久保栞は私が初めて殺した患者だ。
栞は病院に運ばれたとき、もうどうしようもない、手の施しようがないだった。
誰の目から見ても助からないことは明白で。
いっそ何もできないことを責めてくれた方が楽だったのかもしれない。
生きたい、まだやりたいことがある。
最後にこれがしたい、あの人にこれを伝えて。
まだ、死にたくない。
人間の欲を見ればこんな気持ちにはならなかったかもしれない。
何も言わない私に、栞はただ一言漏らした。
「先生…私は死ぬのね」
「……私が助ける」
受け持った患者で死人を出したことはなかった。
まだ他に何か手段があるかもしれない。
だが彼女は静かに首を振る。
「先生…いえ、聖…私は感謝しているの。ここまで生かされていたことに。
私の命はここで終わるけれど、その魂は神のもとに行くわ。それは素晴らしいことよ」
「………栞は私が助ける」
手は尽したのに病状は悪化するばかり。
死なせたくない。
殺したくない。
そう思えば思うほど状態は悪くなっているように感じられた。
「明日が最後の手術になると思う」
「そうね…」
「助けるから。私が助ける。栞を死なせたくないんだ」
彼女は何も言わずに微笑んだ。
そして手術の日。
体力的にも病状的にもこれが最後のチャンスだった。
「聖、今までありがとう」
「…手術が終わったらまた言ってよね」
また彼女は何も言わずに微笑んだ。
それが彼女の最後の笑顔になった。
私は医者には向いていないのだろう。
医者になったとき、患者の命とかそういうものにあまり興味はなかった。
初めて救えない命に出会った。
そのとき自分の中で患者の命を救う理由ができた。
もう彼女のような死人は出したくない。
もう誰も殺したくない。
―・―・―・―・―・―・―・―
藤堂志摩子。
あの微笑みは栞に似ている。
だからと言って彼女と栞は同じではない。
彼女は病気ではないし、助からない状態でもなかった。
だがその笑顔が。
それがどうしようもなく聖の心を動かした。
「…藤堂さんって不思議な感じの子ね」
気が付いたら蓉子が後ろに立っていた。
それもそうか。
ここはナースステーション。
必要な器具を取りに立ち寄ったところだった。
「そう?」
適当に惚けて返すと、蓉子がくすりと笑う。
「そうね。少なくともあなたにそんな顔させるくらいには。
あの子に会ってから、あなた普通じゃないわ」
「………」
「そんなに似てた?栞さんに」
「…馬鹿にしないで」
穏やかに言ったつもりが、不機嫌さは隠せなかった。
藤堂志摩子は久保栞ではない。
ただ笑い方が似ているだけ。
何も望んでいないような、生も死でさえも受け入れているような佇まいが。
それだけだ。
苛立っていた所為で蓉子が何げなく言った言葉に簡単に頷いてしまった。
いや、ひっかかってしまったと言った方が正しいか。
「そういえば今日、急用ができたのだけれど…夜の見回りを先生に任せてもいいかしら?」
「分かった」
本当に、何も考えずに引き受けてしまった。
そして現在に至る。
「くそ、蓉子に騙された」
病院の夜の見回り。
各部屋の患者の様子を診て周る。
起きている患者が居れば注意し、具合が悪そうな患者が居ればすぐに診察する。
普段なら看護婦がする仕事だ。
それを今日に限って聖に任せた理由。
「おせっかい…」
藤堂志摩子と会わせようとするために決まっていた。
他の看護婦に代わってもらおうにも、気付いたのがたった今なのでどうすることもできない。
蓉子の見回りは深夜1時の一回だけだったからしぶしぶ自分で行くことにした。
何となくすぐには行き辛くてその部屋は最後に回す。
何事もなく他の部屋を見回ると、思いのほか早く順番が回ってきた。
大分遅くなったからすでに寝ているだろう。
そうそう蓉子の術中にはまってたまるか。
聖は静かに病室のドアを開けた。
室内は真っ暗で静寂に包まれている。
ベッドにはちゃんと人影もある。
どうやら寝ているようだ。
聖がほっと息を吐くと、
「…こんばんは、佐藤先生」
「!!!」
静寂の中に声が落とされた。
「と、藤堂さん…起きてたんだ」
「はい」
「あー…もう遅いから早く寝なよ」
「はい」
それだけ言って聖は逃げるように部屋を出ようとする。
すると、後ろから声をかけられた。
「あの、先生…」
「へ?」
「少しお時間をよろしいですか?」
「別にいいけど…何?」
ついつい突き放した言い方をしてしまう聖に、志摩子は軽く微笑んだ。
聖にこちらに来るように促す。
「まだ体が思うように動かなくて…」
「今思うように動いたら私は君が人間なのかどうか疑うよ」
「でしょうね…ですから…」
「何?」
「できれば体を横に向けていただけませんか?」
何で、と聞こうとして止めた。
ずっと同じ姿勢のまま寝ているのだ。
理由はど忘れしたが、圧迫されてよくなかった気がする。
備え付けのタオルを背中の下に詰めて体を横向きのまま安定させた。
背中にかいてしまったであろう汗を別のタオルで拭うと、
「ん……」
気持ちよさそうな声が返ってくる。
それを続けていくと、次第に息が落ち着いてくるのが分かった。
「そういえば…どうして車に轢かれたんだっけ?」
しばらく答えが返ってこないのを見て、志摩子は寝てしまったのだと思った。
体を拭くのをやめ、使ったタオルをまとめる。
「ねこ…」
起きていたのか。
「猫?」
聖はベッドの縁に腰掛ける。
「猫を見かけたんです。まだ、子猫だったと思いますけど…ひとつ向こうの道で車に轢かれそうになっていて」
「それで助けようとして飛び出したの?」
意外だ。
そんなことするような子には見えないのに。
そしてその勘は当たった。
「いえ、飛び出したりはしていません」
「ならどうして」
「轢かれる、と思ってその猫を見ていたんです。そうしたら、轢かれてました」
「猫が?」
聖の問いに、志摩子は困ったように笑う。
「自分がです」
「は?」
つまり、猫が轢かれそうな所を見ながら歩行していたら、自分が車に轢かれていた。
そういうことか。
「それで…その猫は?」
再び静寂が訪れた。
規則正しい息遣い。
もう答えは返ってこなかった。
「寝た…のか、」
まさかこんな理由で轢かれたなんて思っていなかったから。
「…全然違う」
笑みを溢さずにはいられなかった。
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