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  南京虫

小説投稿サイト・時空モノガタリのテーマ【 時計 】で20012年9月に投稿した「南京虫」という作品と、
同サイトのテーマ【 結婚 】で、20014年5月に投稿した「風媒花」と

二作品を合体させて、ひとつの作品としたのが、この小説『南京虫』です。

亡くなった祖母の遺品の南京虫と呼ばれる、古い婦人物の時計から、今明かされる。

戦前の哀しい恋の物語なのです。


(表紙に使った画像はウェブ検索してお借りしました。)
 

   初稿 エキサイトブログ 2014年5月20日 文字数 7,851字
   カクヨム投稿(れんあい脳) 2016/12/25 文字数 8,609字










「女物の小さな時計のことを昔は南京虫って言ったんだよ」
 ふいに、おばあちゃんの声が耳の中に響いた。
 半年前に亡くなった祖母の遺品整理をしている時だった。和箪笥の中からたとう紙を引っ張り出したら、コトリと音がして何かが足元に落ちた。見ると、小さな桐の箱だった。その中には華奢な婦人用の時計が入っていた。
 その時、おばあちゃんの声が何処からか聴こえてきたのだ。

 私はおばあちゃんっ子だった。
 うちの両親が共稼ぎだったので、小さい頃から私の面倒をおばあちゃんがみてくれていた。物心ついた頃から、おばあちゃんの側に居たせいだろうか、ふいに口を突いて出てくる童謡も、小さな千代紙で折った鶴も、他所の家にいったら玄関では靴を揃えてから上がることも、みんな祖母から教えられたことだった。
 母に叱られて拗ねていると、「おばあちゃんも一緒に謝ってあげるから、千尋もママにごめんなさいって言うんだよ」そういって母に取りなしてくれる。いつも笑顔を絶やさない、優しいおばあちゃんが大好きだった。
 その時計を見つけて、また涙が溢れてきた。――これは形見に私が貰っておこう。
 
 私の祖母の千鶴は大正十三年生まれで、厳格な教育者の家庭で育ちました。
 太平洋戦争の末期である昭和十九年に地方公務員だった祖父と見合い結婚して、二男二女を儲けた。長男は三歳の時にチフスで喪い、次男である私の父は上の二人の姉から年が離れているが、男の子が生まれた時には、死んだ子(長男)の生まれ変わりだと、祖母がずいぶん喜んだという。
 そのせいか、末っ子である父には何かと甘い母親だったようである。
 おばあちゃんの連れ合いは、私が物心つく前に他界していて、どんな人だったか記憶にはないけれど、酒も煙草も嗜まない真面目一方の男であったと聞いている。
 頑固で吝嗇家だったという夫との結婚生活は、あまり幸せなものではなかったようでした。
 夫に先立たれて独りになったおばあちゃんの元に、うち両親が同居することになったのは私が生まれて間もない頃で、赤ん坊だった私を祖母に預けて、母は安心して外で働くことができたと思う。それは共稼ぎの両親に代わって、おばあちゃんが家事全般をやってくれていたお陰である。
 極めて健康体だったので、八十歳近くまで自転車で近所のスーパーに買い物に出かけていたが、一度、軽い脳梗塞で倒れてからは歩行が不自由になってしまった。そのため会社を退職した母が家に居るようになって、我が家の家事全般はバトンタッチされた。

 その祖母が米寿になった時、自らの意思で養護老人施設のグループホームに入居したいと言いだした。
 世帯主である私の父は大反対し、母も姑とは上手くいっていると思っていただけにショックだったようだ。 二人とも口を揃えて祖母を最後まで看取りたいといい張ったが、頑として聴き入れず、県外に住む長女に入居の手続きをさせると、さっさとグループホームに入居してしまった。
 昔から芯の強い人で、決めたことは必ず実行する性分だった。

 半年ちょっと前になると思うが、おばあちゃんに会いにいこうと思い立った。
 その頃の私はプライベートで悩みを抱えていて悶々としていた。三十歳近くになるというのに未だに、両親と同居している意気地なしで気難しい娘だった。
 車で小一時間でいけるし、決して遠い距離ではない。
 週末には両親もドライブ気分で祖母の面会にいっている。グループホームでの暮らしにも慣れて元気そうだと母が言っていたが、まるで自分たちの方こそ、おばあちゃんに見捨てられたみたいで寂しいとぼやいていた。
 たしかに祖母は少し変わった人だった。
 女にしては無口で余計なことはいっさい喋らない。気配りの利く性格だが恩着せがましいところがなく、ストイックというか自分に厳しい人であった。他人との間に自然と垣根を拵えて、必要以上に踏み込ませないという気概すら感じる。――それが封建時代に生まれた女の芯の強さなのだろうか。
 こんな祖母に育てられた、この私こそが一番影響を受けていたのかもしれない。

 爽やかな五月晴れ、軽自動車の窓を少し開けて運転している。
 磯の匂いが風にのってやってきたら、祖母の住むグループホーム『潮風荘』は近い。岬の突端、海に向って洒落た洋館造りの三階の建物が見える。全室「オーシャンビュー」が謳い文句の老人施設なので、昔から海の近くに住みたいとよく言っていたから、ここが気に入ったのだろう。
 駐車場に車を停めて建物の中に入っていく、ここに来るのは三度目だが、一人できたのは今日が初めてだった。海が真正面に見える硝子張りの吹き抜けのロビーは、眩しいほど明るい。フロントで面会を告げると、介護士が車椅子に乗った祖母を連れてきてくれた。
 三年前、脳梗塞で倒れてから後遺症で歩行が不自由になった。
「おばあちゃん」
「千尋、久しぶりだね」
 優しい笑顔で祖母が迎える。
 その顔を見た瞬間、ふいに涙が出そうになった。あんなに可愛がって育ててくれた、おばあちゃんなのに……私ときたら、《ずっと来れなくてゴメンなさい》不義理を心の中で詫びる。
「散歩しようか?」
 祖母の車椅子を押して、海岸沿いの遊歩道をゆっくりと歩く。
「おばあちゃん、ここでの暮らしはどう?」
「ああ、とっても楽しいよ」
 あっけらかんという。何が不満で家を出たのか分からないが、祖母なりの考えがあったのだろう。
「お前こそ、急にどうしたんだい?」
「うん……」
 私が言い淀んでいると、それ以上、突っ込んで訊こうとはしない。――結局、その沈黙に耐え切れず、いつも自分から話し出てしまう。
「恋人と別れた。六年間付きあってたけど、もう限界だと思ってサヨナラしたの」





 大学時代からの交際相手だった。
 今度地方に転勤になったと知らされたが、一緒にきてくれとも、結婚しようともいってはくれない。ただ、「何かあったら……」新しい住所を書いた紙をくれたが、破り捨ててしまった。憎んでいるわけではないが、六年も交際して結婚を口にしない男に苛立ちを感じていた。
 進展のない恋に失望して終わりにしようと心に決めた。
 彼にとって私はどういう存在だったのかな? 都合のいい女にはなりたくない! 私だけを愛してくれる誰かのOnly youになりたかった――。

「そんな顔して……おまえがきたから、何かあると思った」
 掻い摘んで事情を説明したら、そう言われた。私の心を覗きこんだように、おばあちゃんにはお見通しだ。
「結婚は縁だから、その人とは縁がなかったんだよ」
「うん」
「お前が悄気ることないさ」
「悄気てないけど……やっぱり寂しい」
「もっといい人が現れるから、安心おし」
 どんな慰めの言葉も耳を通り抜けていく、ぼんやりと海を見ていた。
「……おばあちゃんはおじいさんとお見合いだったの? 知らない人と結婚するのって勇気が要る?」
 ふと、祖母の結婚観を訊いてみたくなった。
「昔はみんな見合いだし、親が選んだ人と結婚するのが当たり前の時代だった。結婚してから相手のことを好きになっていくものさ」
「じゃあ、おばあちゃんはおじいさんのことを好きになれたの?」
 その質問には薄く笑って答えなかった。
「おばあちゃんは恋愛したことないの?」
「あるよ」
 その返答は意外だった。
「おじいさんと一緒になる前に、幼馴染だった人と両想いだった。でもね……家柄が合わないからって親に猛反対されたんだよ」
「別れたの?」
「戦時中でね。その人に赤紙がきたのさ」
「赤紙?」
「召集令状だよ。兵隊に取られて帰ってこなかった。最後にきた手紙で特攻隊に志願したって書いてあったから……。祖国と君を守るために命をかけて戦うんだと……さ、昔の若者は純粋だったからね」
 遠い目をして祖母は海を眺めていた。
「その人とはそれっきり?」
「出征の前日に親に内緒で逢引したよ。生きて帰ったら、私を嫁に貰うんだと誓ったくせに、その約束は果たせなかった」
 戦時中にはよくある話だと思った。
「哀しい思い出だね」
「その人とは接吻をしたことがある」
 そういって少女のように頬を赤らめた。それが祖母の唯一の恋の思い出なのだろう。
「あの人が英霊となって私のことを守ってくれていたから、あんな激しい空襲にも生き残れたんだ。今は海に眠る人に感謝して、ここから毎日供養しているんだよ」
 やっと分かった! 祖母がここに入居した本当の理由が……。
「今度生まれ変わったら好きな人と結婚したい」
「おばあちゃん」
「それまで天寿を全うする。千尋もいい人を見つけるんだよ」
「うん」
「お前は気立ての良い子だから、幸せにしてくれる相手がきっと現れるさ。どこかで千尋と出会うことを待っているから……」
 失恋したばかりの三十前の孫娘をそうやって慰めてくれる。望む結婚ができなかった時代の祖母、今は自分の意思で結婚相手を選べるのだ。――やっと吹っ切れた気がした。
 その時、私の脳裏に軍服を着た青年と白無垢の花嫁姿のうら若き祖母のイメージが浮かんだ。戦争さえなければ幸せな結婚をしていたかも知れないのに……。
 心の憂さも吹き飛んで、前向きになった私は、祖母に別れを告げて『潮風荘』を後にした。

 その訪問から、二週間後に肺炎を患い祖母は帰らぬ人となった――。 





 祖母の形見の時計は壊れているようで、ネジを巻いても動かなかった。
 近所の時計屋に持っていったら「こんな古い時計はうちでは修理できない」と断られてしまった。ゼンマイや古い部品が現在では手に入り難いらしい。どこか修理してくれる所はないですかと尋ねたら、「芦田時計店のご主人なら古い時計が直せるかも知れない」と言われた。
 さっそく教えて貰った住所を頼りに『芦田時計店』へ向かう。そこは車で三十分くらいの距離だった。

 そのお店は洒落た煉瓦作りのレトロな時計屋さんで、ショーウインドウにはアンティークな時計ばかり飾られていた。店内に入ると、カウンターの奥でおじいさんが一人、眼にルーペを付けて時計の修理をしていた。
「いらっしゃい」
 私に気付いたおじいさんが気さくな笑顔で迎えてくれた。
「あのう、この時計を修理して欲しいんです」
 桐の箱に入った祖母の時計を渡した。
「おや、南京虫じゃないか? 戦前に流行った婦人用の腕時計のことだよ。若いお嬢さんが持っているのは珍しいね」
「これは祖母の形見なんです」
「そうかい、だったら直してあげようね。ひとつだけ部品が残っている、それでお終いだよ……」
「お願いします!」
「千鶴さんのお孫さんのお願いだから断われないなあー」
 そういって、おじいさんがニヤリと笑った。
「えっ? どうしておばあちゃんの名前を知っているんですか!?」
「この時計を千鶴さんに贈ったのは、この私だからだよ」
「……本当ですか?」
 突然の話に私は茫然としてしまった。いったいこのおじいさんは何者なんだろう?

「――もう故人だというなら、話しても構わないだろう」
 おじいさんは南京虫を眺めながら、ひとり合点をするように呟いた。
「戦時中の話だよ。千鶴さんとは同じ町の出身でね。幼馴染だったが、大人になったら千鶴さんをお嫁さんに欲しいと思っていたんだ。だけど、昔のことだから家柄が合わないからと千鶴さんの親に縁談を断わられてしまってね。その内、私に赤紙がきて出征することになったんだ。その時、千鶴さんに南京虫を渡した。戦地から生きて帰れたら……きっと迎えにいくからと……」
「――そうなんですか」
 初めて入った時計屋さんで、若い頃の祖母の話を聞かされるとは思ってもみなかった。しかも、その話はおばあちゃんが生前、私に喋ったことと被るのだ。
 もしかして……おばあちゃんの霊がここに導いてくれたのだろうか。
「シベリアに抑留されて……ようやく日本に帰ってきたら、千鶴さんは嫁にいっとった。あはは……」
 おじいさんは自嘲するように空笑いをした。
「死にぞこないなんじゃよ――。特攻隊に志願したが戦争末期でね。もう機体が足りなかった。満州の方で戦ってる内に終戦がきて、武装解除して投降したがロシア兵に掴まって、そのままシベリアに三年も抑留されてしまった」
「生前、祖母に生きて帰ったら結婚しようと誓った人がいたと聞いたことがありますが……もしかしたら芦田さんのことですか?」
「ほおー、私のことを聞いておったんですか?」
「ええ、亡くなる少し前でした。祖母は海の近くの老人施設に入居していて、毎日、特攻隊で亡くなった人を供養していると……」
「えっ? 供養ですか? オカシイなあー、実は戦後二度ほど会ってるんですよ」
「えーっ! まさか? それ本当ですか!?」
 その言葉に私は心底驚いた。
 特攻隊で戦死したように、私には話していたくせに……戦後、二人は再会していたなんて……。いったいどういうことなんだろう?





「シベリアから日本に帰ってきて、すぐに探したんです。空襲で私の生家も千鶴さんの家も跡形なく焼けてしまっていました。あっちこっちに尋ね歩いて、やっと千鶴さんを見つけたら、すでに結婚してお子さんも二人おられた」
 祖母は最初に長男を生んで次に長女が生まれた。おじいさんが見た二人の子供とはこの子らのことだろうか。
「あれは晩秋だったなあー、庭先で七輪に火を起こして秋刀魚を焼いてなさった。背中に赤ん坊を背負って、足元には小さな男の子が遊んでおった。垣根から私が覗いていたら、こっちに気づいて私の姿を見た瞬間、まるで幽霊を見たように凍りついておられた。いやはや、私が死んだとばかり思っていたので、千鶴さんはさぞ驚いたことでしょう」
おじいさんは一人ごちて、懐かしそうに語っている。
「じゃあ、その時に祖母と顔を合わせたんですね?」
「ええ、生きて帰ってきたことを告げました。そして、生家の近くで時計屋を始めたことも話しました。私の家は代々時計屋だったんです。封建時代は商家は卑しい身分だといわれて、それが原因で千鶴さんの親に結婚を反対されたくらいですから……」
 どうして? おばあちゃんは『芦田時計店』のおじいさんが死んだことにして、私に話して聞かせたんだろう。
「二度会ったとおっしゃったけれど……」
 なんか腑に落ちないことばかり……。
「そう、あれからひと月くらい後にね。千鶴さんの方から私の店に訪ねられました。戦後でまだバラックの建物でしたが……。この南京虫を分解掃除してくれと頼まれた、昔の腕時計は一年に一度くらいメンテをする必要があるんです」
 そういって、祖母の時計の裏ぶたを見せた。そこには『昭和二十三年 芦田時計』と記してあった。
「――たしか、三歳くらいの可愛らしい男の子を連れておられたが、あの子もずいぶんいい年になったことでしょう」
 一緒に連れていたという子供は、たぶん亡くなった長男のことだと思う。
「長男は三歳でチフスで亡くなったと聞きましたが……」
「そうでしたか……」
 おじいさんは神妙な顔をして頷いた。
「そのせいかなあ? 実はこの南京虫の修理が終わっても、千鶴さんは引き取りに来なかった。一週間経っても、ひと月経っても、まだ来ないので直接届けにいったんですよ。実は千鶴さんに会いたくてね。……それが家の中に人影が見えたけれど、私が呼んでも出て来なかった」
「居留守?」
「きっと、会うのが憚れたのだろう」
「近所の目もあるから――」
「さあ? それで仕方なく、郵便受けに時計を入れて帰りました」
「きっと芦田さんのことが好きだから会うのが怖かったのかも知れない」
「いや……あははっ」
 若い娘に冷やかされて、おじいさんは照れ笑いをした。

 おばあさんは供養していると言っていたが、死んでもいない人の供養をなぜする必要があるんだろう?
 あっ! その時、私の頭の中で一つの仮説が浮かんだ。
 たしか、長男が死んだのは芦田さんと会った時期と重なる。もしかしたら、昔の恋人と会うのに長男を連れていって、その子がチフスに罹って死んだから、おばあちゃんは神様の罰が当たったと思い込んで、罪悪感を持っていたかもしれない。
 浮ついた気持ちのせいだと後悔して、芦田さんとは二度と会わないと決心したのだろうか。――だとしたら、おばあちゃんらしい。
 そういえば、この南京虫を人前で付けているのを一度も見たことがない、遺品整理するまで知らなかったし、きっと過去を封印したかったんだ。そして自分の心の中では、芦田さんは特攻隊で戦死した人ということにして幕を引いたのだ。
 ――根拠はないが、そう思えて仕方ない。祖母はちょっと変わった人だったから……。 

 しばし自分の思考に没頭している間、おじいさんはルーペで祖母の南京虫を点検していた。
「一週間後に取りにきてください。年のせいで、めっきり目が悪くなって根を詰めて修理ができなくなってきたので……」
 祖母と同じくらいだとすると、おじいさんも相当な高齢だろう。
「この南京虫は出征する前夜に千鶴さんに手渡した。シベリア抑留中は再会できることを生きがいにして、飢えと寒さと過酷な労働に耐えて生き延びたんだ……じゃが、日本に帰ったら人妻になっとった。あはは……」
「す、すみません」
「いやいや、恨んではおらんよ。当時の娘は親の決めた相手としか結婚できない時代じゃった。今みたいに自由恋愛なんぞ、滅相もないことだ」
 昔の人は見合い結婚が当たり前で、自由結婚は堅気の娘がすることなかったらしい。修理を頼んでお店を出ようとすると、
「あんたは若い頃の千鶴さんにそっくりじゃった」
 おじいさんが嬉しそうに手を振って笑っていた。
 その言葉にちょっと照れながら、私は『芦田時計店』のドアを閉めた。





 家に帰ってからパソコンで戦前のことを少し調べてみた。
 封建時代の結婚のことやシベリア抑留のことも……おばあちゃんも、『芦田時計店』のおじいさんも、日本にとって大変だった時代を生き抜いてきたのだと実感した。
 あの『芦田時計店』は町名変更で分からなかったが、実はおばあちゃんの生家のすぐ近くだった。会おうと思えば、いつでも会えたのに……頑として撥ねつけたのは、気骨ある大正生まれの女だからだ。

 好き同士なのに、一緒になれなかった二人――。
 誰を恨むこともできない、激動の昭和と戦争のせいにするしかないだろう。

 一週間後、『芦田時計店』に時計の修理を取りに行ったら、お店の扉に『喪中』の紙が貼ってあった。不幸があったみたいだし帰ろうかと店の前で迷っていたら、ふいに扉が開いて人が出てきた。
 若い男性だったが、扉の前に人が立っていたので驚いた様子で、
「あ、すみません」
「いえ、こちらこそ」
「何かご用でしょうか?」
 男性は扉の『喪中』の紙を剥がしていた。
「修理の時計を取りにきました。……あのう、誰がお亡くなりになられたのですか?」
「祖父です。三日前、朝になっても起きてこないので様子を見にいったら眠るように亡くなっていました」
 その言葉に驚いて、私は絶句した。
 まさか『芦田時計店』のおじいさんが急に亡くなるなんて……。
「あんなにお元気そうだったのに……」
「高齢でしたから、心臓も弱ってきていました」
「先日、お邪魔した時にはたくさんお喋りをして……」
 元気そうだったおじいさんの顔を思い出して、胸が詰まった。
「実は前の晩に変なことを言っていたんです《逢いたい人に会えたからもう満足だ》そういって寝たら……翌朝に死んでいました」
 おじいさんは、千鶴さんの時計に会えたのが嬉しかったのかな?
 
 若い男性は、私を店内に招き入れて修理済みの南京虫を渡してくれた。腕に付けてリューズを巻くとおばあちゃんの時計が再び動き始めた――。
 ふと見ると、若い男性の腕にも古い時計があった。
「その時計は……?」
「祖父の形見です。戦前に買ったものらしいのですが、大事にしていたので僕が貰いました」
 大きさは違うが、祖母の南京虫と形がよく似ている。もしかしたら、この二つの時計はお揃い(ペア)だったのかも……しれない。
「この南京虫も祖母の形見なんです」
「ああ、だからそんな古い時計をもっていたんですね」
 その男性は同類を見つけたとばかりに、白い歯を見せて笑った。
「祖父と僕とは血の繋がりはありません。彼は生涯独身でしたので……芦田家の遠縁にあたる孤児だった僕の母を養女として育ててくれたのです。おじいちゃんは時計職人の腕はピカイチだったし、誰に対しても心の広い、優しい人でした」
 きっと芦田さんと結婚していたら、もっと幸せな人生を歩めたかもしれない。――そう思うと、おばあさんが可哀相だった。
 たぶん芦田さんの方も千鶴さんと結ばれていたら、生涯独身を貫くこともなかっただろう。運命の歯車が噛み合わなくて、不本意な生き方しかできなかったのだ。
 あの時代に生まれた二人は、自分たちの意志で結婚することができなかった。――でも、今の時代なら違う。
「うちの祖母と芦田さんは幼馴染だったみたいで……」
「その南京虫は、おそらく祖父があなたのおばあさんに贈ったものではないかと思う」
 彼もやはり気づいていたのだ。この二つの時計がペアになっていることを――。
「僕はおじいちゃん子でね。この時計店も僕が継ぐことにしたのです」
 おじいさんの時計を見ながら、優しい笑みを浮かべて語る。その横顔に、言いようもなく親近感が湧いてきた。 
「私も大のおばあちゃん子でした」
「あなたも……」
 初めて二人は、まじまじと相手の顔を見た。二つの時計が時空を超えて、孫同士を引き合わせてくれたのだ。

 その時、私の南京虫と彼の時計が新たな運命の時を刻み始めるのを予感した――。



― 完 ―




              


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