あの晩から私はよく志摩子に会いに行くようになった。
呼び方もいつの間にか“藤堂さん”から“志摩子”に変わっていた。
他の看護婦や患者の前では依然として藤堂さんのままだったが。
夜、見回りと見回りの間に2人で会うときは志摩子と呼ぶことを許された。
今日もいつも通りに志摩子の病室へと向かう。
まだ1人では起き上がれないから、聖が手を貸して志摩子の上半身だけを起こした。
「昼間も聞いたけど、体の調子は?」
「ええ、軽く体を動かす程度なら…何とか」
「なら良し」
そう言ってベッドの端っこに体を投げる。
「んー…眠たい。今日はもう寝ようかな」
「もう、お帰りになるのですか?」
志摩子が少し残念そうなのは思い上がりではないだろう。
「ううん、ここで寝る」
冗談交じりに布団にしがみついて見せると、志摩子のてのひらが聖の髪に触れた。
そのまま温かい手で髪を梳かれる。
折れてない方の腕だとはいえ、動かすのは多少痛いだろうに。
これではどっちが患者か分からない。
「気持ちいい…」
ここのベッドは、宿直室の簡易ベッドより柔らかい。
しかも今は志摩子の“なでなで”付き。
これならよく眠れそうだな、と聖は思う。
布団に顔を埋めると上から楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
「何かおかしい?」
「…先生は、お医者さんという感じではないですね」
「…蓉子にもよく言われるよ。ああ、蓉子ってのはウチの看護婦でね、」
「いつも来てくださる方ですか?」
「うん、その人。もうどっちが上司だか分かんないくらい真面目でさ…少しはちゃんとしなさいって怒るんだよ、彼女?」
「本当ですね、少しはちゃんとして欲しいです」
「志摩子までそれを言うかな?」
「普通医者は患者の布団に潜り込みませんよ」
「スミマセン…」
それが愚痴でも意味のない話でも、聖の言葉ひとつひとつに志摩子は微笑む。
その微笑みが聖はたまらなく好きで。
志摩子と一緒に居ることで生まれる、作り笑顔ではなく普通に笑っている自分も好きだった。
心地良い時間は過ぎるのが早い。
そろそろ次の見回りが来る時間だ。
聖はベッドから起き上がり、志摩子の隣に立つ。
志摩子を横にするため、背中に腕を通すとゆっくりと体を倒した。
聖の腕にかかる体重も減ってきたからしばらくすれば上半身くらいは自分で起こせるようになるだろう。
ぼんやりとそんなことを考えていると、志摩子が口を開いた。
「箱…」
「え?」
「病院は…白い箱みたいですね」
「どうして?」
「何となく、です。この白い空間に居ることはできても、今の私はここから出ることはできないから」
――まるで白い箱。
そう言った志摩子の横顔は、栞のそれによく似ていた。
彼女と似ている志摩子だから。
ふと聞いてみたくなった。
人の命を弄ぶ医者という生き物を志摩子はどう思うのだろう。
忌み嫌っているのだろうか、軽蔑しているのだろうか。
無性に知りたくなった。
「医者は、好き?」
別に嫌いでもいいんだよ。
そう付け加えて尋ねてみる。
「好きでも嫌いでもないです」
それは予想していた答えだっただろうか。
考えれば考えるほど頭の中に栞が現れる。
「いくつもの人の命を救って…それはスゴイことだと思いますし」
「…助からなかったら良かった、とか思ってる?」
「いいえ。神に生かされたのだから、助かって良かったと思っています」
「もし…仮に死ぬと言われたら…助かりたいと思った?」
それでも助かりたいと言って欲しかった。
未練があるのだと言って欲しかった。
「いいえ。それが神の意志なら、私はそれに従うまでです」
「……そう」
そしてそれは当然のように希望のままで終わる。
結局神の意志に医者は勝てない。
どんなに足掻こうと、もがこうと。
改めてそれを実感した。
できるだけ平静を装ってドアの前まで進む。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
にっこり笑って部屋を出ようとした。
「でも…佐藤先生は好きですよ」
「え?」
後ろからかかった意外な一言に聖は自分の耳を疑った。
「医者は分かりませんが、私は佐藤先生のことは好きです」
志摩子の表情は正面からの月明りの所為でよく見えない。
だが、志摩子が柔らかく笑いかけてくれているのは理解できた。
同時にその言葉が心に染み込んでいくのが分かる。
「…ありがとう」
彼女がそう言ってくれたことだけがせめてもの救いだった。
医者は神に勝てなかったが、それよりも大事なものを知った気がした。
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