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 黒猫と女 

黒猫と暮らす、寂しい中年女が自分と似た境遇の男と出会った。
人生の結末近くで掴んだ、彼女の恋はいくえは?
切ない大人の恋愛物語です。

『この小説は「創作工房 群青」の3月の課題で漢字一文字【 結 】をテーマに書きました』

文芸思潮、第9回銀華文学賞の三次選考通過作品。


(表紙はフリー画像素材 Free Images 1.0 Petteri Sulonen 様よりお借りしました。http://www.gatag.net/)


     初稿 novelist 2012年3月 文字数 7,751字
     カクヨム投稿(れんあい脳) 2016年12月15日 文字数 10,174字








 女は部屋で黒猫を飼っていた。
 小さな古い平屋に猫とふたりで暮らしている。いつも野暮ったい服を着て、化粧っ気もなく、地味で目立たない、この女はもうすぐ五十歳に手が届く。
 親兄弟もなく天涯孤独な境遇と聞くが、さりとて近所付き合いもなく、ひっそりと息を潜めるようにして暮らしている。

 女の左腕は肩より上がらない。
 酒癖の悪い夫が生きていた頃に酔っ払って暴力をふるわれた。激しく壁に身体を打ちつけられて、その時に女の肩は脱臼したが、そのまま治療も受けず放って置いたら、患部に肉が巻いて固まってしまったのだ。
 そして女の飼っている黒猫もまた後ろ脚が不自由である。左右の足の長さが不揃いなため歩く姿がよろよろしている。
 大雨の日に、道路の側溝に嵌って死にかけていた仔猫を拾った。たぶん野良猫が産んだ仔猫で親にはぐれて車にでも撥ね飛ばされたのだろう。まだ片手に乗るくらいの小ささで「ミャーミャー」と弱々しく鳴いていた。
 別に猫好きという訳でもなかったが、こんな所で死んでしまう仔猫が憐れに思えて、放って置くのも薄情だと……仕方なく家まで連れて帰ったのだが、まさか命が助かるとは思ってもみなかった。
 瀕死の仔猫は生き延びた、そして女の唯一の家族となった。

 一年ほど前から、こんな女の元にも通ってくる男がいた。
 見るからに風采の上がらない初老の男である。ねずみ色の背広を着てきちんとネクタイを締めた、一見、地方公務員の窓際族といった風貌である。
 週に一、二度、夕暮れ時に柘植の生け垣の前に佇んでいる男の姿が見かけられる。女が玄関をあけて招き入れると男は躊躇なく敷居をまたぐ。しかし女が気づかないでいると、しばらく生け垣の前で待っているようだが、音もなく立ち去る後ろ姿を見送ったこともある。
 決して自分からドアをノックしない不思議な男なのだ。

 この家の主だった酒乱の夫は、八年前に肝硬変であっ気なくこの世を去った。
 残されたものは、この古い平家と夫の遺族年金だったが、ここにきて女は初めて夫に感謝した。住む家と年金があればなんとか暮らしていける。生前の夫から受けた暴力のせいで女の身体はあちらこちら不自由だったので、無理して働くことができないのである。
 子どもがいない女は孤独だったが、その分質素な暮らしにも耐えていける。週に三日、ビルの清掃アルバイトを始めることにした。
 そこで知り合ったのだが、ねずみ色の背広の男だった。
 けれども、ビルで働くサラリーマンとお掃除のおばさんが直接話しをすることはまずない、単なる顔見知り程度でしかなかった。

 日曜日、女は飼い猫のキャットフードを買うために大型店舗のホームセンターに出かけた。いつも安売りの時にはキャットフードをまとめ買いをしている。猫の砂も必要だし、重いのでカートを押してホームセンター内を歩き回っている時に男を見たのだ。
 喫煙所近くの構内ベンチに座って、何をするでもなく、茫然と人の流れを見ているだけの男。その顔は無表情で何を考えているのか、窺い知ることもできない。ただ漫然と雑踏の中の風景の一部として溶け込んでいたのだ。――そんな男の姿がやけに印象的で、その孤独な姿が自分に似たものを感じさせた。
 振り返って、振り返って、そんな男の姿を見ていた。
 そのホームセンターへ日曜日に行く度に、何度か、その場所で男の姿を目撃した。人が行き交う雑踏の中で男が座っている周辺だけが、なぜか仄かに浮き上がって見えたりもする。
 なんとなく気になって、無口な女にしては珍しく、自分から話かけてみようと思った。
「いつも、ここで何をしているのですか?」
「人を見ている」
「誰か探しているのでしょうか?」
「いいや、ただ、自分と関係ない人たちを眺めているだけ」
「お暇なんですか?」
「さあ、自分はいてもいなくてもいい人間だから暇といえば暇なんだろう」
 そう言うと、フフンと鼻を鳴らして自虐的に笑った。
「そうですか。わたしも同じ人間です」
「あんたも……」
 茫然と視線を漂わせていた男が、初めて女の方を見た。
「親も夫も子どももいません。ひとりぼっちで誰にも必要とされていない」
「そうか……」
 納得したように呟いて男は黙ってしまった。
 女はいつの間にかカートを置いて、男と同じベンチに腰をおろしていた。奇妙な連帯感がそこから伝わってくる、この人とは同じ毛色の人間かも知れないと……。無言のまま二人はただその場所に座っていた。

 次にホームセンターで会った時に、思い切って男を自分の家に誘ってみた。
 別に恋心とかそんなものではない。ただ、この男の放つ空気が妙に自分と馴染んだからだ。――あまりしゃべらない、この無口な男といると何んとなく心が安らいだ。
 女は勇気を出して言った。「近くに家があるのでお茶でも飲んでいきませんか?」突然の申し出に男は不思議そうに女の顔を凝視していたが、「うん」とひとつ頷いた。
 女の後ろをのこのこついてきた男は遠慮勝ちに部屋に入ってきたが、広縁で日向ぼっこしていた黒猫は闖入者に驚いて箪笥の上に緊急避難した。
 臆病で人見知りが激しい黒猫は、飼い主の女にしか懐かない。
 この家は古い平屋だが、日当たりの良い広縁だけが自慢だった。後ろ脚の悪い猫はほとんど家飼いにして外に出したことがない。女と猫は日中この広縁でよく過ごしていた。
「猫を飼ってるのか?」
「ええ、唯一の同居人です」
「名前は?」
「クロちゃん」
「オス?」
「ううん。メス猫だけど黒いからクロちゃんって呼んでる。いい加減な名前でしょう? 拾ってきた時は死にそうで、まさか生き延びると思わなかった。――もう五年クロちゃんと暮らしてるの」
「この猫は生きる使命を神様に与えられていたのだろう」
「たとえば……」
「ひとり暮らしの女の人を慰めるとか……」
「それって、私のことね」
「あはは」
「クロちゃんのお陰で寂しさが紛れてるわ」
「猫は可愛いなあ」
 男は猫好きなのか、箪笥の上の猫を見上げて目を細めてそういった。
 結局、その日はお茶を二杯飲んで小一時間居て帰っていった。酒も煙草も嗜まない慎ましい男である。
 そんな、ふたりの様子を箪笥の上から黒猫がじっと見ていた。

 その日から、週に一、二度、夕暮れ時に生け垣の前に男が佇むようになった。
 いつも招き入れると、野良猫みたいにそっと入ってくる男だが、最初の頃は少し話をして小一時間で帰っていった。
 その内、話が途絶えると女の腰を抱くようになった。すると、女は「ちょっと待って……」と、隣の部屋に布団を敷く、ふたりはそこで抱き合った。
 別に情熱的とかそんなのではない。女は夫に受けた暴力のせいで不感症だった。
 ただ、会話が途絶えた男女のすることといえば、これしかなかった。男は女の肉体を丹念に前戯してから、無理なく挿入するので嫌ではなかった。どちらかといえば、男は淡泊な方だったから自分の快楽よりも女を喜ばせようとしてくれていた。
 かつての夫はセックスと暴力は一緒だった。酒を飲んで、女を散々殴ってからセックスをした。それは快楽とはほど遠く、苦痛と嫌悪しかなかった。切れた口の中は血の味がして、そこに舌を入れてくる夫が心底憎かった。
 暴力的なセックスで肉体的苦痛を味わってきた女だが、この男に抱かれて、初めて一人の女として扱って貰えた。この男の愛撫はなんと慈愛に充ちているのだろう、同じ男なのにこうも違うものかと女は驚いた。
――セックスに対する嫌悪感も少し薄らいできたようだ。

 二人は家財道具がひしめいた六畳間で抱き合った。下着姿になって女が布団に潜ると、背広をきれいに畳んでから男も隣に潜りこむ、初めは優しく髪をなでたりして、そっと耳にキスをする。首筋から乳房にそって舌を這わせると乳首を舐めたり吸ったりして、感じ始めた女は思わず身体をのけ反らす。女の秘所に男が指を挿入した、そこは温かく潤んでいた。きっと身体は男を求めているのだろう。
 この歳で自分の性器が開発されたことに女は驚いていた。
 男とは身体の相性が良かったのかも知れない。そんな人に巡り合えた奇跡を女の身体は全身で受け止めている。――オルガズムというものを初めて女は体験した。
 ことが終わると、男はスーと寝息を立てて眠ってしまう。余程疲れているのか、少し悲しそうな寝顔が愛しくも思える。小一時間も寝ると男はスッと起き上がり、きちんと身支度を整えてから帰っていく、決して泊ったりしない。
 女も引き留めたりしない、玄関まで見送ったりもしない。男は部屋に入ってきた時と同じようにこっそりと帰っていくのだ。
 時どき、玄関の框の上に封筒が置かれていることがある。
 中には一万円札が入っていたりする。男の心ばかりの謝礼だろうか? こんなおばさんを抱いて、お金まで置いていくなんて、本当に善良な人物だと思った。
 このお金で、今度男が来たら寿司でも取ろうかしら、と――女は考える。




 回想すれば、今までの人生で一度として男に幸せにして貰ったことがない。
 その中には、母と自分に酷い仕打ちをした父親も含まれている。道楽者の父は呑む打つ買うの三拍子が揃っていた。ほとんど自分は働かないで、妻が稼いだ金で遊び歩いていた。しかも方々に女をつくっては、その女たちからも金をせびり取っている、まるでヒモみたいな男だった。
 それでも別れられず父に尽く続けた母だったが……身体を壊し入院生活になった、途端、薄情な父はその母を見捨てた。
 よその女を家に連れ込んで一緒に暮らし始めたのだ。
 最初に同居した父の女は……もう名前も忘れてしまったが、キャバレーのホステスだった。
 美人ではないが色白で男好きのするタイプ、一年前に北陸の町から、三人の子どもを置いて男と駆け落ちをしてきたという。その男と三ヶ月ほど同棲したが金目の物を持って逃げられたらしい。今さら、田舎に帰ることもできず、子どもに会いたいけれど、合わせる顔がない。と、キャバレーの女は嘆いていた。
 自分のことを「お母さんだと思って甘えてもいいのよ」と無邪気にそういうが、まだ母は生きている。少し頭の弱いキャバレーの女だった。
 当時、中学生だった女が学校から帰ったら、父とキャバレーの女が昼間からまぐわっていた。
 二間しかない小さな家の中で、あられもない男女の声が奥の部屋から漏れ聴こえてくる。少し開いた襖から丸見えだった。生々しい男女の痴態に女は衝撃を受けた。耳を塞ぎ目を瞑って外へ飛び出した。

 大人の性のことは分からない子どもだったが、今思うと、あの女は心底セックスが好きで、昼夜を問わず、父とまぐわっていた。そのためにキャバレーで働いて、身体も売って、稼いだ金をぜんぶ父に貢いでいたのだ。
 半年が過ぎた頃、キャバレーの女にも飽きてきたのか、父は外泊して帰らない日が多くなった。時々、ふたりで言い争いをして父に殴られたりしていた。その度に泣きながら、やけ酒を煽る姿が憐れに見えた。
 最初は嫌悪感を抱いていたが、お人好しのキャバレーの女が案外嫌いではなかった。

 ある夜、寝ていると誰かが布団に入ってきた。酒臭い息と強烈な体臭で目が覚めた。
「その子は生娘だから、優しくやってやんなよ」
 暗がりにキャバレーの女の声がした。
「えへへ、パンツを脱がせてるところだ」
 野卑な男の声もして、自分の下半身をまさぐる手があった。
「男の味をたっぷりと教えてやって」
 呂律の回らないほど酔っ払ったキャバレーの女の言葉に、今、知らない男に犯されようとしていることを感じとった。覆い被さった男を満身の力で跳ねのけて、寝間着のまま裸足で外へ逃げ出した。
 近くの空き地に朝まで隠れて、陽が高くなってから家に様子をみに帰ったら、キャバレーの女が見知らぬ男と全裸で寝乱れていた。
 浮気をしている父への腹いせに、その娘を犯させようと企んだようだ。
 身の危険を感じて、帰ってきた父に昨夜のことを話したら、さすがに父の顔色が変わった、夕方、銭湯から帰ってきたキャバレーの女を捕まえて殴った、泣きながら謝る女の髪を引き摺り倒し容赦なく足蹴にした。
 ――怖ろしい修羅場を目の当たりにして(男は怖い)身が竦んだ。
 外へ放り出されて「この売女め! 出ていけ!」と罵声を浴びせられていた。しばらく道に蹲っていたがよろよろと立ち上がると、何処へと歩いていった。――それがキャバレーの女を見た、最後の姿だった。
 数日後、踏切から電車に飛び込んだことを父から聞かされた。
 その時、どんな表情で父が(キャバレーの女の自殺)を語ったのか記憶にない。冷淡な男だったので他人事のように平然と話したかもしれない。
 キャバレーの女が自殺したことを聞いて、告げ口なんかするんじゃなかったと深く後悔した。父が激昂したのは娘の身を案じてだと思っていたが、キャバレーの女を追い出すための口実に使われただけだったと、後々そのことに気づいて、いいようのない罪悪感に囚われた――。

 その後も父は次々と女を取り替えていった。
 家に連れてくる女たちの洗濯や食事の世話を女がいつもさせられていた。そんな暮らしが嫌で嫌で……早く母に退院して戻ってきて欲しいと願っていたが、病気は完治せず、ついに亡くなってしまった。
 中学を卒業すると同時に住み込みで働ける仕事を探して、女は家を出ていった。
 父とは音信不通になったが、その後、風の便りで女性トラブルで相手の亭主に刺されて瀕死の重体になり、亡くなったときいた。――あの父親らしい無様な死に方だと思った。

 このようにして、天涯孤独になった女は、二十歳で結婚をするが相手はひと回りも年の多い男だった。
 割烹旅館で住み込みの仲居をしていた頃、夫はそこの板前をしていた。職場では真面目で堅物だという評判の男だった。寮に住んでいた女は、その板前から「自分の家で暮らさないか」と話を持ちかけられた。ずっと母親と二人で暮らしていたが去年亡くなってから、一人身がわびしく、家事をやってくれる女が欲しくて声をかけたようである。
 大工だった父が建てたいう板前の家を見にいくと、古くて小さな平屋だったが猫の額ほどの庭があり、家の周りは柘植の生け垣で囲われていた。中は六畳が二間と四畳半くらいの板の間の台所、そして南向きの日当たり良い広縁があった。ひと目でその広縁が気に入った。
 持ち家がある人と一緒になったら住む所に一生困らないだろうという打算もあって、この家で暮らすことにした。――式もなく入籍だけの結婚だった。 
 しかし、夫が優しかったのは結婚して半年くらいで、その内、酒を飲んで女に暴力をふるうようになった。小心者の夫はストレスを溜めやすく、酒を飲むとその捌け口を妻に向けた。父親といい、夫といい……なぜか暴力をふるう男と縁がある、これはあがなうことのできない自分の運命だとさえ思っていた。
 夫に暴力を受けている時、女はなぜ逃げ出さなかったのだろうか? 
 どうせ逃げ出しても、それで幸せになれるとは思えなかったし、いつも暴力をふるうわけではない、だから嵐が去るまで我慢すればいいのだと諦めていた。心の底では「自分なんか死んでも構わない」という自虐的な気持ちもあった。
 結婚生活には絶望していたが、さりとて離婚する勇気もなかったのだ。一度として夫を愛したことはない。ただ、この小さな家が無性に好きだった。ここから離れたくなかった。――この女は猫のように人に付かず、家に付いていたのかもしれない。

       
    

「クロちゃん、ちょっとそこをどいてちょうだい」
 広縁で猫が仰向けで大の字になって眠っていた。あまりに無防備なその姿が滑稽で、クスッと女は笑った。
 日当たりの良い広縁は直射日光が強いのですだれを吊るすことにした。物置からすだれを持ち出し広縁に運んだら猫が陣取っていたのだ。喉元を撫でてやると猫は目を覚まし、ゆっくりと伸びをして、あくびをしながら座敷の方へ引っ込んだ。
 去年買ったすだれが、新聞紙を巻いた梱包を外すとまだきれいだった(ああ、また今年も夏がきた……)女は手を止めて、窓越しに空を見上げた。
 あの男と付き合うようになって、一年が過ぎようとしていたが、最近、急に男が通って来なくなった。そろそろ一ヶ月が経つ――。
 こんな自分にもう見切りをつけたのだろうか? 男のことは諦めようと女は決心していた。元々お互いを縛り合う関係ではなかったのだから……。一抹の淋しさを噛みしめる。だが、男を恨む気持ちはさらさらない、なんら制約もなく結ばれた二人の縁である。
 一方が飽きてしまえば、この関係は終わってしまうのだ。

 近頃は持病の腰痛がひどくなったので掃除の仕事も辞めて、家の中で猫とひっそりと暮らしていた。広縁に座っていると、いつの間にか猫が戻ってきて、女の膝の上で気持ち良さそうに喉を鳴らしている。
「クロちゃんがいるから、いいよ」
 男が来なくなって分かったこと――待っていないようで、実は待っていた男。
 夕暮れ時になると、少しそわそわする感じがなくなって寂しい気もするが、この猫がいるお陰で女の寂しさも紛れた。
「クロちゃんがいるから、寂しくないよ」
 夕暮れの男を消すために、呪文のように自分に言いきかせていた。

 女の住む平家には猫の額ほどの庭がある。
 一坪ほどの小さな庭だが、四季を通して花や野菜を植えている。それが女の心の拠り所(秘密の花園)だった。夫が生きていた頃には酔っ払って花壇を踏み荒らしたが、今は野良猫が侵入して糞をされるくらいだ。
 毎年、日除けにゴーヤの苗を植える。成長の早いゴーヤはどんどん伸びて実を付ける。苦瓜と呼ばれるゴーヤは苦味があって慣れないと食べ難いが、ビタミンCたっぷりの爽やかな苦味が癖になる。
 ――そう言えば、去年の夏には男にも食べさせたなあと思った。
 最初の頃、苦瓜の炒め物、ゴーヤチャンプルーを出すと、これは口に合わないと男は箸を付けなかった。女が身体に良いから食べなさいよと言うと、それからは文句も言わずに黙々と食べていた。嫌いな物を無理やり食べさせたことを、今になって少し後悔していた。
 思えば、夫には健康を気遣ってお酒を止めなさいと言ったことなど一度もない。そんなことを言ったら忽ち平手打ちが飛んでくる、このままいったらお酒で身体を壊すことは分かっていた。 
 それでも言わなかったのは、酒で命を奪われても自業自得だと思っていたからだ。やはり相手によって人の感情は変わってくるものなのだ。
 猫の額に植えたゴーヤの苗を見ながら(ああ、今年はひとりでぜんぶ食べ切れるだろうか……)つまらないことをぼんやり考えていた。

 ふと外を見ると、生け垣のあたりに人影が見える。
 一瞬、あの男がきたのかと立ち上がってみたが、見知らぬ若い男だった。年は三十前後、スーツを着た一見サラリーマン風の男は、どうやら、女の家の様子を窺っているようなので、
「なにか、ご用ですか?」
 広縁のガラス戸を開けて訊ねると、
「あのう、もしかしたらあなたが僕の父の知人ではないかと……」
「どなたでしょうか?」
 若い男は自分の父親の名前を名乗り、自分はその息子だと言う。――それはまさに、あの男の名前だった。
「生前、父がお世話になったようなので……」
 一瞬、耳を疑った(えっ、生前!? 生前って……)その言葉に女は衝撃を受けた。一ヶ月も来なかったのは、亡くなっていたせいだと分かったからだ。
 頭の中が混沌として、もう一度、若い男が言った生前という言葉の意味を考えてみる。
 女は生前、男と連絡を取り合うことがなかったので、家も電話番号も何も知らなかった。しかも仕事も辞めていたので噂すら耳に入ってこなかったのだ――。
 だが、しかし……男の息子と名乗る若い男は何の用事できたのだろうか?                 
 女は警戒した。男とは肉体関係はあったが、金品をねだったり、家族に迷惑をかけるようなことは何一つしていない。――どうか、そっとして欲しいと女は心の中で願った。

「どうぞ」
 手招きをすると、遠慮がちに庭に入ってきた。その姿まで、あの男とそっくりで懐かしかった。女は警戒を解いた。
 広縁に腰かけて座った若い男にお茶を出すと、ひと口飲んで、胸のポケットから一枚の写真を取り出した。
「これはあなたでしょう?」
 手にとって見ると、少しピントがずれているが、去年の暮れ町内会の餅つき大会を手伝いにいった時の写真だった。誰かが撮ってくれて、町内会の役員が届けてくれたものだが、生活に疲れたような女の貧相な顔に、こんなものは要らないと玄関の下駄箱の上に置きっぱなしにしたまま、いつ無くなったのかすら気づかずにいた写真である。
 なぜ、男の息子が持っているのだろう?
「三ヶ月前に父は急性心不全により急逝しました。遺品を片付けている時に父の定期入れから、この写真が出てきて、とても気になったので調べさせて貰ったのです。それであなたの住まいが分かりました」
 息子は淡々としたしゃべり方だった。

「……あのう私たちは、世間でいうような、そのう、やましい関係ではなくて……ただ、友だちのような……決して、家庭を壊そうとかそういうのではなくて……奥さんにも迷惑かけるつもりはなかったのです」
 女は必死で遺族に弁解した。元より家庭を壊したいとか、男の妻になりたいとか考えたこともない。
 若い男はふっと笑って、
「妻はいません」
「はあ?」
「両親は十年前に離婚しています」
「えっ?」
「父は独身でした」

 意外な返答だった――。
 まさか男が独身だったとは思ってもみなかった。いつもきちんとした身なりだったので妻帯者だとばかり……。そう言えば、男に家族の話など一度も聞いたことがない。
「母は男ができて出ていったのです。だから、僕は父と家に残りました」
「……そうだったのですか。そんな話はなにも聞いていませんでしたので……」
「父は日頃から無口な人だったから、離婚してから余計に無口になりましたが、一年くらい前から、少し明るくなったので……なにかあるとは思っていました」
「はあ……」
 曖昧に女は笑った。男とは付き合って一年ほど経つ。
「今日はあなたにお礼が言いたくてきました」
「えっ?」
「父は母が家を出て以来ずっと傷心でした。――父が亡くなる前に幸せにしてくれたあなたに、父の代わりにお礼が言いたい」
「そ、そんな……」
「ありがとうございました」
 若い男は女の前で深々と頭を下げた。
 女の目から、はらりと涙が零れた。――その時になって、初めて、もうあの男はこの世にはいないのだと実感した。喪失感で胸が痛い、涙が後から後から止めどなく流れた。

 しばらく嗚咽を漏らして泣いた。
 十数年連れ添った夫が死んだ時には、涙ひと粒零さなかった女が肩を震わせて泣きじゃくる。若い男は泣き止むまで……黙って、それを待っていてくれた。
「ごめんなさい……」
 人前で取り乱した、非礼を恥じて謝った。
「いいえ、そんな風に父のために泣いてくれたことが、息子の僕にとっては嬉しいのです」
「良い人でした」
「あなたにそんなにおもって貰えて父も浮かばれます」
「……はい」
「これはお返しします」
 写真を取り出して返そうとしたので、その定期入れも形見にくださいとお願いしたら、黙って両方とも女に渡してくれた。
 挨拶をして、若い男が帰りかけたので、ハッとして叫んだ。
「お墓は!?」
 その声に振り向きポケットから手帳を取り出しメモを書いて渡してくれた。メモには霊園の名前と聖地の番号が書いてあった。
「ああ見えて、父は寂しがり屋なんですよ。会いにいってやってください」
 そう言い残して、垣根の向うへ若い男は消えていった。

 お客が帰った後、女は茫然と座っていた。
 急に男が来なくなったのは、自分を嫌いになった訳ではなく、死んだのなら仕方がない、それなら許せる。――変な理屈だが女に取ってはそうだった。
 ふたりとも結婚生活に傷ついて、人を愛することに憶病になっていたのだと思う。なぜ写真を定期入れに持っていたかは分からないが、彼なりに女に執着があったのかも知れない。――それは男の『愛』だったんだろうか?
 男が死んだと聞いて泣いた。もう二度と会えないことへの悲しみだった。――それが『愛』だと女は気づいた。
 一年間付き合っていたが、お互い無口でほとんど会話らしいものがなかった、それでも惹かれ合ったことは確かだ。孤独な心の凹(へこ)みに、相手の存在が凸(はめ)込まれて、抜けなくなったとしたら。――それもひとつの『愛』の形だと思う。
 激しい恋ではなかったけれど、とても深い愛だった。

「また、クロちゃんとふたりきりになったね」
 見知らぬ人がきたので逃げていった黒猫が、いつの間にか女の膝に戻ってきた。撫でてやると気持ち良さそうに喉を鳴らす。(おまえも死ななくて良かった、生きていれば誰かに愛されることもあるのだから……)この猫と、この家で生きていこうと女は決心していた。
 愛してくれた人がいたことで生きる勇気になったから、(わたしの方こそ、ありがとう)生け垣の方を眺めると、夕暮れに佇む男の姿が残像となって瞼に浮かんでくる。
 また目頭が熱くなってきた(もう、寂しがらなくていいよ。あんたのことはずっと心の中で想っているから……)これが最初で最後の人生の結末を飾るべき『恋』だったと女は思った。
 ――そんなことを考えていた自分に照れて、フッと笑みを浮かべる。
 黒猫が膝の上で大きく延びをした。明日、天気が良ければ男に会いにいこう。



― 終わり ―








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