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 鳰の海(におのうみ) 


瀬田の里に住む、瑠璃姫(るりひめ)は高貴な生まれの姫君だが、
都から遠く離れているせいで、年頃になっても公達が通ってこない。

乳母の湖都夜(ことよ)の夢は、姫君を殿上人(てんじょうびと)の
北の方にして、都に還ることだった。

――平安時代の婚活物語です。

表紙の絵はフリー素材 [ 四季の素材 十五夜 ] 様からお借りしました。
http://ju-goya.com/

一度、公募用に推敲しています。
文芸思潮、第8回銀華文学賞の二次選考通過作品。


     初稿 趣味人倶楽部・創作広場 2010年頃 文字数 11,588字
     カクヨム投稿 2017年11月6日 文字数 11,905字








 鳰の海や霞のうちにこぐ船のまほにも春のけしきなるかな 
                       (式子内親王「新勅撰集」)

 鳰(にお)の海(うみ)とは琵琶湖の古称で近江国の歌枕である。京の都から近い淡水の海として近淡海(ちかつあわうみ)と呼ばれる琵琶湖(びわこ)。その煌めくさざなみが、やがて穏やかな流れとなる瀬田川(せたがわ)、その瀬田川と琵琶湖に架かっている「瀬田の唐橋」は古来より歴史の拠点として度々その名が挙げられる。その存在は古くは日本書紀にも記されている。「唐橋を制する者は天下を制す」という云われるほど、東国から京の都に入る唯一の橋であった。

 その「瀬田の唐橋」のほど近くに、高貴な姫君がひっそりと暮らして居られた。だが、普段は静かな屋敷の中がざわめいている。乳母(めのと)の湖都夜(ことよ)は大張りきりで侍女たちと、今宵、初めて通ってこられる式部大輔(しきぶたいふ)のお迎えの支度を調えていた。粗相のないようにと、細かく侍女たちに指図をしているのだ。屋敷の前では篝火(かがりび)を焚いて牛車の到着を待っている。
 しかし、当の本人、瑠璃姫(るりひめ)は、そんな乳母たちを尻目に御簾(すみ)の奥で所在なさそうに脇息(きょうそく)にもたれ、物憂い表情で溜息を吐(つ)いていた。乳母の湖都夜には内緒だが、もう男に通って来られるのは煩わしいと姫君は思っていて、人知れず平穏な日々を送りたいのである。
「姫君、これはまたとない、ご縁(えにし)でございます」
「もう、殿御はいらぬ……」
「何をおっしゃる、姫君には殿上人(てんじょうびと)の北の方として、都に還るのが天命、これは好機でござりまする」
 おおいに乗り気な乳母は、姫君の尻を叩いている。
 今宵通われる。式部大輔、藤原兼通(ふじわら かねみち)は、父君は右大臣、母君は大納言の家柄の娘で、由緒正しき血統の嫡男(ちゃくなん)である。今は、まだ若いので正五位、式部大輔と官位は低いが、将来有望な公達(きんだち)なのだ。しかも、兼通は、一年ほど前に北の方を亡くされて以来、ずっと喪に服しておられた。噂では通っておられる女人も何人かはいるようだが、誰も北の方になさろうとはしない。今なら寵愛が深ければ、兼通の北の方になれるかも知れないのだ。

 こんな片田舎の瀬田(せた)の里に住まう、瑠璃姫だが決して家柄は悪くはない。瑠璃姫の父君は、右近衛大将(うこのたいしょう)、九条良憲(くじょう よしのり)で、母君は中宮(ちゅうぐう)に仕える女官であった。内裏(だいり)で近衛大将に見染められた母君は宮仕えを辞して、夫が用意した屋敷に住まうこととなったが、近衛大将の北の方は悋気(りんき)の強いお方で、都に居を構えることを許さなかった。それゆえ、都より遥か遠い琵琶湖を望む、瀬田に屋敷を構えることになった。
 そうなると、遠方ゆえに近衛大将は通うことも儘ならず、男の愛情は思った以上に早く冷めてしまわれた。都の女たちの元ばかりに通われて、瀬田の母君の元へは、月に一、二度しか通っては来られなかった。
 瑠璃姫が生まれて、瀬田の長者の娘、湖都夜(ことよ)が乳母(めのと)として奉公にあがった。湖都夜は、生後まもなく我が子を亡くし、夫とも疎遠になっていたので、屋敷に召されて姫君を育てることを生甲斐と感じていた。乳母は田舎育ちだったが、若い頃、都で貴族の屋敷に奉公したことがあって、都育ちの女主人を尊敬し憧れていた。鬱々と物思いに耽る母君とは違い、乳母は朗らかで活発な性格、姫君にはきびしいが情の厚い女である。
 元々、病弱だった母君は、瑠璃姫が七つの時に身罷(みまか)った。夫を待つばかりの寂しい日々が寿命を削ったのかも知れない……と、姫君は思っている。母が亡くなって、北の方の元へ引き取る話もあったが、幼く愛らしい姫君を……あの悋気の強い妻の性格を知っている近衛大将だけに、瑠璃姫の養育を乳母の湖都夜に任せて、この地に姫君を残した。





 それから、十数年の歳月が流れた。
 家柄は悪くないのに、こんな片田舎ゆえに年頃になっても、瑠璃姫の元に通ってくる殿御はいない。たまに文がきても乳母の湖都夜が、
「こんな身分の低い男とでは姫君と釣り合いませぬ」
 と、勝手に握り潰してしまう。
 湖都夜は、瑠璃姫を身分高い貴族の北の方にさせて、京の都に還るのが夢だった。そのために姫君を美しく聡明に育てあげたのだ。乳母に取って自慢の姫君である。
 三年ほど前に、一度だけ、湖都夜のお眼鏡に叶った殿御がいた。弾正尹(だんじょうのかみ)、橘国善(たちばな くによし)いう少将で、すぐれた歌を詠んだ。歳は姫君よりも二十歳も多いのだが、北の方が病弱だったので、いずれは北の方にという条件で通われたが、あろうことか、瀬田に来る道中で夜盗に襲われ命を落としてしまわれた。
 その後も三、四人の公達が通われたが、まず遠いことと、いつまで経っても打ち解けない姫君の、かたくなな性格に愛想をつかされて、
「姫君は気位が高くて、とてもお相手が務まりません」
 男たちの足が遠のいていった。片田舎に高貴な姫君が住むと聞いて、単なる好奇心から通い始めたくせに、冷たくあしらうと、すぐに諦めてしまう。なんて実(じつ)のない男たちよ。こんなことはもう懲り懲り夫などいらぬ、ご機嫌を取ったり、男女のまぐわいも嫌だった。
 瑠璃姫は浮世の煩わしさから逃れたかった。兼ねてより尼になりたいと考えていた。阿弥陀様を信心していたので、父の近衛大将にお願いして、お寺に寄進して仏門に帰依し、亡き母君の御霊を弔い、念仏三昧の日々を過ごしたいと、そう願っていたのだ。それなのに……乳母も父君も尼になることを断じて許してはくれない。――どうせ今度(こたび)の縁(えにし)も上手くいくとは思えなかった。

 近江国(おうみのくに)、瀬田川に舟遊びに来られた式部大輔、藤原兼通は陰陽道の方違(かたたが)えで、瀬田の長者の屋敷に逗留することとなった。瀬田の長者は乳母の湖都夜の実家である。その時、家人から、こんな片田舎に貴族の隠し姫が居ると聞いて、兼通は興味を持った。
 毎日、叔母の湖都夜の元へ、瀬田川で獲れたしじみやごりなど届けに行く甥御について来て、こっそりと瑠璃姫の屋敷に訪れていたのだ。その時に、瑠璃姫の姿を遠くから見染められて、乳母の甥御を通して文が届けられた。その後、何首か歌の遣り取りがあって、ついに今宵、こんな片田舎の屋敷に通ってこられるという。

「姫君、そんな憂鬱な顔をなさっては、美しいお姿が台無しでございます」
 やたらと張りきる乳母とは対照的に、瑠璃姫は欝々とした気分だった。
「だって……どうせ、また……」
 口の中でもぞもぞと反発するが、
「あれ、紅が薄いようでございますね。これ、誰か、姫君の化粧箱を持ってきや」
 沈んだ姫君の様子に全く意に介さない、乳母の湖都夜である。
「わたくしのお育てした瑠璃姫様は、都の女人にも負けない美しさ。その長く艶やかな黒髪に心を奪われぬ殿御はおりませぬ」
 姫君の衣装に香を焚きつけている。伽羅麝香(きゃらじゃこう)の甘き獣の匂いが扇情的で男を誘うようだった。「ああ、嫌だ……」扇で顔を隠して、姫君は顔をしかめた。

 いよいよ夜も深まって、もうすぐ式部大輔殿のお車が着きますと知らせが届いた。今宵は初見なのでお泊りにはならないと思うが、乳母の湖都夜は自分のことのように、そわそわと落ち着かない。
「いいですか、殿御のおっしゃることには『はい』とか『さようでございます』とか、ちゃんとお答えしなくてはいけませんよ。姫君は無愛想でいけません」
 ぐちぐちと説教を始めた。
 どうせ、二、三度通われて、足が遠のく殿御に媚びなど売らぬと姫君は考えていた。この縁(えにし)にしくじったら……父君も呆れられて、もう尼になってもよいとおっしゃるかも知れぬ。心の片隅で、そんな不埒なことを瑠璃姫は考えていた。
 屋敷の前に牛車が到着して、にわかに活気づいてきた。共の者たちと一緒に屋敷の敷地に通されて、さらに奥の間へと式部大輔は進まれた。





 今宵、初めて通われた式部大輔、藤原兼通という人物を、御簾の奥でじっと息を潜めるようにして瑠璃姫は見ていた。
 たぶん、歳は自分よりも十歳ほど上だろうか、藍色の 直衣(のうし)姿で、指貫(さしぬき)には、浅黄緯白(あさぎぬきじろ)、藤の丸紋に入っている。頭には立烏帽子(たてえぼし)を被り、手には扇子(かわほり)、懐中には帖紙(たとう)を入れている。申し分ない出で立ちで男振りも良い。さぞや、宮中の女官たちに騒がれているであろうに、何故(なにゆえ)、よりに選って、こんな片田舎の自分の処に通って来るのだろうか。瑠璃姫には不思議で堪らない。
 先ほどから、乳母の湖都夜が兼通の機嫌を取ろうと、あれこれ話かけている。時折、聴こえてくる、お声も低く心地よい。
「おほほっ、姫君はねんねで世事に疎いお方でございますから、どうか、ご容赦くださいますように……」
「わたしは世慣れた女人よりも、姫のようなひっそりとしたお方を好ましく思っています」
「まあ、そう云って頂けると……何しろ、ここは片田舎なもので、都の流儀が分かりませぬゆえ……」
「堅苦しい流儀は気にせずに、気が置けないもてなし有難く思います」
 今まで、通ってきていた男たちとは受け答えがぜんぜん違う。この人はなんて心の広い人なのだろうと瑠璃姫は思った。
「それでは、今宵はこれくらいにして退席させて頂きます」
「さ、さようでございますか」
 早い退席に、気分を害されたのではないかと乳母はおろおろしていた。
「では姫君、また、ご機嫌伺いに参りましょう」
 あの方が帰られる。思わず瑠璃姫の口から声が出た。
「ど、どうか、またお越しくださいまし……」
 小さな声で呟くように話した。
「おお、これは愛らしい。小鳥の囀りのようなお声だ。姫の声が聴けて良かった」
 そう云って、朗らかに笑うと兼通は帰って行かれた。
 わずかな時間だったが、瑠璃姫には深く心に染み入るような時間であった。こんな気持ちになったのは、たぶん生まれて初めてかも知れない。

 式部大輔が帰ってから、乳母に叱られた。
「姫君なんですか、あの慎みのない、お言葉は……高貴な姫君が自分から『お越しください』などと、殿御に云うものではありませぬ」
 いつも無愛想だと怒るくせに『お越しください』と云ったら、もっと怒られた。乳母なんか嫌いじゃあ。ぷくっと脹れて、姫君は几帳の影で拗ねていた。だけど、今日お逢いした兼通様とは、また逢いたいと思っていた。乳母が云うように、慎みのないことを口走ってしまったなら、きっと愛想を尽かされて……もう来てはくれまい。
 ……そう思っていたら、翌日、兼通から昨夜のお礼の文が来た。それには近々訪問しますと書いてあった。乳母の湖都夜は大喜びだった。――そして、瑠璃姫も嬉しかった。

 それから、五日も経たない内に兼通は再び通って来られた。今度は二度目ということで、先日の堅苦しい挨拶だけではなく、御膳も振舞い、侍女たちが和琴などを奏でて、和やか雰囲気になっていた。兼通からも姫君へ絹の反物がお土産に持参された。
 ――いよいよ夜も更けて、屋敷の灯火がひとつ、またひとつと消されてゆく。
 乳母と侍女たちはしずしずと退出していく。兼通はそっと、瑠璃姫の几帳の中に入って来られた。恥かしそうに扇でお顔を隠しておられる姫君の手を取って、優しく抱きしめて、美しい御髪(おぐし)を撫でておられた。
「あなたの髪は瑠璃鳥の羽根のように、艶やかで美しい」
 兼通の声に姫君の頬は紅潮し、身体が熱く火照ってきて、胸が脈打つ……さらに強く包み込むように抱きしめられた。
 そして、ふたりは抱き合ったまま、縺れ込むように塗籠(ぬりごめ)へ入っていった。
 
 



 塗籠の中では姫君は、兼通に身体を預けた。
 なさるように帯を解き、香をたきつけた羅(うすもの)を脱ぐと、惜しげもなく白い肌をさらした。
「姫の肌は白くたおやかで、内裏の池に舞い降りる白鷺(しらさぎ)のようです」
 そして、優しく丹念に愛撫して、姫君の秘所を熱く濡れさせた。耳元に熱い男の吐息がかかった時に、
「あっ……あぁ……」
 思わず、お声を漏らしてしまわれた。恥かしげにお口に手をあてられた姫君に、
「わたしが触れると、姫が美しい声で囀られる。もっと、囀(さえず)りを聴かせておくれ」
 と、兼通がもうされたので、姫君も大胆になられた。
 後は、なすがまま身体を開き、心地よい小舟に揺られながら夢心地だった。今までの男たちは何だったのかと思うほどに、兼通とのまぐあいは姫君を夢中にさせた。かつて達したことのない領域まで、幾度も誘(いざな)われて悦楽の高みへのぼった。夜が明けるまで、ふたりは幾度も愛し合って、満ち足りた疲れを共に……抱き合って眠った。

 翌朝、ふたりは昼近くまで塗籠の中で眠っていた。
 塗籠の外から、遠慮がちな乳母の咳払いを耳にして、ようやく起き上がった。目が覚めた時、愛しい男の顔が側にあって、この方の妻になれて幸せだと瑠璃姫は思った。
 身支度を整えると、侍女が膳を運んできた。契りを結んだ、お祝いの紅白餅を兼通とふたりで食べた。
「兼通様はどうして、こんな片田舎に通ってこようと思われたでしょう」
 思い切って、気になっていたことを訊いた。
「先日、方違えで瀬田の長者の家に逗留した折に、わたしは長者の家の者に付いて、瑠璃姫の屋敷をこっそり訪れました。田舎の割には立派な造りの館だと見ていたら、丁度、姫君が几帳から出て来られて、乳母殿と一緒に廊下で何やら楽しげに話しておられた。京の澄ました女人しか知らぬ、わたしにはそのお姿が愛らしく、好ましく思えたのです」
 見知らぬ殿御に顔を見られたことを……恥ずかしいと姫君は思われたが、昨夜、契ったふたりはもう夫婦だから、恥ずかしがることもないのである。
「わたくしは都育ちではないので、不調法者でございます」
 姫君がそう申されると、
「そんなことは気になさるな。わたしが元服(げんぷく)した頃に若い乳母が屋敷に居ました。その者は近江国の生まれで、鳰(にお)の海(うみ)や瀬田の夕照(せきしょう)の美しさなどよく話して聞かせてくれた。わたしが、その乳母をたいそう気にいっていたものだから……。他の侍女たちに妬まれて、ひどい仕打ちを受けて、乳母は病になり、里へ下がり近江の地で亡くなったと聞く。未だ若くて、わたしに力がなかったばかりに……あの人に可哀相なことをしました」
 兼通は悲しそうな顔で瞳を伏せられた。その乳母に今でも後悔の念を抱いているのだろうか。たぶん、その乳母が若い兼通に閨房(けいぼう)の手解きをした女人なのかも知れない。都の公達は童貞から乳母に女体の扱いを学ぶという。そういう仕来りが殿上人(てんじょうびと)にあると、以前、湖都夜に聞いたことを瑠璃姫は思いだした。
 その後、牛車でお帰りになられる兼通のお姿を、名残惜しげに姫君は屋敷の廊下でいつまでも見送っていた。
 お戻りになられてから、ほどなく瀬田の姫君の元へ、後朝(きぬぎぬ)の文が届けられた。その文に返事を書いて使いの者に渡すと、この「ご縁が長く続きますように」姫君と乳母は、阿弥陀様に掌を合わせてお祈りをした。

 それからは、五日、六日おきに、遠方にも関わらず、兼通は姫の元へ通って来られた。
 来る度に姫君や乳母、侍女たちにまで、都の珍しい品物を持参してくださる。誠に気の利く殿御で「今宵参られます」と、先まわりの者が告げたならば、屋敷中がぱっ活気づいて、姫君は化粧をして、衣装を調える。長い下げ髪に、瑠璃の桂(うちき)を上に単衣(ひとえ)を重ね、紅袴姿の姫君は凛として美しく、乳母でさえ感歎の溜息を漏らすほどであった。
 お迎えの支度をする度に、こんな片田舎の屋敷が女主人と共に輝きを取り戻してゆくようだった。
 夜も更ければ、塗籠の中から……時おり漏れくる姫君のあられもないお声に、乳母の湖都夜が赤面するほどであったが、今まで、どの殿御とも深く心を通わすことがなかった姫君だったのに、兼通とは仲睦まじく、ほんとうに良かったと乳母は涙ぐんで喜んだ。
 ――瑠璃姫は、兼通という男を身も心も深く愛し始めていた。

 







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