自動販売機の灯が煌々とする。

うずくまっていたから心配されたのだろう。

指先に留めては緩く首を振る。


「大丈夫,そうじゃないんです。ただちょっと」


「なに…」


薄い翠色に
透けている。

新商品なら全て見知っていた。

夜の灯りにぶつかって
やがて
音を立てて落ちたもの。


「蛾?」


指の先に留めたものを
わざわざ屈み込んでくれた彼が認識したので頷いてみせる。


「アクティアスアルテミス,か」


やっぱりこの人は博識だな。
オオミズアオの名称しか知らなかった。
素直に感嘆して弥子は言葉を紡ぐ。


「なんか動けなくなっちゃったみたいで…」


丸い胴体に下がる触覚のフォルム,無暗に撫でれば活力の益々消耗しそうな生き物を極めて丁重に視線まで上げた。ぴくりともしない。

自販機の稼動音は一定の低さで辺りを振るわす。


「光に酔ったのか」


「はい?」


留まる脚だけはしっかりと爪の背を掴んでいた。
生きている。

まるでまなざしのように
黒々と真直ぐに彼を見つめているのか
複眼はしかし何処か射抜くように。


「火に飛び込む蛾はいても,太陽へと向かう蛾はいないだろ?」


「…あ」


「真夜中なのにこうして強い光源が有ると平衡感覚がやられるらしい」


ああ,だからか,と
笹塚の言葉に納得した。

弥子にも何時からか憶えの在ったこと
ずっと不思議だったこと。

思えば あまりにも単純だったのだが。


(かわいそう…)


緑の美しい羽根は掌とさして変わらぬ大きさで
優美なフォルムを描いているのに
いびつに傷を負った線もある。

大型の蛾はきれいな羽を持つ
が,同時に持て余す。

相応に与えられた力強さが
身を滅ぼしてしまう。

幾度となくぶつかって
音を立てて落ちてきた。

触覚が僅かに上向くあがる。

小さな羽虫が弥子達の合間を飛び交っては人口灯へと。

離れていても触れてなくとも体温を感じた。

その低さ
温かさ
慣れた少しの距離に
予兆。

闇に放っても
きっとまた灯りのある場所へと戻ってしまうだろう。

くるくる回る
そして見失う。

夜になっても帰れる場所を見失うのはかなしい。

大きな羽根をどんなに傷めても
夜の明けるまで癒されず
まるで。


「寿命,短いんですよ」


「そう」


自販機の稼動音
深夜の空気
真夜中に煌々と
痛む網膜。

柔らかな繊毛の腹 薄い緑。

女とは違う節の線を弥子は眺める。蠢き。

差し延べられるようでもある手を
どうにも出来ずに。

バタバタとグリーンが揺れる。はためく。
指先を離された脚が合間をもがく。
蠢きは激しく腹の丸みは昆虫というよりは肉体的な蠕動を見せつける。

千切れてしまうのではないかと
心配になっても彼の指に摘まれた翠色をただ見ていた。
もっと丁寧に,とも言わない。


だってまるで。


羽根は大分傷んでいて灯りを透かす。


「夜のものは夜へ」


水のものは水へ土のものは土へ火のものは…
知っている,あの魔人も言っていた。

薄い唇を眺め弥子は思う。

煙草の匂いに紛れたのは
自販機の横に置かれたダストボックスの飲料の混ざり合う匂い。
夏はそれに集まる虫も多い。

笹塚が空気を静めるのを見計らって弥子も唇を開く。


「月のものは月へ」


だってまるであなたのようだ。


こんな深夜にまで煌々と稼動しているのは一寸もったいないな,自動販売機のとりどりを見やって輪郭に明かりと影,羽虫の乱舞する軌跡。


夜へお帰り。

月を見た。

蠢きの気配。


バタバタと
漸く笹塚の手から開放された翠色は
乱れた軌道で舞い上がり
高く確かに,満ちた月光を透かしては淡い翡翠に輝いた。

掌を振って揺れた金髪。


(春に出回る新キャベツみたい…あれ,やわらかくてそのままで美味しいんだよね)


ふ,とその様にまなざしを緩める。唇を。

自然に無意識なそれは笑みだった。

だから弥子自身も気付く事なく,ささやかに向けられたまなざしと発語をも逃す。

夜の深い部分で
彼女を見詰めてから彼は零したのだ。

つきのものはつきへ……か。

金糸の揺れて彼を見る。
発語を察知しそこねて不思議そうに。

何かを口にした気もするが何も聴こえず
何も聴かなかった気もするがそうでなかったのかも知れない。
弥子はそのまま言語を探って円い虹彩でじっと,それでも戸惑いを微かに揺らめかせて
そんな静けさを笹塚に向ける。

だから致し方ないとでも言う様に苦笑を隠し滲み出る柔らかさだけはそのままに。


「レタスみたいで美味そうとか思ってただろ」


「キャベツですよ………おいしそうは合ってるけど」


「やらしい」


「ぇ?な,なんで?」


少女の妙な戸惑いと焦りに思わず笑いそうになるのを耐えて笹塚は顔を背けた。

だから弥子も益々原因の分からない混乱をして彼への言語が飽和状態となる。

え,ぁ,ぅう,えと,何ですか?その,えっと……。

そんなとりとめのなさが頭の中でくるくると何周も。しているのが容易く読み取られる位には。

背後には自動販売機の照明。


(可愛すぎるだろ…。)


正面には完璧な夜。

満月の白く完璧な夜の夜。

月の女神と名付けられたものは
夜の向こうの元来た場所へと帰ってゆく。

眠るのだろうか,蛾も。

夜と人工的な,見事に脱色された髪が未だ困惑した様に。


「あ,あの…その…もう遅いし,」


稼働する一定の機械音。


「ん…帰ろっか」


幾分も身長の差のある彼を見上げては彼女はそろりとスーツの端を指先のみで摘む。

それに気付いてか気付かずにか 彼は彼女の腕を引いた。

弱くなく強くもなく,揺れた体躯の影と明るさと闇。

夜へと向かう。

帰る場所。


「あ,」

ひらり
ペールグリーンのまるで真珠粉が
明かりのまだ届く範囲にて
弥子達の眼前を過ぎった。

ふわり大きな薄翅の力強さ。

やはり,戻って来てしまったのだろうか。

明かりの背後を振り向く。

それは光に透けて大きく鋭く旋回して
やがて
すぐに緩やかに
また上空の闇へと上昇した。


「ほら,解ってんだよ」


大丈夫みたいですね。よかった。
そう言葉を紡ぐ前に
彼が言って穏やかな夜気はささやかに流れた。

それが不思議と懐かしい。



女神の輪郭は満月に融け込んでゆき

二人の輪郭もそれに倣う様に

静かな優しい夜へと還ってゆく。





























20090129

いつか書いてみたかったアクティアスアルテミス
うっすらグリーンで神秘的なのですよー

同じ夜に帰るふたりが好きみたいです^^




あきゅろす。
[グループ][ナビ]
[管理]

無料HPエムペ!