[携帯モード] [URL送信]

  あじさい通り 


  ― あらすじ ―

あじさいの雨が降る季節に君と出会った。
あじさいのように様々に変わる彼女の人格。
美しい人妻・真亜子、彼女は多重人格なのか? 
サイコホラーサスペンス。

この作品は「創作工房 群青」の六月・七月の宿題「好きな曲で小説を書く」をテーマに考えたものです。
「あじさい通り」という曲は、スピッツのアルバム「ハチミツ」に入っています。
一般的にさほど有名ではない曲なのですが、スピッツファンの泡沫恋歌としては、大好きな曲のひとつです。
季節感も合ったので「あじさい通り」その曲から頂いた、イマジネーションで創作しました。
結果、あじさい=色が変わるから、多重人格のサスペンス小説になってしまいました。


 ↓Youtube「あじさい通り」へどうぞ。


  

 
(表紙は無料フリー素材からお借りしています)


 初稿 趣味人倶楽部・創作広場 2011年6月頃 文字数 39,464字

 カクヨム投稿 2016年6月8日 文字数 40,652字 








   ◇ 白いあじさい ◇

「あじさいの花が好き」
 と、君が言う。
「どんな、あじさい?」
 と、僕が聞くと、
「純白のあじさい」
 と、答えた。
「あじさいなのに白? 色が変わらないとあじさいじゃないだろう?」
 もう一度、聞き返したら……。
「白くて何ものにも染まらない、そんなあじさいになりたい」
 そう言って、君は薄く笑った。

 ラブホテルの一室で、情事の後のまどろみから目覚めた僕らは、そんな他愛のない会話から始まった。
 大きなベッドと小さなソファーセット、外から中が覗けるバスルームがある。セックスのためにだけ使われる、この部屋はすべてが簡略化されて、愛なんか入り込む隙間すらなかった。
 名も知らない君を、行きずりに抱いた僕は飢えたケダモノだったと……ラブホテルのこの部屋がそうもの語っていて、この淫靡なシュチエーションがいっそう僕を堕としめるようで早く、ここから逃げ出したかった。――この部屋にも僕自身にも嫌悪していた。   
 あじさいの花が、テーブルの上で水も与えられずに萎れていく。





 突然、バケツをひっくり返したような夕立に遭遇した。
 なんとなく曇ってきたなと思ってから降りだすまでに、ものの十五分とかからなかった。逃げ場をなくした僕はずぶ濡れになって、住宅街の中にある、個人の住宅のガレージに入り込んだが、そこには、すでに先客が居たので驚いた。

 君は白っぽいコットンのワンピースにミュールを履いて、屋根付き駐車場の奥に佇んでいた。人の気配に気が付いて、驚いて振り向いた僕に、
「こんにちは」
 にっこり笑って挨拶をした。
 しばし呆然としていた僕は挨拶も返さず、無遠慮に君をジロジロと見てしまった。歳は三十過ぎだろうか? 髪はすっきりとシニヨンに結いあげて、色が白くて、上品な顔立ちをした美人だ。スレンダーでスタイルもとても良い。この近所の主婦だろうか?
「急な夕立でお店もないんで……ここで雨宿りさせてもらおうと……」
 なんとなく言い訳がましい挨拶をした。
 高校時代の友人がこの近所に引っ越ししてきたと聞いて、アポ無しでブラリと訪ねてみたが、留守だったので仕方なく帰るところだった。
 大学卒業から五年経つが、希望する企業に就職できなくて、そのまま父親の経営する会社を手伝っている。始めの頃は懸命に就職活動をしていた僕だが、最近では父親の仕事にも慣れて、もう、このままおやじの跡を継いでもいいかなあ、とさえ思い始めている。さえない毎日だけど、こんなものかと諦めていた。
 とにかく、自由が利くし、こんな風に思い立ったら友人にも会いに行ける。将来のことを考えたら、おやじの仕事も悪くないかぁ――。

「あじさい、きれいですね」
 先ほどから、気になっていたのだが、大きなあじさいの花束を君は持っていた。それは青、ピンク、紫をとてもカラフルできれいだった。白っぽいワンピースによく映えて、あじさいが浮き上がって見えるほど鮮明であった。
「花泥棒したの」
「えっ?」
「あじさいがきれいだったから盗んできたのよ」
 うふふっと、君はいたずらっ子のような目で笑った。
「そうなんですか? まあ、昔から花泥棒はお咎め無しっていうから……」
「そんなんじゃあ、ないの。憎い人の家から盗んできたの」
「そ、そうすっか。あはは……」
 シャレにもならないことを言い出したので、僕は答えようがなくなって曖昧に笑った。それ以上、深く聞くのはなぜか憚られた。手に持ったあじさいの花を見ている君の目がやけに悲しそうだったので、僕は胸が詰まったのだ。

「あなた、びしょ濡れじゃないの?」
 今さら、驚いたような声で君が言った。
 ヘックション、くしゃみまでタイミングよく飛び出した。
 びしょ濡れの僕は、これからどうやって帰ろうかと思案していた。おやじに車で迎えにきてもらうか、タクシーだな。
「まったく、ひどい雨で……家族に電話して迎えに来てもらいます」
 夕立はいっこうに止みそうもない。
 住宅街の家々の庭先には、色とりどりのあじさいの花が咲き乱れている。たしか、ここらあたりはあじさいを植えている住宅が多いせいか、『あじさい通り』と近隣で呼ばれている地域だった。
 梅雨だから雨が降るのは当たり前なのに、傘も持たずに出掛けた、自分自身の迂闊さを反省しながら、携帯を取り出して電話をかけたら留守電話になっていた。
 チッと舌打ちをして、メッセージを入れてから切った。これじゃあ、いつ迎えに来てくれるか分からない。
 ヘックション、ヘックション、立て続けにくしゃみが出た。やはりびしょ濡れだと身体が冷えてきたようで、少し寒気がする。

「どしゃぶりの激しい雨が降るとアメリカ人は『ヘブンズオープン』って言うらしい」
「まあ! 天国の門が開いちゃうの? だったらいいのに……」
 虚ろな瞳で僕を見て微笑んだ。そして、いきなり君の口から、
「どこかで、服を脱いで温まりましょうか?」
「えっ……」
 いきなりのその言葉に僕は驚いて――。なにを言っているんだろう? この人。服を脱いで温まるって……そんな場所は?

「さあ、行きましょう」
 雨が少し小降りになってきたら、君は僕の手を握って歩き始めた。
 なんだか訳が分からないまま、引っ張られて僕も歩き出した。いったいどこへいくつもりなんだ?
 この女性は美人だし、嫌いなタイプではない。――だけど、雨宿りで主婦にナンパされて付いて行くって、どうなんだろう。僕も学生時代からずっとスポーツもやっていたし、スタイルにも自信がないこともないけど……この人、なにを考えているんだ? 清楚な印象だったのに……不思議だと思いながらも、こんな雨のせいか、フラフラと君に付いて行ってしまった。
 この近くの主婦なのか、近所の地理には詳しいようだった。それは住宅街の奥まった場所にあった。
 ――こじんまりしたラブホテル。
 むしろ『連れ込みホテル』と呼ぶ方がぴったりな淫靡な建物だった。

 ホテルの中に入った僕らは、小さなフロントの窓から、部屋番号を付けた鍵を渡されて、その部屋を探して入った。最近のお洒落なファッションホテルと違って、なんだか陰鬱で湿気た部屋だった。壁のあちこちに得体の知れないシミがあって、なんだか気味が悪い。

「一度入ってみたかったの」
 君はこともなげに言うと、にっこりと微笑んだ。
 その透きとおるような笑顔が眩しくて、ひどく、この部屋と場違いな感じがした。――ここまで来たのだから、もうなるようにしかならないと僕は覚悟を決めていた。
 ゆっくりと濡れた服を僕は脱ぎ始めた。冷えた身体を温めるために熱いシャワーを全身に浴びた。僕がシャワーから出たら、君は交代でシャワーを浴びてバスタオルを巻いて出て来た。まったく恥ずかしがる風もなく、しごく自然体だった。
「いいんですか?」
「ええ……」
 君は頷いた。
「じゃあ……」
 僕は部屋のライトの明るさを暗く絞ると、ベッドに腰かけている君を抱きしめて、そのうなじにキスをした。裸体を隠しているバスタオルに僕は手をかけた。君は目を瞑ってなすがままになっている。

 ラブホテルの仄暗い照明の下で君は白い魚のようだった。
 無抵抗で、ただ僕に身体をあずけていた。欲求不満の主婦かと思ったら、そうでもない……なんだか、自分自身を卑しめるように、いたぶっている――もっと言うなら、自分に罰を与えるために、見ず知らずの男に身体を与えているようにさえ僕には思えた。
 君が何を考えているのか分からないまま、反応の薄い君の身体で僕は欲望を満たした。ひどく惨めな感じだった。娼婦を買ったことはないが、欲望だけで女を抱くというのはこんな感情なんだろうかと、君の身体から離れた時に僕はそう思っていた。
 それなのに君は小さな声で、
「ありがとう」
 と、言った。
 微かに届いたその声に答えず、僕は目を瞑った。

 しばしのまどろみの後、僕らはあじさいの話をした。なんとも捉えどころのない不思議な人だと君のことを思っていた。
 服は濡れているが、ここに居るのも気が滅入るので、もう一度熱いシャワーを浴びてから帰る準備をしようと、僕はシャワー室に入っていった。

 シャワー室から出てきたら、部屋に君はいなかった。
 いつの間にか、ひとりで帰ってしまったようだ。見ると、テーブルの上に萎れたあじさいと一緒に現金が置かれていた。数えたら五万円もあった。――そのお金で君は僕を買ったってことなんだろうか?
 五万円という金額が高いのか安いのか分からないが……自分自身がまるで男娼みたいに、主婦に買われたという事実に当惑していた。まるでゲーム感覚でいきずりの男とセックスをしてお金を払ってバイバイすれば、それでいいと君は思っているの?

 そんなんじゃないんだ! 
 弄ばれたようでプライドが傷ついた。そんな君の心が悲しかった。あれだけの美人なのに、お金で男を買わなくても……その気になれば、いくらだって相手はいるだろう? それとも僕が気に入ったの? ずぶ濡れだった、この僕を?
 僕を買った割には、君はセックスを楽しんでいなかったのに「ありがとう」って、あれはどういう意味なんだろう? 君の気持ちが分からない。
 こんな金なんか! 部屋に置いて出て行こうとドアの前まで行きかけて、暫し、思い返して取りに戻った。
 そうだ! いつか、あの女に逢えたら、この金を突き返してやろう。僕は濡れたズボンのポケットの中に現金を捻じ込んだ。
 ――そして、ホテルから出ると大通りまで出てタクシーを拾って帰宅した。





   ◆ 青いあじさい ◆

 ヘッション! 大きなくしゃみが出た。
「あら、遼くん風邪引いたの?」
 受付の机に座っている、朋子さんが聞いた。
「うん。こないだ夕立に合って、ずぶ濡れになったから……」
 父親が経営する『日高会計事務所』は僕を入れて五人の小さな事務所だ。公認会計士の父と税理士の岡田さん、営業メインの安本さん、そして、受付と電話番の事務員、朋子さんと見習いの僕だ。朋子さんは四十代半ば、既婚者で大学生と高校生の子どもが居る。『日高会計事務所』に勤めて十数年のベテランである。中学生だった頃から僕を知っているので、今だに僕を「遼くん」と呼ぶ。
 朋子さんは少し肥っていて、話好きな陽気なおばさんである。

 『日高会計事務所』は、小さな規模だが、古くから馴染みの会社を多く顧客に抱えている。経営コンサルタントもやっていてお客の評判も上々、安定した収益がある。いずれ、父の跡を継ぐために僕は会計士や税理士の資格修得の勉強をしていた。
 父や税理士の岡田さんが仕事で出掛けた後は、だいたい朋子さんとふたりで留守番をしながら雑用をやっている毎日だった。
「遼くん、風邪の引き始めだったら葛根湯が利くわよ」
 そう言って、朋子さんがお盆に薬とお水を乗せて持ってきてくれた。
 高校生の時に母親が病気で亡くなった。――それ以来、母親みたいに僕の面倒も見てくれている。時々、料理を作ってタッパに詰めて持ってきてくれたり、事務員というより、親戚のおばさんみたいな気やすさだった。
 その時、事務所の自動ドアが開いて、誰かが入ってきた。

「いらっしゃいませ!」
 明るい声で朋子さんが挨拶をした、若い女性のお客が入ってきたようだ。
「あら、伊達さんの奥さま。たしか一時半からご予約でしたよね。所長は只今、お客様と会食中でございまして、後、十五分もすればお戻りになりますが……」
「そう。予約時間よりも少し早く来ちゃったから待たせてもらうわ」
 その声に思わず、僕は自分の机から目を上げた。
 君は白いブラウスに紺のパンツを穿いて、肩からヴィトンのアベスを提げていた。髪はきりりと後ろで纏めシュシュで束ねている。キャリアウーマンのように、君は颯爽とした出で立ちだった。――先日、ガレージで見た君とは全く別人のようだった。
「そうですか? じゃあ、応接室でお待ちください」
 応接室に案内する朋子さんの後ろを君は付いて行く。通り過ぎる時、チラリと僕の方を見たが、その顔には何ら感情はなかった。
 あの時の君に間違いない! ひっつめ髪だから、ハッキリと見えたんだ。あの日、君のうなじにキスをした時に、左の耳の付け根にマッチ棒の先くらいのホクロがあった。今日の君にも同じ場所にホクロを見つけた。

「朋子さん、さっきの女の人は?」
 応接室にお茶を運んで出て来た朋子さんを捕まえて、さっそく聞いた。
「えっ? ああ、伊達さんの奥さんよ。伊達家は昔からの資産家でビル管理やマンション経営をやっているお宅よ。今は息子さんが輸入家具なんかのお店を半分道楽でやっているわ。奥さんもヨーロッパによく行くので、現地で雑貨を買い付けして、ネットなんかで売りたいみたいなの。それで所長に相談にきたみたいよ」
「そうなんだ……」
「遼くんが、個人的にお客さんに興味を持つなんて珍しいわね」
 ニヤリと朋子さんが笑った。
「いや、そんなんじゃないよ。ただ、どこかで見たことある人だと思って……」
「たしかに、あれだけの美人だったら目立つかもね。だけど……あの人は伊達さんの後妻なのよ……」
 ちょっと声をひそめて、
「……どうも噂だと、前の奥さんは自殺したらしいの」
「えっ、そうなんだ」
「秘密になってるけどね」
 唇の前に人差し指を立てて、ヒソヒソ声で言う。だが、朋子さんにとって秘密に成ってることほど、実は人にしゃべりたいのだ。
「うん……」
 あの時の君も、何か深い事情を抱えているようだった。そのことが関係あるのか、どうかは分からないが、とにかく不思議な人だった。

 その後、朋子さんに頼まれた雑用で僕が出掛けている間に、君は帰ってしまっていた。
 あの日から、僕のズボンのポケットに捻じ込まれている、あの五万円を絶対に君へ返したいと思っていたのに……。うちの顧客だと分かったので、個人情報もこっちは握っているのだから――いずれチャンスがあれば、君と逢って、このお金を突き返すことができる。僕は自分の肉体をお金で買われたという事実が、どうにも我慢ができなかったのだ。
 ――僕にとってこれは愛というよりも、もっと真面目なジョークだった。





   ◇ ピンクのあじさい ◇

 それから一週間ほど経った、ある夜、いきなり僕の携帯が鳴った。
 時間は十時を少し過ぎていて、自宅のベッドに転がって雑誌を読んでいる時だった。携帯が鳴ったが、知らない番号だったので出ようか出まいか躊躇していたが、しつこく呼び出し音が鳴るので、仕方なく出ることにした。
「もしもし……」
「あんた、遼っていうのね」
「はあ? あなた誰ですか?」
「あたしよ。もう忘れたの」
 いきなりタメ口で、知らない女が話かけてきた。
「誰だろう?」
 こんな風に気安く話しかけてくる女を僕は知らない。過去に付き合った、何人かの女性の顔を思いだしたが……誰ひとりピンとこない。
「薄情な男ね! あんた抱いた女のことも簡単に忘れちゃうの」
「も、もしかして……あじさいの人?」
「ピンポーン大正解よ。ぎゃははっ」
 先日とは全く違う、品のないしゃべり方をする君に驚いた。
「……酔っ払っているんですか?」
「まだ酔ってないわよ。『アナベル』っていうショットバーに居るんだけど、今から出て来ない? 一緒に飲もう」
「ええー?」
「待ってるからさ、絶対に来るんだよ。じゃあね!」
 自分の用件だけ言って、電話はプツンと切れた。
 いきなり電話をかけてきて、今すぐこいって……なんて非常識な女だ。携帯の時計を見ながら考えた、明日は仕事が休みだし『アナベル』と告げられた、その店に行ってみようと思った。
 あの金を返したい……そのチャンスは思ったよりも早く、しかも君の方からアクセスがあるなんて……。

 君に指定された『アナベル』は、雑居ビルの地下にあった。
 暗い階段を降りて、重い木の扉を押し開けたら、大人の隠れ家のようなショットバーがそこにあった。店内は間接照明で落ち着いた雰囲気、大きなカウンターと後ろの棚には色とりどりの洋酒瓶が並べられていて、バーテンダーがお客の注文に合わせてシェイカーを振ってカクテルを作っていた。
 あまり広くない店内を見回して君を探すと、カウンターの奥に君が座っていた。目の前には、すでに何種類かのカクテルが並べられていた。
 今日の君は金髪を立巻きカールにして、胸開きの広い、スリットの入った派手なピンク色のセクシードレスだった。まるで客待ちをしている娼婦みたいで……ひと目見て、僕は恥ずかしくなって帰ろうかとさえ思った。
 すると僕の姿を見つけた君が、嬉しそうに手招きをして呼んだ。 
「ハーイ」
「こんばんは」
「来てくれたの」
「……うん」
 真っ赤な唇に、チェリーを咥えた君は潤んだ瞳で僕を見た。格好はケバケバしいが、ドキリとするくらい……君は美しい。
 バーテンダーにマティーニを注文すると、カウンターの君の隣に座った。咽かえるほど強い香水の匂いが鼻につく。ディオールのプアゾンだろうか? この香りは嫌いだ。

「どうして僕の携帯の番号を登録していたのさ? また逢いたいと思っていた訳?」
 あの日、僕がシャワーに入っている間に、勝手に携帯を覗いて、僕の番号を登録したようである。
 それにしても、今日の君はまるで別人のようだった。
「さあ、真亜子(まあこ)のやったことだから分からないわ」
「真亜子? って、君の名前?」
「あたしは桃華(ももか)よ」
「そうか、彼女と双子だったんだ?」
「違う! あれはあたし」
「はあ?」
「そうじゃないの! 真亜子も青羅(せいら)もみんな、あたしの中に居るのよ」
「えっ……?」
 この人は何を言っているんだろう? 君の言葉が僕には理解出来なかった。 
「真亜子(まあこ)は上品で聡明な主婦なのよ。ナルシストで自己愛が強いけど、強い罪の意識から自分の身体を行きずりの男に与えて、自分自身を罰しているの。悔悛の『マグダラのマリア』にでもなったつもりだろけど……あの女、ホントは腹黒いんだ! 青羅(せいら)はこないだ、あんたの会計事務所に行った女だよ。あいつはクールで計算高い女さ。仕事が好きでお金が大好きなのよ」
「……じゃあ、君は?」
「桃華(ももか)は自由奔放なのよ。あたしは誰からも縛られない女なのさ」
「そんな風に自分を使い分けているの? それとも……病気?」
「さあ、分かんない! あたしって、時々違う人間になっちゃうの。ぎゃははっ」
「多重人格って映画で観たことあるけど、ヒチコックのサイコとか……」
 君が演じているのか? 病気なのか判断が付かない。とにかく不思議な女だった。
「そんなことどうでもいいじゃん! 今夜は一緒に飲もうよ」
 うふふっと小悪魔のように嗤い、僕の身体にすり寄ってくる。豊満な乳房の弾力と強烈な香水の匂いに僕はクラクラしそうだった。
 この女の誘惑を跳ね除ける力は、とても僕にはない――。

 水を得た魚のように、君は僕に挑みかかる。ベッドの周りには君がストリッパーの真似をしながら脱ぎ捨てていった、ドレスや下着類が散らばっている。
 ここは、おしゃれなファッションホテルだった。ロココ調の高級な造りの部屋にはキングサイズのベッドがあって、その上で何度も体位を変えて僕らはセックスを楽しんだ。君はさまざまなテクニックで僕に快楽を与えてくれる。最後には猫足ソファーに座った僕の上に君が跨って、精気を吸い取るように激しく痙攣してイッてしまった。まるで悦楽の魔女のように――。
 こないだの煤けた連れ込みホテルではなく、ちょっと高級なラブホテルには官能を誘う、様々な道具が置かれ、それらを使って君はエクスタシーを何度も味わっていた。
 ――桃華という女はセックスには貪欲だった。
「あたしさー、あんたが気に入ったよ」
「君みたいな女を抱いたのは初めてだ」
「うふふ、あたしのアソコ気持ち良かったあ?」
 僕の背中からは血が流れていた、イクときに桃華は男の背中に爪を立てる。――まるで牝猫みたいな女だ。
 先日のお人形みたいに大人しく抱かれていた女と、とても同一人物とは思えない。この大きな人格の違いは何だろう? もし、君が多重人格だとしたら……とても怖ろしいことだと僕は思った。

 ホテルをチェックアウトする前に、先日の五万円を君に返そうと思った。
「このお金は返すよ」
「なあに?」
「こないだ、ホテルの部屋に君が置いて行ったお金だ」
「そうなん? 真亜子ってバカね。男に抱かせてお金まで置いてくなんて……」
 そう言って、君は僕の手から現金を引ったくるようにして、下着姿のまま、黒いブラジャーの中に挟んだ。やることが娼婦みたいで、セックス以外では絶対に嫌いなタイプの女だった。――同じ君にお金を返したのに、僕は釈然としないものを感じていた。
 すると、急に桃華が、
「あう……」
 苦しそうにうめいた。しばらく顔を手で覆って、小刻みに身体を震わせている。
「どうかした?」
 びっくりして、駆け寄った僕に、
「ここは……どこですか?」
 周りをキョロキョロ見回して、不思議そうな顔で君が聞いた。
「えっ? ここホテルだよ」
「キャッ」
 いきなり、悲鳴をあげて恥かしそうに自分の身体を隠そうとした。
「わたし……あのう、あなたとやっちゃったんですか?」
「ええー! なに言ってるんだよ」
「記憶がないんです。時々、心の中でわたし眠っているのです」

《もしかしたら……別の人格と入れ換わったのか?》

「君は誰?」
「真亜子です。――こないだ逢った」
 恥かしそうに頬を赤く染めた。同じ君なのに……さっきまでの桃華とは表情や話し方が全然違う。まったく別人のようである。
 やはり多重人格というのは、まんざら嘘ではないと僕は確信した。

 真亜子はブラジャーに挟まれた現金を見つけて、これは何ですか? と僕に聞くので先日、君が置いて行ったお金を返したいというと……。
「そのお金はどうか……わたしの罪の償いですから、納めてください」
「罪って? 僕は君に償って貰うことなんかない。こんなお金は不愉快なんだ!」
「――ゴメンなさい。こんな穢れたお金なんか!」
ビリッとお金を破ってしまった。ビックリした僕は、
「やめろ! お金を粗末にするくらいなら僕が預かって置くよ」
 再び、その現金は僕の元に戻ったが、真っ二つに破られていた。
 真亜子はこんな服は恥ずかしいと言いながら、桃華が選んだ派手なドレスを着て、ホテルから逃げるようにして、タクシーで帰って行った。


  〔 多重人格・解離性同一性障害 〕

 解離性同一性障害(かいりせいどういつせいしょうがい、略称はDID)は、多重人格といわれるものである。
 大きな精神的苦痛で、かつ子供のように心の耐性が低いとき、限界を超える苦痛や感情を体外離脱体験とか記憶喪失という形で切り離し自分の心を守ろうとする。
 それは人間の防衛本能であり日常的ではないが障害ではない。更にその状態が恒常化して防衛が破綻し、別の形の苦痛を生じたり社会生活上の支障まできたす段階が解離性障害である。
 解離性同一性障害はその中でもっとも重く、切り離した感情や記憶が成長して、別の人格となって現れるものである。

 人格の現れ方は多様であるが、例えば弱々しい自分に腹を立てている自分、奔放に振る舞いたいという押さえつけられた自分の気持ち、堪えられない苦痛を受けた自分などが心の中で切り離されて成長してゆく。
 多くの場合元々の自分は切り離された自分のことを知らない。そして普段は心の奥に切り離されている別の自分(交代人格)が表に出てきて一時的にその体を支配して行動すると、本来の自分はその間の記憶が途切れ、何がどうしたのか解らない。

     ― ウィキペディア フリー百科事典より 抜粋 ―


 自宅に帰ってから、パソコンで多重人格について調べてみた。
 心の中に、たくさんの人格を抱えている君――。
 真亜子・青羅・桃華……それ以外にも、まだ「別の君」が存在して居るのだろうか?









あきゅろす。
[管理]

無料HPエムペ!