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 The other side of purple smoke 

この作品は、自分自身の若い頃のことを書いた私小説というか、
回想録のようなものです。

思い出して書いていくと失敗やら挫折やら、いろいろあったので、
途中まで書きかけて……
辛くなって、二ヶ月ほど放置していました。

それでも気持ちの持ち方を変えて、
自分をもっと客観的にみて書いてみようと思い立ったら、
なんとか書き上げることができました。

これを書き上げないと先に進めないような気がしていたのです。

サイトには投稿せず、自分のブログとHPのみ掲載します。


後ほど、「紫煙の向こう側」というタイトルで推敲した作品です。


(写真は《女子向け》おしゃれ画像集よりお借りしました。http://matome.naver.jp/odai/2132607667028844701)


   初稿 エキサイトブログ 2014年4月18日 
   更新 文字数 7,490文字 2016年3月3日
   カクヨム 文字数 7,616文字 2017年9月14日










 なぜだろうか?
 当時のことを思い出そうとすると、頭の中を紫色の煙がたち込めてくる。
 あの頃、私が愛煙家で一日二十本以上の煙草を常時吸っていたせいかも知れないが、記憶そのものがヤニ臭く、どんよりと燻っているようなのだ。

 若き日の思い出を人に語りたいと思うのは年を取った証拠だろうか?
 失った物、無くした物、消えた物……どんどん薄すらいで曖昧になってゆく――。私の海馬に残った痕跡を集めて、もう一度、あの日々を蘇えらせたいと、センチメンタルな衝動に駆られてしまった。
 甘く、切なく、儚い、そんな懐かしさに囚われて、今日まで生きてきたように思う。
 失敗した人生を人に聴かせるのは自虐趣味だと分かっているが――。しかし、その自虐こそ自分にとって、この上もなく甘美な痛みである。

             
*



 かれこれ三十年ほど昔だが、私たちは東京で漫画を描いて暮らしていた。
 相方である夫は小学館の児童漫画雑誌で連載を持っていて、私はアシスタント兼女房であった。
 子どものいない夫婦だった私たちは、自由な暮らし振りで、趣味を楽しみ、お互いを拘束しない関係だった。結婚とかそういう概念すらなく、あまり家事もしないぐうたら女房だった私は、夫婦というよりも漫画を制作するためのパートナーといった感じである。何よりも仕事である漫画を最優先して、それを中心に生活の全てが回っていると言い切れるほどだった。

 漫画が売れない頃、私たちは千葉県柏市の貧しいアパートに住んでいた。
 小学館の児童漫画の公募で佳作を受賞した相方は編集者の目にとまり、いろいろ指導されて月刊誌に連載を持つことができた。
 最初の連載漫画はいまいちの人気でわずか半年足らずで連載終了してしまったが、次のチャンスにいただいた連載はわりと好評で雑誌の人気投票でも上位に入った。おかげで巻頭カラーや増ページ、雑誌の表紙にも大きく扱われて漫画家は至福の思いに浸っていたのでした。
 その内、漫画の単行本コミックスも出版されて、少し余裕が出てきた私たちは千葉から首都東京へ転居しました。
 それも東京ではハイソなイメージの世田谷に住むことになった――。
 最寄りの京王線の千歳烏山駅前は人通りも多く、コンビニや喫茶店もオールナイトでやっていて、真夜中でも町は煌々と明るく、千歳烏山の駅周辺を歩いている時、千葉と違ってここは都会だなあーと実感した。
 都会と田舎の違いって、簡単に説明すれば夜が明るいか暗いかの違いだと思う。人が少ないせいだろうか、街灯がまばらにしかない田舎では日が暮れると、とても寂しい。夜が重く、深々と闇に呑み込まれていく感じが陰鬱だったりするのでした――。
 ところが漫画家夫婦には眠らないこの街の喧騒さが思いのほか居心地よく、真夜中でもお腹が空けば二十四時間営業のコンビニがあり、ファーストフードのお店もやっている。駅前の区民センターには図書館もあり、本好きの私には有難い、自分たちのライフスタイルに合った、便利でお洒落なこの街がとても気に入っていた。

 千歳烏山の駅から徒歩五分くらい、三階建ての小さなビルがあった。
 一階はお弁当屋さん、二階は設計事務所、三階を私たちが住居兼仕事場に使っていた。六畳の和室と八畳くらいのダイニングキッチンと二間だけの小さな部屋、ここで約七年間、私たちは漫画を描いていた。
 ――それは昼と夜が逆転した生活だった。
 昼間は窓のブラインドを閉じて眠っている。夕方近くには起き出して仕事を始めるという、いたって不健康な生活パターンであった。
 お酒はさほど飲まなかったが、仕事中はほとんど監禁状態の漫画家の楽しみといえば喫煙くらいしかない。
 私たちの師匠だった漫画家も無類の愛煙家で一日三箱は軽く吸っていたと思う。
 先生は少年ジャンプで一世風靡した漫画家で、赤塚不二夫のチーフアシスタントだった人である。一時期、赤塚不二夫賞の選考委員も務めていた。
 余談だが、ある時、赤塚不二夫賞の最終選考作品の漫画のコピーを私たちアシスタントに見せてくれたことがある。選考作品について意見を求められたが、なんとその中に無名時代の鳥山明の作品があった。当時としては鳥山明の漫画は新感覚すごい才能だと私は思ったけれど……先生は鳥山明の絵はアメリカンコミック風でこういうのは一般受けしないと、アシスタントたちの前で断言したのだ。
 ところがどっこい! ご存知のように鳥山明は大ブレイクした超人気漫画家である、先生の読みは見事に外れた。
 そんな先生の元で、うちの相方は約六年間チーフアシスタントを務めた。私も二年ほど先生の仕事も手伝っていたが、そこでの私の仕事といえば、消しゴムかけとベタ塗り、ホワイト修正とスクリーントーン貼りだった。
 グルメだった先生はアシスタントにもご馳走を食べさせてくれたし、お喋りな先生の話をうんうんと頷いて聴いてさえすれば機嫌も良かった。
 先生が漫画のアイデアが浮かばない時には、喫茶店で暇潰しに漫画を読んで待っているか、みんなでトランプゲームをして遊んでいたのだから、今思えば、なんと気楽な職場だったのだろう。
 ――しかし昼も夜もない仕事場で煙草の煙に塗れていた。
 漫画家の早死の原因のほとんどが不規則な生活と、睡眠不足と、喫煙ではないかと思われる。
 ちなみに私は二十年前から禁煙しており、現在は全く煙草とは無縁の生活で、むしろ嫌煙家に転じてしまったが、あの頃の生活をタグで示せば、【 マンガ・夜・煙草 】この三つのキーワードに要約されるような気がする。

 うちの相方とは、元々同じ関西出身で高校生の頃から付き合っていた。二人は漫画の同人誌を通じて知り合い、同じ夢を追う同志のような関係だった。
 相方はデザイン専門学校を卒業した後、デザイン会社に一年半ほど勤めたが、漫画家の夢が捨てきれず、上京してジャンプの編集者の紹介でアシスタントの職に就いていた。
 その一年後、私もパナソニックを退社して、彼の住む東京にいき二人で同棲を始めました。その頃、私たちは家では関西弁で喋っていたが、一歩外に出ればスイッチを切り替えたように関東の言葉で会話をしていた。何となく、関西人は東京では低く見られる風潮を肌に感じていたからだ。
 ――二人の夢は東京で連載漫画家になることだった。
 いつも漫画のことばかり話し合っていました。喫茶店にノートとペンを持って《あーでもない、こーでもない……》と、何時間も漫画のアイデアを練っている日々だった。――私は創作のブレーンのような存在でした。

 ところで相方の自慢といえは漫画の神様、手塚治虫に寿司を奢って貰ったことである。
 手塚治虫の実家のある兵庫県宝塚市に高校時代の先輩で、地元の手塚治虫ファンクラブ会長を務めていた人が、手塚さんと会うので君も来ないかと誘ってくれたそうです。
 寿司が好きな手塚治虫が、無名の高校生だった相方にも一緒に寿司をご馳走してくれたということで、その時に手塚治虫が自筆で名前まで入れて描いてくれた色紙が彼の宝物だった。
 その色紙には手塚治虫の初期のキャラクターのロックやランプの絵が描かれていた。サインに何を描いて欲しいと訊かれたので、それらのキャラの名前を挙げたら、快く見ている前でサラサラと手塚治虫が描いてくれたらしい。
 普通、漫画家はアマチュアが「プロになりたい」と言うと、たいてい「漫画が好きならプロにはならない方がいい」と、好きなことを仕事にする厳しさを懇々諭すものらしいが、手塚治虫の場合はそうではなく、素人でもプロになりたいと言う者がいたら「是非、漫画家になりなさい」と答えるらしい。

 さすが漫画の神様は苦しんで描いていないせいか、実に楽天的な物言いをする。






 さて話を本筋に戻して、千歳烏山にきてから、しばらく快調な生活が続いた。
 連載していた漫画の人気が出て、雑誌の表紙を飾ったり、巻頭カラーだったり、増ページやら、寝る間もないほど忙しくなってきた。他誌からの仕事の依頼もあって、徹夜続きだったりして、、締め切り前の修羅場も経験した。
 その頃、相方はサイン会で地方に出張することもあった人気漫画家である。一時的ではあるが、おかげで少しばかり儲かった。
 それまで極貧生活を強いられていた漫画家が、思いがけない大金を持ったのだから舞い上がってしまい、計画性もなく、貯金をしようなんて考えは毛頭無い!
 銀行に入金された原稿料で旅行をしたり、趣味を楽しんだり、きれいさっぱり使ってしまった。――というのも相方がアンティークオーディオという酔狂な趣味にはまってしまい、真空管アンプや手作りスピーカーに凝りだし、古いジャズレコードまで収集し始めたものだから、それに湯水のようにお金を注ぎ込みだしたのである。
 そのころ聴いていたブルーノートの名盤レコードは、私の感性を育ててくれたことと思うのだが……まあ、結局のところ漫画家なんて、後先考えない無鉄砲な人間がやる職業にほかならない。

 けれども漫画家も人気商売だから、いずれ落ち目になってくる。
 ――そうなると、どんどん八方塞がりになってくるから世の中は不思議だ。
 まず、漫画の人気が下がると担当編集者を替えられてしまう、そうなれば今までの担当と考え方や意見が違ってくるので、漫画家はやり難くなってくる。しかも人気がある時にはチヤホヤしていた編集者が豹変して、偉そうな態度になって、細かいことであれこれなんぐせをつけてきて、描き直しを何度も要求するので、漫画家は疲弊して腐ってしまう。
 おまけに漫画のページ数は減らされて、煽りの広告も小さくなっていく……雑誌内での作品のあつかいも悪い、落ち目の漫画家ほど惨めなものはない。
 ――そこで編集者と喧嘩して連載を終わらせた漫画家もたぶん多いと思う。
 漫画の人気というのは、作者の実力もさることながら、やっぱりテーマやネタに寄る影響が大きく、特に子ども向けの漫画だと時代にタイアップしたキャラやゲームなどが断然強い。しかし、そういう内容では飽きられやすく、替わりの漫画家は幾らでもいるのだ。
 結局、担当編集者と上手くやっていけず、漫画の人気が落ちてきて、約五年近く続けていた小学館の児童漫画の連載はあえなく終了となってしまった――。

 当然、連載が終わってしまい、私たちの収入も激減した。
 他誌でも連載漫画を持っていたのだが、その雑誌が突然休刊になってしまった。
 任天堂のアメリカ向けゲーム雑誌のイラストを副業で描いていたが、このイラスト画はかなり高額で良い仕事だったのに……アメリカにはユニオンがあって、現地のイラストレーターに仕事を依頼しないと経済摩擦が起きるからと、そんな理由で仕事を断られてしまった。
 切羽詰まった私たちは、ついに持ち込み用の原稿を持って、成人向け漫画雑誌の出版社を回ることになった。一社だけ、連載の仕事をくれた雑誌社があったが、人気がイマイチ、三ヶ月くらいで連載を打ち切りにされた。
 嗚呼人生、何をやっても上手くいかない時期というのがあるもんだ!

 ――いよいよ、生活が厳しくなってきた。
 元々、貯金などない私たちは漫画を続けながらできる仕事はないかと、あれこれ探していたら、住宅付きで夫婦で働ける『女子学生会館』の管理人の仕事が見つかった。今、住んでいる場所からも近いし、住宅も付きだから家賃が要らない、これはラッキーと飛びついた。
 仕事は女子大生が五十人くらい住んでいる女子寮(男子禁制)の受付や電話番、掃除などの仕事で、相方は夜間の警備込みの管理人をしていた。
 当時は携帯電話とかないので、学生会館に掛かってくる電話を回線で各部屋に繋いでいたのだが、男友達から電話が掛かってきても、誰々君は繋がないでと女の子たちのリクエストを聞いていたものだ。たぶん新しい彼氏ができて、その男性とは別れたいのだろうか。
 初めは好奇心もあって面白い仕事だと思っていたが、何しろ公私の区別がない。
 寮のすぐ近くに家を借りて貰っていたが些細な用事で呼び出されて、ゆっくり休んでもいられない、夫婦で働く時間帯が違うので、一緒に居られないし、結構、雑用が多くて……漫画など描いている余裕なんか、どこにもなかった――。
 まあ、世間的にみて二足わらじでやっていけるような甘い仕事などはないのだが、そこは社会性のない漫画家の哀しさで、こんな筈ではなかったとフラストレーションを募らせて、結局、十ヶ月くらいで辞めてしまった。

 世間知らずの漫画家夫婦は現実の厳しさに戸惑うばかりだった――。






 そして、私たち夫婦に予想もしなかった事態が起きた。
 なんと私が妊娠してしまったのだ。結婚してから十一年、子どもは作らないつもりだったのに……どういう神様の思し召しか、私のお腹には新しい命が宿っていた。
 選りによって、どん底のこんな時に妊娠なんて……当時は仕事が上手くいかないし、お金もなくて、本当に腐っていた時期だった――。
 これは想定外で、まさに青天の霹靂だと思った。
 いや、青天ではなかったので、曇天(どんてん)の霹靂とでもいうか、全く喜べない事態になった。二人なら、このままでも何んとかやっていけそうだが……子どもがいたらそうもいかない。
 まず私が働けなくなるので、相方には定職について貰わなければならない。
 ――それは漫画の仕事は諦めるということだ。
 妊娠した事実を相方に告げて、一番最初に返ってきた言葉が、「子どもは要らない!」だった。……この言葉には深く傷ついて、夫としてあまりに無責任で、愛情のない言い方だと私は悲しくなった。
 私の年齢は三十代の半ばである。高齢出産で子どもを産めるギリギリの境界線だったから、もし、この子を喪ったら生涯子どもを持つことは叶わないだろうと思った。
 だから、お腹の子どもを堕胎することは絶対に嫌だった!
 そのことで相方とは何度も喧嘩になったが「堕ろしてくれ」という言葉に、頑として首を横に振り続けた。子どもなんか出来たら……もう漫画を続けられない! 絶望して怒鳴る男に、心底、腹が立ったので、

『子どもは私一人でも育てる!』
 と、宣言したのだ。

 ――お金が無くなったので、私たちは仕方なく都落ちをする。
 今度は東京を離れて、神奈川県の大和市という所に引っ越しをした。
 そこで相方はデザイン会社に就職をして、私は妊娠八ヶ月まで工場でパートをしていた。いよいよ臨月になったので、私は大阪の実家に帰って出産することになった。上京してから長い間、不義理をしていたにも関わらず、温かく迎えてくれた身内に深く感謝する。
 私が居ない間、相方は寂しかったようだし、不自由だったみたいだが、やがてそれに慣れて、私が居なくともやっていけることに気がついた。そう気づいた時点で、もう私は彼の相方ではなくなっていた。二ヶ月近く、里帰りしていたのだが、考えてみれば……この期間が二人の気持ちに大きな隙間を作ってしまったのだと思う。
 生まれてくる我が子に対して愛情よりも、ただ負担に感じているだけの父親だった。私たちは漫画という“ 絆 ”がなければやっていけない夫婦なのだ。
 相方である夫を漫画家以外の視点から見たら、考え方が自己中心だし、自己顕示欲が強く、男としては無責任、メンタルは子どもっぽい。恋人なら楽しく、退屈しない男だったが、家庭人には向かないタイプだった。
 そういう男を家庭という枠に閉じ込めることは、所詮無理だったのだろうか。

 娘が一歳八ヶ月の時に、相方の浮気が原因で私たちは離婚しました。
 もう修復できないくらい冷めきっていて、この男に家庭人としてやっていくことを求めたこと自体が間違いであった――と、いう結論に私が達していたからだ。
 そして、十三年間の結婚生活にピリオドを打った。
 私は大阪に帰って、実家の近くにアパートを借りて娘を保育園に預けながら、毎日、工場でフルタイムで働いていた。
 あの時、私自身が宣言した通り一人で娘を育てる破目になったが、後ほど、新しいパートナーが現れて、その負担は半分に軽減された。

 そして私は過去を清算して、記憶に鍵を掛け、市井の人間となり、労働者として真面目に働いてきました。
 今まで娘に父親の話をしたことがなかったが、高校を卒業した時、そろそろ教えてもいい潮時だろうと――父親が描いたコミックスを見せた。
 娘はパソコンで父親のことを調べたようで、2ちゃんの『子どもの頃に読んだマンガを語れ!』というスレで漫画家だった父親のことがちょっと話題になっていたことを、私に話してくれた。
 娘には父親の記憶はないが、どんな人物だったか多少なりと知る切欠にはなった筈だ。ウイキペディアにも名前が載っている有名な人物なのだから――。
 今、彼がどこで何をしているのか知る術もない、もう二度と会うこともないだろう。
 どんなに深い傷も年月が経てば癒えてくる、人を赦すことは、同時に自分の過ちも認めることである。
それなりに苦労はしたが、当時の彼の無慈悲さも許せる年齢になってきた。
 ――死ぬまで人を憎んで冥途に逝きたくはない。

 てっぺんから、一気に転落したような日々だった。
 あの頃は故郷のことを忘れるくらい、私は東京という街に馴染んでいて、特に吉祥寺の街がお気に入りだった、できるなら一生手放したくはない暮らしであった。
二人で協力して漫画を描いてきたから、単行本コミックスも十冊ほど出版することができた。たぶん、今は絶版になっているだろが、少しだけでも夢を掴んだことは確かだった。一度はメジャー誌で連載漫画を描いていたという実績があるのだから、そう悪い人生でもないのだろう。
 漫画家が集まる出版社のパーティでは、手塚治虫、赤塚不二夫、藤子不二雄、石ノ森章太郎などトキワ荘から傑出した、超有名な漫画家たちを、この目で間近に見ることもできた。――華やかだった、あの頃を懐かしく思い出される。

 そして人生とは分からないものだ。
 現在、私は大阪の小都市でパソコンに向かって、売れない小説をコツコツ書いているが、あの頃に漫画を通して勉強したプロットの立て方やキャラの描き方などが、小説を書く上で非常に役立っているからだ。
 一人になっても、やはり物語を考えるのが好きでしょうがない私がいる。
 ――どうやら、煙草と創作は中毒性があるらしい。
 煙草は妊娠中にお腹の子のために止められたが、子育てが終わったら創作を始めたくなった。創作活動をして自分を発散させないと自家中毒になってしまいそうなのだ。小説が売れなくてもいい、ネットで自分の作品を読んでくれる人がいる限り、私は書くことを止めたくない。
 創作することは、私にとって生きている“ 証 ”なのだから――。


*



 若さという愚かさで、紫煙の燻る情景ばかり見ていた。
 苦い経験を人に語れる強さ、それが逞しい人間になった証拠だろうか。

 The other side of purple smoke

 紫煙の向う側には、私たちが求めた夢があった。

 巻き戻せない日々を懐かしみ、
 遠き日の夢は永遠に胸の中で燻り続けている――。



― End ―







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