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――大正ってこんな時代!



大正(たいしょう)は、日本の元号の一つ。
明治の後、昭和の前。
大正天皇の在位期間である大正元年(1912年)7月30日から大正15年(1926年)12月25日までの期間を指す――…。

抜粋:ウィキペディア




大正時代には、明治時代のの日清・日露戦争を経て近代化が進み社会が安定すると同時に、近くの国々が革命を起こしたことが影響してか、民衆意識の高まりが起こって自由民権的な運動が起こりました。
いわゆる大正デモクラシーです。
護憲運動が二度も起こり、大正の終わりごろには治安維持法や普通選挙法が成立し、アメリカなどに見る民主主義に少し歩み寄りつつある時代でした。

また、大正3年の第1次世界大戦の影響で工業輸出額が飛躍的に向上します。
一気に近代化が進んで「成金」なる人たちまで出現し始めます。
しかし戦争が終わると不手際が祟って景気は落ちていきます。
復興は早かったけれど打撃の大きかった関東大震災も重なって、悪化した景気のまま昭和初期の世界恐慌につながります。

文化面はとても華やかで、日露戦争頃から当時の経済文化の中心地であった大阪・神戸において都市を背景にした大衆文化が成立し全国へ波及していきました。
今日に続く日本人の生活様式もこの時代にルーツが求められるものが多いようです。
大阪には衛星都市群が出現し、日清戦争を経て東洋一の貿易港となっていた神戸港に夥しく流入する最新の欧米文化を彼ら衛星都市の富裕層が受け入れて広まり、モダンな芸術・文化・生活様式が生まれたのだそう。
大阪・神戸は関東大震災後に東京から文化人の移住等もあって、文化的に更なる隆盛をみせました。
東京においては、震災の影響が総じて少なかった丸の内、大手町地区にエレベーターの付いたビルディングの建設が相次ぎ、一大オフィス街が成立しました。
下町で焼け出された人々が世田谷、杉並等それまで純然たる農村であった地域に移住して、新宿、渋谷を単なる盛り場から「副都心」へと成長させました。

大正7年には大学令と高等学校令が公布されて高等教育機関が整備されて、東京帝大の卒業生の半数が民間企業に就職するようになり、「サラリーマン」が大衆の主人公となりました。
明治時代まで呉服屋であった老舗が次々に「百貨店」に変身を遂げ、銀座はデパート街なんてものも出来ました。
「大阪朝日新聞」、「大阪毎日新聞」が100万部を突破して東京に進出、それに対抗した読売新聞も成長を果たして、今日「三大紙」といわれるようになる新聞業界の基礎が築かれました。
大正14年3月には、東京、大阪、名古屋でラジオ放送が始まり、新しいメディアが社会に刺激を与えるようになります。
震災で鉄道が被害を受けたこともあって、「自動車」が都市交通の桧舞台にのし上がり、「円タク」の登場もあって、旅客か貨物であるかを問わず陸運手段として大きな地位を占めるようになります。
都市部では新たに登場した中産階級を中心に“洋食”が広まり「カフェ」「レストラン」が成長、飲食店のあり方に変革をもたらしました。
コロッケなどの登場により、洋食とは縁のなかった庶民の食卓にまで影響が及ぶこととなり、明治時代まで庶民には縁のなかった「欧米式美容室」、「ダンスホール」が都市では珍しい存在ではなくなり、男性の洋装が当たり前になったのもこの時代のことだそうです。

一方、地方(特に農漁村)ではそういった近代的な文化の恩恵を受けることはまれで、都市と地方の格差は拡大していきました。

このころまでに近代日本語が多くの文筆家らの努力で形成されました。
新聞、同人誌等が次第に普及し、新しい絵画や音楽、写真や「活動写真」と呼ばれた映画などの娯楽も徐々に充実しました。



※これらすべてが津木下邸に当てはまるわけではありません。
とりあえず大正時代ってこんなだよ!という目安だと思ってください。
参照:ウィキペディア


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