった。
まるであたしの呼吸の事なんて忘れてるみたいに片手がそのままだから、ムカついて腕を殴ったらやっと手から開放された。
あぁ、酸素が懐かしい。
「行くぞ。」
「っ、ちょ待……。」
急いで鞄を肩にかけて髪を括り、眼鏡をかけると時雨が歩き出した。
「時雨!荷物持ちやがれ!!」
肩掛け鞄を邪魔にならないように後ろに回し、両手にトランクを持って時雨を追いかけた。
「じゃ、あたし学生寮に行くから。」
「事故に遭うなよ。」
「…………素直にいってらっしゃいとか頑張れとか言えないのかな……。あ、無理、想像してみたけど時雨が言うと気持ち悪いからやっぱ言わなくていいや。」
なんとなく頭の片隅でイメージしてみたけど、無理無理無理っ!
素直な時雨なんて気持ち悪いだけだ。
不機嫌、無愛想、捻くれ者。
最低でもこの3拍子が揃わないと時雨じゃない。
揃ってないと気持ち悪過ぎる……!
機嫌良さそうに笑みを浮かべる。
キモい。
誰にでも愛想良い。
論外。
素直に話す。
もう消えてなくなれ。
自分の想像の世界に浸っていると、べしっと頭を叩かれた。
「ぅあっ、いった!!」
「くだらん事を考える暇があるなら、これからの生活について考えたらどうだ。」
「えぇー…………ん?時雨、今あたしの頭の中見た?」
「生憎だが凡人かつ暇人の頭の中を見たいとは思わないんでな。天才の頭なら話は別だが。」
時雨の言葉にムカッとしながら叩かれた衝撃でずれた眼鏡を直す。
「じゃ、もうすぐ40になるおやじはヘマして骨なんか折るなよー。」
「まだ36になったばかりだ。」
「四捨五入したら40だよ!」
からからと笑うと時雨は溜め息を吐いた。
「お前もヘマをするなよ。俺はそんな風に教えた覚えはないからな。」
「心配しなくても大丈夫!」
それだけ言ってあたしに背を向けて歩き出した時雨に思いっきり言う。
時雨の上着が寒さと春が混じった風に翻ったのが見え、それがなぜか、とても遠く感じた。
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