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数日後――

深夜0時。
聖は宿直室の簡易ベッドに転がり込んだ。

最近ずっと家に帰っていない。
帰る気も起きない。
家に帰っても待っている人間が居る訳でもなし。
このまま病院に住み着いてやろうか。

次々と浮かんでくるどうでもいいことばかりを考えて眠れなくなってしまう。

聖があくびと一緒に寝返りを打ったときだった。


ギィ…


ドアが開いた音がした。
誰かが入ってきたのか。
耳をすませてみると、かすかに人の足音がする。

「…ん?」

何か変だ。
確かにこれは人の足音なのだが、何かがおかしい。
コツコツという軽快なリズムとはかけ離れた、まるで足を擦って歩いているような音。
その音が近づくにつれ、荒い息づかいが聞こえ始める。

「誰…?」

暗闇に向かって問いかけた。

返事がないので仕方なくベッドから起きて音の方向に向かう。

闇に慣れた目が、人影を捉えた。
相手も聖に気付いたらしい。
足を止めて顔を上げる。
その人物は、聖が良く知る人物の中の1人だった。

「志摩子…?」

「…さ…、せん………っ」

安心して力が抜けたのか、志摩子は力を失って床に崩れ落ちる。

「!!?」

慌てて駆け寄り体を起こすと、志摩子の体はじっとりと汗ばんでいた。
額に汗の玉がいくつもできている。
相当無理をしてここまで来たのだろう。
志摩子は必死で空気を求め、咳を繰り返す。
少しでも楽になればと、聖はその背中をさすり続けた。

しばらくすると志摩子の呼吸も大分落ち着いてきて。
聖は自分の服の袖で額の汗を拭ってやる。

「何で…ここに……」

やっとそれだけを搾り出した。

壊れそうな聖の表情に、志摩子は苦しいながらも優しく微笑む。
そっと聖の頬に触れた。

「先生に…あなたに会いたかったから」

「私に?」

志摩子はゆっくり頷くと、聖を見上げる。
そして、

「先生……」

吸い込まれるように聖に口付けた。

触れるだけのキス。
唇を離すと、驚きで揺れる聖の瞳があった。

「…し、ま……」

「好きです」

聖の見開かれた目が、ますます開かれる。
今、目の前のこの子は何と言ったのか。
聞き間違えでないとすると、志摩子は自分を好きだと言った。
とうとう夢と現実の区別が分からなくなってしまったのか。

「これは…夢?」

思わずそんな言葉が漏れる。
志摩子はそれに困ったように首を振った。

「夢ではないのだと思います」

そして続ける。

「私は先生と居る時間が好きでした。いつからかは分かりません。
先生が来るのを毎晩楽しみにしている自分が居て」

「………」

「この病院に来て、私は先生と居るのを当たり前に感じていたんですね。それは当たり前ではなかったのに。
でも先生が来なくなって…私は自分の気持ちに気付きました。
私がどれだけ先生を好きだったのかに、今更気付いたんです」

「………」

聖の反応は無い。
ただひたすらに床の一点を凝視している。

私の伝えるべきことは伝えた。
志摩子は聖から体を離した。

「嫌な思いをさせてしまってすみません。私はこれで帰ります」

そう言って壁に手をつき、何とか立ち上がった。
だが、そのまま右足を踏み出したとき、足がもう一度地に着くか着かないかのところでバランスを崩してしまう。

「きゃっ」

固い地面の感触が志摩子を襲う――
筈だった。

気付けば志摩子は後ろから聖に抱きとめられていて。
全身を聖に支えられていた。

「せん…せ?」

首だけ振り向けばひどく険しい顔をした聖の姿があった。
聖は志摩子を抱きしめたまま話し出す。

「昔、私は人を殺したことがあるんだ」

「………」

水野蓉子という看護婦から聞いた、一人の女性の名前が浮かぶ。
久保栞という名前が。

「助けたのに殺した。あの子は私の所為で死ぬ苦しみを2度味わったんだ。
あの子は私が居たから不幸になった。私は今でもあの子を助けたことが正しかったのか分からない。
…志摩子はどこか彼女に重なる部分があったんだ。
だからあの子と同じように、私が居ることで志摩子を不幸にしてしまう。そう思った。
これ以上近づくのが怖かったんだ。私は馬鹿だ。志摩子と彼女は違う。頭では分かっていた筈なのに…っ」

それは聖が志摩子に吐いた初めての本音だった。
苦しそうに吐く様子は、聖の痛みをそのまま表しているようだった。

「君は、藤堂志摩子だ」

「はい」



「志摩子…」

「はい」

名前を呼ばれた瞬間、志摩子の心臓が一際大きく鳴った。

「好きだ」

「……!」

「愛してる」

胸の中心から熱い何かが沸き起こる。

返事はひとつ。
躊躇いなどあるはずもない。
それは志摩子が一番望んでいた言葉なのだから。

「…はい」

抱きしめられる力が、増した。

頬からひとすじの滴が零れた。




逝ってみますか?(R18)





身体がだるい。
異様に身体の節々が痛い。
そういえば、数週間前、自分は事故にあったのだった。
それで数日前から歩く練習を始めて。

「藤堂さん、藤堂さん、」

そうだ。
この声の持ち主は自分の主治医で。
いつも夜中に訪ねてきては一緒に他愛のない話をする。
とても優しくて、すごく大切な人。

「せ、ん……」

それから、この人と一緒によく病室に来るのが。

「藤堂さん、藤堂さん」

そう。
この声。
水野さん、という看護婦だ。
それにしてもやけにリアルに声が聞こえる。
これは夢?それとも…

「………!!」

飛び起きようとして全身に訪れた痛みに、一気に頭が覚醒する。

「お、起きた起きた♪」

「あ…お、おはようございます」

どうやら本当に寝ていたらしい。
昨晩気付かないうちに、志摩子は宿直室から自分の病室に運ばれていた。
一度ベッドの上で目を覚まし、聖が『まだ寝ていてもいいよ』という言葉をかけてくれたところまでは覚えている。
だがその後の記憶は無い。
ということは自分はそのまま寝てしまったのだろう。
そして現在に至る。

ゆっくりと上体を起こすと、窓の外を見た。
窓から見える木は太陽の光を充分すぎるほど浴びていて。

「おはようって言うより、こんにちは、かな」

「お昼ご飯の時間ね」

いやに機嫌が良い聖に、意味深な笑顔でこちらを見ている蓉子。
昨日無断で病室を抜け出したことに加え、こんな時間まで寝ていたことを詫びるため、志摩子は口を開く。

「私……」

「疲れてるみたいだったからね、朝起こすのは止めといたんだ」

「そう…ですか」

詫びる前に聖の説明が入った。
察するに、昨晩聖を訪ねたことは内緒らしい。
それもそうか。
公になると大きな問題として取り扱われるのは確実だ。

「それはそうと本当に良く寝ていたわね。昨日はそんなに疲れることでもしたの?」

蓉子の勘の鋭い問いに、志摩子の背中を冷たい汗が伝った。
ふと蓉子の隣を見ると、原因そのものである聖は何事も無かったような顔で笑っている。
志摩子の視線に気付くと肩をすくめてみせた。

「いえ…特には…」

視線を蓉子に戻すと、当たり障りのない答えを返す。
蓉子もこれ以上追及する気はないらしい。
看護婦らしい一言で場を締めようとした。

「まぁいいわ。あまり無理はしないようにね」

「……はい」

が、調子にのった聖の、

「そうそう、無理しちゃダメだよ?」

という発言が、場の空気を元に戻してしまう。
蓉子の首がゆっくりと動いた。
聖と蓉子の視線がぶつかる。

「佐藤先生、あなたも患者に無理をさせる行為は謹んでくださいね」

やけに力が込められた笑み。
流石の聖も頷かざるをえなかった。

「…はい」

他の病棟は知らないが、この病棟に医者の威厳などという言葉は存在しない。
改めてそう思わされた志摩子であった。






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