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 金魚 


夫婦ってなんだろう?
男女の愛に終わりがあっても、夫婦の生活に終わりはない。
夫婦って、愛情がなくなっても暮らし続けなければならない男女?

この作品は以前に勤めていた会社のパートさんから、うちの旦那は
金魚ばかりを大事にして腹が立つという話から
ヒントを得て書きました。

文芸思潮の銀華賞公募のために推敲しました。(2013年度)


(表紙はフリー素材 [ 四季の素材 十五夜 ] 様よりお借りしました。
http://ju-goya.com/)

   初稿 趣味人倶楽部・創作広場 2008年頃 文字数 4,864字 
   カクヨム投稿(かんどう脳)2017年2月16日 文字数 6,019字




 



 主婦の千秋(ちあき)は仕事から帰ると、まず家中の窓を開ける。夏場、西向きのキッチンは夕方になっても照り返しがきつい。部屋の中にこもった熱気を抜くため、窓辺に扇風機を置き、換気扇を回して空気を循環させる。
 出来るだけクーラーはつけたくない、主婦としては節約を心掛けなければならない。
 汗が引いてきたら、お湯を沸かしコーヒーを準備する。ドリップコーヒーは自分だけのために買い置きしている。日頃はインスタントコーヒーを飲んでいるが、この時間帯だけは、今日一日頑張った自分自身に《ご苦労さん!》そんな思いを込めて、ちょっと贅沢なドリップコーヒーを飲むことにしている。
 猫舌で熱い飲みものが苦手な千秋だが、ゆっくりと冷ましながらコーヒーを啜るのが好きなのだ。
 キッチンのテーブルに腰を下ろし頬杖をつき、今日の出来事を思い返してみる。

 千秋はスーパーでレジ係の仕事をしているが、うっかり商品の値引きを忘れてお客を怒らせた。いくら謝ってもお客の怒りはおさまらない、そのあげく「店長を呼んでよ!」と大声で凄まれた。
 中年の主婦だが怒り方が尋常ではなかった。確かに値引きを忘れたのはこちらのミスだが、普通のお客なら謝って、差格分のお金を払えば許されるレベルのミスだったのだが――。
 たぶん、あの客は日常に不満があるのか、よほど虫の居所が悪かったのだろう。それで自分より弱い立場のレジ店員に当たり散らしたとしか思えなかった。とんだ災難だったと思いつつ、千秋はコーヒーをひと口啜った。

 ――すると、玄関の方でドアが開く音がした。その後、ガチャガチャと鍵をキーケースにしまう音が……夫の和哉(かずや)が会社から帰って来たようだ。
 今年、三十二歳になる主婦千秋の家族は、夫の和哉、五歳と三歳のやんちゃ盛りの男の子がふたり。夫は真面目な性格だがまったく面白味のない退屈な男だ。
 日々の生活が不幸というほどでもないけれど、なんだか満たされない、物足りない、何となくイライラしちゃう……ありふれた日常だが、こんなものだろうと納得しながら暮らしている。

「なんて早いの」
 壁の時計を見ると、まだ夕方の六時前。
 和哉の会社は製造業だが不況で受注が減ったせいで残業がなくなり、給料も大幅にダウンして家計は苦しい。おまけに、三年前に新築の分譲住宅を購入したため住宅ローンの返済もある。
 今年の春から家計を助けるために、千秋は五歳の長男を保育園に、三歳の次男を自分の実家に預けてパートの仕事に出ている。スーパーのレジ係だが午前十時から午後三時までのシフトである。
 仕事には慣れてきたが、勤務を終えてからスーパーで買い物を済ませ、保育園に長男を迎えに行って、実家に居る次男を連れて帰る日常。――それを毎日繰り返す。

 和哉の会社はバイクで片道三十分。五時に仕事が終わって真っすぐ帰ればこんな時間になる。たまにパチンコ店で時間を潰す日もあるが、負けが込んで軍資金がないのか、最近では特に帰りが早い。
 長男はテレビのアニメに釘付けで、次男はソファーで夕寝している。一日の中で主婦千秋がひとりだけになれるのわずかなとき……ホッとする間もなく、和哉のご帰還だ。夫が帰ってくれば、主婦である千秋は夕食の準備を始めなければならない。
 チッと心の中で舌打ちをする。
「さてと……」
 まだ飲みかけのコーヒーをシンクに流して――。
 千秋はキッチンの前に立ちじゃがいもの皮を剥き始めた。そんな千秋を横目でチラッと見ながら……夫は何も言わずにリビングの奥の自分の定位置(ていいち)へと向かう。

 ――金魚の水槽がある。

 リビングのサイドボードの上に小さな水槽が置かれていて、中には三匹の金魚が泳いでいる。まだ、ふたりが新婚時代にお祭りの夜店ですくった金魚たちである。
 いわば『ふたりの愛の思い出』の金魚たちなのだが――かれこれ六、七年は生きている。金魚って小さい割には意外と長生き……それもそのはず、和哉がその金魚たちを、ことのほか大事にしているのだから――。
 彼は会社から帰宅すると妻子をさておき、まず水槽の金魚たちに帰宅の挨拶をする。休日は朝から何時間もボーと水槽の前で金魚を眺めて過ごすこともある。

「パパ遊ぼうよ」
 長男がおもちゃを持って、一緒に遊ぼうとせがんでも……。
「あとでな。向うへいってなさい」
 ……と取り合おうとしない。
 水槽の金魚の何が楽しいのか? ただ、ひたすら和哉は金魚に見入っている。
 和哉はどちらかというと無口で妻子とはあまり会話をしない。最近は特に口数が減ってきたような気がする。何が不満なのか知らないが……不満なら、こっちの方にもないわけではない、と言ってやりたい。
 相手に対して興味もなくしてしまい、うっとうしい存在でしかない。結婚して七年目……倦怠期ってやつかなぁー?
 かつて、この男を愛した記憶さえ曖昧になってきている。自分でもどこがよくて結婚したのかよく分からない。しょせん流れで一緒になったような気がする。
「つまらない男だわ」
 サイドボードの前に椅子を置いて、そこに腰掛けて金魚と会話している? そんな夫の後姿に、いいようのない嫌悪感を覚える千秋だった――。

 日曜日のお昼、千秋は子どもたちの大好きなオムライスをテーブルに並べた。
 五歳の長男はわんぱく盛り、いっときもジッとしていられない。家族四人でご飯を食べていると、三歳の次男と些細なことで兄弟けんかを始めた。千秋が長男を大声で叱りつけていると、横から和哉が「うるさい!」と不機嫌そうに怒鳴った。
 その声にムッとして千秋は和哉に言い返した。
「うるさいってなによ!」
「食事の時くらい静かにできないのか?」
「躾で叱っているんでしょう」
「おまえのはギャーギャーうるさいばかりで躾になってない」
「なによ! 父親なんだから、あなたも子どもの世話みたらどうなの?」
「躾っていうのは……」
 和哉が言いよどむと、千秋は畳みかけるように、
「金魚ばかり可愛がらないで、たまには子どもたちとも遊んでよっ!」
「俺は……」
「あたしにばっかり育児を押しつけて、自分は何にもしないくせに……」
「…………」
「父親としての自覚が足りないのよ!」
 その言葉に和哉は黙り込んで、ふいに立ち上がって外へ出ていった。

 口げんかの後、煙草を買いにいくと出ていったが……シンクで茶わんを洗いながら、千秋の腹の虫は収まらない。
 都合が悪くなるとすぐに逃げるのよ、あの人は……。
 金魚ばかり可愛がって、自分の子どもには無関心、父親失格よ、あんな人! 何よりも気に入らないのは――自分だけ現実逃避しようとしている、あの態度よ。
 いつも水槽の金魚を眺めて、自分の世界に浸っている夫の姿を思い出して、千秋は無性に腹が立ってきた。
《あんな金魚なんか死んじゃえばいいんだ!》
 つい、千秋は手に持った食器用洗剤を水槽の中へ。
 数滴零したら、エアーポンプのせいで瞬く間に水槽の中は泡だらけになった。どんどん泡が膨らんで水槽から溢れ出してきた。思いがけない事態に焦った――その時になって千秋はえらいことをやってしまったと愕然とした。
 まずい! これは夫に怒られる。

 泡だらけの水槽の前で千秋が右往左往していると……。
 直後に帰宅した和哉が水槽を見た瞬間面食らって棒立ちになったが、急いで金魚を網ですくい、水槽の水を入れ替えた。――そして金魚たちを無事に水槽の中に戻した。
 すっかり片付いてから、怒気を含んだ声で和哉が千秋に訊いた。
「誰がやったんだ?」
「あ、あのう……」
「誰だ!?」
「……こ、子どものイタズラよ」
 怖い怒りの形相に、千秋は子供のイタズラだと咄嗟に嘘をついてしまった――。その途端、和哉は隣の部屋でアニメを見ていた長男の首根っこを掴んだ。なぜ長男かと言うと、三歳の次男ではサイドボードの上の水槽には手が届かないからだ。――それで犯人は五歳の長男と決め付けられた。
 有無を言わせず長男はお尻をおもいっきり引っ叩かれた。
 訳も分からず、父親に叱られ、殴られた長男は大声で泣いた。その後もいじけて、いつまでも泣いていたが……無実の罪で罰を受けた我が子の肩を抱いて、頭を撫でながら千秋は優しく慰めた。
《ごめんね、ごめんね……》
 翌日には、思いがけなく母親におもちゃを買って貰い大喜びの長男だったが、しかし、それが……せめてもの千秋の罪滅ぼしの品だとも知らず……。
 金魚ごときのことで長男のお尻を引っ叩いた夫を許せないと千秋は思っていた。金魚に八つ当たりした自分の罪も忘れて……憎らしい金魚め! 
 いよいよ千秋の金魚への憎悪が増してきた。




 そんなある日、思わぬ事件が起こった。

 晴れた日曜日の午後、和哉は鼻歌まじりに金魚の世話に余念がない。今日は水槽を洗うので、バケツの中に入れられ金魚たちは、一階の駐車場の外に置かれている。
 二階のベランダで布団を干していた千秋の目に、電柱の陰に潜む野良猫の姿がチラッと映った。野良猫は金魚を狙って忍び足で近づいて来るではないか。もちろん千秋は夫に教える気などさらさらない。
 なりゆきに目を凝らし、ひたすら傍観者の立場を貫いた。

 猫が金魚の入ったバケツをひっくり返して大きな音がした。駐車場の中で水槽を洗っていた和哉が、異変に気づいて慌てて飛び出してきたが、時すでに遅く……二匹の金魚が無残にも猫の餌食になっていた。
「ちくしょう!」
 和哉が大声で叫んだ。
 一匹残った金魚を未練たらしく電信柱の陰から、まだチャンスを窺っていた猫に、和哉は手に持ったスポンジを投げつけた。飛び散った水に驚いて猫は一目散に逃げ去ったが、その後ろ姿にあらん限りの罵声を浴びせる夫だった。
 二階のベランダから一部始終を見ていた千秋は可笑しくて、ププッと噴きそうになった。《ふん! いい気味だわ》内心、ほくそ笑んだ。まさに溜飲が下がるが思いだった。

 ――その晩、夫はすっかりしょげ返って……元気がない、目も虚ろだった。
 いつもなら三膳はお代わりする夕餉のご飯も一膳しか食べず、フーと深いため息をついていた。まさか、こんなにショックを受けるとは想像していなかった千秋だが……さすがにちょっと可哀相になってきた。
 食事のあと、水槽の前で、たった一匹だけ生き残った金魚を愛しそうに眺めている。《あなたは、そんなに金魚が大事なの?》そう和哉に訊いてみたかった。
 なぜか? その夜、夫は千秋を抱いた。
 セックスレスではないけれど――最近はめったに妻を求めてこなくなっていた。パチンコで大勝した。好きなサッカーチームが勝った。昇給した。子どもたちが早く寝た。エロなDVDを観た……そんな理由で夫婦はセックスをする。
 もう子どもは要らないし、本当は女の子がもうひとり欲しいのだけれど……今の経済状態ではとても無理だと分かっているし、愛情を確かめ合うというよりも、存在を確認し合うような、そんなセックスだった。

「ねぇー」
 久しぶりに夫に抱かれて、心が和んだ千秋。
「……ん?」
 和哉の腕枕でちょっと甘えたい気分だった。
「金魚さぁー、一匹じゃあ寂しいからペットショップで買おうよ」
 その言葉に、天井をジィーと見つめながら和哉が答えた。
「要らない」
「えっ?」
「あの金魚でないとダメなんだ」
「……どうして?」
「おまえは忘れたのか?」
「なぁに?」

 ふたりが結婚して間もない頃だった。近くの神社で夏祭りがあると聞いて、ふたりは浴衣に着替えて出掛けていった。たくさんの夜店の屋台が立ち並び賑やかなお祭りに、新婚のふたりはぐれないように手を繋いで人波の中を歩いた。
 綿あめ、たこ焼き、ヨーヨー釣り、お面屋さんをひやかしたりして、楽しいお祭り見物だった。
 そこに夜店の金魚すくいがあった。大きな長方形のタライの中で金魚や出目金が涼し気に泳ぎ回っていた。小学生と大人四、五人、が楽しそうに金魚すくいをやっていた。
 さっそく、千秋が「やりたい、やりたい!」と金魚すくいの紙のアミを買ってチャレンジするが、一匹もすくえず……あっという間に紙のアミが破れてしまった。
「あぁー、悔しい一匹もすくえないなんて……」
「あははっ」
 悔しがる千秋を見て和哉が笑った。
「もう! 笑うんだったら、和哉さんもやってみせてよ」 
 プッとホッぺを膨らませて千秋が拗ねた。「分かった、分かった……」と和哉もアミを買って金魚すくいを始めたが……一匹もすくえない内に、紙のアミが半分ほど破れてしまっている。こんな薄い紙のアミでは金魚をすくうのは難しい。
「和哉さんだって、金魚一匹もすくえないかも……」
「待て待て! ここから本気を出すからー」
 和哉は浴衣の袖を捲くって気合を入れた。
「あたしのために頑張ってね!」
「よっしゃー! 俺に任せろ」
 そう言うと和哉は慎重にアミを使って、夜店の水槽の金魚をすくい始めた。
 ――そこから奇跡の逆転劇。なんと、半分破れたアミで金魚を見事に三匹すくってみせた。
「和哉さん、すごい、すごい!」
 ビニール袋の中で泳ぐ、三匹の金魚を手に提げて千秋が歓喜の声をあげた。
「えへへ……」
 褒められて和哉も嬉しそうに照れていた。
「半分破れたアミでも諦めたらダメなのね。これから長い人生、お互いに嫌になることもあるかも知れないけど、絶対に諦めないで和哉さんについていく。諦めたらお終いだって教えてくれたから――この金魚はふたりの愛の記念品だわ! ずっと大事に金魚飼おうねぇー」

「――あんとき、おまえがそう言ったんだ」
「…………」
「だから俺は金魚を大事にしてきた。なのに……今日二匹も死なせてしまった」
 和哉は悲しげにため息をついた。
 ……なんてことだ。
 千秋はすっかり忘れていた――。あの時、ふたりは同じものを見ていたはずなのに……同じ記憶が残っていない。忘れ去られたモノはなぁに?
 恋人同士が結婚して夫婦になった、子どもが生まれてお父さんとお母さんになった、やがて、孫が出来れば、おじいちゃんとおばあちゃんと呼ばれる。そうやって、男女の愛はその形態を変えながら持続していくものなのだ。

 やがて夫婦は家族という人生の墓標に刻まれて終焉を迎える。
 ――あの金魚はあと何年生きるんだろうか? 金魚の命より自分たち夫婦の方が危ういとさえ千秋は思った。

「金魚がいなくなっても、わたしたちには子どもがいるじゃないの」
「うん」
「金魚より子どもたちを可愛がってください」
「そうだなぁー」
 千秋は久しぶりに和哉の手をギュッと握ってみた。
 ゴツゴツした男の手だ、この手をずっと離さずにやっていけるのかな? 
 この頃は生活に疲れて相手を見ようとしない。自分の不満の鉾先を身近な人間のせいにして、それで何となく気を紛らわせている日々だった。
 男女の愛に終わりがあっても、夫婦の生活に終わりはない。
 夫婦ってなんだろう? 愛情がなくなっても暮らし続けなければならない男と女?
「もう寝ようか」
「うん……」
 和哉が寝返りを打って背中を向けて眠り始めた。夫の寝息を聴きながら千秋も静かに目を閉じる。

 プカリと水槽の中で金魚が泡(あぶく)を吐いた――。
               

                
― 終わり ―

                        



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