髪留めを外して
ソファにと身を沈めた。

ものだらけのテーブルに
反射する二つの赤。

睡魔に囚われて仕方ない。

瞬きの合間の視界もぼやけるほどに。


少しだけ向こう側のベッドにすら行き着けないが
華奢な体躯はソファの中にしっくりと収まる。

猫が狭い場所を好むように心地良く。

煙草の匂いの染み付いた。

彼の人の匂い。

彼も
ベッドよりも
此所で眠るのを好むという。

蕩けそうな脳髄
柔らかい皮膚に体温を移す布地
うつらうつらと眠りに沈む。


真っ白いスパークとさざ波とが脳内と瞼の裏で。


穏やかな闇色の温もりだけが最後に見られた。


優しい。





香りの入り混じる。
匂い。
眉を顰めた。
煙草の匂いに支配された室内に甘ったるさ。
妙な。
共存出来ぬ筈の交わり。
背後に扉を閉める。
ぎしりと一寸重々しく響く音。
殺風景さだけなら好ましい。のだが。
見知った金色よりも対の赤が視野を捕らえる。
混じる香り。
交わらぬ筈の。





誰かが声も無く呼ぶ。

固有名詞など用いずに。


霞みの澱む中 少女の惑うこと無く そこに誰も居ずとも。


見えない,在るか無しか不明確な,未来へと時が迷わず向かえる様に。

惑いは無い。


折り重なる霧にも似た微粒子は
実は仄かに燐光を放つもの。

幽かな虹色の明かり。


声無く呼ばれ

少女は 向かう。


(おとうさん)





頬を触れる,撫ぜられるかの様な温もりが在った。

優しい仕草の気遣いに実際に撫でられているのだと感じる。

こんなに温かかったのか,と。


笹塚さ,ん…

呟いたつもりでも
まだ微睡の中かもしれない。

ぼんやりする。でも彼だろう。
柔らかい。優しい。温かい。

此所は彼の部屋で
この人のソファだから。

だから。


あの………笹塚さん

うつらうつらと発語する唇に
手指は優しい。

滑る繊細さでもって
容貌の線を辿る。


洗剤…二箱,買ってきましたから

セールで安かったから…ん。


なぞる指が,開かれて髪へと,頭部に置かれる掌。

おとうさん。

その一言は
思っても
言わないつもりでいた。

これが夢うつつなのか
まだ解らないけれども…

眠りの境目が
身体を感覚付ける。


「お父さん…」


自身の発音が網膜内に
うっすら響いては
柔らかな闇の中,ぱちり,留める音がする。

髪を。


だってどうせならひとつよりふたつある方が良いでしょう?


色素の薄い,髪と,眼と。

何か言いたげにそれでも何も言わないでいる。

彼が言いたい事なんて知っている。

独り暮らしのそれも警視庁勤めの彼の部屋に於いて洗濯用洗剤の予備は一箱も在れば充分であると勿論彼女とて知ってはいる。

ある日の事,何気ない事,思い出すささやかさ。

瞼の中に仕舞い込んで浮かべる。

互いに違う
ほんの少しの
正しさを黙認し合えない。

されども
言葉を遮る権利を一体,誰が有せるのか。

だから彼からであった。

唇を開いたのは。

色味の淡さは
網膜や脳髄に何時でも優しく響いたけれど。


「…で,幾らだった?」

「別に,これは私が勝手に買ってきたものだしっ」

「…俺が勝手に払いたいだけ」


そう言って
掛けた背広の裏に財布を探る。

少女の律義な性格を知り尽くしている彼だから
誘導なら容易い。

仕草が
少女に相変わらず
僅かな反省を思い起こさせ,きっとそれすらも折り込み済みなのだろう。

それでも繰り返されるやり取りに反省以上に言い知れぬ曖昧な許容を,感じるのが好きだった。

なんて。

決して口には出せない。

それが互いにだったなんて。

温度を持つものを受け取るのは心地良い。

物理的な物に限らない。

相手も同じ事だった。

柔らかな秘密を抱き合う。





闇色の温もりが
ふっと
途切れる。

電球のフィラメントが切れて
唐突に明かりの消える様に。

弥子の場合には
闇の途絶え
網膜が光を認識する。


色を見た。


視覚。


「えっ,ちょ,ね,ねう」


柔らかな絹の金糸,長い睫に孔雀緑の虹彩,整った鼻筋を掠める髪の色は部分的な漆黒,唇が。


「………」


めずらしく何も言わず笑みもしない。

ただじっと
まなざしのみが真摯に,そして偶に見られるこの表情が,桂木弥子には気掛かりであると同時に。


「…ネウロ?」


仄かに気に入るものでもあったのだ。


「って,もしかしてアンタ…さっき」


私の事,なでてた?

発語前に
愚問であると
気付いてそっと,唇を閉ざしては

孔雀石の対を見詰め
僅かに金糸を触れて
指を離す。

同時に今度は魔人の唇が開く。


「どうにも空腹でな,我が輩を差し置いてこんな所で惰眠を貪っている貴様を憂さ晴らしに引き千切ってやろうとは思ったのだが……全く貴様の運の良さには呆れる。丁度この付近で謎が産まれた。」


「あー,はいはい,分かったから,行きますからもう離れて,重い…てゆか痛い………あと,ねぇ,それってかなり時間掛かる事件とか? ううん,勿論行くけどさ。ちょっ,痛い。」


見詰めるグリーンに覗き込まれる。

覗き込んでは見詰められ,何時だって。


「自惚れるな。探偵としての貴様を冒頭に立てた後は何時もの様に我が輩が探偵代理の助手として勝手に推理をする。始終貴様を傍らに置く迄もない。」


黒い皮の指が
頭部に向かうと左側の髪留めを触れた。

硬質を辿る。音が。

鼓膜の反応する様に弥子は小首を傾げた。

金の縁取り。

黒革の内に魔人とはまた違う金糸雀の艶。

琥珀茶の虹彩で瞬く。


「……なんで」


片方だけ,付けてくれたの?


触れてくる手指と同じ自然さで,呑み込む,それはやはり愚問であった。


片方だけ,残してくれたの?


フィラメントの
途切れの様に
ふっと。





強い日差しに眩暈うように
色とりどりを,幼い少女は追う。


極彩色は
少女を
容易く
捕らえられる。


色と色の境界線や
色と少女のはざかいが
曖昧になってゆくと見えるものが在った。


艶やかな彩りに
無い筈の
黒色が
滲んで浮かぶ。


透ける。


極彩色の 闇の色。


桂木弥子の好きなのは
それはそれは綺麗な
闇の中の虹なのだ。



くゆる
紫煙。



(見えない美術を感じ続ける彼女の眼前にやがて脳噛ネウロは現われる。極彩色の魔界の化け物。それは闇で同時に虹であった。)



パンドラの匣の底の底に芥子粒程度の希望。


(なんて…まぁ,俺も似た様なモンだしな)


共通点の見つかる度に
同一化からは離されていっている気もする。

意識的にかどうかは自身の事ながら解らない。

肺が侵される感覚以上に心地好かったのは虚実もろとも吐き出す感覚。


煙が,視界を,目に見えるものを覆って。

そして見えない物事を明瞭に思い描き掴める様に。

煙草なんかに頼らずとも,あの少女になら見えていたのだろう,始めから。

知るべきではない輪郭や色彩であったのだろうに何故だかそれが笹塚衛士には誇らしかった。


くゆる。

燻らす。

瞬きの合間に灰銀を秘めた瞳が渇いた光を見せる。


吐き出されるもの。


極彩色の,そこには無いとしても。





赤い髪留めが。ひとつ。ファイルや屑の散乱するテーブルに。乱雑で無造作な無機物の中に艶やかに。

先ずそれを何よりも知覚した。


視覚。

視界。

視野。


思い起こす,ささやかな,決まり事ともいえないような。

もし
笹塚の居ない時に
少女の此所に来ていて,そして笹塚が帰ってきた時に彼女が部屋に居なくとも,外された髪留めの置いてあったなら
それはまたこの部屋に戻ってくるという合図の様なもの。

年中携帯でやり取り出来得る訳でもない二人だから。

言葉の無いひとつの約束。


室内そのものが散らかったままだというのも
気付いてみれば少女の来ていた後には珍しい。

匂いだけが交ざっている。

長く染み付いた煙草と何か食べ物の菓子類の甘さ。

モノトーンの斑と
カラフルな雑多の
入り混じるイメージが浮かぶ。

大人には面倒くさく感じられるだろうが子供なら楽しく遊べるのだろう。なんて。

今更ながらに笹塚は視野を巡らす。

ソファの下に
覚えの無くとも見慣れたドラッグストアの袋を直ぐに認識して。

「あ…洗剤」

あるし。しかも二箱,と思わず口に出してしまう。

独りの部屋で発語すると,それはあまりない事なのだか,今此所で発語すると独りというものを自覚出来る。

自覚するというところの意味を,今此所で呑み誤る。

癖の様に気を紛らわす。


それにしても片方のみだとは。


(奴が来たのかな…)


艶やかな赤を掬い上げる。

テーブル上の要らないものも要るものも無造作に崩れ落ちた。

いつもなら
彼女が来る毎に少なからず整理されていたのだが。

余程慌ただしい事のあったのか。

なし崩しに落ちた書類だとかをそのままに暫し,思考。


なんで片方だけ残してくれたの?


(髪留め一個って,すっげぇ微妙な……)


さて,これは戻ってくるのかどうか。

きっと彼の来たのだろう。
それなら行かざるを得ない。
それなら戻ってこなくとも構わないのに。


掌に納まる硬質は
触れ慣れたもの
赤い艶
常にきれいに蛍光灯を反射して
幽かな像も。


ひとつだけを奴の為に持って行くそんなあの娘だから。

ひとつだけはこうして。


(洗剤の礼とか…あとは)


本日中にまたこの部屋に戻って来るつもりなのかどうか
メールで尋ねようとも思いはしたが
折角なのでそれは止めておいた。

自分勝手に約束を信じて自分勝手に裏切られてみるのも良いかも知れない。

唇など
寄せずとも
整髪料の香りを知っている。

艶やかに硬質。

触れられる時に触れれば良い。赤色は体温に同化する。溶け込む。




ソファに沈むと
輪郭が融け込む様に
ずるずると眠りの一線を越えかけた。

あちらとこちらの容易い境界。

手放し忘れた髪留めが寝ている間に手から落ちやしないか
そんなことが淡く気にかかりテーブルに置くでもなく
朦朧と握る。

感覚は薄い。瞼が。

鮮やかな夢が見たい。

ふと思った。

それこそ赤や金色や,ブルーグリーンの原色でも。

それらの中で自身の輪郭が黒色になれば,きっと,融け込める。


笹塚衛士にとってそれは死の色であり同時に生の色でもあった。


布地の柔らかさの曖昧に
皮膚と
消えて
あの娘の匂い
髪の。


眠りはめずらしく深み 心地好い。





反射する赤。掌に。

だから撫ぜてあげたくなる。

けれども歳の一回りは上の
それも男の人が,自分みたいな女子高生にそうされても
嬉しくなんてないだろうと少しだけ笑う。

色素の薄い
相変わらず色彩名の定まらない
不思議な髪の色に
本当は
少しだけ触ってみたいけど。

それよりも先ずはベッドルームからケットを引っ張り出して彼に掛けないと。

煙草の匂いにも
とうに
少女は慣れていた。

此所に戻って来た時に
鍵は閉まっていなかった。

薄暗い廊下の洗濯機の傍らに置かれていた新しい洗剤の二箱。


(時々,貴方をいたいけだと思う)


瞬いて。


(お父さんの夢を見ました)


ソファの元に寄り添って。

肌に呼吸の触れない距離に見詰める。

起こさぬ様に。

髪留めのひとつ,を。

触れる
辿る
弾く囁く。

笹塚さん

その掌の中この髪の左のサイドのひとつ。

触れる
辿る
弾く囁く。


「笹塚さん」


そっと,その場を立ち上がると,少女の影のうっすらと彼に揺れかかり,淡い匂いの広まった。

瞼の内側で
融けるもの。


柔らかなケットを彼に掛けたら
少しだけ触れてみて
そうしてから
夕食でも作ろうか
と。


ラベンダーグレーの空には白く一等星。

安心出来る事に
あの魔人は久し振りに空腹を満たせたから
だから今度は自分たちの。

何を作ろうかと思案するのは楽しい。


(どのくらい経ったら起きるんだろ?)


深い眠りに就いている彼を見遣り,一寸小首を傾けては,やはり微笑んで。


金糸から髪留めをぱちりと外して
赤色ひとつをソファの上
彼の傍らへと置いていった。

容貌を縁取っているサイドの金色は夕暮れと融け合い
ささやかな光を煌めかせている。


とても遠くから音がする。

静かな此所で響く。

夜が,来る。



(だってどうせならひとつよりふたつある方が良いでしょう?)

























2009 2/20

タイトルが英字連なりな時はスランプなジンクス…気に入ってるんだけどなぁこの題名は…

うちの笹弥ネはややこしいようで至ってシンプルです
単純すぎてつまらなくないかがむしろ心配です(^^;)

なんとなく衛士がしあわせそうな締め方が好き



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