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  水底の邑


小説投稿サイト・時空モノガタリの第1回 時空モノガタリ短編文学賞に書いた作品です。

時空モノガタリ短編文学賞は4,000文字以内、テーマは自由ということなので、久々に燃えました。

ストーリーは、以前に創作グループと参加した文学フリマでの出来事などですが、
この作品は自身の体験とフィクションを織り交ぜた創作作品でございます。

何卒、ご理解いただけますようお願い申し上げます。


 (表紙に使った画像はウェブ検索してお借りしました。)
 

     初稿 時空モノガタリ 2018年7月16日 文字数4,000文字
     カクヨム投稿(かんどう脳)2018年8月13日 文字数4,200字







 一冊の本を持って旅にでた。
 本のタイトルは『水底の邑(みなぞこのむら)』文学的な響きに魅せられる。
 水底をみずぞこではなく、みなぞこと読ませて、村ではなく、邑(むら)という中国漢字を使っているのが興味深い。
 邑(ゆう)音読み。(むら)は訓読み。口(くにがまえ、領域)+巴(屈服した人)、人を服従させ、その地に止めるの意。
『水底の邑』は、名も知らない作家の小説だった。
 
 この本を手に入れた経緯はこうだ。
 五年前、創作仲間たちと文学フリマに初参加した。大阪南部の都市で開催された文学フリマの会場は、まるで大きな体育館のようで、屋内には所狭しと机と椅子が何列にも並べらていた。
 この机ひとつ分が1ブース、私たちのグループは2ブース借りて商いをすることにした。各自持ってきた本や会誌を机の上に並べた、他のブースの人たちは慣れているのか手際が良かったが、初参加の我々にはレイアウトなど勝手が分からない。
 参加メンバーは四人、二人ひと組交代で店番をして、休憩時間に他のブースを見て回った。
 ――会場には様々な創作者がいる。
 コスプレしてる人もいれば、大学のサークルの人たちもいた。ジャンルは詩、俳句、短歌、小説といろいろ有り。
 その中には全員プロ作家という集団がいた。かなり高齢な人たちで、若いときに依頼されて文芸誌に自作が載った経験がある人たちだろうか。プロ作家で食べていける人はなかなかいない。作家として食べているならフリマで本を売ったりしないだろう。
 四、五十年前なら小説を書く人口も少なかった。パソコンやスマホが普及した現代、アプリを使って誰でも簡単に小説が書けようになった。それゆえに素人作家が急増して、層が厚くなり公募で入賞するのが難しい。
 その上アニメや漫画に慣れた若い世代に、活字文化はあまり人気がない。

 詩の投稿サイトで知っている人のブースがあった、手作りの可愛らしい詩集を売っていた。三行か五行くらいの短い詩を描く詩人で大人しそうな男性だった。
 以前は私の詩を読みに来てポイントを入れてくれたが、最近はぷっつりと来なくなっていた。あるとき古い自分の詩を見にいったら、そこに入っていた筈の彼のポイントが全部消されていたのに驚いた。
 私に対して、よほど気にくわないことがあったのだろうか? 
 一度入れたポイントをわざわざ消しにくるほど、彼を怒らせた記憶なんかこっちにはない。そもそもコメントしない人だったし、私もポイントを返すだけの付き合い、そこまで嫌われる理由が全く分からない。
 けれど自分では意図せずして、人を傷つけてしまうことだってあるだろう? 釈然としないが、今さら理由を知ったところで何も変わらない。
 私のペンネームを名乗った手前、彼の詩集を買う破目になってしまった。

 自分たちのブースに戻って店番をしていたが、さっぱり本が売れない。
 売れたのは手作りの詩集と同人誌くらい……ミニバンの新車が買えるくらいの金額を投じ自費出版して、会場まで重いのを我慢して持ってきたハードカバー本は、値段が高いせいか、誰も買ってくれないし、手にも取って貰えない有り様だ。
 けれど、あるメンバーの本は地方主催文学賞の入賞作品だったので、少し値を下げたら何冊か売り上げた。やっぱり無名作品だと誰も買ってくれないってことがよーく分かった。
 サイトで知り合った創作者が何人かブースに会いに来てくれたので、売れ残った本をお土産に持って帰って貰った。少しでも身軽になって帰りたかったから――。
 
 文学フリマ終了後、駅の近くの居酒屋で打ち上げをやった。
 本は売れなかったけれど、創作仲間たちと文学フリマに参加できて楽しかったと私は思っていた。みんなと文学の話をしながら、鍋を囲み、お酒を飲むのは至福のひと時だった。
 ……だが、帰りの電車の中で「なんであんな本が売れるんや!」酔ったメンバーのひとりが、自分の本が売れなかった不満を吐き出した。
 JRの車内で怒鳴るので……みんなからジロジロ見られ、連れの私たちは恥かしかった。そして急に静かになったと思ったら眠っていて、そのせいで降りる駅をひとつ乗り過ごしてしまった。
 自分の本が売れないことが、やけ酒を煽るくらい悔しいことだったの? 
 お祭り気分で参加した自分には理解できない。みんな負けず嫌いなんだなぁーと感心させられた。
 その日は大阪市内のビジネスホテルに泊ったが、酔ったメンバーはコンビニでお酒を買って、さらにホテルの部屋でもお酒を飲み続けた。酔って管を撒き、遠方から来たメンバーを寝かさないのだ。翌朝は二日酔いで機嫌が悪かった。しかもあれほど荒れたのに「昨夜の記憶がない」としれっいった。
 お酒さえ飲まなければ、気配りの利く良い人なのに……お酒が入ると人格が変ってしまう。以前にも他のメンバーと喧嘩になりかけたことがあったが、翌日には謝るので事を荒立てないよう我慢してきたのだ。
 楽しみにしていた文学フリマで、こんな嫌な思いをするとは思ってもみなかった。ネット上の人間関係をリアルに近づけ過ぎた自分自身の愚かさを反省する。これからは創作サイトだけの交流しようと決意した。





 ――そして散々だった文学フリマでの収穫は、この『水底の邑』という本だった。
 
 フリマ終了後、ブースを片付け帰り仕度をする、売れ残った大量の本は仕方なく持って帰ることに――。重いトランクを押して出口に向かうと、山積みされた本があった。『自由にお持ち帰り下さい』と紙が貼ってあったので、ちゃっかり一冊頂戴した。
 サイズは文庫本、百ページほどの薄い本だった。自費出版で有名な出版社から発行されており、おそらく契約期限切れで返本されたものに違いない。私もメンバーたちも段ボールに詰まった返本の山を一冊でも売りたくて、文学フリマに参加したというのが本音だ。
 この『水底の邑』の持ち主も本が売れず、送料を使ってまで送り返すのが面倒になり、ここに置いていったのではないだろうか? 
 誰も読んでくれない小説なんて、ゴミと同じだと自棄(やけ)を起こしたのかもしれない――その気持ち分からなくもない。
 
 その後、しばらく文学フリマでの出来事に苦心していたため、本の存在すら忘れていたが、本棚を整理したら出てきたので読んでみた。『水底の邑』のストーリーはこうだ。

 都会の生活に疲れた、ひとりの青年が幼い頃に遊びに行ったことがある、山奥の祖母の家を訪ねた。だが、有ったはずの祖母の住む村はなく、今はダム湖に沈んでいることを知る。
 帰りのバスに乗り遅れた青年は仕方なく、近くの小屋で一夜を明かすことに。夜半、寝ているとダム湖の水底から、誰かの呼ぶ声が聴こえてくる――ここまで読んでホラー小説かと思いきや、青年は声に導かれるままダム湖の水中の村へと潜っていく。突然、ファンタジーに変わった。
 水底の村では、亡くなっていた祖母や村人たちが生きていて、元気に田畑を耕し幸福そうに暮らしていた。
村人に歓迎された青年はやがて村娘と夫婦になり、水底の村に残ることになったが一年を過ぎた頃、平和で退屈な暮らしに厭き厭きして、こっそり都会へ逃げ帰ろうとする。結局、村人に捕まってしまい、青年は水底の村で重い鉄の足枷を付けられて、一生浮上出来なくされてしまうという顛末である。
 不条理な話だと思いながら最後まで読んでしまった。ちょっと安部公房の『砂の女』に似たストーリーだった。

『水底の邑』を読み終えた感想は、あまり上手くない小説だと思った。
 たとえば、文章の語尾は「だった。」と「でした。」の連続だし、接続詞は「そして」と「しかし」の2パターンしかなく、単調で稚拙な文章、読点や句読点が曖昧、改行が少ないせいで読み難くかった。
 純文学風だが、語彙力が乏しく、素人の自分からみても実力不足を感じさせた。

 ここからは私の憶測なのだが、この小説はパソコンのワード書いたものではなく、手書きの原稿用紙から起こしたものではないかと考察される。会話文の堅苦しさや古臭い表現などから高齢者が書いた小説のようだ。
 たとえば男女二人連れをアベックと書いたり、電話のダイヤルを回すと表現したり、作中の文章「村娘がシミーズ姿で僕を誘惑するのだった」など、昨今シミーズなどという女性下着の名称をあまり聞かない、今どきスリップという。
 おそらく昭和三十年から四十年代にかけて、リアルタイムで書かかれた小説ではないだろうか?

 きっと若い頃に書いた、この小説を誇りにして生きてきた人ではないだろうか。高齢になり人生の終焉が近づいて……自身の墓標として、この本を自費出版したのかもしれない。
 若気の至りで書いたこの小説が作者の青春そのものだった。書いている最中は苦しくとも、何もかも忘れて夢中になれる。――たとえ読者に伝わらなくとも、その作品の良さを誰よりも分かっている。自分の作品が一番面白いと思っているのは、他ならぬ自分自身なのだから。思い上がりだとしても、そう思わないと文章なんて一行だって紡げない。
 書き手の諸々の思いを散りばね完成したのが、この『水底の邑』という小説なのかもしれない。
 著者は阪口時男(さかぐち ときお)。小市民観漂うペンネームだ。おそらく本名ではないだろうか。

『水底の邑』の舞台は京都の片田舎になっている。
 淀川本流に建設されたダムは空想上だと思うが、地理や風景描写から天ヶ瀬ダムではないかと私は推測した。 この作品を書くにあたって、この作者も一度ならず訪れたであろう、ここ天ヶ瀬ダムの上に私も立っている。

 ――そしてこの旅の終わり、この本をダム湖へ投げ落とそうとしている。

 一昨年、私は眼の病気で手術をした。片目の視界が悪くなってしまい、もう創作は止めようかと思った。私は仕事を持っているし、これ以上無理はしたくない、しょせん趣味だから――そう分かっていても、止められなかった。
 創作することは、私にとって業(カルマ)なのだ。それを背負わなければ、自分自身の重みすら感じることができない、唯一無二の存在理由だから、ただ書くことが止められず、創作という呪縛から逃れられない、私こそが『水底の邑』の住人なのだ。

 やがて『水底の邑』は私の手を離れて、小鳥にように羽ばたきながらダム湖へ落ちていった。

 文学フリマのブースに並べられた数多の名もない本たちよ。
 誰にも読んでもらえず、理解されず、賞賛もされない。作者の思いだけを封じ込めた素人文学のページ、見果てぬ夢が瞬きながら深いダム湖へ沈んでいく――。
たとえ報われなくとも、光の届かない水底で足掻き続けていこう。



― 了 ―



                         


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