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   六ノ回廊 やもり


 ――こんな夢をみた。

 それは夜明け前のとても短い夢でした。

 自分は真夜中の仕事を終えて部屋に帰ってきた。
 古いアパートの部屋には、粗末なせんべい布団しかありません。
 天井から裸電球がひとつ、殺風景な部屋を仄暗く照らしています。自分は、とても疲れていたので、水道の蛇口を捻ると流れ出す水に、直接口をつけて喉を潤した。
 そのまませんべい布団に転がって、手足を伸ばし、目を瞑って寝ようとするが、妙に頭が冴えて寝つけないのだ。

 木枠の硝子窓の向う、街路灯が煌々と眩しい。
 自分の部屋にはカーテンすらついていないから……。

 どうやら自分は、つい最近このアパートに越してきたようなのだ。
 それまで住んでいた古い平家は、ある日、大きな鉄の車に踏み潰されて壊されてしまった。――その時に家族とも逸れてしまったのだ。
 もしかしたら、あの瓦礫の下に家族が埋まっているのかも知れない。
 わたしだけ助かって、この街路灯が明るいアパートに引っ越してきたのだが、何だかやり切れない気分に心が塞いでしまう。
 思い出しても取り戻せない過去なら、忘れてしまった方がいいんだ――。

 ふと見ると、木枠の硝子窓の向うに、やもりが一匹白い腹を見せてはり付いている。
 街路灯に集まる昆虫を目当てにしているのだろう。微動だもせず、ひたすら獲物を待っている。
 自分は立ち上がって、硝子窓を軽く叩いてみた。一瞬にして、やもりは視界から消えてしまった。
 驚くと狭い隙間に逃げ込むやもりは、臆病な自分と似ている。

 ――たぶん、わたしの前世はやもりだったと思う。


 


 
   七ノ回廊 数学のテスト


 ――こんな夢をみました。

 自分は中学生くらいに戻って、教室でテストを受けている所だった。
 それは苦手な数学のテストで、さっぱり問題が解けず困っていた。しかもテストが終わらないと教室から出られないので、焦りまくっていたが、いくら考えても問題が解けない!
 教室からはどんどん生徒がいなくなって、チラホラと頭が見える程度になり、広い教室には、ほとんど生徒が残っていない。
 最後のひとりに自分がなりそうで……もう怖くて周りを見ることもできない状態だった。

 ――自分は昔から数字に弱かった。

 電話番号が覚えられない、買った品物の値段をすぐ忘れる、数をかぞえるとよく間違える。正直、九九も頼りない人間なのである。
 数字は自分にとってトラウマとも言うべき弱点で、仕事が上手くいかない時や悩み事が多い時ほど、決まって、この数学のテストの夢をみる。

 カチカチカチ……壁に掛けた時計の音が、やけに大きく聴こえてくる。
 数学の答案用紙は一問も埋まらないまま、時間だけが虚しく過ぎていく……。
 ただ、ただ、解けないテスト用紙を握って脂汗を流している。――そんな情けない自分の夢。






   八ノ回廊 ほおずき


 ――こんな夢をみました。

 明け方の浅い夢の中で、一年前に亡くなった母の夢をみた。
 昔住んでいた古い平屋の奥の六畳間、縁側のある部屋にちょこんと母が座っている。まだ四十代くらいの姿で、今の自分とほぼ同じ年代である。
 自分が幼かった頃に、家でよく着ていた銘仙の着物の姿だった。それは灰色がかったくすんだ色調で、生地が玉虫色に光る感じの典型的な銘仙の柄だった。 
 地味な着物だが、それは母によく似合っていたと思う。自分の中の母のイメージはこの銘仙そのものだ。

 長い間、母は家で和服の仕立てをやっていた。
 毎日、呉服屋さんから預かった反物で着物を縫っている。反物の切れはしを持たされて、いつも手芸屋さんに絹糸を買いに行くのが自分の仕事だった。
 昼間はずっと正座して縫い針でチクチクと着物を縫っている。それがいつも眼に浮かぶ母の姿だった。

 十五年前に亡くなった父は、昔気質な職人でお酒が大好きだった。
 金さえあれば、お酒ばかり呑んでいた。しかも酔うと酒癖の悪い父は、些細なことで腹を立てて、母を殴っていた。父に足蹴りされて、肋骨が折れたこともある。
 晩年、母が怖い夢を見たと云ったことがあった。――それは、酒に酔った父に殴られて逃げ回る夢だという。その言葉に自分は、ただ、ただ、涙を流した。
 こんな歳になっても、若い頃に受けた暴力の恐怖に脅える母が哀れだった。身体に刻まれた暴力の記憶は死ぬまで消えない。だから自分も父を嫌っていた。

 夢の中では、死人(しびと)はしゃべらない。
 冥界にいる母は、生前の苦しみを忘れたように、薄っすらと微笑んで穏やかな顔だった。何か、手に持っている。それは橙色のほおずきだった。
 子どもの頃、いつも仕立ての仕事が忙しく、遊んでくれたことなどない母が、ほおずきの実を鳴らして遊んでくれたことが、一度だけあった。
 後にも先にも、あれが初めて母が遊んでくれた記憶である。

 ほおずきを貰って家に持って帰ったが、自分は遊び方を知らない。ほおずきの中身をくり出して音を鳴らして遊ぶのだが、鳴らし方が分からなかった。
 音なんか出ないと、ブツブツ文句を云って怒っていると、
「貸してごらん」と、仕立て物を縫っていた母が手をだした。
 そして、ほおずきを口に含むと音を鳴らした。

 ギュウ、ギュウ、ギュウー

 ほおずきを舌で押しつぶすようにして鳴らしている。ちっとも綺麗な音じゃない。
 まるで牛ガエルの鳴き声みたいだった。それでも、母が遊んでくれたことが自分には嬉しかったのだ。

 ギュウ、ギュウ、ギュウー

 また、ほおずきを鳴らす。自分の知らない、子どもみたいな母の姿だった。
 毎日々、生活に追われて、生活費の足しにと、毎日懸命に仕立て物を縫っている母も、かつて、子どもの頃には、縁側でほおずきを鳴らしたことがあったのだろう。

 ギュウ、ギュウ、ギュウー

 ほおずきの音が、晩夏の夕暮れに哀しく響いた。

 あなたを見送ってから一年、あっという間に過ぎたけど、最近になって、あなたのことをよく考えている。
 あなたに不満ばかりをぶつけてきたが、心配をかけたり、怒らせていたのは、いつも自分の方だったことにやっと気づいた。実際のところ、あなたが母親として、こんな自分を産んで良かった、幸せだと感じることがあったのかな? 
 母娘だから、分かり合えるっていうのは嘘だね。
 本当は時間が経たないと分からないことばかりだった。結局、母娘ってお互いに肝心なことを話さずに、終わってしまう関係なのかも知れない。
 娘として何もしてあげられなかった。――こんな、親不幸な自分をあなたは許してくれますか? 

 ごめんなさい。いっぱい謝りたいんだよ。
 ありがとう。今なら感謝の気持ちを素直に伝えられそう……。
 大好きでした。夢でもいいから、お母さん、あなたに逢いたいよ――。

 
 もう逢えない人の夢をみた。






   九ノ回廊 みどりの太陽


 ――夢の続きは終わらない。

 果てしない砂の海を漂っていた。
 白い砂の波が、ずぼずぼと自分の足を引きずり込もうするから、遅々として進まず、方角すら分からなくなった。
 砂漠の遊牧民のように、駱駝の背に揺られて、自分は木彫りの男の人形を胸に抱き、今日で百と何日か旅を続けている。

 ――月が昇ると、木彫りの人形は人の姿に変る。
 夜の間だけ、ふたりは人の姿で話ができる。だが、触れれば忽ち人形の姿に変ってしまう。
 愛し合っていても、お互いに触れ合うことも契ることもできない。――そんな呪いをふたりはかけられていた。

 今宵も男は人の姿に変ると、自分の側でいろんな話を聞かせてくれる。
 自分は呪いをかけられる前の記憶を持っていない――。だから、男の話すことが本当のことかどうか判らないままに、ただ、黙って聴いているだけ……白いターバンを巻いた異国の男は、自分の恋人だと云う。
 愛するあまり、シバ神の踊り子だった自分を神殿から連れ去ったせいで、人形に変る呪いをかけられてしまった。砂漠の蜃気楼が見せるオアシスに、呪いを解く泉があって、そこで沐浴すれば呪いが解けるという。
 それを求めて旅を続けているのだと、異国の言葉で男が話した。

 毎夜、砂漠を彷徨う夢を自分はみていた、夢だと知りながら、そこから逃れられない、もどかしさ、はがゆさ……。
 夢が現実を浸食していく――。

「おまえは俺と旅をしていて哀しくないのか?」ふいに、そんなことを男が云う。
 哀しいと思っていても……これは夢なのだから、と心の中で思ったが、なにも云わず黙っていると、
「俺は、おまえに触れることもできず、ただ砂漠を彷徨っているのが苦しいのだ!」
 怒りを含んだ声で、男が云った。
「いっそ人形のおまえを壊して、俺も砂漠で朽ち果てる。こんな旅は終わりにしたい」
 男の夢では、人形に変るのは自分の方ので、踊り子の人形と男が旅をしているのだ。
 ――この回廊のような、堂々巡りの夢を終わらせるには、人形を壊すしかないのだろうか? 
 砂漠を彷徨う夢に疲弊していたので、自分もそう思い、こっくりと頷いた。

 明日、陽が沈む前にお互いの人形を壊そうと誓い合って、ふたりは最後の時を過ごした。
 やがて朝日が昇り、砂の上にコトリと人形が落ちた。自分は、人形の男を拾い上げて胸に抱くと、ラクダの手綱をひき、再び当てどない砂漠の旅を続けてゆく。

 狂気のような砂漠の熱風がこの身を焼く。生きながらにして、自分は焼かれていた。――夢の中で。
 陽が昇った瞬間、ひたすら陽が沈むことだけを願う。そんな苦しい夢に、ついに終わりがくる。陽が沈みかけたら、木彫りの男の人形を壊す覚悟は出来ている。
 もうすぐ、白い砂漠の地平線に陽が沈む。夢の終わりが近づいてきた。
 少しずつ太陽が落ちていく。揺らぎながら陽炎のように、ゆらゆらと……。ほとんど、地平線に太陽が隠れかけた時、自分は手に持った石の礫で、男の人形を壊そうと腕を振り上げた。
 ――が、その瞬間、太陽の色が緑に変った!

「みどりの太陽!」

 緑の閃光、太陽が強く輝き緑色に変る現象を「グリーンフラッシュ」という。
 この緑色の光を見た者は幸せになれるという言い伝えがある。ああ、これが緑の太陽、緑の光線だわ。これに願いをかけたら叶うのかしら? どうか、ふたりを人の姿のままでいさせてください。
 木彫りの男の人形を胸に抱きしめ、何度々も緑の太陽に祈った。

 人形の男は、いつしか人の姿に変り、自分を抱きしめていた。ふたりは唇を重ねて抱擁した。もう、触れ合っても人形にはならない。
 緑の太陽が忌々しい呪いを解いてくれたのだ! ふたりは抱き合ったままで、砂漠の砂の上を転がっていた。
 異国の言葉で「愛している」と男が何度も云うと、自分は嬉しくて男の身体をなおも強く抱いた。

 




「おや、珍しい人形ですね?」
 砂漠の町のバザール、小さな土産物屋の前で、ひとりの観光客が足を止めた。
 その声に、店主は棚の上に置かれたまま、長い時間が経って砂塵を被っている物を、フッと吹いてから客の前に見せた。――それはアラビアンナイトの踊り子とターバンを巻いた男が抱き合っている人形だった。

「こいつ、ですかい? キャラバンが砂漠の砂の中から見つけ出した人形でさあー。これは不思議な人形でしてね。月が昇ると人の姿に変ると言い伝えがあるんですよ。まあ、人の姿にはなりませんが……時々真夜中に、睦合う男女の声が聴こえたりすることがあるんで、魔術師に見て貰ったら、強い念のこもった人形だから大事に持っていろ。と云われました。――だから、これは売り物ではありません!」

 土産物屋の店主はそういうと人形を元の棚に戻し、別の物を観光客に売りつけようとして、ペルシャ織りの絨毯を開いて見せていた。

 抱き合った木彫りの人形は、愛を永遠に封じ込めて……今宵も『夢回廊』を彷徨う。






   十ノ回廊 夢は終わらない


 ――こんな夢をみました。

 気がつくと、そこは見渡す限りの砂の海であった。
 地平線の向こう、遥か彼方まで砂に覆い尽くされた世界。天上にはナイフのような新月とスワロフスキーみたいに星々が煌めいている。
 ――ここは何処だろう? 
 自分は駱駝の背に揺られていた。アラビンナイト風の衣装を身に着けて、まるで東郷青児の描く女のように、深い憂いの睫毛を瞬かせて砂の大地を眺めて……。
 ――もしかして、ここは砂漠なのかしら?
 駱駝の手綱を見知らぬ男をひいている。シンドバットのようなターバンを巻いた異国の若い男だった。

「眼を覚ましたのか」と気配に気づいて、声を掛けてきた。
 知らない国の言葉だったが、何故か意味は理解できる。ここはどこですかと自分が訊ねようとしたら、男はくぐもった声で、
「おまえと今日で百日、砂漠を旅している」と云った。



― 無限 ∞ ―


                
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