それからの入院生活は、2人が会わなくなる前の生活とほぼ変わりなかった。
変わったことがあると言えば、2人の関係性。
"友達"が"恋人"になった。
そんなところだ。
ただ周囲にそのことを悟られるわけにはいかないから。
2人だけで会うのはいつも通り夜だけ、という暗黙の了解があった。
夕方の回診が終わり、一応一日の仕事を果たした聖は、医務室のソファに飛び込む。
全身の力を抜くと、身体がソファに沈んでいく。
その感覚を楽しんでいるとドアがノックの音を立てた。
「どーぞ」
「失礼します」
入ってきたのは蓉子だった。
ソファにだらしなく寝転んでいる聖を見つけると軽く溜息を吐く。
その溜息に聖はムッとするでもなく顔だけを蓉子に向けた。
まぁ、毎度のことだ。
ここに来るたび、蓉子には同じ反応をされる。
「…最近藤堂さんと仲が良いみたいだけど?」
今は聖と蓉子の他に看護婦も医者も患者も居ない。
蓉子は普段通りの口調で聖に話しかけた。
表情に嫌味など、それを感じさせるものはない。
が、聖の表情はほんの少しだけ強張った。
「別に、他の人とも仲良いけど?」
本当に何でもないという表情を作るが、
「違うわ」
の一言で一蹴された。
聖の表情がすぐに不機嫌なものに変わった。
「何が」
「あなたの目よ。藤堂さんに向ける目だけ、他の患者に向ける目とは少し違う」
本当に変なところで勘の鋭い女だ。
こうやって、見てもいないのに蓉子は聖の心情をピタリと当てる。
しかしそれを簡単に認めようとしないのも聖だった。
聖と蓉子の視線がぶつかる。
互いに頑として視線を外そうとしない。
そのまま数秒間目を合わせたままでいた。
結論から言うと先に折れたのは聖の方だった。
蓉子に隠し事は無駄だ。
例えここで隠せても次の日にはバレている。
長年の経験がそう判断させた。
「……そう見えるなら、そうかもね」
否定はしないが肯定もしない。
蓉子はもう一度溜息を吐いた。
「今はいいわ…でも、退院後はどうするの?」
その問いかけに、聖の肩が震えた。
――退院。
ただの一言がやけに重い。
「藤堂さんはいつかここから出ていくのよ?」
「……分かってる」
分かっている。
蓉子は正しい。
志摩子がいなくなることは当然のことだ。
考えなかったわけではない。
志摩子の退院が本当に近いものであることを医者である聖自身が一番分かっている。
現に、退院が3日後であることを今日志摩子に確認したばかりだ。
ただ答えを先延ばしにしていただけ。
これからどうするのか。
こうやって私は大切なことから逃げてきた。
自分のことは自分がよく分かっている。
しかし、蓉子からの言葉は全く予想外のものだった。
「分かっていないわ」
「え?」
「私はあなたのことは心配していない」
「…へぇ」
それなら何を言おうというのか。
聖はもう興味を失ったと言わんばかりに視線を窓の外にやる。
「あなたは少なからず大切な人との別れを1度は経験している」
「………」
大切な人。
それはきっと、いや、確実に栞のことを言っているのだろう。
栞が過去となった今でも、心に残る傷は大きい。
だがそれが何だというのか。
「でも…藤堂さんはどうかしら?」
聖がはっとしたように顔を上げた。
「私から見ても彼女にとってあなたは特別よ。その特別な人との別れ…。
分かっているとはいってもその痛みがどれほどのものかは…先生、あなたがよく分かっている筈よ」
聖の瞳が揺らぐ瞬間を見逃さない。
蓉子が勝ち誇ったように笑った。
その悔しそうな顔を、瞳を細め、じっと見つめる。
「私の言いたいこと、分かるわね?」
聖は1度だけ小さく頷いた。
「私は蓉子のそんなところが好きじゃない」
「知ってるわ」
「でも……嫌いでもない」
「……」
普段こういうことは言わないから。
思わず言葉を失った。
蓉子の返事がないのは想定済みだったのか、聖は続ける。
「蓉子…」
「…何?お礼でも言ってくれるの?」
「君はとてもお節介だ」
「よく言われるわ」
聖はソファから体を起こすと着たままだった白衣をおもむろに脱ぐ。
脱いだ白衣はそのへんの椅子に投げ掛けた。
それから自分の机の引出しを漁り始める。
しばらくして出てきたのは銀色の小さな鍵。
キーホルダーも何もついていない、ただの鍵。
鍵をポケットにしまうと、今度は傍らのメモ帳とペンを取る。
一言、二言筆を走らせ、それを2つに折りたたんだ。
「渡しといて」
誰に、とは言わない。
言わなくても分かっているだろうから。
「今日は家に帰るよ」
「……そう」
聖が家に帰って何をするのかは分からない。
だが、聖には聖の思うところがあるのだろう。
蓉子は何も言わなかった。
「……ありがとう」
聞こえないくらい小さな声で言った。
蓉子はそれに笑って答えた。
『家に帰る。しっかり寝ること。』
志摩子は蓉子から受け取った紙切れをしばらく眺めていた。
誰からなんて聞かなくても分かった。
だが分からないのはメモの内容。
いや、手紙と言った方が正しいか。
初めての手紙がたったの二言ということはこの際問題ではない。
いきなり『家に帰る』とはどういうことなのだろうか。
『しっかり寝ること』と付け足されていることから、自分のことを嫌いになったのではないことは分かる。
志摩子には聖の意図が分からなかった。
だから試しに蓉子に聞いてみたのだが。
「先生の考えることが分かったら私も終わりだと思うわ」
結局分からず終いだった。
その日もその次の日も、回診以外に聖が志摩子を訪ねることはなかった。
そして退院の日―――
「おめでとう、藤堂さん」
病院の入口の前に3人は居た。
聖と、蓉子と、志摩子の3人だ。
「……」
「退院だ。ほぼ完治したよ。もう少しだけリハビリに通ってもらうことになるけど」
「…はい、ありがとうございます」
「うん」
本当に嬉しそうな聖の笑顔に不安を覚える。
このまま・・・。
本当にこのままお別れなのだろうか。
「これは退院祝い。大丈夫、他の人にもあげてるから」
手渡されたのは小さな布の袋だった。
中に何か入っているのだろう。
お守りに似たその袋を聖から受け取る。
「ありがとうございます」
きれいにお辞儀をすると、蓉子が軽くお辞儀を返した。
聖は笑顔のまま動かない。
志摩子と目が合うと、元気でね、とだけ声をかけた。
志摩子はそれに微笑むと、ふと上を見上げる。
真っ白な病院。
運び込まれたとき意識は無かったし、入院している間、外には出なかった。
だからこの病院を見るのは今日が初めてだ。
私はこの大きな病院の小さな部屋に居たのか。
志摩子は視線を戻すと、もう一度だけ微笑んで病院に背を向けた。
最初の一歩を踏み出すと、割とスムーズに次の一歩も踏み出せる。
もう後ろは振り返らなかった。
「……行っちゃったねぇ」
「…良かったの?」
「うん。元気になって退院して…本当に良かった」
聖の横顔に嘘はなかった。
その横顔に辛さなど微塵も感じられなかった。
病院の門を出て、数歩進んだ所で志摩子は足を止めた。
先程の"退院祝い"を鞄から取り出す。
ぞして、聖が先程別れ際に言った言葉を思い返した。
それも、志摩子にしか聞こえないくらい小さな声で。
―――な・か・み。
「中身…って、これの中身のこと、よね?」
お守りの中を覗くのはいけないことのような気がしたが、開けないわけにもいかない。
自身に問いかけ、小袋の紐を解いた。
中に入っていたのは小さな紙切れ。
志摩子はおそるおそるそれを取り出す。
『本物の退院祝いが欲しければ、明日病院の帰りに門の前で待て』
……これは。
聖らしいといえば聖らしい言い回しに思わず笑みが零れる。
病院の帰り。
明日のリハビリの帰りに待てばいいということなのだろう。
志摩子はその紙切れを大事そうに袋の中に戻す。
帰り道は思っていたより寂しくなかった。
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